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ナチス第三帝国とサッカー -ヒトラーの下でピッチに立った選手たちの運命- [スポーツ好きなんで]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

G.フィッシャー、U.リントナー共著の「ナチス第三帝国とサッカー」を読破しました。

かなり前に購入していたものの、ず~と読むのを忘れていた2006年発刊237ページの本書。
先日、洋書の大作、「第三帝国のスポーツ」を読んだ勢いでやっつけてみました。
20数年来の海外サッカー好きですし、当時はテレビ埼玉で放送されていた
「ブンデスリーガ」も毎週欠かさず見ていました。
Jリーグが発足されると、まずリトバルスキーの所属するジェフ市原のファンにもなりましたっけ・・。

ナチス第三帝国とサッカー.jpg

「序文」では本書の意図するところは、1933年-1945年のサッカー史に
ナチスが与えた影響を示すこと、
それから、当時のサッカー選手がどの程度、道具として利用されたのかを示すこと・・とします。
帝国スポーツ指導者であるチャンマー・ウント・オステンが代表チームの前で語った言葉、
「皆さん、いいかな、フェアプレーでいこう。行く手には歴史を画することが待っているようだ。
この試合は単なるサッカーの試合ではない。それ以上のものである。
それは友情のデモンストレーションなのである」。
これは1941年4月6日の対ハンガリー戦の際の言葉ですが、
その2か月後に「バルバロッサ作戦」の盟友として参戦する・・ということですね。

Tschammer und Osten.jpg

第1章「ナチスとサッカー」では、ヒトラーのスポーツに対する考え方を「わが闘争」などから抜粋。
また、ヒトラーが若者のスポーツを推奨していたにも関わらず、
自身は生涯にわたりスポーツ活動から距離を置いていたことについて、
「その競技で1位になれないなら、参加することさえできない」と考えていたとしています。
確かに、馬にも乗りたくない、ボートも漕ぎたくない・・って話もありましたね。
そしてお気に入りのスポーツは、メルセデスを中心とした自動車レース
偉大なチャンピオン、マックス・シュメリングのいるボクシングです。

Schmeling-Hitler1936.jpg

1920年代、ドイツには様々なスポーツ・クラブが存在していますが、
1927年にSA(突撃隊)にもスポーツ局が設立されます。
国防強化スポーツとして格闘競技や野外スポーツの必要性を重要視し、
ベルリンでは「ナチ党体操スポーツ部」と名乗ります。
あ~、なるほど。SAがスポーツ団体だっていう言い訳はココからきてるんですか。。

SA_Adolf_Hitler.jpg

第2章は「忘れられたサッカー史」と題して、当時のDFB(ドイツ・サッカー協会)などを、
続く第3章「第三帝国で6度のチャンピオン」へ・・。
このナチス時代、1933年~1945年の半分で栄光に輝いたのは「シャルケ04」。
現日本代表のDF内田くんの所属する人気クラブですね。
オラフ・トーンの名前が出てきましたが、懐かしいなぁ・・。

Olaf Thon.jpg

シャルケ04はルール地方の炭鉱地帯の真ん中にある、労働者のためのクラブ。
多くの人にとって宗教でもあります。
エース・ストライカーであってもあくまでアマチュアが建前ですが、
実際、選手は炭鉱に潜ることもなく、休暇も多く、手当も出ます。
1941年のサッカー選手権決勝では、オーストリアのラピッド・ウィーンに3-4で敗れますが、
これは併合されたオストマルクにも大ドイツのチャンピオンを誕生させようという
イカサマだったのでは・・と推測します。
本書では当時、シャルケに所属していた選手へインタビューも行っていますが、
全体的にはナチスとの政治的な関与はなかった・・語っています。そりゃそう言うでしょう。

Die Schalker Meistermannschaft von 1939 posiert mit Hitlergruß im ausverkauften Stadion.jpg

それにしても本書はそこそこナチスとドイツのサッカーを知っているヴィトゲンシュタインでも
なかなか難しいんですねぇ。
1963年にブンデスリーガになる前の国内大会のレギュレーションが全然わからないので、
所々に出てくる「大管区リーグ」の話などを繋ぎ合せて、
その「大管区リーグ」の優勝クラブがトーナメント方式のドイツ・サッカー選手権に出場する・・
ということがなんとか理解出来ました。
まぁ、高校サッカーや高校野球と同じような感じでしょうか。
写真はいくらか掲載されてはいますが、せめてこの期間の優勝チーム一覧や、
代表チームの相手と戦績くらいはオマケでも載せて欲しいですねぇ。
そういえば、今年はブンデスリーガ50周年です。

salute_Fußball.jpg

第4章「首都は揺れ動く」では、ナチスの首都だけにバイエルン・ミュンヘンと1860ミュンヘン。
1920年から1930年の期間ではドイツ全土のランキングで1860が6位、バイエルンが9位と
1860ミュンヘンがこの首都で最も成功を収めていたクラブだったそうです。

Alexander ZICKLER_Bayern, Harald CERNY_1860.jpg

いや~、1860ミュンヘン・・懐かしい響きですなぁ。
若い頃は、「1860」をドイツ語で言えたんですが、スッカリ忘れてしまいました。
例えば「1.FC Köln」は大抵「イチ・エフシー・ケルン」と発音するのが当たり前だった当時、
なんで日本語と英語とドイツ語が混じってんだ・・?? とばかりに、
格好つけて「エルステー・エフツェー・ケルン」なんて言ってましたね。
確か"1"はアインではなく、1901年のエルステー「最初の(ファースト)」って意味だったかと・・。

Pierre Littbarski_1.FC Köln_1985.jpg

1860年の設立当初は体操クラブであった1860ミュンヘンですが、
後のヒトラーの副官としても知られるブリュックナーも会員であり、
1936年に会長の座に就いたのはエミール・ケッテラー博士というナチ党員です。
SA隊員でもあった彼は、SA幕僚長レームの侍医も務めていたという人物なんですね。
そして財政危機に陥るとバイエルン州の内相で大管区指導者でもある、
アドルフ・ワーグナーが手助けに・・と、どっぷりとナチ・サッカー・クラブに・・。

Wilhelm Brückner.jpg

一方、バイエルンは「ユダヤ人と紳士のクラブ」。
会長のランダウアーもユダヤ人で、迫害を恐れてジュネーブへ逃亡。
しかし4人の姉妹は強制収容所で死亡します。
1935年にはスポーツクラブの全会員は「アーリア人証明書」の提示が義務付けられ、
これによってバイエルンも「アーリア化」されます。
毎週火曜日の練習後には、下っ端ナチ党員の講義が行われ、
いつ総統が生まれたか・・といった検査に合格した者だけが「選手証」に
スタンプを押してもらえ、ようやくプレーすることが可能になるのです。

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第5章は、そんな迫害されたユダヤ人のスポーツ選手に注目します。
クラブに足を踏み入れることができなくなったことを苦に自殺したローゼンフェルターという選手。
過激な反ユダヤ主義者のシュトライヒャーは「シュテュルマー紙」に追悼文を掲載します。
「ユダヤ人はユダヤ人であり、ドイツのスポーツ界に彼らのための居場所はない。
ドイツはドイツ人の祖国であり、ユダヤ人の祖国ではない。
ドイツ人には祖国でやりたいことをする権利がある」。

stuermer_1934.jpg

ちなみに本書では「シュテュルマー(突撃兵)」は、「フォワード」と英語訳されていますが、
本当にサッカーのフォワードって、ドイツ語ではシュテュルマーって言うんですね。
本書の原題も「Stürmer für Hitler」でした。

Stürmer für Hitler.jpg

続いて第6章は戦争が始まっても続く、ドイツのサッカーです。
ポーランド侵攻後の1939年11月、チャンマー・ウント・オステンは全国選手権の続行を許可。
間もなく、占領地であるヴァルテラントと総督管区から、ベレッケ・クラカウとSDWポーゼンという
旧ポーランドのチームも参加。しかしそれ以外の土地では「スポーツ絶対禁止」です。
また、帝国スポーツ指導者の名を冠した国内カップ戦、チャンマーポカールも開催。
これは現在のドイツ・カップ(DFBポカール)の前身で、
ポカール(カップ)は戦後、作り直されたようです。もちろん、メダルも・・。

tschammerpokal und Medaillen.jpg

過去に「ディナモ -ナチスに消されたフットボーラー-」と、「バービイ・ヤール」で紹介した
ドイツ空軍チームvsウクライナの地元チームによる「死のサッカー」も詳しく書かれます。
また、強制収容所の囚人チームvs看守チームによる対戦例もいくつか紹介。
国内のサッカー選手も前線に駆り出され、ドイツ本土は空襲に見舞われるものの
1944年まで全国選手権は続けられています。

Der Reichsadler kennzeichnete Wehrmachtssoldaten.jpg

そしてこの年の6月、まさにノルマンディに連合軍がわさわさ上陸している時に決勝戦が開催。
当日の早朝になってようやく会場がオリンピア・シュタディオンであると発表されるものの、
このドレスデンSC vs ハンブルク空軍スポーツクラブの試合に7万人が押し寄せたそうです。
15分ごとに防空状況が伝えられ、いざベルリン空襲が始まれば、観衆はちりぢりになって
逃げ出さなければなりません・・。ドイツ人、こんなにサッカー好きだったとは・・。

1936_Olympische_Sommerspiele_Fussball.jpg

しかし9月になると遂に16歳から60歳までが「国民突撃隊」として招集。
ここに至って全国選手権も中止を余儀なくされ、スタジアムにクラブハウスも崩壊します。
それでもミュンヘンでは実にしぶとい男たちが親善試合を行います。
バイエルンが1860ミュンヘンを3-2で下したこの試合、
時は米軍がミュンヘンの門の前まで迫っていた、1945年4月23日です。

ちなみにブンデスリーガで優勝すれば、↓ お馴染みのお皿 「マイスターシャーレ」ですが、

Meisterschale 1995 Dortmund_Möller.jpg

1903年から1944年までは、勝利の女神であるヴィクトリアのトロフィーだったようです。
ナチス時代の最強クラブ、シャルケ04の1935年チャンピオンの面々とヴィクトリアの図。

Der Deutsche Meister des Jahres 1935, Schalke 04, posiert mit der Viktoria.jpg

最後の章は戦後のドイツ・サッカー協会がこのナチスの時代に向き合おうとしないと非難。
ドイツ国歌(世界に冠たる我がドイツ)の3番だけを唄うことになった件や、
1954年のワールドカップで西ドイツが優勝した「ベルンの奇蹟」などにも触れますが、
1958年にあのルーデル大佐が代表チームを表敬訪問したことに大いに噛みつきます。
曰く「元ナチ大佐」、「ヒトラーのお気に入りの殺人者」。
まぁ、ルーデルが戦後もナチ派だったことは知っていますが、
戦争で戦ったパイロットを「殺人者」ってのはどうでしょうねぇ。

Hans-Ulrich Rudel2.jpg

結局DFBは過去のユダヤ人や左翼系選手の追放についていまだに謝罪もせず、
ベッケンバウアーも含めて「右寄り」であると締め括っています。

cruyff-and-beckenbauer.jpg

現在のサッカーは、クラブ・レベルでは強豪になればなるほど外国人選手も多くなり、
場合によっては自国の選手がスタメンに1人もいない・・と問題になるほどです。
そんなこともあってか、代表チームのナシュナリズムに入れ込むのも
また必然のような気もします。
日本でもJリーグ人気はそれほどでもないのに、日本代表となると異常なほど盛り上がる・・。
特に韓国戦では旭日旗など、いろいろ揉め事も多くなっているように、
ドイツ代表チームが右寄りであると非難するのは、若干的外れな考え方だとも思いました。



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