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ゴースト・ソルジャーズ 第二次世界大戦最大の捕虜救出作戦 [USA]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ハンプトン・サイズ著の「ゴースト・ソルジャーズ」を読破しました。

もう4年ほど本棚に眠ったままだった本書を何気なく取り出してみました。
確か、神保町の古本まつりでやっぱり何気なく買った記憶がありますが、
2003年に発刊された411ページのナニが興味を引いたのか・・? 
と訳者あとがきを読んでみると、
米軍レンジャー部隊によるフィリピン・ルソン島の捕虜救出作戦を描いた一冊で、
なるほど、特殊部隊や特殊作戦というテーマに惹かれたんだと思います。
悪魔の旅団 -米軍特殊部隊・・」とかも好きですからねぇ。
しかし本書のメイン・テーマは、有名な「バターン 死の行進」。
「南京大虐殺」に並ぶ、日本軍の残酷物語とも云われています。
米国人の著者がどのように描いているのか、突然、楽しみになってきました。

ゴースト・ソルジャーズ.jpg

プロローグは1944年12月のフィリピン・パラワン島の捕虜収容所。
P-38戦闘機にB-24爆撃機による空襲が・・。
戦況の変化と米軍の侵攻の兆しは誰もが気づいています。
塹壕に避難していた150名の米軍捕虜に対して、航空燃料が浴びせかけられ、
日本兵が火の付いた松明を投げ込みます。
逃げる者はハチの巣にされますが、一矢報いたいとばかりに
火だるまのまま日本兵に抱きつく死の抱擁を見せる者も・・。

1944. General Douglas MacArthur's liberating forces landed on the Leyte shores,.jpg

このような状況下で「アイ・シャル・リターン」と語っていたマッカーサー率いる米軍は、
3年前にバターン半島とコレヒドール島陥落の際に日本軍に捕えられた捕虜たちが
カバナツアン収容所で飢えに苦しんでいるという情報を入手。
つい数ヵ月前にはオーストラリアの収容所で日本兵捕虜234名が集団自殺を図り、
生存者は「日本兵が捕虜になるという不名誉は、とても耐えられるものではない」と語ります。
そして捕虜に関する理念の違い・・。
このまま米軍が侵攻した場合、カバナツアン収容所の捕虜が皆殺しになるのではという懸念。
そこで特殊部隊の第6レンジャー大隊指揮官ミューシー中佐を中心に、
C中隊のプリンス大尉を突撃部隊指揮官に任命し、捕虜救出作戦が始まるのでした。

LTC Henry Mucci.jpg

第1章は3年前の「バターン陥落」へ。
日本軍の猛攻の前に、荒れ果てたジャングルへ追い詰められた米軍。
食事といえば猫、なめくじ、ネズミ、昆虫、大蛇、そして猿・・。
まぁ、何びとであっても飢餓に陥るとこういう物を食べるんですね。
マッカーサーは脱出し、陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルから
「降伏は断じて許されない」と釘を刺されていたエドワード・キング将軍も降伏を決断。
それにしてもマーシャル将軍厳しいなぁ・・。

King discusses surrender.jpg

しかし勝者である本間雅晴中将は第14軍としてはコレヒドール島を手に入れられなければ
マニラ湾は用をなさず、この"オタマジャクシ"の形をした難攻不落の要塞を
半島の南のバターンから砲撃するために、投降した米兵を移動させる必要があるのです。
・・・と、本文を要約して書いてみましたが、本書には地図も未掲載なので、
いろいろと調べました。コレヒドール島・・、もろオタマジャクシなんですね。。

Corregidor.jpg

米軍の捕虜は75マイル北にあるオードネル収容所に移送する計画が立てられ、
歩くスピードも一日平均10マイル以内、食糧と救護所も用意し、
病人は数百台の車両で輸送するという「人道的」なもの。
天皇陛下が捕虜を「不運な人々」と考え、「最大限の慈悲と優しさ」をもって接するよう
指示していたのを本間将軍自身も知っており、帝国陸軍の高潔な理念に従って扱うよう命じます。
しかしこの計画には致命的な欠陥が2つ。
1つ目はせいぜい2万5千程度と見ていた米兵が、実際には10万人に近く、
2つ目に彼らの健康状態を楽観視し、捕虜の飢えと病気の度合いは想像以上・・。

Masaharu Honma.jpg

そんな敵に優しすぎる本間将軍に陸軍参謀総長の杉山元将軍は良く思わず、
無能で決断力に欠けるとして、信頼する辻政信中佐に全権を委任して送り込みます。
彼が現れるところには必ず虐殺行為が起きるといわれている人物で、
勝手に「投降者は全員射殺すべし」との命令を発するのでした。

Masanobu Tsuji.jpg

こうして始まった「死の行進」。
4ヵ月近く戦ってきた敵と面と向かい合うと、復讐心が熱病の如く路上に蔓延し、
最後にはあっさりと降伏した米兵を憎み、勝者特有の軽蔑心に燃える日本兵の姿。
この状況では自分が全能の神であることを自覚する一部の警護兵は、
喉の渇きから列を飛び出し、泉に突っ込んだ捕虜の首を水平に切り落とすことも。。

bataan-death-march.jpg

普通の兵士なら1週間の道のりが、3週間以上かかってようやく完了。
本書では平均的な数字として、750名の米兵と5000名のフィリピン人が、
極度の疲労、病気、大量放置、あるいは純粋な殺人で命を落としたとしています。
また、バターンの砲撃地点に「捕虜の壁」を配置したにもかかわらず、
コレヒドール島からの味方の砲撃で死んだ捕虜も多かったそうです。

bataan_death_march.jpg

のちにアメリカのメディアが「バターン死の行進」の名付けたこの事件ですが、
決して意図されたものではなく、混乱と人種間の憎しみ、誤解、うだるような暑さ、
規律の乱れなど、さまざまな要素が混じり合った末の出来事と表現されています。
具体的には日本軍が兵站作業を見直さなかったのは、
計画に口を挟むことは命令を下した上官の知性を侮辱するものだ・・
という儒教文化に深く染まった日本軍の参謀や、
降伏に際して使えるトラックを破壊してしまった米兵の行為、
ガソリンに恵まれ車両に大きく依存していた米兵に対して、
長距離を早く、しかも休まずに歩くことに長けた日本兵についてこられるとの誤解など・・。

March_of_Death_from_Bataan_to_the_prison_camp_-_Dead_soldiers.jpg

収容所への道は続きます。
途中、サンフェルナンドからは100名単位で列車に押し込まれますが、
数時間後に扉が開いた時には12名の捕虜が死んでいます。
ここの映写はまるでアウシュヴィッツ行きのユダヤ人並みの悲惨さですね。
そしてようやく辿り着いたオードネル収容所の正面ゲートには
米兵が「赤く燃えるケツの穴」と呼ぶ、旭日旗がはためいています。

Rising_sun_flag.jpg

衛生状態は最悪、悪臭は破滅的で、2ヵ月間で1500名以上の米兵、
15000名のフィリピン人が墓標もない墓地に埋葬されるのでした。
日本軍はこの状況に別の収容所が必要と悟ります。
そしてかつては軍事施設だったカバナツアンを収容所とし、捕虜を移動。
フィリピン最大の捕虜収容所にして、外国最大の米兵捕虜収容所が誕生。

Camp O'Donnell.jpg

端折りましたが、本書の構成はこのような1942年~1944年の米兵捕虜の話と並行して、
1945年1月の収容所解放作戦に向かう、レンジャー部隊の章が交互に出てきます。
そして1944年10月になると、マッカーサーの復帰を間近に控え、
日本軍は兵が本国に戻る際に、労働力となる捕虜を一緒に連れて帰ることにし、
収容所の人口はピーク時の8000名から、徐々に2000名と削減され、
いま、最終便として病人を残して米兵捕虜1600名が日本へと輸送されます。
立派な日本客船「鴨緑丸」の船倉に押し込められてマニラから出港するも、
米海軍戦闘機と急降下爆撃機の攻撃を受けて沈没・・。

鴨緑丸.jpg

リンガエン湾の激しい砲撃音が耳に届くようになったころ、
カバナツアンの収容所所長は、警備兵とともに去っていきます。
日本軍用の貯蔵庫を略奪し、栄養も回復しつつある残された捕虜たち。
しかし収容所の外に一歩でも踏み出せば、日本兵に殺されるのでは?
という疑念がぬぐいきれません。
やがて日本軍の中継地点となって、捕虜の数よりも日本兵の方が多くなることも・・。

そして遂にプリンス大尉率いるレンジャー部隊が闇に乗じて収容所を襲撃。
大量の銃弾を浴びて上半身が「原子分解」する日本兵。
或いは腰から真っ二つになる歩哨。
動き出そうとしている日本軍のトラックや戦車もバズーカの餌食に・・。
過剰で猛烈な一方的銃撃が繰り広げられます。

Rangers of the U.S. Sixth Ranger Battalion participated during a raid on the Cabanatuan prison camp to release American and Filipino prisoners.jpg

こうして3年ぶりに味方の若く逞しい米兵の姿を見た捕虜たち。
「我々は米兵だ。あなたたちを連れ出しにやって来たんだ」
しかし、こんな状況で一悶着が始まります。
「いいや、米兵はそんな制服は着ていない」
「気にしないでください、自分はレンジャー隊員です」
「レンジャーってのは何だ?」
「いいから出ろ。つべこべ言うな!」

1945年2月、解放された捕虜たちは陸軍病院で静養し、マッカーサーも顔を見せます。
そして旧友のダクワース大佐を見つけると、「遅くなって本当にすまない」と涙を・・。

Cabanatuan Prison Camp Survivors.jpg

本書は2003年の発刊当時、トム・クルーズ主演、スピルバーグ監督で映画化!
と謳っていたようですが、結局のところ中止になっているようですね。
その代わり2005年、この作戦を描いた「THE GREAT RAID」という映画が製作されていました。
日本未公開でDVDも出ていませんが、スカパーで放映されたそうです。
「グレート・レイド 史上最大の作戦」というショボい邦題が泣けますねぇ・・。

THE GREAT RAID 2005.jpg

ちなみに映画ということだと、「バターンを奪回せよ」という映画もあります。
戦時中の1944年に製作され、主演は世界のタカ派俳優ジョン・ウェインです。

バターンを奪回せよ 1944.jpg

最後にエピローグとして、本書に登場した人物のその後が・・。
突撃部隊を率いたロバート・プリンス大尉は、すぐにルーズヴェルト大統領と面会。
日本軍ではカバナツアンとオードネル収容所の所長が戦争犯罪裁判で「重労働刑」に、
本間将軍はバターン死の行進を指揮したとして有罪を宣告されたものの、
命令はおろか、行進に気づいていたかさえ、検察側は証明できず・・。
本間の妻がGHQ司令官マッカーサーに特赦を求めますが、介入を断り、
1946年6月、銃殺刑に処せられるのでした。

CPT Robert Prince.jpg

また、虐殺行為に最も関与したとされる辻中佐はあらゆる戦争犯罪の追及を逃れ、
タイ、ビルマ、中国へと潜伏。1950年代に日本に姿を現すも、再び失踪・・。
この人は本書を読む前に知っていましたが、一体、なんなんでしょう?
あ~、「ガダルカナル」に出てたんだっけなぁ。

米国人の著者は執筆にあたって日本にも3ヵ月滞在し、
バターンで戦った元日本軍兵士などとも対面して、日本人の考え方など、
多くを学んでいるようです。確かに、理性的な書き方をしている印象です。
ちょうど公開中のトミー・リー・ジョーンズの「終戦のエンペラー」はどうでしょうね?

Emperor.jpg

いや~、しかしいくら客観的に読もうと思っても米軍vs日本軍は難しいですね。。
例えば、旭日旗のことを「赤く燃えるケツの穴」という記述がありましたが、
そこで「ナニをっ!」とイラっとするか、「まぁ、ヤンキーらしいな・・」と苦笑いするか・・。

いままで主役が米英軍で、ドイツ軍が悪役の本は何冊か読んできましたが、
ソコはさすがに日本人ですから・・。





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始まりと終わり ドイツ空軍の栄光 -アドルフ・ガランド自伝 [ドイツ空軍]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

アドルフ・ガランド著の「始まりと終わり」を読破しました。

今年の4月に「完全新訳」という形で再び世に現れた、知らぬ人のいない一冊です。
もともとはフジ出版社から1972年に出た「始まりと終り―栄光のドイツ空軍」が有名で、
この独破戦線でも以前に紹介しています。
その際、本書の訳者さんらしき方から「英語版の翻訳で完全版ではない」旨のコメントを頂戴し、
ならばと「独語完全版を翻訳、出版していただけませんか?」なんてやり取りが・・。
それから3年・・。その時の熱い思いが伝わったのかどうかはわかりませんが、
704ページの分厚い本書をジックリと楽しんでみたいと思います。

始まりと終わり.jpg

再刊された本を読むというのは初めての経験ですので、まずは見た目から比較してみましょう。
第1にタイトルがビミョーに違いますね。
副題が違うのは明らかですが、旧版は「始まりと終り」、新版は「始まりと終わり」です。
第2に著者の名前も・・、旧版は「アドルフ・ガーラント」、新版は「アドルフ・ガランド」。。
これについては渡辺洋二著の「ジェット戦闘機Me262」にも書かれているとおり、
本人から「ガランド」であるとの回答を得たということで、そちらになったようです。
ちなみに独破戦線では間を取って??「ガーランド」です・・。
第3にページ数、旧版が398ページで、新版は704ページですが、
なんといっても旧版は上下2段組みで文字も小さいですから、ページ数ほどの差はないでしょう。
その他、旧版は函入りかつ、高級感溢れる製本だったりと、愛着もありますね。

始まりと終わり_旧新.jpg

第1章は「アルゼンチンの地の上で」。
戦後、1955年までアルゼンチン空軍で顧問を務めていたガーランド。
大統領のペロン将軍とのエピソードでは、スペイン語を話し始めてようやく
ドイツ人だと気付いてもらえた・・というその「北方ゲルマン」的ではない風貌。
メルダースに続いて柏葉騎士十字章を受章し、ヒトラーと初めて対面した際にも、
またもや肌の浅黒い「ちんちくりんのゲルマン人」の姿を見て、総統は笑いながら言います。
「まったく、いつになったら金髪碧眼のゲルマン人が来るんだ」。

原著の発刊は1954年(旧版では1953年となってますが・・)ですから、
この出だしは本書がアルゼンチン時代に書かれたことを意味しているようです。
ちなみにペロン将軍の奥さんはマドンナが演じたことでも有名な「エビータ」ですね。

Die Ersten und die Letzten 1953.jpg

続いて第2章は「パイロットになろう・・」。
4月に紹介した写真集「アドルフ・ガラント」でも少し触れられていた、
17歳のグライダー飛行少年アドルフが見習いパイロットとしてルフトハンザに入り、
1935年、ドイツ国防軍史上、初めて軍服にネクタイと襟が付けられたドイツ空軍へ。
伝統ある陸軍兵からは「ネクタイ兵」という綽名が付けられるのでした。

第7章は「コンドル軍団に呼集」です。
1937年5月8日、正真正銘のオンボロ船でなんとかスペインに辿り着き、
その直前に起こった「ゲルニカ爆撃」にも触れながら話は進みます。
そして「ミッキーマウス中隊」と呼ばれた第88戦闘飛行隊第3中隊の指揮を任され、
他の中隊ではリュッツォウ中尉も・・。は~、そうですか。

Legion Condor Oberleutnant Adolf Galland.jpg

翌年には波乱に満ちた15ヶ月間のスペイン時代も終わりを告げ、
後任にメルダースがやって来ます。
「さらば第3中隊、さらば内戦、さらばスペインよ」と、
まるでヘミングウェイを読んでいるかのようです。

El Capitán Werner Mölders como oficial de la Legión Cóndor.jpg

117ページからの第10章は「西方戦役における戦闘機隊」で、旧版では第1章の「始まり」。
実はここまで英語版のフジ出版では、まるまる削除されていたわけですね。
いわゆる「始まりの始まりがあった」と云われている所以です。
ドイツ語オリジナル版完全新訳というのも本書のウリですので、
この章の1ページ目を少しだけ比較してみましょう。

まずは「旧版」から。
「東部ポーランドにおける電撃戦のあと、西方でのすわりこみ戦争が続いた
そのために関係者全員が激しい神経の緊張を強いられた。
私は、二週間ごとにわれわれの航空団に所属する三つの連隊全部の指揮をとり、
その間にそれぞれの隊の指揮官が交代で休暇を取った。
<中略>・・・誰かが実際に撃墜されたこともあった。それは友軍機の一つで、
FW-58ワイヘであり、操縦していたのは連隊長だった。だが何ごともなかった。」

これが本書になると・・、
「東方での電撃的勝利に続いたのは西方の「奇妙な戦争」だった。
当事者にとっては大変な緊張感だった。
私は所属航空団の三飛行隊長がそれぞれ二週間の休暇を取っている間、
代わる代わる指揮を執った。
<中略>・・・誰かが実際に撃墜されてしまった。それは友軍機のFw58ヴァイエで、
乗っていたのは戦闘機隊指導官(ヤー・フュー)だった。なんたるザマか!
不幸中の幸いは、これ以外は何事もなかったことだった。
それにしても、よくも「ヤー・フュー」はそんな機で飛んでいたものだ!」

いかがでしょう?
連隊と飛行隊、連隊長と戦闘機隊指導官と、よりドイツ空軍らしい表記ですし、
「ヤー・フュー」はカッコ書きではなく、戦闘機隊指導官の横に小さくふりがなで表記、
同じく電撃的勝利は「ブリッツズィーク」、奇妙な戦争は「ズイッツクリーク」と
ドイツ語読みのふりがながドイツ軍好きには嬉しい気遣いですね。
そして一番の相違点は、過激な文言の有無です。

Focke-Wulf Fw 58 Weihe.jpg

本文は基本的に旧版の「始まりと終り」と同じですから、以降は重複を避けて
今回気になった箇所を挙げていきましょう。
まずは「バトル・オブ・ブリテン」。
この英軍機との戦いでエース・パイロットとなった著者ですが、
英国本土爆撃が主体となり、戦闘機は爆撃機の護衛を命ぜられます。
しかし満足に援護が行えないことが判明すると、
「よろしい、これからは戦闘機で英国まで爆弾を運んで行ってもらおうか」。

Adolf Galland bf109.jpg

このようにして戦闘機の1/3が戦闘爆撃機に転換されることとなり、
それまで能力向上のために余計なものを全て捨てて速力をわずかでも絞り出し、
航続距離を伸ばすために再三要求してきた「増槽」の代わりに、
Me-109に爆弾投下器と250㌔爆弾を頂戴するという冒涜に耐え忍ぶのです。
そしてしぶしぶ遂行し、士気も疲弊しきった戦闘爆撃機任務。
ゲーリングは吐き捨てるように言います。
「こうした任務が与えられたのは己が無能であったからであり、
もしこれにも不適当であることがわかったら、戦闘機部隊などまるごと解散した方がマシだ」。
「なんたる仕打ちか!」と前線青年将校は激怒して指導部を激しく批判するのでした。
う~ん。すでに「終わりの始まり」のように感じますね。

G. Lützow, A. Galland, G. Freiherr von Maltzahn, T. Osterkamp, W. Mölders.jpg

1942年1月、メルダースに続く2番目の軍人として、ダイヤモンド柏葉剣付騎士十字章を受章。
「総統から授かったダイヤモンドというのがそれだな」
と言うのは勲章&宝石マニアのゲーリング。
そしてご機嫌よろしく手のひらの上で吟味すると、「こりゃダイヤじゃないぞ。クズだ。
総統もしてやられたな。大砲や戦車なら知っているのだろうが・・」。
こうして御用達の宝石商に特製ダイヤで作り直させて、子供のようにはしゃぐ国家元帥。

Galland_Hitler2.jpg

その後、ヒトラーの元に出頭することとなったガーランド。
ヒトラーは改まって「今ここにドイツ最高の勲章の最終デザイン版を貴官に手渡す。
貴官がこれまで佩用していたものは暫定的なものだ」。
ゲーリングによって新調されていることなど露程も知らないヒトラーは、
国家元帥版のダイヤ片手に、新しいものを片手にし、
「さぁ、違いがわかるかね。これはクズで、こちらが本物のダイヤだ」。
しかし、「クズ」の方がずっと大きく、何倍も美しい・・。

まぁ、3年前に一度読んだだけですから、すべての内容を覚えていませんが、
途中、何度か「こんな話あったっけ?」と思った箇所が20数か所はありました。
その都度、旧版を読み返して確認してみましたが、
2回に1回はやっぱり旧版ではカットされていた箇所でした。
このダイヤモンド章のエピソードも旧版ではまるまるカットなんですね。

Galland_.jpg

米軍のドイツ本土爆撃が始まると、この昼間空襲を阻止するためにヒトラーヘ意見具申します。
「わたくしとしては米軍の護衛戦闘機と同数の戦闘機を更に要求せねばなりません」。
しかしコレを知ったゲーリングは越権行為だとして最大級の怒りを爆発。
「総統に対してヌケヌケと・・、精神のたるんだ敗北主義者の妄想もいいところだ!」

若干30歳にして少将に昇進し、「戦闘機隊総監」となったガーランド。
ヒトラーとゲーリングに直属する役職ですが、だからといっても空軍内には
参謀総長もいれば、大将に元帥といった階級のお偉いさん方もいっぱいいます。
ライバルの爆撃機隊は優遇され、戦闘機隊は風当たりが強い。。
この状況を現在のグループ企業のような大きな会社に置き換えてみると、
ナチスドイツ・グループの新参会社である空軍の、特命部長あたりでしょうか・・?
無能な"ふとっちょ"社長から頻繁に叱責され、決済するのはワンマン会長のヒトラー。
嗚呼・・、まさに過労死するか、鬱になるかと思わずにはいられません。
実際、取締役だったウーデットやイェショネクも自殺に追い込まれているのです・・。

Adolf Galland 1941.jpg

1943年7月、初めての英米昼夜兼行連続爆撃がドイツの一大都市を襲い、
ハンブルクが地獄と化します。
半年ほど前に起こった軍事的危機、「スターリングラード」の方がより衝撃的であったものの、
数千㌔も離れたヴォルガ河畔ではなく、ハンブルクはドイツの心臓部たるエルベ河畔なだけに、
ドイツ国民の心理的側面から言えば、危機的な重大事件なわけです。

Bomberverbände Hamburg.jpg

そして1943年の秋には空軍の部隊指揮官不足が非常に深刻な事態に・・。
22歳のドイツ軍最年少の大尉であり、わずか1年足らずのうちに158機を撃墜し、
不敗のまま戦死したマルセイユを著者は「傑出した名手」と褒め称え、
まるで後のジェームズ・ディーンのような大スターを彷彿とさせる
このような戦闘機パイロットを目指す若者たちはいくらでもいます。
しかし「国家社会主義航空団(NSFK)」などで準軍事的飛行訓練を受けた若者は、
直接、空軍に引き渡されず、まず「国家労働奉仕団(RAD)」が介在します。

Nationalsozialistisches Fliegerkorps .jpg

このRADとは、基本的に半年間、農業やら道路、鉄道、飛行場建設といった労働を行い、
若者に社会での実践的な教育を施す機関ですが、
それによってこれまでの飛行訓練の連続性を絶たれただけでなく、大勢の若者の中に埋もれ、
それから個々の軍種が必要とされる者を引き抜いてしまうのです。
例えば、リーダーシップがある若者なら陸軍に、
寡黙な男前なら??海軍に、気が強ければ武装SSに・・といった具合ですか。。
航空訓練を受けた者をRADに編入しないよう、ヒトラーに対して何度も要請がなされても、
すべて失敗。。この義務から免れたのは、女性ダンサーや女優のみなのでした。。

RAD  Reichsarbeitsdienst.jpg

海戦は船を乗っ取っての白兵戦から、敵を視認できないほどの距離での砲撃戦へ、
戦車の有効射程距離も800mだったが、最新型なら3㌔以上の距離で渡り合える・・、
しかし戦闘機だけがこうした発展から遅れを取り、
いまだに400mまで近づかなくてはいけない有様だ・・。
こんな発言をするのはもちろんヒトラーしかいません。
そして誕生したのがMe-410駆逐機です。
Ⅲ号戦車5センチ戦車砲を航空機搭載砲に改良し、機首から3mも砲身を突き出した化け物。。
あ~、ナチスの開発したUFOにティーガーやパンター戦車の砲塔ってここから来てるのかも・・。

Galland_Hitler.jpg

このBK5という対爆撃機用機関砲は、約15発の自動装填式ですが、
5発も撃つとひどい装弾不良を起こし、1000mどころか、
たかだか400mの距離で命中できる程度・・。まったく意味がありません。
「2,3発撃って四発機を縮み上がらせた後は、サンダーボルトを砲身で串刺しにすりゃいい」
と、皮肉るだけです。
ちなみに旧版だと、この串刺しの部分「体当たりしてやるさ」です。
たいした違いはないようですが、写真を見ると洒落っ気の面白さが違いますね。

me410a.jpg

この期に及んで本土防衛にいっそうの関心を抱くに至ったゲーリング。
部隊から部隊へと視察に回って激励スピーチ。その標語は「わたしを見捨てないで!」。。
今や戦闘機隊を直接指揮し、来襲機との戦闘にも介入しますが、
「国家元帥が陣頭指揮に立っている」と言われたところで、部隊の士気は高まりもしません。

Goering_Politica.jpg

フォッケウルフ最終組立工場に対する米軍の爆撃。
敵が帰路についたという情報にガーランドは机を立ち、FW-190で僚機とともに追尾します。
200機から300機の敵爆撃機を追う、「天空を漂う戦闘機隊総監」。
本来、こんな役職であれば戦闘機に乗ることすら許されません。
しかし、堪らず落伍した爆撃機に背後下から攻撃します。
20㎜機関砲四門と機銃二挺をありったけ連射し、教範どおりの撃墜!

B-26.jpg

ダイヤモンド章の逸話に、本土防空戦に挑む戦闘機隊総監のアクション・シーンなど、
ガーランド個人のエピソードがこの完全版では多いのが読んでいてわかります。
確かに旧版の副題は「栄光のドイツ空軍」であり、ドイツ空軍を総括したもの。
一方、本書は副題に「アドルフ・ガランド自伝」と銘打っているだけあって、
前半の少年時代から、本文中のちょっとした個人的な話は、より「回想録」チックです。

adolf-galland-1912-1996.jpg

チャーチル"ボマー"ハリスの回顧録、アイゼンハワーの「ヨーロッパ十字軍」など、
連合軍側の本や資料も活用している本書。
英米の爆撃機がドイツ本土を空襲した後、そのままソ連領の飛行場に着陸する・・という
共同作戦をスターリンは了承します。
しかし日本に対する戦略爆撃機用に、シベリアにもこのような拠点を設けることには、
さしあたって拒絶・・。前者は有名な話ですが、後者の話は覚えてませんでした。

ようやく誕生したジェット戦闘機Me-262はヒトラーの鶴の一声で「電撃爆撃機」に・・。
150機撃墜で剣章を受章したシュタインホフは、謁見の際、ヒトラーに申し出ます。
「わが軍機は速くなるどころか遅くなる一方であります。敵戦闘機とは70㌔の差が・・」。
気まずい沈黙・・。「ではいったい何が欲しいと言うのだ。新型機か何かか」。
「そうであります。ジェット戦闘機を!」
「ジェット戦闘機、ジェット戦闘機・・、取り憑かれておるな。そんな話は2度と聞きたくない!」

Adolf Galland_johannes steinhoff.jpg

しかし、戦闘機隊総監を解任されたガーランドは、ジェット戦闘機の実戦上の価値を
自ら証明できるよう、Me-262を配備した部隊の編制を任されます。
こうして「反乱の先導者」として飛ばされていたリュッツォウら、騎士十字章のエースが集まり、
パイロットとして中将1人、大佐2人、中佐1人、少佐3人、大尉5人、少尉8人、
そして同数の下士官から成る「第44戦闘団」が誕生するのでした。

me262.jpg

望んだ椅子でもない「戦闘機隊総監」となってからは、敵である連合軍のみならず、
上司ゲーリングを筆頭としたドイツ空軍内部とも戦い続けるガーランド。
劣勢続きで、読んでいてもストレスが溜まってくるだけに
最後のMe-262の話に辿り着くと、こっちのテンションも上がってきました。

Me-262はそのスピードだけでなく、火力もいっそう強力になります。
一発でも命中すれば四発重爆を撃墜できる「R4Mロケット弾」を両翼に24発収納。
最後の攻撃に飛び立ちますが「終わり」の時はすぐそこに・・。

r4m me262.jpg

写真はHe-111に無理やり乗り込む巨体のゲーリングといった初見の写真も含め
所々にまとめて掲載されており、数え間違いがなければ79ページです。
ちなみに旧版が巻頭に32ページですから、倍以上はありますね。
その分、旧版には付録と人名解説索引が巻末に60ページあって、
コレはコレでフジ出版らしい魅力があるんですね。

それでも所々で書いたように、前半の9章までがカットされていただけでなく、
以降の章においても100か所以上が部分的に省略されていたということですから、
旧版をお持ちの方でも、手にしてみる価値は充分あると思います。

日本語版wikiのアドルフ・ガーランドでは著書の項目に
「『Die Ersten und die Letzten (邦訳:始まりと終り)』:全世界で翻訳され、
300万部を超えるベストセラーとなった。日本では1972年にフジ出版社より刊行されている」
とありますが、どなたか編集してみてはいかがでしょうか。









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