従軍看護婦たちの大東亜戦争 -私たちは何を見たか- [女性と戦争]
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
従軍看護婦たちの大東亜戦争刊行委員会編の「従軍看護婦たちの大東亜戦争」を読破しました。
「女性と戦争」というテーマも度々、取り上げる独破戦線ですが、
ソ連や米国などの連合軍と違って、枢軸側はドイツも日本も戦地にはほとんど送られません。
しかし看護婦さんだけは別です。
本書は2006年に出版された296ページのソフトカバーで、
1977に刊行された「ほづつのあとに」という従軍看護婦の手記3部作を集約し、
時系列で編集し直した濃密な一冊です。
巻頭ではまず、日本赤十字社社長の言によって、赤十字の歴史を簡単に紹介します。
1863年にジュネーブにおいて設立された「赤十字」の目的は、
「戦場において敵・味方の別なく、傷病者を救護する」。
そして日本では1877(明治10年)に博愛社が創立されて、その後、日本赤十字社へ。
日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦と幾多の戦争に救護員を派遣します。
第2次大戦が終結するまでの8年間では、延べ35000名が派遣され、
救護看護婦の殉職者は1120名・・と想像以上に大変な数字ですね。
第1章は「勃発 -それは中国大陸で始まった」と題して、3名の従軍看護婦の手記が掲載。
昭和12年の支那事変が勃発すると、全国に救護班員の招集がかかります。
駅前では壇に登って「万歳三唱」で送られますが、女の子にとっては結構、恥ずかしい。。
彼女が着いた先は「軍都・広島」。へ~、軍都って表現、初めて知りました。
病院船「春成丸」に東京、茨木、秋田、岩手の4個班が兵士や馬と共に乗船し、
上海を目指しますが、救護班の構成はおおむね医師1人、看護婦長1人、看護婦20名です。
基本的には病院船上での勤務が彼女たちの戦場であるわけですが、
初めての戦地負傷者の包帯交換では、
「傷口からぼろぼろ、もりもりと蛆が出てくるのはぞっとした」。
天津から20㌔足らずの第四兵站病院での勤務。
髭もじゃの負傷兵の片足をバケツに入れて丁寧に洗っていると、
その兵士は肩から切断された傷の包帯を押さえて、涙を流しながら小声で言います。
「家に帰ったようだ。こんなことはお袋しかしてくれないと思っていたのに・・」。
彼女は当たり前のことがどんなに大切なのかを味わうのです。
昭和14年にはノモンハン事件が起こります。
日本軍は戦傷病者が続出し、急遽、ハルピンの大きな病院に派遣。
「今頃やって来て何事だ」とばかりの態度に続いて、病院長閣下にご挨拶。
廊下に看護婦10名が整列させられて、若い衛生下士官が大声で第1声を・・。
「貴様らは、体温の測定をどのようにするのか知っておるのか!」
本書は赤十字の看護婦が対象で、それとは別に衛生兵や軍属の看護婦もいるんですね。
しかし赤十字の彼女たちにも、徴兵と同じように「招集令状」が届くのです。
第2章は「宣戦布告 -大東亜戦争への突入」です。
万国公法により、病院船は船名や船型を相手国に通知しておき、
全体を白く、さらに煙突及び甲板上へ赤い十字を表しておけば、
どんな海面においても襲撃を受けることはない・・となっているものの、
機雷も流れ、潜水艦も潜んでいる状況では、絶対安全とは言い切れません。
そんなこともあってか、女性の乗った病院船は廃止しようとの意見も・・。
甲板での散歩でも付き添いが看護婦さんなら、話をしながら患者はいつもニコニコ。
しかし衛生兵と船員だけの女性のいない病院船では、
付き添っておれと命令を受けた衛生兵が、直立して傍らにいるだけ。
男同士が双方むっと顔を並べて・・。
前線の病院で女の病院船と決まると、患者たちが歓声を上げるのも無理はありません。。
昭和18年、そんな病院船のひとつ「ぶえのすあいれす丸」がB-24の攻撃を受けます。
数千人の傷病兵が乗った一万㌧の巨体があっと言う間に沈没し、
看護婦たちも大海原へと放り出されます。
救命ボートで5日間も漂流し、大波に襲われて半分が犠牲に・・。
再び、コンソリー機(B-24)がやって来て、ボート目掛けて機銃掃射を繰り返し、
その超低空飛行の機体の中の米兵の笑っている顔までハッキリと・・。
「悔しくて、思わず『血も涙もない米機のヤツ』と叫んだ」。
13ページほどの手記ですが、これだけで1冊の本になりそうなほど印象に残りました。
第3章「転進 -死屍累々の中での敗走」。
これまで20歳前後の若い看護婦さんの手記が中心でしたが、
満州戦線ではベテラン看護婦長の手記も出てきます。
陸軍病院で病名不明のまま死んだ患者の死体を解剖する婦長さん。
長い腸を開くと18センチ級の「回虫」が勢いよく飛び出します。
思わず「きゃー」と飛び上がり、軍医殿も駆け寄ってきますが、
「なあんだ。回虫じゃないか。婦長も悲鳴を上げる時があるのだね」。
私がそんな「マスラ女」に見えるのか・・と憤懣に堪えない婦長さん。。
しかし「回虫」ってのは子供の頃に読んだ筒井康隆の強烈な短編がありましたし、
飛び出すっていうのも、映画「エイリアン」のチェストバスターを思い起こさせて、
どうも、弱いですよねぇ。
いつもだったらグロい回虫の写真でも載せるところですが、とてもそんな気には。。
そんな「マスラ女」婦長はある日、部隊長殿から精神訓話を求められます。
いかなる事態になっても慌てず、立派に大和撫子らしく、笑って死ねる決意の教育です。
以来、毎晩30分、1時間と、ギラギラ光る短刀の切っ先を見つめて
自らの心臓に突き刺せる確信が持てるまで精神統一に励み、
部下の看護婦たちにも「立派に死ねる覚悟を持ちなさい」と訓話するのでした。
サイゴンではオランダ人の捕虜が防空壕掘りに駆り出されています。
そんな捕虜収容所からの患者も受け入れ、治療にあたる看護婦たち。
白の看護服も緑に染めて、壕に避難することも頻繁に・・。
あるオランダ兵は家族の写ったヨレヨレの写真を取り出し、何事かを話します。
言葉は解らなくても笑顔で頷くと、満足そうに微笑み、「サンキュー」。
昭和20年4月、ミンダナオ島では空襲の激しさが増し、ジャングルの中を移動。
救護班は現地解散を言い渡されますが、男性上司が濁流に呑まれ、
いよいよ女性だけの集団に・・。
9月、死体のそばの飯盒を覗くと人間の皮膚らしきものが見られることも。
新しい死体はほとんど大腿筋や臀筋が切り取られています。
「私たちは兵隊の声を聞くと、木陰に身を隠した。人間が恐ろしかった」。
看護婦の集団は徐々に人数が少なくなっていきます。
病死・・、川に流されて・・、美しく死に化粧をして自ら命を絶つ者・・。
死期が迫ったある看護婦は言い残します。
「私が死んだら絶対に兵隊の目が触れない所に捨ててください」。
・・いっぺん、女を喰ってみたい・・って言ってたヤツいましからねぇ。。
第4章は「焦土 -焼き尽くされる祖国」。
東京大空襲下の東大病院の様子が語られます。
若年用の看護婦寮は「弥生門」寄りにあって、火の手が迫っていますが、
ヴィトゲンシュタインはこの弥生門から5分くらいの所に住んでいます。
実は本書を読む前に「東京大空襲: 未公開写真は語る」という写真集を読みました。
去年、NHKスペシャルで放送した番組を写真集にまとめたものです。
続いてコレまた有名な「沖縄ひめゆり部隊の軌跡」が・・。
正規看護婦だけでは余りにも人数が不足していたことから、
沖縄県下の各女学校生徒に対し、一応の看護教育を施すとともに
陸軍軍属として従軍看護婦に任じた・・という経緯から語られます。
そして壕の入り口で看護に当たっていた3人の生徒は、
急降下してきた敵機の機銃を浴びて戦死。
その他の壕でも直撃弾によって生き埋め、あるいはガス弾によって・・。
何度か映画されている「ひめゆり」ですが、一度だけ観た記憶があります。
たぶん、吉永小百合の「あゝひめゆりの塔」だと思うんですけどねぇ・・。
まだまだ、広島、長崎の原爆投下に伴う、看護婦さんの戦いが続きます。
第5章「玉音」と、最後の第6章「抑留」では、各地で降伏した彼女たち。
米軍の捕虜となったフィリピンでは老若男女が集まって来て、
「ジャパニーズ、バカヤロー、ドロボー!」口々に罵り、投石する者まで・・。
満州では北から避難民に続いて、ソ連軍がやって来ます。
当然、彼らの要求は、「看護婦を出せ」。
長髪を切って丸坊主となり、軍服を着用して男装。青酸カリも与えられ、
万一の時には日本人として恥ずかしくない最期を遂げるように・・と訓示が。
陸軍看護婦、女子軍属も含めて100名以上の女性が残っていますが、
ソ連兵は移動の隊列にジープで接近し、若い見習い看護婦をさらっていくのです。
「婦長殿助けて・・」と、暗闇に尾を引くような悲鳴・・。
そしてウラジオストックから東京行き・・という船に乗せられると、そのままシベリアへ。
零下40℃にもなる炭坑作業のラーゲリは1万人が収容されています。
日本女性がやって来たことで兵士たちも興奮し、大騒ぎに・・。
ここの病棟で看護婦として働くことになった彼女ですが、
女性がシベリア送りになっていたなんて話は初めて知りました。
前線のソ連女性を扱った、「戦争は女の顔をしていない」も印象的でしたが、
本書は単体で本になりそうな話が3つはありました。
ドイツの看護婦さんでも「アフリカ軍団」で2級鉄十字章を受章したイルゼ・シュルツなんて
回想録出してないのかなぁ・・。
裏表紙には、櫻井よしこさんのコメントが掲載されていました。
改めて読み返してみると、ここに集約されていますね。
「大東亜戦争は一体どんな戦争だったのか。
家庭では戦争世代の大人たちが口をつぐみ、
学校では日本を批判する歴史が教えられてきた。
本書にまとめられた従軍看護婦の方々の体験と想いから、
私たちは多くのことを知り、学ぶことが出来るはずである。
戦後60年を過ぎた今だからこそ、どうしても読んでほしい一冊である」。
「ほづつのあとに―従軍看護婦記録写真集」も再刊して欲しいですね。
従軍看護婦たちの大東亜戦争刊行委員会編の「従軍看護婦たちの大東亜戦争」を読破しました。
「女性と戦争」というテーマも度々、取り上げる独破戦線ですが、
ソ連や米国などの連合軍と違って、枢軸側はドイツも日本も戦地にはほとんど送られません。
しかし看護婦さんだけは別です。
本書は2006年に出版された296ページのソフトカバーで、
1977に刊行された「ほづつのあとに」という従軍看護婦の手記3部作を集約し、
時系列で編集し直した濃密な一冊です。
巻頭ではまず、日本赤十字社社長の言によって、赤十字の歴史を簡単に紹介します。
1863年にジュネーブにおいて設立された「赤十字」の目的は、
「戦場において敵・味方の別なく、傷病者を救護する」。
そして日本では1877(明治10年)に博愛社が創立されて、その後、日本赤十字社へ。
日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦と幾多の戦争に救護員を派遣します。
第2次大戦が終結するまでの8年間では、延べ35000名が派遣され、
救護看護婦の殉職者は1120名・・と想像以上に大変な数字ですね。
第1章は「勃発 -それは中国大陸で始まった」と題して、3名の従軍看護婦の手記が掲載。
昭和12年の支那事変が勃発すると、全国に救護班員の招集がかかります。
駅前では壇に登って「万歳三唱」で送られますが、女の子にとっては結構、恥ずかしい。。
彼女が着いた先は「軍都・広島」。へ~、軍都って表現、初めて知りました。
病院船「春成丸」に東京、茨木、秋田、岩手の4個班が兵士や馬と共に乗船し、
上海を目指しますが、救護班の構成はおおむね医師1人、看護婦長1人、看護婦20名です。
基本的には病院船上での勤務が彼女たちの戦場であるわけですが、
初めての戦地負傷者の包帯交換では、
「傷口からぼろぼろ、もりもりと蛆が出てくるのはぞっとした」。
天津から20㌔足らずの第四兵站病院での勤務。
髭もじゃの負傷兵の片足をバケツに入れて丁寧に洗っていると、
その兵士は肩から切断された傷の包帯を押さえて、涙を流しながら小声で言います。
「家に帰ったようだ。こんなことはお袋しかしてくれないと思っていたのに・・」。
彼女は当たり前のことがどんなに大切なのかを味わうのです。
昭和14年にはノモンハン事件が起こります。
日本軍は戦傷病者が続出し、急遽、ハルピンの大きな病院に派遣。
「今頃やって来て何事だ」とばかりの態度に続いて、病院長閣下にご挨拶。
廊下に看護婦10名が整列させられて、若い衛生下士官が大声で第1声を・・。
「貴様らは、体温の測定をどのようにするのか知っておるのか!」
本書は赤十字の看護婦が対象で、それとは別に衛生兵や軍属の看護婦もいるんですね。
しかし赤十字の彼女たちにも、徴兵と同じように「招集令状」が届くのです。
第2章は「宣戦布告 -大東亜戦争への突入」です。
万国公法により、病院船は船名や船型を相手国に通知しておき、
全体を白く、さらに煙突及び甲板上へ赤い十字を表しておけば、
どんな海面においても襲撃を受けることはない・・となっているものの、
機雷も流れ、潜水艦も潜んでいる状況では、絶対安全とは言い切れません。
そんなこともあってか、女性の乗った病院船は廃止しようとの意見も・・。
甲板での散歩でも付き添いが看護婦さんなら、話をしながら患者はいつもニコニコ。
しかし衛生兵と船員だけの女性のいない病院船では、
付き添っておれと命令を受けた衛生兵が、直立して傍らにいるだけ。
男同士が双方むっと顔を並べて・・。
前線の病院で女の病院船と決まると、患者たちが歓声を上げるのも無理はありません。。
昭和18年、そんな病院船のひとつ「ぶえのすあいれす丸」がB-24の攻撃を受けます。
数千人の傷病兵が乗った一万㌧の巨体があっと言う間に沈没し、
看護婦たちも大海原へと放り出されます。
救命ボートで5日間も漂流し、大波に襲われて半分が犠牲に・・。
再び、コンソリー機(B-24)がやって来て、ボート目掛けて機銃掃射を繰り返し、
その超低空飛行の機体の中の米兵の笑っている顔までハッキリと・・。
「悔しくて、思わず『血も涙もない米機のヤツ』と叫んだ」。
13ページほどの手記ですが、これだけで1冊の本になりそうなほど印象に残りました。
第3章「転進 -死屍累々の中での敗走」。
これまで20歳前後の若い看護婦さんの手記が中心でしたが、
満州戦線ではベテラン看護婦長の手記も出てきます。
陸軍病院で病名不明のまま死んだ患者の死体を解剖する婦長さん。
長い腸を開くと18センチ級の「回虫」が勢いよく飛び出します。
思わず「きゃー」と飛び上がり、軍医殿も駆け寄ってきますが、
「なあんだ。回虫じゃないか。婦長も悲鳴を上げる時があるのだね」。
私がそんな「マスラ女」に見えるのか・・と憤懣に堪えない婦長さん。。
しかし「回虫」ってのは子供の頃に読んだ筒井康隆の強烈な短編がありましたし、
飛び出すっていうのも、映画「エイリアン」のチェストバスターを思い起こさせて、
どうも、弱いですよねぇ。
いつもだったらグロい回虫の写真でも載せるところですが、とてもそんな気には。。
そんな「マスラ女」婦長はある日、部隊長殿から精神訓話を求められます。
いかなる事態になっても慌てず、立派に大和撫子らしく、笑って死ねる決意の教育です。
以来、毎晩30分、1時間と、ギラギラ光る短刀の切っ先を見つめて
自らの心臓に突き刺せる確信が持てるまで精神統一に励み、
部下の看護婦たちにも「立派に死ねる覚悟を持ちなさい」と訓話するのでした。
サイゴンではオランダ人の捕虜が防空壕掘りに駆り出されています。
そんな捕虜収容所からの患者も受け入れ、治療にあたる看護婦たち。
白の看護服も緑に染めて、壕に避難することも頻繁に・・。
あるオランダ兵は家族の写ったヨレヨレの写真を取り出し、何事かを話します。
言葉は解らなくても笑顔で頷くと、満足そうに微笑み、「サンキュー」。
昭和20年4月、ミンダナオ島では空襲の激しさが増し、ジャングルの中を移動。
救護班は現地解散を言い渡されますが、男性上司が濁流に呑まれ、
いよいよ女性だけの集団に・・。
9月、死体のそばの飯盒を覗くと人間の皮膚らしきものが見られることも。
新しい死体はほとんど大腿筋や臀筋が切り取られています。
「私たちは兵隊の声を聞くと、木陰に身を隠した。人間が恐ろしかった」。
看護婦の集団は徐々に人数が少なくなっていきます。
病死・・、川に流されて・・、美しく死に化粧をして自ら命を絶つ者・・。
死期が迫ったある看護婦は言い残します。
「私が死んだら絶対に兵隊の目が触れない所に捨ててください」。
・・いっぺん、女を喰ってみたい・・って言ってたヤツいましからねぇ。。
第4章は「焦土 -焼き尽くされる祖国」。
東京大空襲下の東大病院の様子が語られます。
若年用の看護婦寮は「弥生門」寄りにあって、火の手が迫っていますが、
ヴィトゲンシュタインはこの弥生門から5分くらいの所に住んでいます。
実は本書を読む前に「東京大空襲: 未公開写真は語る」という写真集を読みました。
去年、NHKスペシャルで放送した番組を写真集にまとめたものです。
続いてコレまた有名な「沖縄ひめゆり部隊の軌跡」が・・。
正規看護婦だけでは余りにも人数が不足していたことから、
沖縄県下の各女学校生徒に対し、一応の看護教育を施すとともに
陸軍軍属として従軍看護婦に任じた・・という経緯から語られます。
そして壕の入り口で看護に当たっていた3人の生徒は、
急降下してきた敵機の機銃を浴びて戦死。
その他の壕でも直撃弾によって生き埋め、あるいはガス弾によって・・。
何度か映画されている「ひめゆり」ですが、一度だけ観た記憶があります。
たぶん、吉永小百合の「あゝひめゆりの塔」だと思うんですけどねぇ・・。
まだまだ、広島、長崎の原爆投下に伴う、看護婦さんの戦いが続きます。
第5章「玉音」と、最後の第6章「抑留」では、各地で降伏した彼女たち。
米軍の捕虜となったフィリピンでは老若男女が集まって来て、
「ジャパニーズ、バカヤロー、ドロボー!」口々に罵り、投石する者まで・・。
満州では北から避難民に続いて、ソ連軍がやって来ます。
当然、彼らの要求は、「看護婦を出せ」。
長髪を切って丸坊主となり、軍服を着用して男装。青酸カリも与えられ、
万一の時には日本人として恥ずかしくない最期を遂げるように・・と訓示が。
陸軍看護婦、女子軍属も含めて100名以上の女性が残っていますが、
ソ連兵は移動の隊列にジープで接近し、若い見習い看護婦をさらっていくのです。
「婦長殿助けて・・」と、暗闇に尾を引くような悲鳴・・。
そしてウラジオストックから東京行き・・という船に乗せられると、そのままシベリアへ。
零下40℃にもなる炭坑作業のラーゲリは1万人が収容されています。
日本女性がやって来たことで兵士たちも興奮し、大騒ぎに・・。
ここの病棟で看護婦として働くことになった彼女ですが、
女性がシベリア送りになっていたなんて話は初めて知りました。
前線のソ連女性を扱った、「戦争は女の顔をしていない」も印象的でしたが、
本書は単体で本になりそうな話が3つはありました。
ドイツの看護婦さんでも「アフリカ軍団」で2級鉄十字章を受章したイルゼ・シュルツなんて
回想録出してないのかなぁ・・。
裏表紙には、櫻井よしこさんのコメントが掲載されていました。
改めて読み返してみると、ここに集約されていますね。
「大東亜戦争は一体どんな戦争だったのか。
家庭では戦争世代の大人たちが口をつぐみ、
学校では日本を批判する歴史が教えられてきた。
本書にまとめられた従軍看護婦の方々の体験と想いから、
私たちは多くのことを知り、学ぶことが出来るはずである。
戦後60年を過ぎた今だからこそ、どうしても読んでほしい一冊である」。
「ほづつのあとに―従軍看護婦記録写真集」も再刊して欲しいですね。