SSブログ

関東大震災 [番外編]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

吉村 昭 著の「関東大震災」を読破しました。

先日の「写真集 関東大震災」を図書館で借りてみて、読了後すぐ、本書を買いました。
2004年に新装版として出た347ページの文庫ですが、もとは1977年発刊と古いもので、
帯でも「犠牲者20万人」と一般的な倍の数字で謳っていますが、
個人的には数字にこだわりのないタイプですからそれほど気になりません。
写真集での解説文でだいたいの概要は掴んだだけに、何とも言えない緊張感があります。

関東大震災.jpg

まずは大正4年、大正天皇の即位の大礼が行われた日、東京で35回もの地震が起こります。
これを憂慮するのは東大助教授で地震学者の今村明恒。
今後、大地震が起こることは充分に予想されると記者に語る今村に、
上司の大森教授は「軽率な方言だ」と反対の態度を取ります。
あ~、これは1か月前にNHKで見た、関東大震災の再現ドラマと一緒ですね。

関東大震災を予知した二人の男.jpg

こうして42ページからその時・・大正12年9月1日、関東大震災の発生です。
震源地は相模湾。小田原や箱根、横須賀は上下動の烈震に見舞われ、
崖は崩れ、橋は落ち、家屋は倒壊します。
横浜のレンガ造りの洋館も耐久性がないために崩壊し、
グランドホテルやオリエンタルホテルは轟音と共に崩れ、多くの外国人が即死・・。
横浜裁判所では末永所長以下100名以上が圧死します。

横濱オリエンタルホテル.jpg

また鎌倉でも被害は甚大で、700年前に造られた大仏が40㎝近くも前にせり出します。
上野の大仏は頭が落っこちてしまいましたが、鎌倉のは大きさが違いますからねぇ。
ついモアイ像が歩いた・・って話を思い出しました。

鎌倉大仏前進(一尺一寸八分)ノ跡.jpg

メインとなるのは東京の状況です。
本書では被災にあった人々の回想を抜粋しながら進みますので、臨場感がありますね。
ここでは浅草の映画館で西部劇を観ていた14歳の少年の回想があり、
東京名物である十二階建ての「凌雲閣」が左右に揺れながら倒壊する姿を目撃し、
象などもいたことで知られる花屋敷からは、さまざまな鳥類が飛び交い、
獣類を射殺するらしき銃撃音も聞こえてきます。

全焼したる花屋敷、呑気な象くんの避難.jpg

11時58分という時間だけあって、竈や七輪に火をおこしてお昼の支度の真っ最中。
倒壊した木造家屋のあちこちから火の手が上がります。
今のように、ガスを止めて・・って簡単にはいかないんでしょう。
本所菊川、日本橋に京橋、入谷に蔵前といった場所から起こった火災は
火の勢いを強めながら東京市を焦土に変えていきます。

京橋区銀座街.jpg

消防隊も奮戦しますが、水道が至る所で破壊されており、
避難民の群衆にも妨げられて苦戦・・。
猛火に包まれて22名の殉職者を出し、124名の重軽症者を出すのでした。
ここで東京市の死者、行方不明者68660人という「写真集」と同じ数字を挙げてますが、
そうなると「20万」というのは辻褄が合わなくなりますね。

人形町.jpg

「旧陸軍被服廠跡地」に避難してきた人々。
町々が徐々に焼き払われて火が迫ってきます。
そして火の粉が降りかかり始めると、大八車などで持ち込んでいた家具や荷物が
激しく燃え上がります。やがて烈風が起こり、それは大旋風へと変化。
トタンや布団だけではなく、家財や人も巻き上げられます。
この地獄を生き残った18歳の少女は、老婆を背負った男がそのまま空中に・・、
また荷を積んだ馬車が馬と共に回転しながら舞い上がるのを見たと証言します。

陸軍被服廠跡地9.1.jpg

被服廠跡ではこのような炎の大旋風が度々発生し、その都度、人々は逃げまどいます。
死体を踏み潰しながら右往左往し、倒れれば後ろの群衆に踏み潰される・・。
また酸素が奪われて窒息・・、まるでドレスデン空襲の状況そっくりですね。
このようにして38000人が死亡するのでした。

徳永柳洲_被服廠跡の火災旋風.jpg

同様な惨事が起こった場所として詳しく紹介されるのは、「吉原公園」です。
前夜は新吉原に遊客が驚くほど多く、ここで働く遊女たちの眠りも深い正午の大地震。
倒壊する娼家が続出し、生きて這い出してきた彼女たちも火災から逃れようと、
唯一の避難地である吉原公園に寝間着一枚で走ります。

新吉原大門.jpg

しかし周囲の家も焼け始め、電信柱も炎を上げるようになると
「熱いよう」、「助けてえ」と泣くような叫び声が・・。
熱さに耐えきれなくなって弁天池に飛び込み出しますが、
200坪ほどの池は泥深く、中央部は4m近い深さがあります。
園内に持ち込まれた家具にに火がつくと、娼婦たちの髪油の塗られた頭髪にも火がつき、
池に飛び込む者の数を増し、岸辺にいた娼婦たちは段々と中央へ押し出され・・。
溺れかけた娼婦は別の娼婦の方につかまり、また他の娼婦がしがみつき、
数珠つなぎのようにして必死に争いながら490名が命を落としたのです。

弁天池の死体.jpg

東京の16の新聞社も13社が焼失してしまい、9月5日まで一切の新聞は発行されません。
電話局も大きな被害を受け、ラジオもTVもインターネットもないこの時代、
被災者は現状を理解する術がまったくないのです。
「津波が来る」などといった流言が人々の口に伝わると、
地方新聞もそのまま引用し、「上野の山に大津波が襲来した」や、
遠方から東京、横浜の空に渦巻く煙と炎を眺めて、「富士山大爆発」の記事も。。

惨害常夜天空に漲る火煙.jpg

巣鴨や市ヶ谷、横浜といった場所には刑務所もあり、それらも倒壊して囚人は脱獄も可能。
「囚人が集団脱走し、婦女強姦と略奪を繰り返してる」との噂も流れ、
近隣住民も脅えます。
他にも「社会主義者が朝鮮人と協力して放火している」との流言に触れられると、
ここから「朝鮮人襲来説」について詳しく書かれます。
つまり1918年に第1次世界大戦が終わり、ロシアではレーニンのボルシェヴィキが台頭。
日本にもコミンテルンに承認された共産党が誕生しますが、政府は苛酷な弾圧を試みて
大震災の3ヵ月前には共産党員の検挙を実施。

また大陸に対する軍事基地的意味合いから統監府を設置して朝鮮を支配下に。
特に朝鮮農民たちの不満は強く、初代統監、伊藤博文が安重根に暗殺されます。

安重根_伊藤博文.jpg

そんな状況下で憎悪を持って日本内地に流れ込んできた朝鮮人労働者たち。
そういえば7月に行われたサッカーの日韓戦でも安重根の巨大肖像画が話題になりましたね。
まぁ、「世界のナベアツ」にクリソツという評判もありましたっけ。。

安重根.jpg

いずれにしても震災当日の夜から「朝鮮人放火す」という声が横浜からあがると、
「朝鮮人強盗す」、「朝鮮人強姦す」と変化し、殺人や井戸へ劇薬を投じているとエスカレート。
横浜から東京へと避難する人々とともに噂は怪物へと成長します。

内容もより具体的となり、「いま、不逞朝鮮人千人ばかりが六郷川を渡って襲撃してきた」
と大声で叫びながら自転車で走り去る男・・。
その他、「上野駅の焼失は、朝鮮人2名が石油にて放火せる結果なり」など、
今なら震災の起こった時に「拡散希望」とかで変なメールを出す輩と一緒ですね。
どの時代にも愉快犯みたいなアホがいるもんです。
しかし「不逞」ていうのは、よく「ふてえ野郎だ!」と言うのと同じ意味なんだか。。

号外.jpg

この恐怖に被災者救援活動を行っていた在郷軍人会や青年団は自警団へと変身し、
日本刀や匕首、猟銃、拳銃で武装を開始します。
隊を組んで町を巡回し、通行中の人々を路上で尋問。
「国歌を唄ってみろ」とか、「いろはがるたを口にせよ」と命じて、間違えようものなら
日本人ではないと判定されて、暴行、縛り上げ、日本刀で文字通り一刀両断することも・・。
まるで「バルジの戦い」でスコルツェニーに脅えた米軍状態ですね。。
「カブスがアメリカン・リーグなどと言うヤツはドイツ野郎に違いない!」

警察は当初から朝鮮人襲来は事実ではないと自警団に訴えますが、
政府は231人の朝鮮人が殺害されたと発表。
しかし後の調査ではその10倍にも及んだと、いくつかの数字も挙げ、
また突然、囲まれたことでシドロモドロになったり、訛りのある秋田県人などが
「不逞朝鮮人」と勘違いされて悲惨も殺されています。

上野駅前9.1.jpg

後半、280ページからは「復興へ」。
そう言うのは簡単ですが、まずやらなければならないことは「死体処理」です。
遺体は家族・縁者に引き渡すことが原則ではあるものの、ほとんどが焼死体・・。
しかも9月の初旬であってはすぐに腐乱してしまいますし、疫病が蔓延することも。
死体集めの作業員は、道路工事の労働者の賃金が2円30銭が相場のこの時代に
倍以上の5円と破格で募集。しかも3食弁当付きです。
被服廠跡では88人が集まりますが、あまりの惨状に嘔吐を繰り返し、
その日の午後まで残っていたのはわずか4名です。弁当付けるなよ・・。

本所被服廠跡.jpg

このようにして集められた遺体は9月9日から3日間で焼却され、
火葬に付された骨は3mの高さにも達します。

本所被服廠跡の白骨.jpg

これ以上に困難だったのは河川に漂い流れてた溺死体。
それが終わると、やっと倒壊したビルの瓦礫の下の圧死体の回収が・・。

隅田川下流.jpg

焼け野原に建てられ始めたバラックでの市民の新生活も衛生状態は悪く、
特にトイレの類はヒドイもんです。もう書きたくないなぁ。
それから泥棒などの犯罪の増加に、女性を誘拐して売春婦として売り飛ばす悪党も出現。

9月10日には早くも米軍艦ブラックホークと、英軍艦ホーキンスが
食糧や燃料などの救援物資を満載して、品川沖に到着します。
その後は800万ドルもの募金と30隻の輸送船が日本に送りこまれますが、
ソ連汽船「レーニン号」だけは簡単にはいきません。
中央執行委員会議長カリーニンの命令によって、ウラジオストックから
食料と医薬品を積み込んだレーニン号ですが、
日本政府としては援助はありがたくも、天皇を中心に構成された日本の国家体制を
完全に否定する性格を持つ、共産主義思想のソ連から救援は迷惑なのです。
そして12日に横浜港へやって来た厄介者。
闇夜に紛れて扇動者を上陸させられないよう、戦艦「伊勢」が睨みを利かせます。
結局は気持ちだけ有難く頂戴して、お引き取り願うことに・・。

Simbirsk_Lenin.jpg

中だるみの無い一冊でした。
震災そのものも、非常に生々しい回想を中心に細かい数字も掲載。
2人の地震学者のエピソードに、端折りましたが、憲兵隊の起こした「大杉事件」も。
日本史にも弱い人間ですから大正12年と書くとピンときませんが、
1923年とすれば、ドイツやロシア/ソ連の状況もいくらかわかります。
その意味でも共産党やレーニン号の話は勉強になりましたし、
朝鮮占領の件も同様です。

「朝鮮人襲来」説は読みながらもいろいろと調べてみましたが、
「関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実」という本など、
案の定、本書とは違う見解も世の中には根強くあるようです。
今回、当時の「新愛知新聞 号外(9月4日付)」をあえて載せてみましたが、
地方の新聞社がどれだけ正確な情報を摑めたのか、あるいは流言なのかは
本書を読む限り、やはり怪しいなぁと思います。
新聞に書いてあるから正しいって解釈はちょっとどうでしょうね??
朝鮮人襲来があった、朝鮮人虐殺があった・・、
まぁ、そういうことにしたい人の気持ちはわからなくもないですが・・。







タグ:関東大震災
nice!(1)  コメント(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。