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卍とハーケンクロイツ -卍に隠された十字架と聖徳の光- [ナチ/ヒトラー]

ど~も。おととい初めて「ナウシカ」を観たヴィトゲンシュタインです。

中垣 顕實 著の「卍とハーケンクロイツ」を読破しました。

先日、神保町の三省堂で「スターリンの将軍 ジューコフ」でも軽く立ち読みしてみようか・・と
フラフラしてたところ、おすすめ本コーナーのような場所で本書を見つけました。
今年の6月に出た230ページの一冊ですが、ズバリなタイトルと表紙に惹かれました。
以前から気になっていたテーマでもありますし、いつになく楽しみです。

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初めて「卍」を意識したのは、小さい頃にTVで見ていた「仮面の忍者 赤影」の「卍党」です。
いわゆる悪の組織でショッカーみたいなモンですが、とても印象的でした。
小学校低学年でナチスも知らない時ですから、この「卍」に特別なインパクトがあったんでしょう。
しかし、「卍党」って書くと、「ナチ党」の略語みたいですね。

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「序章」では本書がニューヨーク神学校での伝道学博士論文がベースであり、
2012年、著者の住むブルックリンのアジア系宝石店で「卍」のイヤリングを売っていたことが
新聞沙汰となり、店主は「卍」はチベットの幸運のシンボルだと説明したものの、
「一般人には、卐(スワスティカ)は憎悪のシンボルである」と政治家までもが介入。
英語では「卍」も、「卐」(逆まんじ)もスワスティカと呼びますが、
西欧社会ではとにかく「邪悪なシンボル」であることを解説します。

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そして第1章は「日本・仏教における(卍)」です。
地図にはお寺のマークに「卍」が使われ、浅草寺には屋根や焼香台、
灯篭などにも「卍」が見られ、海外からの観光客も違和感を覚えています。
本文には白黒写真も掲載されていますが、巻頭には7ページほどのカラー写真があり、
本文とリンクしていてわかりやすいですね。
神社は「鳥居」のマークで表されますが、近所の根津神社は「卍」が多く使われているそうなので、
カメラを持って行ってきました。

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ははぁ、気が付かなかったなぁ。「卍」だらけです。

Nezu Shrine2.jpg

その他、お土産グッズやら、家紋やらと「卍」は生活の中に浸透し、
アントニオ猪木の「卍固め」も紹介。あ~、そうか、それもありましたか。
プロレス好きでしたから良く友達と掛けたり、掛けられたりしたもんです。
ミル・マスカラスの大ファンだったので基本、全日を見たり、観に行ったりしてましたが、
後楽園ホールで開催された新日のファン感謝祭にも行きましたね。。
藤波 辰巳がまだ、ジュニアヘビー級チャンピオンだった頃のことです。

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1999年には日本のみで発売されていたポケモン・カードに「卍」があり、
それが海外へ流出したことで大きな論争に発展。
任天堂は謝罪しますが、相手はアジアでも「卍」を使うなという論調・・。
世界はユダヤ人のためにあるわけでないと、著者は語っていますし、
任天堂、謝んなよ!と、思わず心の中で叫ぶほどムカつく話ですね。
ヒトラーもハーケンクロイツもまだ出てこないのに、コリャなかなか楽しい。

pokemon-swastika.jpg

そもそも本来の「卍」の意味はというと、
大吉、幸運といっためでたい兆しである「吉祥」と、
いろいろな功徳があるという意味の「万徳」。
「卍」は幸せのエキスが詰まったシンボルであるのです。
そしてサンスクリット語の吉祥・万徳を意味するスワスティカという言葉に由来し、
インド・ヒンズー教のヴィシュヌ神と関係が深く、仏教伝来とともに日本に伝わります。
仏の胸には「卍」があり、平安時代に作られた阿弥陀如来像にも「卐」が・・。

阿弥陀如来 卍.jpg

また、仏教のスワスティカは経典によると右回転「卐」とあるそうですが、
現在では左回転「卍」がスタンダード。
その理由は、影響力のあった中国仏教が639年に左回転「卍」を正式な漢字とし、
それ以降、すべての仏教に定着したとしています。

swastika.jpg

第2章では「世界中にあるスワスティカ」としてその起源にも触れます。
スワスティカはもともと太陽を現すシンボルと考えられ、
「卐」はインダス文明の頃にまで遡り、3000年もの聖なる歴史があるということですが、
面白かったのは西洋文化、特にユダヤ教の古代シナゴーグ遺跡からも発見されており、
ダビデの星」がユダヤ教の聖なるシンボルならば、
その横にあった「スワスティカ」も同様と考えるべき・・という話ですね。皮肉だなぁ。。

Swastika on Ein Gedi synagogue mosaic floor. Discovered 1965.jpg

アメリカ・インディアンもスワスティカを使用していました。
その意味は部族によって異なるようですが、治療・癒しの聖なるシンボルなど・・。
やがて白人開拓者にも広がって、カウボーイのピストル革ケースや、
乗馬の鞍などに、四葉のクローバーとともに幸運のデザインとして使われます。

Indian swastika.jpg

こうして1930年までは米国大衆文化にも浸透したスワスティカ。
1925年にはコカコーラのデザインにもなります。

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絵葉書も星条旗とスワスティカの組み合わせ。
まるでルーズヴェルトとヒトラーが手を結んだプロパガンダ絵葉書みたい・・。

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第3章は「ホロコースト」です。
著者はヨーロッパのユダヤ人とホロコーストを知るために、
トレブリンカアウシュヴィッツザクセンハウゼンの3つ強制収容所を巡り、
博物館となっているアンネ・フランクの家、同じくオスカー・シンドラーの工場も訪問。
ワルシャワでは長老ラビとも会談します。

こうして第4章は「ハーケンクロイツとスワスティカ」の関係へ・・。
ヒトラーの「わが闘争」のドイツ語版、英語版、日本語版から重要な部分を抜粋します。
ドイツ語版で「ハーケンクロイツ」と書いていたものが、「スワスティカ」に英訳され、
日本語版では「鉤十字」と翻訳されていることに注意を払い、
ヒトラーがインド起源のスワスティカという言葉を知っていながら、
あえて「先端の曲がった十字架」という意味で知られていたハーケンクロイツを使ったとします。

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すなわちキリスト教における十字架の一種が「ハーケンクロイツ」であり、
ヒトラーが制定したドイツ十字章(Deutsches Kreuz)のデザインも
ハーケンクロイツだということは「卐」が十字架である証拠としています。

それは複数の英語版を比較して、より詳しくなります。
1933年の初期の英語版ではスワスティカではなく、「Hooked Cross」が使われていて、
1939年以降の版からスワスティカに切り替わります。
著者はこれをドイツ軍が十字架を持って戦っていることを意図的に
英米が国民から隠そうとしたと推測します。
ナチス国旗は東洋の怪しいシンボルであるスワスティカであり、
英米は真の十字軍である・・といった図式ですね。
こうして「卐」スワスティカは、ホロコーストの代名詞となっていくのでした。

Leibstandarte SS Adolf Hitler.jpg

第5章「ヒトラーの隠された十字架」では、「卐」のデザインが採用された経緯を検証。
歯科医フリードリヒ・クローンが提出したデザインをヒトラーが手直ししたのが
「ハーケンクロイツ」だというのはわりと知られた話ですが、
本書ではこのクローンがトゥーレ協会の会員であったことから
同協会のシンボルの丸みを帯びた「鉤の十字架」であっただろうと推察。

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ヒトラーユーゲントが人文字で描いているのは丸みを帯びたデザインですね。
これは「sonnenrad」という名前で、回転する太陽を現すようで、
第5SS装甲師団「ヴィーキング」もコレだったなぁ。

Hitler youth honor an unknown soldier by forming a swastika symbol on Aug. 27, 1933.jpg

ナチ党婦人部のピンバッジでは、前に紹介したのとはちょっと違う
こんなデザインも見つけました。

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ヒトラーによって今の形となり、赤を基調にした配色も完成。

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オフィシャル・デザインの人文字も作ります。

Die Hakenkreuz und der Krieg und Frieden zeigen.jpg

基本的には「卐」に45度の角度をつけたものが正式なナチ党のシンボルですが、
本書でも触れられているとおり、角度の付いていないものも存在します。
特に連隊旗はそうですね。
党大会の会場であるツェッペリンフェルトにも角度なしが据えつけられていますが、
角度ありと無しの区別は不明です。
ただ、角度のある方が革命運動が回転しているように感じるのも確かです。

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でも、もともとのトゥーレ協会の鉤の十字架が角度がついていますし、
十字架は必ずしも「十」形ではなく、
スコットランドのセント・アンドリュース・クロスのように「X」形も存在します。
X十字による磔刑」というヤツですね。

さらに1873年、ドイツ人のシュリーマンが古代トロイ遺跡を発掘し、
そこで多くのスワスティカのモチーフを発見したことで、
インド・ヨーロッパのシンボルとして国際的な注目を浴び、
20世紀初頭に欧米で幸運のシンボルとして大衆化したということです。
本書に掲載されているものでありませんが、
1920年のヒトラー・スケッチと呼ばれているものもあったりして・・。

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第6章では「アーリア人卓越民族思想」について詳しく書かれ、
第7章ではキリスト教の歴史における「反ユダヤ主義」、
そして新たに「ハーケンクロイツ(鉤の十字架)」を掲げたヒトラーの聖戦へと進みます。
主にマルティン・ルターの書いた「ユダヤ人と彼らの嘘について」から抜粋し、
「ユダヤ人は毒蛇の子、サタンの子どもである」という強烈な反ユダヤ主義を紹介。
ヒトラーが受けた影響にも言及します。

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また、十字架そのものがユダヤ人にとっては否定的な、反ユダヤ主義のシンボルであり、
それはキリストを十字架にかけた責任がユダヤ人の罪である・・という歴史にも触れ、
改めてハーケンクロイツは、新たなドイツ人キリスト教のシンボルだとしています。

巻頭ではフィンランド空軍のスワスティカ・マークの他にも、
ハーケンクロイツが図柄のクリスマス切手がカラーで掲載されていましたが、
「DNSAP」っ誤字ってんじゃないの?? と調べてみたら、デンマークのナチ党でした。
ドイツ語の「NSDAP:Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei」じゃなく、
「Danmarks Nationalsocialistiske Arbejderparti」。略して「DNSAP」です。

Danish Nazi Party_dnaps-1938_swastika above candle.jpg

このように「卍(まんじ)」、「卐」も、神聖なシンボルとして3000年も敬われ、
ヒトラー政権が起こした、たった12年間の行動には責任がなく、
スワスティカも被害者なのだと締め括ります。
そして大量殺戮とは正反対の平和のシンボルのはずなのに、
いまだにそれを認めない西欧の世界。
一方的な西欧中心の世界観と価値観を、他国に押し付けることに苦言を呈します。

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ニューヨーク仏教連盟前会長、浄土真宗の僧侶の研究書・・と書くと、
仏教徒である日本人でも難しそうな内容に感じますが、そんなことはありませんでした。
個人的には宗教は全般的に疎い人間ですが、仏教の起源やその伝来、
ユダヤ教とキリスト教についても勉強になりましたし、
卍(まんじ)と、卐(ハーケンクロイツ)、そしてスワスティカが頭の中で整理できました。

もちろんハーケンクロイツが、「新たなドイツ人キリスト教のシンボル」というのは
仮説なわけですが、ヒトラーが1920年代から教会とは巧くやっていたことを思い出しても
悪くない仮説だと思います。
ヘインリッヒ・ヒンムレルなんて誰だかわからない人も出てきますが、
これくらいは許容範囲でしょう。(Heinrich Himmler)とも書かれてますしね。
宗教を中心としてワールドワイドな観点から見た著者ならではの、
他に類を見ない優れた一冊ではないでしょうか。







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カラシニコフ自伝 世界一有名な銃を創った男 [ロシア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

エレナ・ジョリー聞き書きの「カラシニコフ自伝」を読破しました。

これまで、戦車や戦闘機、対戦車砲に列車砲という兵器は読んできた独破戦線ですが、
今回は「銃」という初のテーマに挑戦します。
というのも、先週ディスカバリー・チャンネルで「スペツナズ」の特集を見ていたら、
「カラシニコフ AK47」を詳しく取り上げていて、気になって調べたところ、
2008年に出た249ページの本書を発見・・。
全世界に8000万丁が出回っているといわれているこの小銃。
スターリンのソ連で、一体どんな開発が行われたのかが、とても知りたくなりました。

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「はじめに」では英国市民からアフガンの山岳に暮らす人々まで誰でも知っている
世界共通の単語といえば「タクシー」、「ラジオ」、「コカコーラ」、そして「カラシニコフ」。
フランスの調査では「20世紀を代表するもの」として、「テレビ」、「抗生物質」、「ブラジャー」、
そしてやっぱり「カラシニコフ」。。
革命や反植民地主義の理想を求める解放闘争では、英雄の手に「AK」が握られ、
パレスチナ、ドイツ、イタリア、日本のテロリストの手にも「AK」の姿が・・。
う~ん。確かにヴィトゲンシュタインのイメージも目出し帽の「IRA」ですね。

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ミハイル・カラシニコフは「10月革命」の2年後、1919年生まれ。
農家の8番目の子供ですが、母親は合計18人も生んでいます。
10歳の頃には農村では密告が日常茶飯事となり、
「富農(クラーク)」と認定されれば、財産没収の上、シベリア送り。
しかし「貧農」や「中農」との違いなど、実際にはほとんどなく、
大家族であればそれだけ多くの家畜を飼育しなければならないのは当然です。
そして初恋の女の子の一家に続き、カラシニコフ家もシベリア送りになってしまうのでした。

Пионеры собирают в поле колоски, г. Сталино, 1934 год..jpg

流刑地での厳しい労働によって父親は死亡し、1936年、カラシニコフ少年は脱走に成功。
いや~、この最初の章は「グラーグ -ソ連集中収容所の歴史-」や、
我が足を信じて -極寒のシベリアを脱出、故国に生還した男の物語-」を思い出して、
悲惨さと苦労が良く伝わります。

1938年には西ウクライナで兵役に就くことになると、
戦車の操縦士兼整備士として訓練を受け、銃眼から効果的に撃つための装置や、
エンジンの作動状況を計測する機器を発明し、
キエフ軍管区司令官のジューコフ将軍からお褒めの言葉を頂戴し、
レニングラードで、この装置の量産が始まります。

Калашников М.Т. в Киевском округе с друзьями курсантами. 1939-1940 г.jpg

しかし時は1941年、ドイツ軍がまっしぐらに向かってくると、すぐに連隊へ戻され、
ブリャンスクでの戦闘に巻き込まれます。
いきなり戦車長に任命された22歳のカラシニコフですが、
敵に居場所を特定されるのを避けるため「撃ってはならない」との命令が・・。
やがて、砲塔ハッチから顔を出した途端、
すぐ横で炸裂した砲弾によって、重傷を負ってしまうのでした。

こうして早々と戦線から離脱し、入院生活を送ることになると、
「なぜ我がロシア軍はあんな形で敗走することになったのだろう?」と
武器、特にオートマチックの短機関銃を造り上げることを夢見ます。
当時はデグチャレフの短機関銃が接近戦で威力を発揮しており、フィンランド戦でも活躍。

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巨大な病室で様々な兵士たちの意見を聞きながら短機関銃の研究を進め、
退院後には早速、小規模な工員チームと銃器設計を始めます。
他にもシュパーギンの短機関銃「PPSh-41」なども紹介されますが、
本書ではカラシニコフの写真しかないので、その都度、調べたり・・。

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ちなみにドイツ軍の銃火器については1年前にムックの
「図説ドイツ軍用銃パーフェクトバイブル」でがっちり勉強しました。



そして療養休暇中のカラシニコフ軍曹の試作短機関銃は注目を集めますが、
コンペでは何度も落選。
そんな時に知り合ったのは、並外れた若き設計者であるアレクセイ・スダレフです。
彼の創った短機関銃「PPS43」は第2次大戦における銃器の最高傑作であり、
しかも包囲されたレニングラードで設計、製造が行われたのです。

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1945年、小銃よりも小さく、拳銃よりも大きい新しいタイプの突撃銃を作るための
コンペが開催されることに・・。
ソ連の偉大な設計者トカレフは、銃の中に塵ひとつ入らないよう、すべての部品を
ピッタリとくっつけるという原理を採用したのに対して、カラシニコフはまったく別のアプローチ、
部品と部品の間に隙間を設け、まるで一つひとつが宙に浮いているかのように設計。
たとえ銃を砂の中に落としてしまっても、機関部がダメージを受けることはなくなるのです。

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コンペの強力なライバルであり、「ソ連邦労働英雄」を胸に付けたデグチャレフ将軍は
試作品を見るなり、パッと目を輝かせ、驚くべき発言をします。
「カラシニコフ軍曹の部品設計は、私のものよりもずっと巧妙で、間違いなく将来性があります。
ですから私は、最終審査への参加を辞退いたします」。

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3人が残った1947年の最終審査。
カラシニコフの試作品は命中精度はNo.1で、弾詰まりも一度も起こしません。
しかしテストは段々と過酷なものとなり、装填した銃を池の中に落としたり、
砂の中を引きずったりしたあと、引金を・・。
さらにコンクリートの床にいろいろな角度から投げつけて、機関部が無傷であるか??
好結果を残したカラシニコフの試作品は「AK47(1947年式カラシニコフ自動小銃)」として
量産されることになるのでした。

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1944年から助成金を承認してくれていたヴォロノフ砲兵元帥に呼び出されると、
10人ほどの将校が集まっています。
「みんな君のことを知りたくてな。
出身や家族のことなど、君の人生について話してくれないか」。

「富農」、すなわち「人民の敵」の息子であり、シベリアに強制移住させられた子供時代や
そこからの脱走した経緯をドラマチックに語ってしまえば、設計者として終わりどころか、
どんな酷い目に遭うかわかったものではありません。
多くの事実を「割愛」した生い立ちを話して、
別れ際にサイン付きの写真が欲しい・・と言う元帥。。いい人です。

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AKプロジェクトで知り合った工業デザイナーのカーチャと結婚をして順風満帆。
1949年にはこれまでの功績に対する褒章として、「スターリン賞」を授与されます。
おまけに最高級の車を1ダースは買える15万ルーブルの賞金付き。
へ~。ソ連の勲章もそれなりに知っていましたが、「スターリン勲章」っていうのは初めてです。

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そのスターリンがすべての銃器の規格を統一しようと言い出すと、
それまでのAK47、デグチャレフの軽機関銃、シモノフの半自動カービン銃に取って代わる、
新口径の統一規格品コンペが開催されます。
そして主要な部品は100%互換性を持つ、カラシニコフの改良された新しい突撃銃「AKM」と、
軽機関銃「RPK(カラシニコフ軽機関銃)」が軍内で統一して使用されることになり、
ソ連軍全体がカラシニコフの銃のみをソ連が崩壊する時まで装備し続けるのでした。

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1958年、「国力を増強した」との理由で、遂に「労働英雄称号」を授与されます。
1964年には最高勲章である「レーニン賞」が授与されますが、
1935年~1957年までは「スターリン賞」が代替していたということで、
フルシチョフが「スターリン批判と個人崇拝」を問題にした後、先のスターリン勲章は
証書とともに返還させて、「ソヴィエト連邦国家賞」なるものに取って代わられたそうです。

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ソ連の歴代指導者たちを語るカラシニコフ。
弱冠30歳にして最高会議の代議員に任命されて、クレムリンでスターリンを目にします。
圧倒的な存在感、家族をシベリアに追放した張本人だと考えたことなどありません。
それがわかった今でも、スターリンは20世紀の偉大な国家指導者であり、
偉大な軍の統率者だったと思っているのです。

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それに比べるとフルシチョフにはかなり冷たい態度で、
何度か会ったことのあるブレジネフは約束はするものの、いつも口先だけ・・。
ソ連の解体を許したゴルバチョフのことも毛嫌いし、
破滅へと導いたエリツィンがいくら勲章をくれたり、
特別扱いして中将まで昇進させようが、辛辣な言葉が並びます。
まぁ、日本にもいる職人気質のおじいちゃん・・って感じですね。

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ブルガリアやルーマニアのカラシニコフ製造工場も見学。
ワルシャワ条約機構に加盟するすべての国でカラシニコフ銃を生産することが可能で、
それはソ連からの贈り物であり、「AK47」は特許を取っていないため、
売買されたカラシニコフ銃からは、1コペイカたりとも懐には入ってこないのです。

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中国の工場も見学したあと、今度は米国からの招待を受けることに・・。
1990年、訪れた米国で「M16」の発案者であるユージン・ストーナーと何日も過ごし、
お互いに尊敬の念が生まれます。
演習場の実射会ではカラシニコフが「M16」を、ストーナーが「AKM」を・・。

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本書はカラシニコフ本人が書いたものではなく、
彼の娘の友人であるモスクワ生まれでパリ在住の著者がインタビューを行い、
時系列に整理して、2003年に仏語で発表したものです。
本文はインタビュー形式ではなく、カラシニコフの独白形式ですから、
集中して読めますし、実際、有名人の自伝なんて、そんなものなんでしょうね。

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また、章ごとのアタマに戦争の推移やスターリン社会などの概説が書かれていて、
カラシニコフの発言を補完しています。
当時のカラシニコフは83歳で、まだまだシャキっとして工場にも顔を出しています。
90歳を過ぎた今も、「カラシニコフ・ウォッカ」を販売したりと、ご健在なようですね。

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うわっ! こんなAKボトルまで売ってんのか。呑兵衛にはたまらん逸品だなぁ。。

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しかし彼の人生や意志とは無関係に「AK」はひとり歩きしてしまい、
カラシニコフ銃を手にしたビンラディンの姿をテレビで見ては憤慨します。
そして皮肉を込めて、こう語るのです。
「だが、私に何ができる? テロリストも正しい選択をしているのだ。
一番信頼できる銃を選んだという点においては!」

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さすが有名な銃だけあって、日本でもいろいろな本が出ていますね。
「カラシニコフ I」と、「カラシニコフ II 」に、
「AK‐47世界を変えた銃」、「カラシニコフ銃 AK47の歴史」など・・。
ただ、どうしても「人類史上、最も多くの人を殺した武器」と言われ、
テロリストと結び付けられるのが、本書を読んだ後だと切ない気持ちにもなりますね。

と、ここまで書いたのが12月23日の夜のことです。
翌朝、「カラシニコフ氏が亡くなった」というNHKニュースが流れて、固まりました。
まさに昨日じゃないか・・。
2か月前にはチトーの奥さんでも同じことがありましたが、
読んで、Blogで取り上げようとした人物が亡くなる・・という呪われた読書家なのか・・?
もっと若い人が死んだら「呪いの独破戦線」は本物でしょう・・。



とりあえず、"ミス・カラシニコフ"とカラシニコフ・ウォッカをぐいっとやりたい気分です。。

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ヒトラーに抱きあげられて -あるドイツ人少女の回想記- [女性と戦争]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

イルムガルド・A. ハント著の「ヒトラーに抱きあげられて」を読破しました。

このBlogでも何度かヒトラーが幼い少女と一緒に写っている写真を載せていますが、
2007年に出た370ページの本書の著者もそんな少女の一人です。
彼女が労働力配置総監フリッツ・ザウケルの息子とクラスメイトで、
ニュルンベルク裁判により父親の死刑が執行されたと聞いて卒倒した・・
なんて話が書かれていると知ってから、本書がず~と気になっていました。

ヒトラーに抱きあげられて.jpg

1910年に祖父母が結婚し、第1次大戦が勃発すると、祖父は西部戦線へ・・。
ティーンエイジゃーの母親の1920年代は大インフレ。
1923年には、1ドルが4兆2千億ライヒスマルク換算というレートです。
そんなドイツ国民が貧しい時代にヒトラーとナチスが台頭し、
同じく貧しいマックスという青年と恋に落ちた母親アルビーネ。
マックスは磁器の絵付師としてバイエルン州の発展途上の観光の町、
ベルヒテスガーデンの工房で働き始めると、1933年1月に結婚します。
この1933年1月といえば、まさにヒトラーが首相になった時ですね。
そして山の山腹には「ヒトラーの別荘」が・・。

erwirbt Hitler Haus Wachenfeld.jpg

翌年の1934年に誕生した著者のイルムガルド。
ベルヒテスガーデンはカトリックの伝統が浸透しており、マリアやアンナ、エリザベトなどの
聖人の名を娘の洗礼名にする人が多かったものの、
生活のあらゆる面に介入するナチスは、親が子に与える名前にまで指示を与えます。
ドイツ民族の優越性を強調し、ヘルガやグズルーン、ヒルデガルド、イングリッドといった名前が
付けられるようになり、イルムガルドという名もドイツ語起源の名です。
ほうほう、SS女看守の定番、イルザ、オルガ、ヘルザなんかもこの路線なんですね。

クリスマスはドイツ語では「Weihnachten」と言うようですが、
ナチスは新たに「冬至祭」という名前を広めようとします。
しかしバリバリのヒトラー信奉者の両親ですら、そんな呼び方は使いません。
サンタクロース(聖ニコラウス)は12月6日の夜に子どもたちの前に現れるそうで、
白と金の司教の衣装をまとって杖を持ち、頭にはミトラを冠っているという姿・・。
また、聖ニコラウスは荒々しい悪魔を連れているのが伝統なんだそうです。

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そして角の付いた木製のマスクをかぶった悪魔に震え上がる幼いイルムガルド。
聖ニコラウスに一年間良い子でいたことを伝えれば、クッキーやチョコが貰える仕組みです。
そんな伝統も極寒の北欧からやって来る赤い服を着た髭の男、
「サンタクロース」に変えようとしたのがナチスなんだそうです。
ふ~ん。時期も時期だし、面白い話で調べちゃいました。。
まさかサンタさんが何者なのかという夢のないことを調べる時がくるとは・・。
日本で言うと、クリスマスというより、「なまはげ」に近い気もします。

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イブにはクリスマスを祝う射撃クラブの射手たちが古びた大きな銃で大騒ぎ。
火薬を入手する権利を持つこのクラブが悩みの種なのはボルマンです。
他の多くのクラブと同様にナチス組織に組み込もうとしますが、上手く行きません。
それはヒトラー自身が射撃クラブの「名誉会員」だったからです。

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父の手書きで描いたエーデルヴァイスやリンドウなどの陶磁器が
「ヒトラーの山荘」で使う正餐用食器として納品されていることに誇りを持つ家族。
素朴な花の柄を好んでいる・・ということで、ますますヒトラーは地元民に慕われます。
わずか3歳にして正しいナチ式敬礼「ハイル・ヒトラー」を父親から仕込まれるイルムガルド。

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こんなヒトラーの城下町のようなベルヒテスガーデンですが、変な噂も聞こえてきます。
近所のダウン症の子供が医療施設に行ったら、風邪で亡くなった・・とか、
1933年まで住んでいた2家族のユダヤ人は突撃隊(SA)の嫌がらせに堪えられず、
売り払うと、家屋と農場は破壊されて、ボルマンの庭になった・・など。

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オーバーザルツベルクへの散歩の途中、山荘へとやって来たヒトラーと出くわします。
大勢の人々の叫び声、彼らと一緒に喜んで腕を上げ、
「ハイル・ヒトラー」と立派に叫ぶことに成功。。

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それにしても「ヒトラーの山荘」と一口に言いますが、実に様々な表現があります。
ベルヒテスガーデンにオーバーザルツベルク、ベルクホーフにイーグルズ・ネストなど、
種類が豊富でコンガラガッてきましたので、一度整理してみたいと思います。

ベルヒテスガーデン・アルプス山脈の一地域にあるのが「オーバーザルツベルク」です。
その山腹にあった「ヴァッヘンフェルト・ハウス」という別荘を気に入ったヒトラーが
1929年に買い取り、改築後の1936年から「ベルクホーフ」と呼ばれることとなって、
コレがいわゆる「ヒトラーの山荘」を指します。
そして近郊の町の名が「ベルヒテスガーデン」であり、
また1940年にボルマンがヒトラーの50歳を記念して、ケールシュタイン山頂に立てた
ティーハウスが「ケールシュタインハウス」で、
「イーグルズ・ネスト」という名称は、1945年に占領した米軍が名付けたものですね。

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そして遊びに来ていたヒトラー嫌いの祖父母も一緒にベルクホーフまでハイキング。
観光客で溢れかえり、山荘の写真を撮ろうと場所取りにやっきになっている人々。
すると突然、ヒトラーが現れ、イルムガルドを膝の上に抱きかかえます。
この時の写真は公表されなかったようで、
数10枚の写真が掲載されている本書にも載っていません。
そもそも「ヒトラーに抱きあげられて」というタイトルは日本版であり、
原題は「On Hitler's Mountain」でした。

それでも町に戻った彼女は、周囲から称賛を浴び、美貌の眼差しを受ける女の子となって、
彼女自身、心の中でヒトラーを好ましく思う感情が芽生えるのです。

Haus Wachenfeld.jpg

1938年になるとドイツ軍を熱狂的に歓迎しているオーストリア人の写真を見せられて、
ベルヒテスガーデン付近のオーストリア国境が開かれたことで、
「これからはパスポートがなくてもザルツブルクへ行けるよ」と喜ぶ父。

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しかし翌年のポーランド侵攻によって、34歳の父に招集令状が・・。
そして1941年7月、「フランスで総統の為に戦死した」という電報が届くのでした。

11月9日の「英雄記念日」の式典に出席し、ドイツ国歌に続いて、
ホルスト・ヴェッセル・リート」を右腕をいっぱいに伸ばして力強く唄うイルムガルド。
父を含む戦死者の名前が読み上げられた後、
私には戦友がいた。たった一人の親友だった」という
もの悲しい歌が演奏されると、我慢できずに泣き崩れます。

Irmgard Hunt fam.jpg

悲しいクリスマス・イブ。
ツリーの下の段ボール箱の中にはフランス製の美しい人形が2体。
サイズがぴったりのコートやドレスまで詰まったこのプレゼントの送り主は、
ベルクホーフのすぐそばに住んでいるエミー・ゲーリングです。
戦争で父親を失ったオーバーザルツベルクの子どもたちに、隣人としてプレゼント。
敬意を表して妹イングリッドの人形には「エミー」、
自分の人形にはゲーリング夫妻の娘の名である「エッダ」と名付けて可愛がるのでした。

Göring med hustrun Emmy och dottern Edda.jpg

小学校のクラスの席の近くにはアルベルト・シュペーアが座っています。
父親の軍需相と同じ名前で、愛想がよく、金髪をきちんと横分けにした「Jr」です。
山にいるナチエリートは平等を重んじ、地元の学校に通わせていて、
彼女の親友も一度、ボルマンの子どもと遊ぶように招待されたことも・・。
はにかみ屋のアルベルトJrもごく普通の子どもですが、唯一の違いは、
SSが運転するピカピカの黒いメルセデスに乗って通学しているところ・・。

Hitler, together with Albert Speer Jr. and Hilde Speer in the Obersalzberg, 1942..jpg

1944年、10歳になって「ユング・メーデル(少女団)」に入ります。
行進は退屈ですが、ドイツの女の子たちが同じ制服を着て一致団結しているという一体感、
そして姉としての権威を小さい妹に示すことが出来て大満足。
もちろん「総統は無敵であり、ドイツの唯一の救世主だと信じなければならない」
と、教え込まれるのです。

Winterhilfswerk.jpg

7月20日にはヒトラー暗殺未遂事件のニュースがラジオから流れてきます。
総統が奇跡的に助かったことを知り、安心する母。。
稼ぎ頭の父も亡くなり、生活も困窮、配給もギリギリです。
ある日には道路の上手に住んでいたSSの「霧の兵士」を昼食に招待し、
煙草と引き換えに丸太をストーブ用に割って欲しいとお願い。。
「霧の兵士」とは化学薬品で霧を作り、空襲からヒトラーの山荘を守る兵士のことだそうです。
もちろん未亡人にはSS兵も優しいですな。

Berghof Obersalzberg  color post cards.jpg

オーバーザルツベルクの劇場はヒトラーによって土曜の午後は無料開放され、
ゲッベルスが選んだ恋愛ものから家族向けドラマ、オペラといった映画が上映。
地下壕建設に従事している外国人労働者の劣悪な居住区を通り、
SSの衛兵所を抜けて、薄暗い簡素なホールに到着。
しかしまずは「ドイツ週間ニュース」から観て、戦局を理解しなければなりません。

Egaes Nest Hitler House.jpg

そして1945年4月25日、英爆撃機300機による空襲が始まります。
家に帰る途中で通り掛かったSSの運転手が呼びかけます。「早く乗れ!」
化学薬品は底をついていて「霧」を発生させることが出来ず、
対空砲の弾薬も尽き、山のナチス居住地はほとんどが破壊されてしまいます。

Berghof Under attack.jpg

その後は様々な噂が飛び交い、遂に総統が死んだことがハッキリすると、
人々の関心は、どこの国がナチスに取って代わるのか・・??
恐ろしいロシア人だけはゴメンです。。
SSが爆破しようとしていた兵舎のカーテンと寝具用の生地、黒と灰緑色の制服用布地、
そして山ほど蓄えていた黒いブーツは市民に配分されることとなり、
以後数年間、この地の女性たちはこれらSSの生地から作られたドレスやコート、
大きすぎるブーツを履いて過ごすことになります。

Berghof ss guard.jpg

ベルヒテスガーデンに進軍してきたのは恐れていたロシア軍ではなく、米軍。
付近のケーニヒス村に本部を設けていたケッセルリンク元帥は、
ヤーコブ群長の「降伏しましょう」という説得に同意し、
山岳隊の兵舎にいた国民突撃隊の少年たちも武器を置いて、すぐさま解散。
SS部隊も直接対決を回避するために山から去りますが、
あの優しい「霧の兵士」が家にやってきて、大好きだった父の私服を
母が与えるのを見ると、怒りを抑えられません。
しかし、大人の男女のタダならぬ関係は、まだ理解できないのです。

While the 101st Airborne liberated Berchtesgaden in 1945.jpg

米第101空挺師団に降伏後も、占領軍に何をされるかわかったものではありません。
略奪と強姦の噂のあるフランスとモロッコの分遣隊も同時に到着し、
16歳の女の子が米兵に輪姦されたという証言も・・。

Berghof after it was bombed on April 25, 1945.jpg

オーバーザルツベルクの廃墟からは大量の食糧や贅沢品が発見され、
イルムガルドもリュックを背負って略奪に向かいます。
ザルツブルクまでの未完成のトンネルの中にはゲーリングの専用汽車が止まったまま。
やっぱりシャンパンにコニャック、葉巻、トリュフなど極上の品々が・・。
ヒトラーの銀製食器類も市民によって盗み出され、秩序回復を図ろうとする米軍は、
「貴重な品々は返却しなければならない」と通知するものの、
彼ら自身が「記念品」と称して、略奪をしているのです。

Berghof Pattern Adolf Hitler .925 silver cocktail coasters.jpg

1946年10月、ニュルンベルク裁判で戦争犯罪者に天罰が下ったことを先生が告げます。
すると前の席に座っていたベルンハルト・ザウケルが椅子から落ちて失神・・。
ニュルンベルクで父親とお別れをして、昨日戻って来たばかりだったのです。

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別の席に座っているギーゼラ・シュムントは明るくて活発な女の子。
彼女は7月20日事件の巻き添えで死亡したヒトラーの副官ルドルフ・シュムントの娘で、
アルムガルトとレナーテの双子は、フリッツ・ディートロフ・フォン・デア・シューレンブルクの姪。
シューレンブルクはベルリン警察長官代理として、事件に関与し、処刑された人物です。
まさしく第三帝国のカオスと化しているクラスですね。
それでも子供たちはそんなこと、たいして知りもしなければ、気にもしていないのです。

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アルプスの麓で育った少女の回想録ですが、
ご近所さんがヒトラーでは、「アルプスの少女ハイジ」のようには育ちません。
田舎の貧しい人たちが、なぜナチスを支持したのか。
彼らの生活にナチスがどのように関与していったのか。
カトリック教会とナチスの絶妙なバランスや、学校でのガスマスク訓練など、
興味深いエピソードが盛りだくさんで、ほとんど一気読みでした。
ナチスに馴染みのない女性でも読める回想録ですが、
ナチスに詳しいおじさんでも楽しめる回想録だと思います。



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幻の1940年計画 -太平洋戦争の前夜、“奇跡の都市”が誕生した- [スポーツ好きなんで]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

指南役 著の「幻の1940年計画」を読破しました。

11月の「帝国日本とスポーツ」にも少し書かれていた1940年の東京オリンピック。
なにか詳しく書かれているものがないか・・と探していたところ、
2009年発刊、237ページの本書に辿り着きました。
実際のところ、その東京オリンピックに限定したものではありませんが、
このタイトルからして、ナチス・ドイツの「ゲルマニア計画」を彷彿とさせますね。

幻の1940年計画.jpg

「プロローグ」では戦後復興を象徴する4大プロジェクト、
「オリンピック」に「万博」、「テレビ放送」、「新幹線計画」が、
1940年に先行して行われる予定であったものの、戦争によって闇に葬られたこと。
そしてこの1940年の4大事業に光を当てることによって、
日本の30年代の本当の姿を掘り起こそう・・と語ります。

最初の事業は「東京オリンピック」です。
皇紀2600年の記念事業としてオリンピックを東京に誘致するアイデアが誕生した経緯、
中心となった永田秀次郎東京市長や、日本のIOC委員たちと奮闘、
極めつけは、強力なライバルである立候補都市のローマを脱落させるため、
副島委員によるムッソリーニへの直談判です。
「日本にとって皇紀2600年となる、この年のオリンピックを譲っていただければ、
次の1944年、日本はローマを支持します」。
これに「ローマは1940年の立候補は辞退しましょう」と笑顔で語るドゥーチェ・・。

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1936年3月にはIOC会長のアンリ・ド・バイエ=ラトゥールを招いて、「お・も・て・な・し」。
しかし僅か1ヶ月前には、あの「2.26事件」が起こっている東京です。
それでも1930年には銀座三越がオープンし、翌年には日本橋の白木屋、
1932年には同じ日本橋の三越が大々的にリニューアル、高島屋も日本橋に、
新宿には伊勢丹・・と、好景気による百貨店の群雄割拠の時代でもあるのです。
巻頭にはそんな時代の銀座の絵葉書も・・。

Ginza Street.jpg

結局、ラトゥールが東京支持を表明したことで、最後のライバル、ヘルシンキに9票差の勝利。
米英など主要な国々も東京に票を投じたのです。
本書は写真や、当時の新聞記事が多く掲載されているのが良いですねぇ。
ポスターも「ハニワ」だけじゃなく、それらしいのも作られていたようです。

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開催が決定したら、次にはメイン・スタジアムを決めなければなりません。
明治神宮外苑競技場は4万席しかなく、3倍の12万席に改修する必要がありますが、
内務省神社局からクレームが・・。
「神宮外苑は明治天皇を祀る由緒ある場所。工事なんてとんでもない」。

そこで世田谷区駒沢のゴルフ場跡地に新設することで落ち着きます。
1964年の第2会場になった場所ですね。
掲載されている完成予想図では仮設も入れて11万席と巨大なもの。。

komazawa 1940.jpg

1936年の夏季オリンピック「ベルリン大会」でも、同年2月に冬季オリンピックが
同じドイツの「 ガルミッシュ=パルテンキルヒェン」で行われたように、
当時は夏季オリンピックの開催国が冬季大会も優先的に開催できることになっています。
そこで決まったのが「札幌オリンピック」。1940年2月3日から12日間と決定するものの、
スキー競技がまだ後進国の日本には花形選手も存在しません。

1940_sapporo.jpg

しかし前回大会で弱冠12歳ながら、フィギアスケートで10位に入った国民的スター、
稲田悦子ちゃんが16歳に成長して、メダルも期待されるのです。
右から2人目の小っちゃい子が彼女です。

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は~、「幻の札幌オリンピック」も知りませんでしたが、悦子ちゃんも初耳です。
ちょっと調べてみましたが、12歳当時は身長も125㎝程度で、完全にジュニアですね。
今でいうところの浅田真央ちゃんと本田望結ちゃんを足したくらいの人気でしょうか??
それとも女子ジャンプの高梨沙羅ちゃんみたいなもんかなぁ??

Etsuko Inada_hitler.jpg

順調だった東京オリンピック計画も1937年に日中戦争が勃発したことで、
開催権を返上せざるを得なくなります。
その理由は、メインスタジアムを建設する「鉄」が兵器に回されるから・・。
政府や軍部はオリンピックにはさほど関心は示しておらず、
陸軍に至っては陸軍選手の派遣を断るほど、非協力的。

一方、IOCは「オリンピックは政治の介入を受けない」との理念が存在していることで、
日本が国連を脱退していようが、招致活動に影響はなかったのです。
今年、2020年の誘致活動を見ていて思いましたが、本来、都市が開催するオリンピック。
それがあまりにも巨大になり過ぎて、国の全面的バックアップが必要不可欠です。
コレって、なにかが間違っているような気もしました。

19380715.jpg

続いての章は「日本万国博覧会」。
オリンピックと同じく、1940年に東京で開催予定だった、日本最初の万博のお話です。
1851年のロンドンで初めて開催された万博を日本でもという計画は
何度もあったものの、その都度に立ち消え。
そこでやっぱり皇紀2600年の記念として、1935年に国の事業として認可されます。
1940年3月15日から170日間、東京月島の埋立地、100万坪が会場予定地。
予定参加国は50か国、目標来場者数は4500万人というビッグイベントです。

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築地と会場の月島を結ぶ、「東洋一の可動橋」である勝鬨橋が建設されますが、
万博のインフラ、東京の都市整備としてはそんな程度です。
1923年の関東大震災からの大復興によって、1930年には東京は生まれ変わっており、
これ以上のインフラ事業は必要としなかったのです。

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1900年のパリ万博が財源として宝くじ付き前売り券で成功したことを見習って、
早々と発売。
しかし、オリンピックと同様、日中戦争の余波により「延期」に・・。

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この万博の前売り入場券。30年後の1970年「大阪万博」でも使用できたそうで、
実際、3000枚以上が使用されたそうです。
その理由は2つ。
1940年の万博が「中止」ではなく、「延期」とされたこと。
さらにこの東京での万博が「日本万国博覧会」という名称だったのと同様に、
「大阪万博」も通称であり、正式にはやっぱり「日本万国博覧会」。
すなわち、1940年に延期された万博が30年後に場所を変えて開催された・・、
といった感じですね。

Japan World’s Fair 2600.jpg

そういえば1970年の「大阪万博」。
この存在を知ったのは、我が家に「100円記念コイン」があったからです。
1964年東京オリンピックの「1000円銀貨」と共に、子供ながらに良く手にしていました。
そしてあるとき、父親に万博の話を聞いたところ、
写真を見せて、日本館の催しの仕事で兄貴を連れて行ったとのこと。。
東京オリンピックのときには生まれてないのでしょうがないにしても、
万博のときには生まれていましたから、
「なんでボクも連れて行ってくれなかったんだ!」と、泣いて抗議したのを覚えています。
しかし、まだ2歳ですからねぇ。。行っていたとしても記憶にないでしょう・・。

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次は「テレビジョン」。
1926年、世界初の「電気式テレビジョン」の実験が浜松高等工業で成功。
わずか40本の走査線ながら、ブラウン管に「イ」の文字を映し出します。
そんなテレビ誕生の歴史から詳しく展開。

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1936年のベルリン・オリンピックでドイツはベルリン市内を中心に
28か所でテレビ中継を行います。
となれば、4年後の東京オリンピックでも本格的な中継が検討され、
第一人者の高柳健次郎とNHKがタッグを組んで、
ベルリンの走査線180本を大きく上回る、441本を基準として開発がスタート。

1933  Kombinierter Fernseh- und Rundfunkempfänger der Firma Telefunken.jpg

しかし、ここでもオリンピック返上によって、本放送も延期が決定。
目標を失いつつも、研究と試験放送は続けられますが、
1941年に太平洋戦争が勃発すると、NHKのプロジェクトチームは解散を余儀なくされ、
リーダの高柳は、海軍でレーダー研究を命ぜられるのでした。

戦後、再びテレビの歴史が動き出し、1953年になってようやく放送開始となりますが、
確かに戦争がなければ、13年早い、1940年には始まっていたと思いましたね。

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「弾丸列車」。
なんとなく聞いたことのある名前ですね。テッチャンなら誰でも知っているんでしょうか??
1940年に立案されたこの計画は、東京~北京までを24時間で結ぼうというもので、
掲載されているこんな路線図を見ても、ホンマかいな・・?? と関西弁なってしまいます。

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線路の幅は1435㎜の広軌とし、東京~大阪間を4時間半、下関間なら9時間、
最高速度150㌔で運転するという「新幹線計画」です。
早速、1934年にデビューした最高速度120㌔を誇る、満鉄の「あじあ号」を研究。

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当時流行の流線型を取り入れた外観だけでなく、
全車両に冷暖房を完備し、食堂車では白系ロシア人の若い女性が給仕する夢の鉄道。

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新幹線計画は電気機関車なら時速200㌔も可能として進みますが、
軍が電化に反対します。
「敵の軍隊がやってきて、変電所がやられたら、いっぺんに動かなくなるではないか」。
そこで蒸気機関車のスピードアップの為に、あじあ号より大きい2m30㎝の巨大な動輪を採用。
これはナチス・ドイツが威信かけて作った「05型」と同じサイズで、
試験走行で時速200㌔を突破しているのです。
こうして「HD53型」と命名されて、さらに用地買収とトンネル工事が始まります。

ふ~ん。ナチス・ドイツの「05型」。初めて知りました。
弾丸列車ならぬ、「電撃列車」とかあだ名が付いていたのかも。。

DRG Baureihe 05.jpg

対馬海峡と朝鮮海峡の海底トンネル地質調査も1941年に行われ、
始発の東京駅をどこに置くのかも検討されて、市ヶ谷が最有力候補に・・。
しかし、遂に1943年11月、物資も人員も不足し、弾丸列車工事は中止。。
それでも戦後、東海道新幹線が着工からわずか5年で完成できたのは、
用地買収などの露払いを弾丸列車がやってくれたおかげなのでした。

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この弾丸列車の模型 ↑ ですが、ドラゴンズ・ブルーで格好いいですね。
来年2月からのスーパー戦隊は、「烈車戦隊 トッキュウジャー」だそうで、
ブルーレンジャーのモデルになっているかも知れません。。

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最後の章は「黄金の40年代」と題して、戦争の起こらなかった1940年を夢想します。
オリンピックに万博が開催され、テレビ中継がスタート。
戦後の街頭テレビといえば力道山が大人気コンテンツでしたが、
この1940年代の彼はまだ単なる関脇止まりの現役力士でしかありません。
とすれば、プロレス時代の力道山人気をも凌ぐ大横綱の双葉山が大スター。

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相撲中継のNHKだけでなく、正力松太郎の日本テレビも黙ってはいません。
身内の巨人軍には大エース、沢村栄治が現役バリバリなのです。
また、東京オリンピックの公開競技として武道と共に決まっていた野球にも
沢村らプロ選手が出場できた可能性もあり、そうなれば視聴者も釘づけ・・。
1937年の春には24勝4敗、防御率0.81、奪三振196の怪物も、
現実には翌年から3度の兵役の末に手榴弾の投げ過ぎで肩を壊した挙句、
1944年、乗っていた輸送船が台湾沖で米潜水艦に雷撃されてしまったのです。

今年、とんでもない成績を挙げたマー君が、メジャーに行くどころか、
その米国に殺されてしまったと考えたらやり切れませんね・・。

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他にも、ドイツのアウトバーンと同様に、「弾丸道路」構想が
1930年代に持ち上がっていたという話や、
三菱重工に中島飛行機、川崎航空機など世界有数の航空機メーカーによって、
航空産業も世界の最先端を走っていたはずだ・・と夢は続きます。

こういう本は読んでいて楽しいですね。
所々、手塚アニメのような世界も連想させますし、「帝国日本とスポーツ」を読んだ後だけに、
IFとして、日本のスポーツがどうなったのを考えるのも面白い。
関東大震災」の結果、東京が近代的に整備されていた話も納得です。
また、ナチス・ドイツの状況にも触れられているのも、当然、楽しめましたし、
端折りましたが、李香蘭(山口淑子)の人気のほども知ることが出来ました。

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幻の東京オリンピックについては、さらに専門的そうな一冊、
「幻の東京オリンピックとその時代―戦時期のスポーツ・都市・身体」があり、
また似たようなタイトルで紛らわしいですが、
「幻の東京オリンピック 1940年大会 招致から返上まで」が年明けに文庫化。
皇紀2600年の日本を外国人が分析したものとして、
「紀元二千六百年 消費と観光のナショナリズム」が出ており、
非常に気になっているところです。

年末にはBS1で「幻の祝祭~1940東京五輪物語~」というドキュメンタリードラマを
放送するそうで、これもちょっと楽しみです。









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大西洋防壁 -ノルマンディ要塞の真実- [ドイツ海軍]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

広田 厚司 著の「大西洋防壁」を読破しました。

今年の7月に出た322ページの本書は、珍しいテーマだと思いつつも、
過去に読んだ著者の本の記述にムラがあるので、どうしようかと見送っていました。
しかし先日、本屋さんで手に取ってみると、小さいながらも写真が2~3ページに1枚と
盛りだくさんということで購入。
結論を先に書いてしまうと、「当たり」です。
ドイツ高射砲塔」と同レベルの、費用対効果に優れた一冊でした。

大西洋防壁.jpg

第1章は「沿岸防衛」と題して、1940年の西方電撃戦の勝利から、
英国本土上陸作戦の策定など、ドイツ軍が大西洋まで進出した経緯を簡単に解説。
しかしまずはブレスト、ロリアン、サン・ナゼール港に出撃基地を獲得したUボート戦隊のために
英国の爆撃に堪えうる大規模かつ、強固なUボート・ブンカーの建設が優先されます。

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第2章は巨大な大西洋防壁を担当した「軍事建設組織」の紹介です。
砲台、対爆壕、歩兵陣地など、総合的な築城面を担当した陸軍技術専門部隊に、
障害物や爆薬運用、地雷設置担当の歩兵師団工兵大隊、
コンクリートの厚さが1mを超えない堡塁や構造物に責任を持った陸軍建築大隊、
要塞の兵器類とトンネル掘削、図面など監督的な仕事の要塞工兵と要塞大隊。
そして大戦中、このような要塞工兵の指導者であり続けた
工兵総監アルフレート・ヤコブ中将を写真付きで紹介します。
ただ、「騎士十字章の保有者であり・・」と書かれていますが、
正しくは「戦功騎士十字章」の保有者だと思います。
コレは結構、大きな違いなんですよねぇ。しかし、ハルダーに似てる人だなぁ。

General de Ingenieros Alfred JACOB ( Hitler Keitel)_Kriegsverdienstkreuz 1.Klasse mit Schwertern.jpg

沿岸砲台建設に投入された「RAD」と、その総裁であるコンスタンチン・ヒールルも詳しく。
第三帝国のスポーツVol.2」で紹介した、この若者による労働奉仕団と
ヒールルについて、これだけ触れられている和書は珍しいですね。
ただ、本書に書かれている「労働戦線」という和名は違うでしょう。
ロベルト・ライの「DAF」が労働戦線であり、「RAD」はその配下の労働奉仕団です。

RAD squad, 1940.jpg

最後の組織が「トート機関(OT)」です。
アウトバーンの建築総監であったフリッツ・トートによって、軍事建築組織となり、
1938年から翌年にかけて「西方の壁(ジークフリート・ライン)」の
有名な「竜の歯」を10万名のRADの若者と、35万名のトート機関の労働者が建築。

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1943年には100万名を超えるまでになりますが、ドイツ人労働者以外にも、
女性も含む外国人労働者に、戦争捕虜や軽犯罪者までが多く存在します。
そんな莫大な数の労働者を指揮するトート機関の官僚や技師、指揮官に通訳は、
チェコ陸軍の軍服を転用して、独自の制服と階級章を着用したそうです。

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トート博士は1942年2月に飛行機事故で死亡し、後任にはシュペーアが選ばれます。
ここで著者はシュペーアも一緒に乗るはずだったのに、直前に中止した件に触れていて
遠回しに「トート暗殺説」を展開しています。

しかし実際に大西洋防壁建築の実務的責任を果たしたのは、
トート機関の副総裁ともいえるフランツ・シャーバー・ドルシェという人物です。
工科大学で土木技術を学び、ミュンヘン一揆にも参加した古参ナチ党員で
ボルマンと組んで上司のシュペーアの追い落としも図ります。
そんな彼は終戦後は起訴されず、米軍欧州戦史部でトート機関の1000ページの報告書を
作成し、それが本書の基礎データになっているそうです。

Franz Xaver Dorsch,Speer,Dönitz.jpg

ここまでの51ページもなかなか面白い内容ですが、第3章「大西洋防壁」からがメインです。
本格的な建築作業は1940年8月にフランス防衛に任じたD軍集団参謀長であり、
後に陸軍参謀総長となったツァイツラーによって認可され、
「奴隷商人」と紹介されるザウケルが、100万人以上のフランス人を徴募する指令を発します。
そんな彼らも写真付きで、もちろん建築中の巨大な壕や、円形の砲床の写真も。
通常サイズの壕の屋根と壁は2mのコンクリートで、重砲台なら3m以上にもなります。
1943年以降に規格化された壕シリーズ複数も図版を用いて詳しく解説します。

Atlantikwall.jpg

完成した壕を運用するのはドイツ3軍です。
陸軍は上陸した敵軍との戦闘を交えるための、沿岸砲兵陣地と、強固な陣地壕に責任を持ち、
海軍は重砲である海軍沿岸砲の運用と、捜索レーダー設備に責任を、
空軍は対空砲陣地と対空監視レーダー、陸軍と共に戦う「空軍地上師団」も配備されます。
まさにこれぞ有名なドイツ軍の分業制ですね。
要は、侵攻してきた連合軍の大船団に対して攻撃するのは、海に責任を持つ海軍であり、
敵戦闘機や爆撃機は空軍が、上陸した歩兵と戦車を陸軍が狙う・・ということです。。仲悪いなぁ。

A German anti aircraft gun on the Westwall..jpg

さらに瀕死の東部戦線に人員を持っていかれますから、35歳以上の年寄り兵や傷病兵、
志願した捕虜のロシア兵、さらにインド人義勇兵も守備に就くのです。
映画で言えば、B級映画どころか、C級、D級映画ってところかな。。

Atlantikwall,_Soldat_der_Legion__Freies_Indien_.jpg

第4章は「大西洋防壁の背景」という、やや不明な章が・・。
早い話、東部戦線が大変なヒトラーが、なぜ西方の防衛に力を入れたのかの検証ですね。
ダンケルクから撤退した英軍は、北はノルウェーから、度々、コマンド部隊を送り込み、
サン・ナゼールに駆逐艦キャンベルタウンを突っ込ませた「チャリオット作戦」に、
ディエップに奇襲上陸した「ジュビリー作戦」を紹介します。

One of the four 38 cm SK C34 guns in BSG-39 mountings at Battery Hanstholm II.jpg

そして第5章は「ノルウェーからチャンネル諸島まで」の防衛施設の状況へ。
ナルヴィク港を防衛するのは、「ハーシュタ・トロンデンスヘイム岬砲台」で、
40.6㎝という最大のアドルフ砲を4門、38㎝砲も4門を擁したノルウェー最大の沿岸砲です。
このアドルフ砲は戦艦ビスマルク級に続く、H級超弩級戦艦の主砲で
超弩級戦艦自体は建造中止になったものの、主砲は完成していたんですね。
現在も美しく保存されているようですが、「ナヴァロンの要塞」の巨砲を彷彿とさせます。

Adolph Gun Harstad.jpg

ノルウェー南部のベルゲン港を受け持つのは、巡洋戦艦グナイゼナウの28㎝3連装B砲塔です。
ヒトラーに「役立たず」と言われて、廃棄された巡洋戦艦の成れの果て・・。

three 28 cm guns in a single turret from the battleship Gneisenau.jpg

デンマークにも38㎝砲を装備する巨大砲台が2ヵ所、
ドイツ本土と、オランダ、ベルギーにも数々の防衛拠点ができ、
小さなヘルゴラント島にも海軍砲兵派遣隊と、海軍対空派遣隊が1個づつ置かれます。
おっと、この島はいつもコメント戴くドイツ在住のIZMさんの見事なレポートがありました。

Atlantic Wall 1943 is not 1918.jpg

ルントシュテットの西方軍は、B軍集団司令官のロンメル、G軍集団のブラスコヴィッツがおり、
ザルムートの第15軍、ドルマンの第7軍、クルト・フォン・デア・シュヴァルリーの第1軍が
それぞれフランス沿岸の防衛を担当します。
もちろん統括して指揮するロンメルも、アスパラガスを植えたりと、忙しい日々。。

Dunkirk, Rommel for inspection of the mounting '43.jpg

ブローニュ~カレー~ダンケルク間は27ヵ所の重砲台が設置され、
大西洋防壁でも最も良く防御された地区となります。
なかでも40.6㎝アドルフ砲3門を装備した「リンデマン砲台」は、
1943年の完成当初、「グロースドイッチュランド砲台」と呼ばれていたものの、
戦艦ビスマルクのリンデマン艦長にちなんで、「リンデマン砲台」になったそうです。
なにか「ドイツ海軍の力」を珍しく感じさせるエピソードですね。

Atlantikwall Lindemann.jpg

1940年に設置された38㎝砲4門の「ジークフリート砲台」も同様に、
1942年に亡くなったトート博士の名を頂戴して「トート砲台」に変更・・。

英国領だったチャンネル諸島を占領したドイツ軍はジャージー島
ガーンジー島にも多くの沿岸砲台を設置します。
30.5㎝砲の「ミルス砲台」の写真は面白いですね。
農家に偽装して、傾いた煙突だと思わせたいのか、なんなんだ??

Guernsey_No 1 Gun of the Mirus Gun Battery.jpg

現在も遺跡の残った観光地みたいです。行ってみたいっす。

bunker gun Dollmann guernsey_jersey_Channel Islands.jpg

ラ・ロッシェルの20.3㎝砲「コラ砲台」は重巡ザイトリッツの主砲・・・という話は興味深かったです。
そもそもこのBlogでも紹介したことのない未完成のアドミラル・ヒッパー級重巡で、
有名な3番艦プリンツ・オイゲンに続く、4番艦がザイトリッツでした。
本書ではこの重巡について詳しく書かれていないので、ちょっと調べてみました。
艦名はフリードリヒ大王の騎兵大将として知られる
フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ザイトリッツですが、第2次大戦のザイトリッツと言えば、
その子孫であり、スターリングラードで降伏し、反ヒトラー派となった
第6軍第51軍団長のヴァルター・フォン・ザイトリッツ=クルツバッハを思い出します。

そして重巡ザイトリッツの建造が中止になったのは1943年1月、
第51軍団長のザイトリッツが降伏したのも同じく1943年1月です。
なにか因縁があるのか、ヒトラーが縁起が悪いと考えたのか・・。

Gun Battery Karola(Seydlitz Battery).jpg

第6章は「兵器」。
今まで登場した巨大な沿岸砲を40.6㎝から詳しく性能を解説します。
先に書いた「戦艦ビスマルク級に続く、H級超弩級戦艦の主砲で・・」というのも
この章で書かれており、38㎝の「ジークフリート砲」がビスマルク級の主砲であるなど、
話が細切れであんまり章分けする必要性は感じません。

Batterie Todt consists of four 380mm guns.jpg

ただし、「戦車砲塔」を用いた要塞陣地は印象的で、
ベルギーのリゾート地、オステンドでACG-1戦車の砲塔から海を見つめるドイツ兵が笑えました。
このACG-1とは、ルノーAMC35戦車のベルギー版のようで、主砲は47mm戦車砲です。
同じ写真ではありませんが、この2人のドイツ兵は何を思っているのでしょう・・。
もし連合軍の史上最大の大船団が見えてしまっても、とりあえず戦闘準備するのかなぁ。

Atlantikwall  Oostende ACG-1.jpg

だいぶ錆び付いてきたなぁ。
たまには掃除でもすっか。

Atlantikwall  Oostende ACG-1_2.jpg

何ヶ所かに設置されていたんでしょうか。
カワイイ砲塔ですから、チビッ子にも大人気。

Atlantikwall  Oostende ACG-1_3.jpg

ドイツのⅠ号戦車からⅣ号戦車もこの方式で使用され、
Ⅴ号パンターの陣地砲塔は山岳防衛前線で連合軍の戦闘車両を撃退したそうです。
ちなみに砲塔下は鋼鉄の箱になっていて、3~4人の戦闘員が入れるそうな・・。

Panther bodenturm.jpg

あ~、ベルリン攻防戦で道路にティーガーの砲塔置いたのも、同じシステムなんですね。

berlin_germany_boys_on_tiger_tank.jpg

まだまだ「列車砲」まで出てきました。
28㎝、シュベーレ・ブルーノ砲など写真も豊富ですが、
沿岸砲台として配備されなかった最大の列車砲、80㎝の怪物ドーラまで紹介。
まぁ、著者は「ドイツ列車砲&装甲列車戦場写真集」も書いてますから、勢いでしょう。

Kurze Bruno-Kanone.jpg

第7章は「ドーバー海峡砲撃戦」。
これまで登場してきた巨砲や列車砲たちが、40㌔離れた英国南部の
ドーバーの町を目掛けてブッ放し、2284発が着弾。市民200人以上が死亡します。
一方、英国側にも沿岸砲があり、1942年2月のドイツ艦隊によるドーバー海峡白昼突破の
ツェルベルス作戦」に対して砲撃をしますが、命中弾を与えられず・・。

最後の第8章は「結末」として「史上最大の作戦」のメルヴィル砲台と、
彼らは来た」のマルクフ海岸砲を巡る攻防戦を紹介します。
メルヴィル砲台はそれ自体が博物館になっているようですね。

batterie_de_merville.jpg

ハルダーが「1944年7月まで陸軍参謀総長」とわざわざカッコ書きで書かれていたりと
(正しくは1942年9月)、相変わらず、記述に雑な部分もありますが、
それらを割り引いても、本書はとてもマニアックで、この方面に興味のある人間には
充分満足できる一冊でしょう。
同じようなテーマを扱った本として、2006年発刊のハードカバー、
「第三帝国の要塞―第二次世界大戦におけるドイツの防御施設および防衛体制」がありますが、
定価4500円と高いですし、内容の比較はしてませんが、本書はお買い得だと思います。

また、洋書では「柏葉騎士十字章受勲者写真集」のPour Le Meriteからカラー写真集、
「Atlantikwall」が2冊出ていて、これは欲しくなっちゃいました。

atlantikwall1942-44.jpg







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