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戦時下のベルリン: 空襲と窮乏の生活1939-45 [ドイツの都市と歴史]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ロジャー・ムーアハウス著の「戦時下のベルリン」を読破しました。

11月に白水社から出たばかりの本書。
謳い文句は「アントニー・ビーヴァー推薦! 」という最近の定番ですが、
彼の「ベルリン陥落1945」も大変、面白かったですね。
本書は「首都陥落の危機に瀕した、市民の暮らしに光を当て、防空壕、配給、疎開から
ユダヤ人の惨状、赤軍の蛮行まで、日記や回想録、体験者への貴重なインタビューにより、
極限の「生と死」を活写する」といったように、戦争よりも一般市民の考え方や行動について
530ページも書かれた大作です。
先日このために読み返した著者の「ヒトラー暗殺」もなかなか良かったですから、
ヴィトゲンシュタインの好きなテーマである本書は期待が持てます。

戦時下のベルリン.jpg

「総統日和」と題されたプロローグから本書は始まります。
この日は1939年4月20日、火曜日ですが公休日となり、一日中晴天。
そしてヒトラー総統50回目の誕生日。
5万人の軍人がパレードを行うベルリンでは、第1次大戦の古参兵が誇らしげに勲章を胸に付け、
女性や子供たちも催しを見ようと家を出ます。
ヒトラーの元には美術品から高価な品々がプレゼントとして贈られ、
数多くの祝いの電報のなかには英国王ジョージ6世や、ヘンリー・フォードからのものも・・。

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第1章はそんな「総統に対する信頼」として、4ヵ月が過ぎた1939年9月1日。
ベルリン市民はクロール・オペラハウスでの総統の演説をラジオで聞くことになります。
「我々は本日5時45分以降、敵の砲火に対し、砲火で応戦している」。
このポーランドとの戦争が始まったことを知らされた市民の様子は様々です。
無感動だった者も多く、1914年の時のような熱意も歓喜も喝采もありません。
その理由は、オーストリア、チェコを平和に併合してきたように、
今回も単なる小競り合いであり、偉大な総統は戦争には巻き込まないと見ているのです。

Hitler in 1939 at Berlin's Kroll Opera House.jpg

次は早速始まった灯火管制に関する章です。
広告、鉄道、レストランから家庭に至るまで、夜間は電灯を消すか、シャッターやカーテンを用いて
500m上空からどんな光も見えないようにしなければなりません。
防空壕への道順を示す矢印が発光塗料で壁に描かれ、
完全な暗闇が徹底され、夜空の星の美しさに感動する市民も。
ドイツを焼いた戦略爆撃」で紹介した、有名な爆撃機と骸骨のグロテスクなポスターも登場。
「敵はあなたの光を見る。電気を消せ!」

The enemy sees your light_ Darken! 1940.jpg

しかし、この灯火管制の影響によって交通事故が82%も増加し、
闇を迷惑なものではなく、好機と見る「犯罪者」が暗躍。。
ここではベルリン市民を恐怖に陥れた連続殺人事件も紹介されますが、
これじゃあ、ヒトラーが怒るのも無理はありません。
本書では当時、米CBSの記者だったウィリアム・シャイラーの日記も多く抜粋しています。
「ベルリン日記―1934ー40」もなかなか面白そうですね。

German towns were heavily defended but anti-aircraft fire was difficult to direct even with the introduction of radar-guided firing in 1942.jpg

大衆の楽観論は「有名人マニア」という奇妙な形で一層、強められます。
その最初の一人は、Uボート艦長のギュンター・プリーンであり、
西方戦で名を挙げた、メルダースガーランドといったパイロット。
有名人候補はまず、記者会見で自分の英雄的行為を記者と大衆に話し、
昇進に位の高い勲章を貰って、総統との個人的会見へと招かれるのがパターンです。

prien-hitler.jpg

やがて順応性があり、写真写りが良いとわかると、最高の有名人の部類に入れられて
全ての最高の行事にその顔が見受けられることになるのでした。
もちろんテレビのないこの時代、写真と絵葉書を作ることも大事です。
女の子たちはパイロットの絵葉書を寝室の壁に花綱のように飾り、
少年たちは熱心に蒐集し、学校や遊び場で交換したりと、その宣伝価値は計り知れません。
まあ、子供時代の仮面ライダー・カード蒐集と変わらないでしょうね。

moeldersfarbwillrich.JPG

「腹が減っては戦はできぬ」と題された章では、1940年の冬がこの100年でも例外的に寒く、
特にジャガイモの損失は30%以上であり、ただでさえそのような食糧難に加え、
始まった配給制度も確立されておらず、ベルリン市民は飢えにも苦しむことに・・。
そしてこの配給制度の複雑さ・・「ドイツ人は考え得る限り最も複雑な制度を考案する」と
当時の記録にも書かれた制度を詳しく紹介します。
成人だけとってみても肉体労働の程度によって3つのカテゴリーに分けられ、
さらに7色の「マルケン」と呼ばれる小さなクーポン券のような配給カード・・、
青色は肉用、黄色は脂肪とチーズ用、オレンジはパンなどなど。。

Lebensmittelkarte, gültig vom 18.12.1939 bis 14.1.1940.jpg

しかしこの割当量は建前に過ぎず、実際には質の悪い代替物を買うために
長い行列に並ばなくてはなりません。
ベルリンの商店では並んだところで何列もの空の棚があるだけ・・。
クーポンとお金があっても買いたい物が買えません。
「健康的で活力を与え、味が良く、本物と区別がつかない」と宣伝され、
焙った麦芽から作った、最も不人気な「代用コーヒー」に、
貴重な石鹸は、皿洗いから洗濯、身だしなみにに至るまで全ての要求に応えるという
石鹸を月に1回、1個買うことが許されています。その名もズバリ「統一石鹸」。。

Kathreiner-Der Beste Malzkaffee 1940 Posters.jpg

1943年秋にベルリン動物園が爆撃されると、束の間の恩恵が市民にもたらされます。
「私たちは肉を飽食した。特に味が良かったのはワニの尻尾だった。
大きな鍋で煮て柔らかくすると、太った鶏のような味がした。
死んだ鹿、水牛は数百回分の食事になった。
その後食べた、熊ハムと熊ソーセージはとりわけ美味だった」。

Desperate Berliners cut meat from a dead horse in the days after the war’s end.jpg

第5章は1937年にヒトラーによって建築総監に任命されたシュペーア
世界首都「ゲルマニア」計画についてです。
対ソ戦が好調だった1941年11月の時点でシュペーアは、3万人のソ連捕虜を
「新ベルリン」建設に使う許可をヒトラーに求め、再建計画に必要な石と煉瓦の大半は、
各地の強制収容所から運ばれてきます。
ダッハウ、ブッヘンヴァルト、マウトハウゼンなどは石切り場に近いところに作られており、
ザクセンハウゼンには世界最大の煉瓦工場があって、
ゲルマニア計画は、強制収容所組織網の確立と維持という、
SSの利害とも完全に合致していたとしています。

germania.jpg

続いてヨーロッパ各地からベルリンにやって来た数十万人の外国人労働者。
ソ連占領地域から10万人、占領下のフランスから6万人、
ベルギー、オランダ、ポーランドから3万人づつ。そしてその1/3が女性です。
西欧の労働者には賃金も支払われ、ドイツの社会保険制度に加入し、
ドイツ人労働者とほぼ同じ配給を受けることが出来ますが、
ポーランドやウクライナ、その他ソ連邦からの東方労働者は
捕虜に似た地位しか与えられません。

各国の労働者の様々なエピソードが紹介されていますが、
肉屋の手伝いとなった21歳のフランス人のマルセルは、灯火管制下のなか、
女主人の手が伸びてきたことを語ります。
「協力するほかなかった。彼女はベッドで私をもてなしてくれた」と、
5か月間にも及んだ天国のようなアヴァンチュール・・。

Swastikas in Berlin.jpg

いよいよ「ベルリン空襲」の章へ。
1940年の9月だけでベルリンは19回も爆撃され、
ゲッベルスの宣伝省、ヘンシェルやアラドの工場、ダイムラー=ベンツなどが標的に。
屋根に「USA」とペンキで大きく書いてあったにも関わらず、米大使館も爆撃されますが、
英空軍の夜間爆撃機にはそれが見えなかったのか、狙ったのか・・? は不明です。

German woman carrying a few possessions runs from burning building.jpg

まだ3基の巨大な高射砲塔が建設される前のこの時期ですが、
ベルリン各地の29の高射砲台は猛烈な勢いで弾幕砲撃したことで、
市民には非常に信頼されています。
11月14日にはベルリンに辿り着いた25機のうち、10機を撃墜するといった大勝利も。
しかし、市民にとって危険だったのは英空軍の爆弾ではなく、
長さが10㎝もある高射砲弾のギザギザの破片なのでした。

flak_berlin.jpg

中盤は「ベルリンのユダヤ人」について詳しく書かれています。
国内のユダヤ人は殲滅せず、ゲットーに住まわせて労働させる・・という方針にも関わらず、
国外退去によって1941年11月にリトアニアに辿り着いた2000人のユダヤ人は
この地のSSの責任者であるイェッケルンによって全員殺害されてしまいます。

Deportation of Jews from the Kovno ghetto. Lithuania.jpg

そして最近のある研究では、ベルリン市民の28%が「大量殺戮について何らかの形で知っていた」
と結論付けているそうですが、著者は但し書きが必要であるとします。
それは「噂を耳にするのは、噂を信じるというのと異なる。
そうした恐ろしい話を敵のプロパガンダだとして一蹴するのは、ごく簡単だった」。
さらにホロコーストに対する「想像力のギャップ」が信じることを難しくしたとして、
「ある人種が『工業規模』で組織的に殺されるというのは、大方の人間の想像力を超えていた」。

そんなベルリン市民たちが目の前で連行されるユダヤ人の姿や、
地下に潜伏しようとするユダヤ人に対してどのような行動を取ったのか・・?
反ユダヤ主義者たちは彼らの身の上に降りかかった不幸を嬉しそうな表情で見つめ、
逆に彼らを助け、匿う者も存在しますが、それらは少数派であり、
大多数の市民たちは、すっかり公的生活から締め出されていたユダヤ人には「無関心」なのでした。

Jewish family walking along a Berlin street.jpg

第10章は「民衆の友」。
どんな友達かといえば、1933年から「国民受信機」として6年間で700万台を売ったラジオです。
1938年には、より小型で値段も半額以下の35マルクという世界一安いラジオ
「DKE(ドイツ小型受信機)」が発売。
今で言うところの「スマホ」ブームのようなもんなんでしょうか・・?

市民はラジオから流れる政府のプロパガンダ作戦を理解しており、
彼らはこのラジオを「ゲッベルスの口」と呼んだそうですが、
毛布をかぶって、コッソリ英BBCのドイツ語放送も聞くわけですね。

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しかし実際のところ、ラジオ放送は宣伝番組ばかりではなく、音楽番組も非常に多かったようです。
クラシックよりもポピュラー音楽は放送時間も長く、大衆にも人気があり、
有名な「リリー・マルレーン」が大ヒット。
それでもこの歌を「非英雄的」だとみなしたゲッベルスは、
歌手のララ・アンデルセンを逮捕するという暴挙に出るものの、
前線兵士からの放送リクエストの多さに屈服・・。
ちなみにヒトラーでさえこの歌のファンで、
「この歌はドイツ兵を感激させるだけではなく、我々の誰よりも長く残る」と語ったとか・・。

Goebbels's Snout.JPG

「監視する者とされる者」というタイトルの章は、想像通りのゲシュタポです。。
450万人の大都市にいた工作員とスパイの数はピーク時でも789人であり、
その数は驚くほど少なかったとしています。
最も、過去のゲシュタポ物を読んでいればわかるとおり、ゲシュタポに密告する組織網が
市民の末端にまで張り巡らされているわけですね。
本書ではその組織から拷問方法、「女ユダたち」に描かれていたような告発、
それから「密告者ステラ」まで幅広く紹介しています。

「国賊」と呼ばれる反ナチ・グループが登場する章では、
共産主義者スパイ「赤いオーケストラ」のシュルツェ・ボイゼン
クライザウ・グループのヘルムート・フォン・モルトケ、
シュタウフェンベルクの「ワルキューレ作戦」が発動された時のベルリン市民の様子に触れます。
「ベルリン市民はナチ体制にどんな懸念を抱いていたにせよ、自分たちが何の意見も言えない、
旧いエリートによる宮廷クーデターに夢中になれなかった」。

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1941年の春以降、2年間ほとんどなかったベルリンへの空爆が再開します。
しかも爆弾搭載量の増えたランカスター爆撃機が何百機という編隊を組み、
高性能爆弾・・ブロックバスターや無数の焼夷弾・・を連日連夜投下します。
ましてや3月1日は「ドイツ空軍の日」であり、爆撃のあった昼間には
市内で盛大な行進と式典が行われたばかりという屈辱を味わった空軍は、
国民の共感を失い始めます。

A man being rescued from a collapsed building by Air Police and Civil Defence workers.jpg

ティーアガルテンなどに完成していた巨大な高射砲塔や、サーチライトに88㎜高射砲、
そしてそれらを操作する大勢の人員は高射砲助手と呼ばれる15歳から16歳の少年が中心です。
それでも戦争の最後の1年を通し、ベルリンは150回以上も爆撃され、
夜間だけではなく、日中も米軍の爆撃機が姿を現すのです。
高射砲塔など公共掩蔽壕に入ろうと長い列を作る市民。
そこに爆弾が落ちてくると、パニックになった人々によって踏み潰される者も。。

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廃墟からは隣人や兵士、強制労働者によってバラバラになった遺体が運び出され、
身元不明の遺体は学校の講堂や体育館に安置されます。
しかしベルリンの広い並木道や石造りの大通りという特性によって、
ハンブルクケルンで起こったようなファイヤーストームによる壊滅的被害は起こらず、
戦争の全期間で空襲での死者は5万人に留まります。

Bombing victims laid out in an exhibition hall, Autumn 1944.JPG

こうして1944年、東ではソ連軍がポーランド国境へと迫り、
西では連合軍がノルマンディに上陸すると、ゲッベルスは演説で「総力戦」を訴えます。
本書ではメインとなるナチ指導者はヒトラーというより、宣伝大臣であり、
ベルリン大管区指導者であるゲッベルスが中心で、彼の「日記」からも抜粋しています。
そんな状況で市民は「小声のジョーク」に喜びを見出しているかのようで、
最もネタとなったゲッベルスの旺盛な性欲をからかって、
「戦勝記念塔の天使だけが首都に残された処女だ。
なぜなら彼女は小男の宣伝相の手の届かない所にいる唯一の女だから・・」。

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11月には数万人が集まって、新兵の集団宣誓式が行われます。
この新兵とは16歳から60歳までの男性市民から成る「国民突撃隊」。
「大ドイツ帝国総統アドルフ・ヒトラーに対し、無条件に忠誠で従順である」ことを誓い、
「我が国民の自由と未来を捨てるよりは死を選ぶ」と締め括ります。
白髪交じりで時代遅れの武器を担いだ彼らは小雨の中を
ブランデンブルク門を目指し行進するのでした。

Volkssturm.jpg

14歳のエーリヒは母のために医者を見つけようと家を出ると、
急ごしらえの小隊に強制的に入れられてしまい、
武装SSヴィーキング師団のデンマーク人兵士は、
デンマーク大使館の掩蔽壕に入れてもらおうと懇願して追い返されるという最終戦。
高射砲塔では3万人の市民が剥き出しのコンクリートのホールと階段吹き抜けに体を寄せ合い、
屋根の高射砲がソ連軍戦車に向かって発射される度に建物が揺らぎ、
雷鳴のような音が高射砲塔内にこだまします。

FLAK Towers.jpg

1945年4月だけでも4000人が自殺したと報じられたベルリン。
牧師は妻と娘を射殺して自殺、H夫人は娘の喉を切り、2人の息子と自分を撃った・・、
ナチだったミスKは首を吊り、ミセスNは毒を仰いだ・・。
それ以外の無数の自殺者は記録されておらず、総数は不明のようです。
この恐怖のもとになったのは、ボルシェヴィキのソ連兵です。
人間狩りのような強姦が幾例か紹介され、強姦された女性の1割が自殺し、
1946年にベルリンで生まれた子供の5%が「ルッセンキンダー(ロシア人の子)」と呼ばれたなど、
あの強烈だった「1945年・ベルリン解放の真実 戦争・強姦・子ども」をも彷彿とさせます。

1945 Berlin.jpg

いやはや、実に濃い内容の一冊でした。
全17章から成る本書は、基本的には時系列で進みますが、
章ごとにテーマが異なるために、章によっては1937年から1943年、1945年まで
書かれていることもありますが、むしろ理解しやすく整理されていました。
また、450万人というベルリン市民がみな同じ考え方と行動をしていたと
無理やり結論付けることもなく、様々なケースとエピソードを紹介し、
現実味のある、ただし、1章読み終える度に疲れの出る良書でした。
戦時下のドイツ市民に興味のある方は、必ず読むべき本です。





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柏葉騎士十字章受勲者写真集2 (eichenlaubträger 1940-1945-Band Ⅱ) [軍装/勲章]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

Fritjof Schaulen著の「eichenlaubträger 1940-1945-Band Ⅱ」を読破しました。

柏葉騎士十字章の受章者をカラー写真で紹介する大判の洋書。第1巻に続き、
3分冊の真ん中にやってまいりました。今回の対象者は「I」~「P」となっています。
表紙の6人は、うち5人が有名な将軍ですね。
左上から、ヘルマン・"髑髏師団"・プリース
エーリッヒ・フォン・"失われた勝利"・マンシュタイン
ギュンター・フォン・"優柔不断"・クルーゲ
下の段はアルフレート・"作戦部長"・ヨードル
ヴァルター・"アフリカ軍団長"・ネーリング
最後はハンス・ヨアヒム・"アフリカの星"・マルセイユです。

eichenlaubträger 1940-1945-Band Ⅱ.JPG

最初の15ページほどは2級、1級の鉄十字章に、騎士十字章、そして唯一、
シュトゥーカ大佐のルーデルだけが受賞した「黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士十字章」
といった勲章がカラーで紹介されます。
本書の柏葉も基本的には2㎝ほどの柏葉だけが贈られて、騎士十字章に付けるわけです。

eichenlaubträger 2.jpg

そして同時に贈られるのが「勲記」です。
これの写真も実は本書の裏表紙にカラー写真が掲載されていました。
左の赤いのが「騎士十字章」で、なんとかヴィンクマンという軍人が受賞した物。
右の白いのが「柏葉章」で、名前はUボート・エースのラインハルト・"テディ"・ズーレンです。

Ritterkreuz des Eisernen Kreuzes mit Eichenlaub.jpg

末尾には左に「剣章」、ロンメル元帥ですね。
右のいかにも豪華なのが「ダイヤモンド章」で、ヴェルナー・メルダースの名が・・。
コレ本物なのかな・・??

Ritterkreuz des Eisernen Kreuzes mit Eichenlaub, Schwertern und Brillanten.jpg

本書での最初の有名人は国防軍最高司令部(OKW)作戦部長を戦争の間、
ずっと続けてきたヨードル上級大将です。
しかし彼は騎士十字章すら付けていませんね。
実は受章したのはヒトラーが死んだあとの1945年5月10日。
連合軍との降伏交渉が終わって、大統領となったデーニッツから「よくやった」と贈られたんですね。
ですから、受章順も865番目とほとんど最後の人物です。
しかもヨードルは騎士十字章も受章した経歴が無いので、飛び級でいきなり「柏葉」だったようです。
あのカイテルでさえ、ポーランド戦の後、騎士十字章貰っているのに、何が違うんでしょうね。
まぁ、カイテルが「どんな戦功」をあげたのか・・? が逆に気になりますが。。

Alfred Jodl.jpg

アルベルト・"微笑み空軍元帥"・ケッセルリンク
ヨアヒム・"捕虜"・キルシュナー
エヴァルト・フォン・"装甲集団"・クライストと「K」が続きます。
フーゴ・"不死身"・クラース
テオドール・"アドミラル・シェア"・クランケ提督がきた後、
武装SSの重鎮、ヴァルター・クリューガーと、若きエース、ヴァルター・クルピンスキーが・・。
53歳のSSの将軍の凄味のある笑顔に、24歳のクルピンスキーも煙草で対抗しています。。

Krüger_ Krupinski.jpg

ドイツ人に「K」は多いですねぇ。まだゲオルク・フォン・"北方軍集団"・キュヒラーに
オットー・"デア・フューラー連隊"・クムも登場し、
気がつくとエミール・"173機撃墜"・ラング
ヴィリー・"GD戦車連隊長"・ラングカイトと「L」に入っていました。
おうおう・・、あの方をお忘れじゃないですか・・?
Uボートの大エース、剣章受章者オットー・クレッチマーが無視されているなんて。。

Otto Kretschmer_Eichenlaub.jpg

ダイヤモンド章夜戦エースのヘルムート・レントの後には、
やっぱりダイヤモンド章Uボート・エースのヴォルフガンク・リュートが出てくるんですが、
ひょっとしたらこのカラー写真を撮り始めたのが
クレッチマーが捕虜になった1941年3月以降なのかも知れません。
同じ時期に戦死したギュンター・プリーンもカラー写真ありませんしね。。

「M」ではフィンランドのマンネルヘイム元帥に続いて、
ドイツ軍人の「M」と言えばこの人、エーリッヒ・フォン・マンシュタインです。
写真は"ただの"騎士十字章ですが、その下にもう一つ下げています。
ロンメルなど、良くプール・ル・メリットを下に付けている人は見かけますが、
コレはルーマニアの「ミハイ勇敢公勲章2級」のようです。

Mannerheim_ von Manstein.jpg

次のページの写真も良いですね。
右からフォン・クライスト、テオドール・"第9軍"・ブッセ、総統、そしてマンシュタインですが、
もう、ヒトラーみたいな素人に地図見られるのがホント嫌だ・・って顔ですよね。

Manstein_Hitler_Busse_ Kleist.jpg

ハッソ・フォン・"装甲軍"・マントイフェル
エーリッヒ・"ノルマンディ"・マルクスと続き、
降下猟兵のボス的存在のオイゲン・マインドルのこの写真も大好きです。
首元の柏葉章だけではなく、左胸には第1次大戦と第2次大戦の1級鉄十字章に加え、
降下猟兵バッジに、空軍地上部隊突撃章、ボタンには冬季東部戦線従軍章
左腕にはナルヴィク・シールド、そしてクレタのカフタイトル・・。
最後にはノルマンディでも激闘を繰り広げるわけですから、まさに「鉄人」ですね。。

Eugen Meindl.jpg

「M」も多いドイツ人。。ヴァルター・"破局将軍"・モーデルに、
2番目の柏葉受章者メルダース。
1941年の11月に事故死した彼もやっぱりポートレートのカラー写真ではなく、
飛行場でケッセルリンクと談笑している写真が使われていました。
本書はカラー写真じゃないとダメなのはわかりますが、
クレッチマーってカラー写真一枚もないんですかね?? クドくてすいません。。

Kesselring_ Mölders.jpg

ヨアヒム・ミュンヘベルクヴァルター・ノヴォトニーと高名なエース・パイロットの2人。
特にノヴォトニーら4人の集合写真は右端にギュンター・"275機撃墜"・ラル
左端にいるのは、プリンツ・ヴィトゲンシュタイン・・。いま気がつきました。。
ノヴォトニーは去年に「撃墜王ヴァルテル・ノヴォトニー」という本が出たんですが、
なぜか読む気がしません。表紙がヒドイからかなぁ。。

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「O」はヴァルター・"JG1"・エーザウ
ヘルマン・フォン・"第21装甲師団"・オッペルン=ブロニコフスキー
マックス=ヘルムート・"童顔No.1"・オスターマンとなかなか良い面子が連発しています。
「P」ではやっぱりヨゼフ・"史上最大の作戦"・プリラーが3ページと別格の扱いで
ヨアヒム・"バルジの戦い"・パイパー
ディートリッヒ・"爆撃機隊総監"・ペルツが左右で登場。
2人ともイイ男ですが、眉毛が繋がっていますぜ。。

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高名なパイロットが印象的だったこの第2巻ですが、
「L」に大好きなギュンター・リュッツォウが出ていないのにも気づきました。
ホント、なんでよ・・。







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パリ解放 1944-49 [フランス]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

アントニー・ビーヴァー、アーテミス・クーパー著の「パリ解放 1944-49」を読破しました。

去年の8月に出たアントニー・ビーヴァーの560ページの最新刊です。
ですが、コレ、タイトルが微妙だなぁ・・と思っていました。
パリが開放されたのは確かに1944年ですが、なんで1949年まで・・? と疑問でしたが、
原題は「Paris after the Liberation 1944-1949」。
なるほど・・、「パリ開放"後"」というのが正解なんですね。

パリ解放 1944-49.jpg

いつもの如く「訳者あとがき」を読んでみると、本書は最新刊ではないことがわかりました。
原著の初版は1994年で、ビーヴァーが一躍有名になった「スターリングラード」の4年前。。
ただし、2006年に「改訂版」が出て、本書はそちらの翻訳だということです。
また共著者のアーテミス・クーパーとは、ビーヴァーの奥さんです。

Antony Beevor and Artemis Cooper.JPG

第1章は「元帥と将軍」。1944年から始まるのかと思いきや、
1940年6月のドイツ軍の猛攻の前に降伏寸前のフランス政府の様子からです。
2年ぶりに顔を合わせた84歳の英雄ペタン元帥に、
陸軍最年少准将のひとりである49歳のドゴール
総司令官のウェイガンは休戦を主張するペタン寄りであり、
首相のレイノーはドゴールの予測に感銘を受け、戦争省次官に任命しているという関係です。

英首相チャーチルの提案する「英仏連合」をフランスを自国の領土に組み入れようとする
英国の陰謀と見なし、「ナチの州になった方がマシだ」と激高するペタン派。
結局レイノーは辞任し、もはや閣僚ではなくなったドゴールは後ろ盾を失って、
ひっそりとフランスから脱出することを余儀なくされます。
それは戦争を継続することは命令不服従を意味し、個人的にも政治的にも嫌われていた
ウェイガンによって軍法会議にかけられる恐れがあるためです。
いや~、フランス人の英国嫌いはハンパじゃありませんね。

De Gaulle, Pétain.jpg

このようにして誕生した対独協力政府である、通称「ヴィシー政府」。
ドイツ軍占領下のパリよりもはるかに閉鎖的だったと言われ、
戦前の極右政治結社「火の十字団」の追随者から、最終的には
1943年に「ミリス・ナショナル(国民親独義勇軍)」がヴィシーの政治警察として誕生。
彼らはひとりひとり誓いを立てます。
「私は民主主義、ドゴール派の謀反、ユダヤ人の疫病に対して闘うことを誓います」。

Milice française.jpg

しかし連合軍が北アフリカに上陸すると、ヴィシー政府とペタン元帥は崩壊。
こんな一大作戦も知らされなかった英国のドゴールに、ダルラン提督ジロー将軍も登場し、
フランス国内ではゲシュタポ・ミリス連合vsレジスタンスの戦いも暴力的に・・。
といった1944年8月の「パリ解放」までの経緯が50ページほど簡単に述べられます。
ただし、そこはビーヴァーですから、エピソードの積み重ねの展開であり、
ある程度、知識のある人でないと事態が複雑すぎてついて行けないかも知れません。

A French man and woman fight with captured German weapons as both civilians and members of the French Forces of the Interior took the fight to the Germans, in Paris in August of 1944.jpg

パリ解放の先陣争いに明け暮れるルクレール将軍と、ヒトラーに防衛を任されたコルティッツ将軍
最終的に凱旋門に到着し、熱狂的に迎えられるドゴール。。
この辺りは「ノルマンディ上陸作戦1944」に書かれていたのと同じ記述もあります。
それでも本書の方がさらに細かい展開でしょうか。

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一方のペタン元帥といえば、9月7日にヒトラーが亡命フランスの首都に指定した
小さな城下町であるジグマリンゲンに到着。
報復を恐れた「ミリス民兵」たちも妻子を連れてドイツへ逃亡を図りますが、
そこでは同盟者として扱われるどころか、最悪の強制収容所のような環境で監禁され、
多くの子供は栄養失調で死亡、体力がない男たちは強制労働に駆り出されます。

残りの2500人は、武装SS「シャルルマーニュ」に編入され、
ベルリン最終戦でノルウェー人やデンマーク人と共に戦い続けます。
そしてソ連装甲車6台を破壊した「元ミリス」のウージェーヌ・ウォロは、
地下鉄の駅での蝋燭の光のもと、クリーケンベルク将軍から騎士十字章を授かるのでした。
う~む。この辺りは「ベルリン陥落1945」を彷彿とさせますが、
ミリスの話、以前から気になっているだけに興味深いですね。

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解放されたパリではフランス人以外の人の姿もあります。
ヘミングウェイにジョージ・オーウェル、ロバート・キャパ、ウィリアム・シャイラー等々。
そんななか「対独協力者」に対してレジンスタンスが粛清を実行します。
ドイツ人と寝たとされる女性から、アパートの隣人や管理による匿名の告発・・。
まぁ最近、日本でも女の子が望んで??丸刈りになったりもしてますがね。。

そして劇的に増加した「ガス爆発」の死者の多さは、発見されたドイツ軍のパリ破壊用の
爆薬によるものだと推測し、年の明けた1月、2月になっても
アルデンヌ攻勢に対する恐怖感の影響で、その殺人件数は再び、膨れ上がるのでした。

A-crowd-jeers-as-a-woman--001.jpg

連合軍は準備してきた「フランス地域ハンドブック」に、パリ娼館案内をコッソリ掲載し、
米兵たちは気前の良い情報を大いに活用・・。
しかし1年もしないうちに兵舎にはポスターが張り出されます。
「家庭を持ちたくないか? 淋病に感染した男性の12%は子供ができなくなる」。
英軍は厳格なモントゴメリーが娼館への立ち入りを禁止し、
赤線地帯に憲兵を配置するものの、野営地近くの野原が利用されることまでは防げません。

また、空っぽのフランスの商店に目を付ける一部の米軍補給将校らは、
帰国前にひと財産作ろうと、コーヒー、煙草、ガソリン、タイヤ、石鹸、薬品、ウイスキーなど、
全ての品々を闇市に転売してぼろ儲け・・。
当初は歓迎していたパリ娘たちも1945年の春になると、高慢な態度の米兵への情熱は消え、
口笛とラッキー・ストライクで呼び止められたある娘は、GIの手から煙草を取って足で踏みつけ、
周りのフランス人から、やんやの喝采を受けるのでした。

americanSoldier_kiss_frenchWoman_parisLiberation_august1944.jpg

ココ・シャネルの話にも触れながら、アウシュヴィッツラーヴェンスブリュックといった
強制収容所から帰ってきた女性たちの話へ・・。
歓迎委員会の前に現れた彼女たちは、骸骨のような想像を絶した姿であり、
かすれ声で「ラ・マルセイエーズ」を唄い始めると、聴衆は激しい衝撃を受けます。

「大裁判」の章では、まずフランス人ゲシュタポについてです。
1940年にドイツ軍によって釈放された犯罪者ラフォンと、その右腕の元警察官ボニーの
悪名高き「ボニー=ラフォン団」は、ゲシュタポの汚れ仕事を引き受け、
逮捕、告発、脅迫、窃盗、密売、拷問、ときには殺害して財産を作ります。
こういう連中がいたのは以前に「ゲシュタポ・狂気の歴史」でもそれとなく書かれていましたねぇ。
続いてヴィシー政府のペタンに、首相のラヴァルらの裁判の様子も・・。
彼らの主張は「二枚舌」を使い、ドイツを騙してフランスを守ろうとした・・というものです。

petain_laval.jpg

と、ここまででも様々なエピソードが語られる本書ですが、実はまだ半分にも達していません。。
中盤からはドゴールと、最大政党であるフランス共産党の対立。
それに介入する米国と、国務長官になったジョージ・マーシャル
有名な「マーシャル・プラン」などの政治情勢が1949年まで続く展開です。

Charles_de_Gaulle & George Marshall.jpg

そして章ごとに、おそらくビーヴァーが書く「政治」の章と、
奥さんが書く「文化」の章が交互に登場しながら最後まで進みます。
例えば、クリスチャン・ディオールのドレスの贅沢さは、
5年間の貧困を経験した人々にとっては我慢ができないものであり、
モンマルトルの市場での写真撮影の際には、モデルに侮辱の言葉をかけながら
女性たちが飛びかかり、モデルを殴り、髪を引っ張り、服をひきちぎろうとします。
巻頭に ↓ の怖い写真が掲載されていましたが、1947年になってもパリは落ち着きません。

1947, when a discontented crowd in the street attacks the first winners of the “New Look,” tearing off their clothes.jpg

他には共産党を中心とした資本主義の象徴との戦いである「コカコーラ戦争」。
コカコーラ輸入が自分たちの生活の糧を破壊すると考えるワイン生産者に、
エッフェル塔にネオンサインを取り付けようとするコカコーラ社。。

Coca-Cola - Liberation Europe - Paris.jpg

また共産党に入党したピカソの話も所々で登場してきます。
この超有名画家の存在はソ連にとっても意味があることですが、
こと絵画という意味では「社会主義リアリズム」が認められている世界で、
ピカソは共産主義の画家ではなく、共産主義者である画家というヤヤコシイ扱い。
そのピカソの描いたスターリンのデッサンも掲載されていましたが、
初めて見ましたねぇ。共産党内でも賛否両論となっています。

Joseph Stalin by Pablo Picasso.jpg

前半は確かに「パリ解放」といった趣のビーヴァーらしい本書でしたが、
後半は、今回、思いっきり端折ったように、戦後のフランス政治と文化について書かれています。
ですから、よっぽどフランスについて興味がある方でないとキビシイと思いますね。
ヴィトゲンシュタインは戦後の東西ドイツの歴史についても、「ニセドイツ」で楽しく勉強している
程度なので、初めて知ったことが多い反面、ちょっと苦労しました。

1944-08-25_montparnasse.JPG

思い起こしてみると、この「独破戦線」のキッカケになったのはビーヴァーの影響が大ですね。
2000年に公開されたジュード・ロウ、エド・ハリスの映画「スターリングラード」が印象に残っていて、
それまで小説専門だったヴィトゲンシュタインが本屋で偶然見つけたのが、
ビーヴァーの「スターリングラード 運命の攻囲戦 1942-1943」でした。
それから第二次大戦のドイツ軍ノンフィクションに走り始めて、
パウル・カレルの「バルバロッサ作戦」と、「焦土作戦」へ・・という経歴でしょうか。

ちなみに2012年6月には「ノルマンディー上陸作戦1944」以来の最新作が出たそうで、
調べてみるとタイトルは「The Second World War」・・まるで集大成のようなタイトルですね。。

Antony Beevor The Second World War.JPG

邦訳は、白水社より刊行予定・・のようで、今年か、来年か、ボリュームにもよるのかなぁと
原著のページ数を確認してみたら、ハードカバーで880ページです。。
「ノルマンディー上陸作戦1944」の原著が632ページですから、
下手をすると、上・中・下の3巻にもなりかねないですな・・。



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