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戦時下のベルリン: 空襲と窮乏の生活1939-45 [ドイツの都市と歴史]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ロジャー・ムーアハウス著の「戦時下のベルリン」を読破しました。

11月に白水社から出たばかりの本書。
謳い文句は「アントニー・ビーヴァー推薦! 」という最近の定番ですが、
彼の「ベルリン陥落1945」も大変、面白かったですね。
本書は「首都陥落の危機に瀕した、市民の暮らしに光を当て、防空壕、配給、疎開から
ユダヤ人の惨状、赤軍の蛮行まで、日記や回想録、体験者への貴重なインタビューにより、
極限の「生と死」を活写する」といったように、戦争よりも一般市民の考え方や行動について
530ページも書かれた大作です。
先日このために読み返した著者の「ヒトラー暗殺」もなかなか良かったですから、
ヴィトゲンシュタインの好きなテーマである本書は期待が持てます。

戦時下のベルリン.jpg

「総統日和」と題されたプロローグから本書は始まります。
この日は1939年4月20日、火曜日ですが公休日となり、一日中晴天。
そしてヒトラー総統50回目の誕生日。
5万人の軍人がパレードを行うベルリンでは、第1次大戦の古参兵が誇らしげに勲章を胸に付け、
女性や子供たちも催しを見ようと家を出ます。
ヒトラーの元には美術品から高価な品々がプレゼントとして贈られ、
数多くの祝いの電報のなかには英国王ジョージ6世や、ヘンリー・フォードからのものも・・。

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第1章はそんな「総統に対する信頼」として、4ヵ月が過ぎた1939年9月1日。
ベルリン市民はクロール・オペラハウスでの総統の演説をラジオで聞くことになります。
「我々は本日5時45分以降、敵の砲火に対し、砲火で応戦している」。
このポーランドとの戦争が始まったことを知らされた市民の様子は様々です。
無感動だった者も多く、1914年の時のような熱意も歓喜も喝采もありません。
その理由は、オーストリア、チェコを平和に併合してきたように、
今回も単なる小競り合いであり、偉大な総統は戦争には巻き込まないと見ているのです。

Hitler in 1939 at Berlin's Kroll Opera House.jpg

次は早速始まった灯火管制に関する章です。
広告、鉄道、レストランから家庭に至るまで、夜間は電灯を消すか、シャッターやカーテンを用いて
500m上空からどんな光も見えないようにしなければなりません。
防空壕への道順を示す矢印が発光塗料で壁に描かれ、
完全な暗闇が徹底され、夜空の星の美しさに感動する市民も。
ドイツを焼いた戦略爆撃」で紹介した、有名な爆撃機と骸骨のグロテスクなポスターも登場。
「敵はあなたの光を見る。電気を消せ!」

The enemy sees your light_ Darken! 1940.jpg

しかし、この灯火管制の影響によって交通事故が82%も増加し、
闇を迷惑なものではなく、好機と見る「犯罪者」が暗躍。。
ここではベルリン市民を恐怖に陥れた連続殺人事件も紹介されますが、
これじゃあ、ヒトラーが怒るのも無理はありません。
本書では当時、米CBSの記者だったウィリアム・シャイラーの日記も多く抜粋しています。
「ベルリン日記―1934ー40」もなかなか面白そうですね。

German towns were heavily defended but anti-aircraft fire was difficult to direct even with the introduction of radar-guided firing in 1942.jpg

大衆の楽観論は「有名人マニア」という奇妙な形で一層、強められます。
その最初の一人は、Uボート艦長のギュンター・プリーンであり、
西方戦で名を挙げた、メルダースガーランドといったパイロット。
有名人候補はまず、記者会見で自分の英雄的行為を記者と大衆に話し、
昇進に位の高い勲章を貰って、総統との個人的会見へと招かれるのがパターンです。

prien-hitler.jpg

やがて順応性があり、写真写りが良いとわかると、最高の有名人の部類に入れられて
全ての最高の行事にその顔が見受けられることになるのでした。
もちろんテレビのないこの時代、写真と絵葉書を作ることも大事です。
女の子たちはパイロットの絵葉書を寝室の壁に花綱のように飾り、
少年たちは熱心に蒐集し、学校や遊び場で交換したりと、その宣伝価値は計り知れません。
まあ、子供時代の仮面ライダー・カード蒐集と変わらないでしょうね。

moeldersfarbwillrich.JPG

「腹が減っては戦はできぬ」と題された章では、1940年の冬がこの100年でも例外的に寒く、
特にジャガイモの損失は30%以上であり、ただでさえそのような食糧難に加え、
始まった配給制度も確立されておらず、ベルリン市民は飢えにも苦しむことに・・。
そしてこの配給制度の複雑さ・・「ドイツ人は考え得る限り最も複雑な制度を考案する」と
当時の記録にも書かれた制度を詳しく紹介します。
成人だけとってみても肉体労働の程度によって3つのカテゴリーに分けられ、
さらに7色の「マルケン」と呼ばれる小さなクーポン券のような配給カード・・、
青色は肉用、黄色は脂肪とチーズ用、オレンジはパンなどなど。。

Lebensmittelkarte, gültig vom 18.12.1939 bis 14.1.1940.jpg

しかしこの割当量は建前に過ぎず、実際には質の悪い代替物を買うために
長い行列に並ばなくてはなりません。
ベルリンの商店では並んだところで何列もの空の棚があるだけ・・。
クーポンとお金があっても買いたい物が買えません。
「健康的で活力を与え、味が良く、本物と区別がつかない」と宣伝され、
焙った麦芽から作った、最も不人気な「代用コーヒー」に、
貴重な石鹸は、皿洗いから洗濯、身だしなみにに至るまで全ての要求に応えるという
石鹸を月に1回、1個買うことが許されています。その名もズバリ「統一石鹸」。。

Kathreiner-Der Beste Malzkaffee 1940 Posters.jpg

1943年秋にベルリン動物園が爆撃されると、束の間の恩恵が市民にもたらされます。
「私たちは肉を飽食した。特に味が良かったのはワニの尻尾だった。
大きな鍋で煮て柔らかくすると、太った鶏のような味がした。
死んだ鹿、水牛は数百回分の食事になった。
その後食べた、熊ハムと熊ソーセージはとりわけ美味だった」。

Desperate Berliners cut meat from a dead horse in the days after the war’s end.jpg

第5章は1937年にヒトラーによって建築総監に任命されたシュペーア
世界首都「ゲルマニア」計画についてです。
対ソ戦が好調だった1941年11月の時点でシュペーアは、3万人のソ連捕虜を
「新ベルリン」建設に使う許可をヒトラーに求め、再建計画に必要な石と煉瓦の大半は、
各地の強制収容所から運ばれてきます。
ダッハウ、ブッヘンヴァルト、マウトハウゼンなどは石切り場に近いところに作られており、
ザクセンハウゼンには世界最大の煉瓦工場があって、
ゲルマニア計画は、強制収容所組織網の確立と維持という、
SSの利害とも完全に合致していたとしています。

germania.jpg

続いてヨーロッパ各地からベルリンにやって来た数十万人の外国人労働者。
ソ連占領地域から10万人、占領下のフランスから6万人、
ベルギー、オランダ、ポーランドから3万人づつ。そしてその1/3が女性です。
西欧の労働者には賃金も支払われ、ドイツの社会保険制度に加入し、
ドイツ人労働者とほぼ同じ配給を受けることが出来ますが、
ポーランドやウクライナ、その他ソ連邦からの東方労働者は
捕虜に似た地位しか与えられません。

各国の労働者の様々なエピソードが紹介されていますが、
肉屋の手伝いとなった21歳のフランス人のマルセルは、灯火管制下のなか、
女主人の手が伸びてきたことを語ります。
「協力するほかなかった。彼女はベッドで私をもてなしてくれた」と、
5か月間にも及んだ天国のようなアヴァンチュール・・。

Swastikas in Berlin.jpg

いよいよ「ベルリン空襲」の章へ。
1940年の9月だけでベルリンは19回も爆撃され、
ゲッベルスの宣伝省、ヘンシェルやアラドの工場、ダイムラー=ベンツなどが標的に。
屋根に「USA」とペンキで大きく書いてあったにも関わらず、米大使館も爆撃されますが、
英空軍の夜間爆撃機にはそれが見えなかったのか、狙ったのか・・? は不明です。

German woman carrying a few possessions runs from burning building.jpg

まだ3基の巨大な高射砲塔が建設される前のこの時期ですが、
ベルリン各地の29の高射砲台は猛烈な勢いで弾幕砲撃したことで、
市民には非常に信頼されています。
11月14日にはベルリンに辿り着いた25機のうち、10機を撃墜するといった大勝利も。
しかし、市民にとって危険だったのは英空軍の爆弾ではなく、
長さが10㎝もある高射砲弾のギザギザの破片なのでした。

flak_berlin.jpg

中盤は「ベルリンのユダヤ人」について詳しく書かれています。
国内のユダヤ人は殲滅せず、ゲットーに住まわせて労働させる・・という方針にも関わらず、
国外退去によって1941年11月にリトアニアに辿り着いた2000人のユダヤ人は
この地のSSの責任者であるイェッケルンによって全員殺害されてしまいます。

Deportation of Jews from the Kovno ghetto. Lithuania.jpg

そして最近のある研究では、ベルリン市民の28%が「大量殺戮について何らかの形で知っていた」
と結論付けているそうですが、著者は但し書きが必要であるとします。
それは「噂を耳にするのは、噂を信じるというのと異なる。
そうした恐ろしい話を敵のプロパガンダだとして一蹴するのは、ごく簡単だった」。
さらにホロコーストに対する「想像力のギャップ」が信じることを難しくしたとして、
「ある人種が『工業規模』で組織的に殺されるというのは、大方の人間の想像力を超えていた」。

そんなベルリン市民たちが目の前で連行されるユダヤ人の姿や、
地下に潜伏しようとするユダヤ人に対してどのような行動を取ったのか・・?
反ユダヤ主義者たちは彼らの身の上に降りかかった不幸を嬉しそうな表情で見つめ、
逆に彼らを助け、匿う者も存在しますが、それらは少数派であり、
大多数の市民たちは、すっかり公的生活から締め出されていたユダヤ人には「無関心」なのでした。

Jewish family walking along a Berlin street.jpg

第10章は「民衆の友」。
どんな友達かといえば、1933年から「国民受信機」として6年間で700万台を売ったラジオです。
1938年には、より小型で値段も半額以下の35マルクという世界一安いラジオ
「DKE(ドイツ小型受信機)」が発売。
今で言うところの「スマホ」ブームのようなもんなんでしょうか・・?

市民はラジオから流れる政府のプロパガンダ作戦を理解しており、
彼らはこのラジオを「ゲッベルスの口」と呼んだそうですが、
毛布をかぶって、コッソリ英BBCのドイツ語放送も聞くわけですね。

Berlin__Verteilung_von_500_Radios_(Volksempfanger).JPG

しかし実際のところ、ラジオ放送は宣伝番組ばかりではなく、音楽番組も非常に多かったようです。
クラシックよりもポピュラー音楽は放送時間も長く、大衆にも人気があり、
有名な「リリー・マルレーン」が大ヒット。
それでもこの歌を「非英雄的」だとみなしたゲッベルスは、
歌手のララ・アンデルセンを逮捕するという暴挙に出るものの、
前線兵士からの放送リクエストの多さに屈服・・。
ちなみにヒトラーでさえこの歌のファンで、
「この歌はドイツ兵を感激させるだけではなく、我々の誰よりも長く残る」と語ったとか・・。

Goebbels's Snout.JPG

「監視する者とされる者」というタイトルの章は、想像通りのゲシュタポです。。
450万人の大都市にいた工作員とスパイの数はピーク時でも789人であり、
その数は驚くほど少なかったとしています。
最も、過去のゲシュタポ物を読んでいればわかるとおり、ゲシュタポに密告する組織網が
市民の末端にまで張り巡らされているわけですね。
本書ではその組織から拷問方法、「女ユダたち」に描かれていたような告発、
それから「密告者ステラ」まで幅広く紹介しています。

「国賊」と呼ばれる反ナチ・グループが登場する章では、
共産主義者スパイ「赤いオーケストラ」のシュルツェ・ボイゼン
クライザウ・グループのヘルムート・フォン・モルトケ、
シュタウフェンベルクの「ワルキューレ作戦」が発動された時のベルリン市民の様子に触れます。
「ベルリン市民はナチ体制にどんな懸念を抱いていたにせよ、自分たちが何の意見も言えない、
旧いエリートによる宮廷クーデターに夢中になれなかった」。

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1941年の春以降、2年間ほとんどなかったベルリンへの空爆が再開します。
しかも爆弾搭載量の増えたランカスター爆撃機が何百機という編隊を組み、
高性能爆弾・・ブロックバスターや無数の焼夷弾・・を連日連夜投下します。
ましてや3月1日は「ドイツ空軍の日」であり、爆撃のあった昼間には
市内で盛大な行進と式典が行われたばかりという屈辱を味わった空軍は、
国民の共感を失い始めます。

A man being rescued from a collapsed building by Air Police and Civil Defence workers.jpg

ティーアガルテンなどに完成していた巨大な高射砲塔や、サーチライトに88㎜高射砲、
そしてそれらを操作する大勢の人員は高射砲助手と呼ばれる15歳から16歳の少年が中心です。
それでも戦争の最後の1年を通し、ベルリンは150回以上も爆撃され、
夜間だけではなく、日中も米軍の爆撃機が姿を現すのです。
高射砲塔など公共掩蔽壕に入ろうと長い列を作る市民。
そこに爆弾が落ちてくると、パニックになった人々によって踏み潰される者も。。

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廃墟からは隣人や兵士、強制労働者によってバラバラになった遺体が運び出され、
身元不明の遺体は学校の講堂や体育館に安置されます。
しかしベルリンの広い並木道や石造りの大通りという特性によって、
ハンブルクケルンで起こったようなファイヤーストームによる壊滅的被害は起こらず、
戦争の全期間で空襲での死者は5万人に留まります。

Bombing victims laid out in an exhibition hall, Autumn 1944.JPG

こうして1944年、東ではソ連軍がポーランド国境へと迫り、
西では連合軍がノルマンディに上陸すると、ゲッベルスは演説で「総力戦」を訴えます。
本書ではメインとなるナチ指導者はヒトラーというより、宣伝大臣であり、
ベルリン大管区指導者であるゲッベルスが中心で、彼の「日記」からも抜粋しています。
そんな状況で市民は「小声のジョーク」に喜びを見出しているかのようで、
最もネタとなったゲッベルスの旺盛な性欲をからかって、
「戦勝記念塔の天使だけが首都に残された処女だ。
なぜなら彼女は小男の宣伝相の手の届かない所にいる唯一の女だから・・」。

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11月には数万人が集まって、新兵の集団宣誓式が行われます。
この新兵とは16歳から60歳までの男性市民から成る「国民突撃隊」。
「大ドイツ帝国総統アドルフ・ヒトラーに対し、無条件に忠誠で従順である」ことを誓い、
「我が国民の自由と未来を捨てるよりは死を選ぶ」と締め括ります。
白髪交じりで時代遅れの武器を担いだ彼らは小雨の中を
ブランデンブルク門を目指し行進するのでした。

Volkssturm.jpg

14歳のエーリヒは母のために医者を見つけようと家を出ると、
急ごしらえの小隊に強制的に入れられてしまい、
武装SSヴィーキング師団のデンマーク人兵士は、
デンマーク大使館の掩蔽壕に入れてもらおうと懇願して追い返されるという最終戦。
高射砲塔では3万人の市民が剥き出しのコンクリートのホールと階段吹き抜けに体を寄せ合い、
屋根の高射砲がソ連軍戦車に向かって発射される度に建物が揺らぎ、
雷鳴のような音が高射砲塔内にこだまします。

FLAK Towers.jpg

1945年4月だけでも4000人が自殺したと報じられたベルリン。
牧師は妻と娘を射殺して自殺、H夫人は娘の喉を切り、2人の息子と自分を撃った・・、
ナチだったミスKは首を吊り、ミセスNは毒を仰いだ・・。
それ以外の無数の自殺者は記録されておらず、総数は不明のようです。
この恐怖のもとになったのは、ボルシェヴィキのソ連兵です。
人間狩りのような強姦が幾例か紹介され、強姦された女性の1割が自殺し、
1946年にベルリンで生まれた子供の5%が「ルッセンキンダー(ロシア人の子)」と呼ばれたなど、
あの強烈だった「1945年・ベルリン解放の真実 戦争・強姦・子ども」をも彷彿とさせます。

1945 Berlin.jpg

いやはや、実に濃い内容の一冊でした。
全17章から成る本書は、基本的には時系列で進みますが、
章ごとにテーマが異なるために、章によっては1937年から1943年、1945年まで
書かれていることもありますが、むしろ理解しやすく整理されていました。
また、450万人というベルリン市民がみな同じ考え方と行動をしていたと
無理やり結論付けることもなく、様々なケースとエピソードを紹介し、
現実味のある、ただし、1章読み終える度に疲れの出る良書でした。
戦時下のドイツ市民に興味のある方は、必ず読むべき本です。





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