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ヒトラーのテーブル・トーク1941‐1944〈下〉 [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

アドルフ・ヒトラー著の「ヒトラーのテーブル・トーク〈下〉」を読破しました。

「1941‐1944」となっているわりには、上巻は1941年7月~1942年2月までと
半年程度の期間が収められているだけでした。
ということは、この下巻では戦局が悪化していく過程でのヒトラー談話となるわけですね。
イライラが募った談話が多くなるのか、または逆に、現実逃避的に音楽や芸術といった
話が繰り返されるのか・・、果たしてどうでしょう。

ヒトラーのテーブル・トーク1941‐1944〈下〉.jpg

この下巻の始まる日付は1942年3月1日です。
まずは「ヒムラーSS国家長官」をゲストに迎えて、またまた女性について語るヒトラー。
「ご婦人の着飾る喜びには必ずトラブルが伴う。
いつだったか、突然、1人のご婦人が、オペラ劇場から立ち去った場面を目撃したことがある。
ライバルが同じドレスを着て升席に座った途端だった。
曰く『なんて図々しい! わたくし帰りますわ!』
こんな女心を変えようなんて甘いぞ。女は女なのだ。
スタイルを異常に気にする女もいる。ただし、男を見つけるまでの間だ。
結婚するまではスタイルのことしか頭になく、グラム単位で体重の目盛を睨んでいる。
ところが結婚した途端、キロ単位で太り出すのだ」。

Hitler, Buerckel, Goebbels, Seyss-Inquart, Bormann at the Opera in Vienna.JPG

総統後継者問題については、次のような結論に達しています。
「世襲君主主義は生物学的に衰弱の運命にある。
行動的な男は一般に女性的資質に富んだ女をめとり、
息子には母親の柔和さと消極性が遺伝するからだ。
どうしようもない馬鹿が元首に座る危険性を回避するためには自由選挙が望ましい。
ローマ法王庁は、その狂気としか思えない教義にも関わらず、
現世レベルにおける組織体としてのカトリック教会は驚異的体制である」。

そして小さな都市国家でありながら、960年に渡って存続したヴェネチア共和国の体制に触れ、
「ヴェネチア方式では低能や12歳の小僧っこが権力の座に就くなんてありえなかった。
ルーマニアの若きミヒャエル王、あの青年は根っからの馬鹿者だ。
ユーゴスラヴィアのペータルもこうして出来上がった不良品というわけだ」。

The King of Romania. Mihai I.jpg

ヒトラーは何度も暗殺未遂に遭いながらも、ナチスが起こした暗殺事件は聞きませんね。
「つい最近もトルコ駐在のフォン・パーペンの暗殺未遂があったばかりだ。
私自身は、これまでの政治闘争の中で暗殺命令を出したことがない。
暗殺というのは不適切な闘争手段で、例外的にのみ用いられるべきものだ。
事実、暗殺の結果が政治的大勝利に結びついたためしはない」。

「私の愛情はといえば、まず第一に前線の兵士たちに向けられる。
彼らはあの極寒の冬を耐えなければならなかったのだ」と、振り返ります。

Der Führer mit seine Soldaten.JPG

「政治家は軍人以上に勇猛果敢であってほしい。現実に、1人の政治家の
勇敢な決断が多数の兵士の生命を救うことが往々にしてあるのだ。
悲観主義者を徹底的に追放しようじゃないか。この冬がいい例だった。
教科書的知識の豊富なタイプの司令官にとっては、この冬はテスト期間だったわけだ。
彼らは過去の実例からの状況判断に捕らわれ、悲観的見通しを立てた。
しかし、困難を乗り越えるには相当な楽観主義者でないと無理なのだ」。

「さて、レニングラードの将来についてだが、私に言わせればあの都市は滅びる運命にある。
最近聞いたのだが、レニングラードの人口は飢餓ですでに200万まで減ったそうじゃないか。
レニングラード港など潰れてしまえばいいのだ!」

Блокада Ленинграда.JPG

教会には反対姿勢のヒトラーですが、その必要性も認めたうえで慎重な態度です。
「戦争が終わったら、僧侶の新規採用を非常にやりにくくする処置をとるつもりでいる。
特に10歳からの子供が教会に生涯を捧げる決心をする許可は与えない。
その年代では自分がしようとしていることの、例えば禁欲の誓いなどの意味が分かっていないのだ。
24歳を過ぎ、勤労奉仕と兵役を終えた者だけが、聖職の道を選ぶことが出来る。
この年齢で禁欲の誓いを立てようと思う者がいるなら、僧侶になるがいい!」

「今日の我々は教会よりもはるかに思いやりがある。
我々は十戒を守っている。『汝、殺すなかれ』・・・だから殺人犯を逮捕し、処刑する。
だが教会が刑を執行する時は、十字架にかけ、八つ裂きにし
恐ろしい拷問の挙句に死に至らしめるのである」。
まぁ、確かにナチス・ドイツは人道的な「ギロチン」ですからね・・。

hitler-had-the-support-of-roman-catholic-and-evangelical-bishops.JPG

ローゼンベルクの『二十世紀の神話』は党の教義の公式な表現と見なすべきではない。
この本が出版された時から私はそう考えることを慎重に避けた。
面白いことに、党のメンバーの中にはローゼンベルクの本の読者は比較的少ない。
実際、出版社は第一版の1万部を売り尽くすのにずいぶん苦労したのだ。
そして教会がローゼンベルクの思想に反駁する論説を出版すると
『二十世紀の神話』は20万部を売り尽くしたのである。
この本を詳しく研究しているのは我々の敵だと思うと楽しい気分になる。
大管区指導者のほとんどもそうだが、私も斜め読みしただけである。
あれは難解すぎるのだよ」。

Rosenberg, Lammers, and Hitler at FHQ Wolfsschanze.JPG

上巻のトレヴァ=ローパーの解説では「総統大本営での談話」と書かれていましたが、
4月30日の場所は「ベルクホーフ」であり、戦争が小休止のこの春は、
ヒトラーの好きなベルヒテスガーデンの山荘に戻っています。

Hitlers Berghof.jpg

夕食時には気分も一新したかのように、音楽と指揮者について語るヒトラー。
「ブルーノ・ワルターの指揮するオペラを聞くのは、まさに苦行そのものだった。
哀れなソリストたちはオタマジャクシの一段のように見え、
指揮者自身も気違いのようなジェスチャーに没頭しているから、見るのはやめた方がいい。
身振りが馬鹿げて見えないただ一人の指揮者は、フルトヴェングラーである。
彼の動きは、彼の存在の深みから出てくるものである。
経済的な援助はほんのわずかだったが、彼はベルリン・フィルをウィーンのものより、
はるかに優れたアンサンブルに作り上げた」。

ふ~ん。やっぱり「第三帝国のオーケストラ―ベルリン・フィルとナチスの影」
読んでみましょうかねぇ。

Hitler,Wilhelm Furtwangler.JPG

ナチ党の政策による女性の境遇改善の成果を語り始めたヒトラー。
「私が何より憤慨したのは踊り子たちの待遇である。
いわゆるコメディアンという連中は、ほとんどがユダヤ人だが、ベルリンの劇場で
15分ほど品のないお喋りをしただけで、月に3000とか4000マルクも稼ぐ。
それなのに踊り子たちには70、80マルクしか支払われない。
しかも彼女らは15分の出番ために実力を保つべく、文字通り、一日かけて
訓練や練習をするのである。このような矛盾は恥ずべきことだ。
このため、可哀想な女たちは街角に立つしかなく、劇場は売春宿と変わりなくなってしまうのだ。
私は踊り子たちの給料を200マルクほどに引き上げ、踊りにだけ集中できるようにしてやった。
これで35歳くらいになった時、引退して結婚し、落ち着くことが出来る」。

The Hiller Girls, one of the most famous ballet groups in the world, backstage. 1941.JPG

1933年1月の首相就任の裏話をヒトラーは熱く語り出します。
「政府組織のための交渉はシュライヒャー将軍とその一派がぶち壊そうとしたおかげで、
一層複雑になってしまった。
陸軍最高司令官のハマーシュタイン将軍はもっと馬鹿な男で、厚かましくも私を電話に呼びつけ、
「国防軍がヒトラーの首相就任に賛成することはあり得ない」と言ったものだ!
シュライヒャーが辞任した午後遅く、彼とその仲間が気違いじみた行動をとって我々を驚かせた。
ハマーシュタインがポツダム駐屯部隊に警戒態勢を取らせ、
ヒンデンブルク大統領が介入できないよう東プロイセンに追いやって、
国防軍を動かしてナチ党の政権奪取を力づくで阻止しようとしたのである。
私は即座にベルリンSAの指揮官グラーフ・ヘルドルフを呼び、
ベルリンSA全員に警戒態勢を取らせ、同時に、信頼のおける警察のヴェッケ少佐に
警察の6部隊でヴィルヘルム通りを占拠する準備をするよう指示した」。

Kurt von Hammerstein.JPG

う~む。このヴェッケ少佐は、ヘルマン・ゲーリング戦車師団の元となった
警察大隊「ヴェッケ」のヴァルター・ヴェッケでしょうねぇ。

General der Luftwaffe Walther Wecke.jpg

「戦時下の恥ずべき犯罪には厳罰をもってあたる・・」という話・・。
「例えば、灯火管制下での犯罪だ。これに野蛮とも思えるほどの厳しい処罰を科さずして、
灯火管制の暗闇でのひったくり、婦女暴行、空き巣狙いなどをどうやって防げるというのだ。
こんな犯罪に対しての処罰は死刑のみ。犯人が70歳だろうが17歳だろうが関係なしだ。
厳罰に処さないとどういうことになるか・・、まともな人間が前線で死に、
銃後では犯罪者が生き延びるという矛盾が起きる。
犯罪者というものは、この程度の罪だと刑法何条で懲役何か月などと熟知しているのだ」。

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1942年6月4日。ハイドリヒが死亡したというニュースを聞いたヒトラーのコメントです。
「今後、危険に身をさらしている幹部には安全保障規則への絶対服従を命ずる。
今の世の中は強盗だけではない。暗殺者もうろついているのだ。
それなのにプラハの街中を武装もしないオープンカーに乗ったり、護衛なしで歩いたりと
一見英雄風の振る舞いは実に愚かしい。これっぽっちも国家の利益とならない。
ハイドリヒほどのかけがえのない人間が、己の身を不必要な危険にさらすとは!
大馬鹿者! と怒鳴りつけてやりたいくらいだ」。

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ゲッベルスが話題を「ロンメルの人気の凄さ」に向けます。すると総統は・・。
「彼が国民的人気を博している理由は次の2つだろう。
今やドイツ国民もこの戦争の背景を良く理解し、対英戦の勝利を特に喜ぶようになった。
英国のマスコミが意図的にロンメルを持ち上げた
彼の軍人としての能力の卓越性を宣伝することによって、
英軍敗北の多少の言い訳になるだろうと期待してのことだ。
もちろん、ロンメルの有能さに関しては、疑問の余地なしだ」。

さらに翌月には「外務省はエジプト総督を誰にするか考える必要はない」と語ります。
「ロンメルは戦争史に名を残す不滅の名将だ。外務省ごときが彼のやり方に
干渉するのはどう考えても不合理だろう」。

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今度はボルマンが総統に贈った本について、彼に話しかけます。
「あの本で君が印をつけてくれた部分は実に興味深かったよ。
あのような本が、全ドイツ人、特に将軍や提督と言った指導的地位にある人間に
広く読まれるようになれば最高なんだがな」。
いや~、コレは「ヒトラーを操っていた男」に書かれていたボルマンのインチキ作戦が
まんまと成功した・・という話ですね。。

7月8日はあの「PQ17船団」の報告を受けたところ・・。
「ロシアのアルハンゲリスクに向かっていた38隻からなる英艦隊を
我がドイツ軍がすでに32隻まで撃沈したとの朗報だ。
なんとも痛快この上ないじゃないか」。

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国会議員が私企業の重役の職に就くことを違法化するための手続きが
まだ取られていないことに激怒するヒトラーは印象的でしたね。
「大管区指導者、国会議員、党指導者は誰一人として私企業の重役であってはならぬ。
名誉職であるか有給職であるかは無関係だ。
一般市民というものはこの種の問題に驚くべき嗅覚を持っているのだ。
私がベルクホーフかシュタインガーデンのどちらの土地を買うかで迷ったとき、
もしシュタインガーデンを選んでいれば、有名なシュタインガーデンチーズが値上がりでもすると
巷ではきっとこう陰口を叩かれたろう。
『当然だろ、チーズの値段が上がれば総統が儲かるんだからな』」。

さらには「公務員の退職後、前職に関連する業界に天下るのは禁止すべきだ」と
この天下りシステムがユダヤ人に従う悪魔の道であると力説します。

hitler1.jpg

「私を不快にする人間がいるとすれば、それはベルギー人だ。
百戦錬磨の悪党で、キツネのようにずるくて狡猾だ。現在、彼をそのいるべき場所に入れてある。
しかし1940年には馬鹿な失敗をしてしまったが、それは私自身の愚かさが原因なのだ。
当然、彼を捕虜として扱うべきだったのだが、彼の妹がイタリアの皇太子妃だった。
彼女はイタリア宮廷の中でただ一人、魅力的で明るい女性で、
しかも精神的にひどい冷遇を受けていたのである!」

レオポルド3世と、妹のマリア・ジョゼーの件は以前から気になっているんですが、
相変わらず断片的にしかわかりませんね。
若きベルギー王とイタリア皇太子妃、そしてヒトラーという3つ巴の物語って
なかなかドラマチックな本になりそうですけどね。

duc de Brabant_Léopold III,PrincessMaria Jose.JPG

上巻にもあったウサギ狩りの話が再燃します。
「ある男が動物虐待の罪で3ヵ月の禁固刑を言い渡されたそうだ。
庭に迷い込んできた鶏を蹴っ飛ばしたらしい。まぁ、賛成しかねるな。
私に言わせれば、野ウサギを銃で撃つ方が遥かに残酷で恐怖の行為だ。
あるタイプのサディストを賞賛しておきながら、別のタイプを刑務所へ入れるなど
国としてするべきではない。
狩猟家は殺したいという欲望を満足させるために猟をするのだ。
鶏を蹴とばした男は自分の庭を守りたかっただけで、殺そうという意図はなかった。
鶏が庭に入って来るのは本当に苛立たしいし、追い払ってもまたやって来るのだ!」

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8月の米国に触れた話には思わず笑ってしまいました。
「もし突然、宇宙船が米国に着陸したら、我々人間はどんなに周章狼狽するかと思うと
笑えてくる! この地上のちっぽけな戦争など即座に中止になるだろうな!」
・・・さすがUFO開発を進めていただけのことのある発言ですか?

Hitler with Alien.JPG

そして「ハチハチ」こと88㎜高射砲についての総統の見解です。
「高射砲で一番良いのは8.8センチ砲である。10.5センチ砲は弾薬を使いすぎ、
砲身の寿命が短いという欠点がある。
ゲーリング国家元帥12.8センチ砲の生産を続けたがっている。
この砲は2重砲身で面白い形をしているが、技術者の眼で見ると12.8センチ砲は別にして
8.8センチ砲が最も美しい兵器であることに気付く」。

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ここまでが1942年9月の談話ですが、423ページになっていきなり1943年6月となりました。
前年の冬の「スターリングラード包囲」と第6軍の壊滅の時期は一切なしで、
「ツィタデレ作戦」、いわゆる「クルスク大戦車戦」の直前という時期ですね。
この下巻は456ページですから、最後の1944年3月、5月、11月の談話まで、ほんのちょっと・・、
しかも1943年6月から1944年3月までも飛んでおり、戦局に関する話題も無く、
ウィーンの文化はどうたらこうたら・・と特筆すべき話はなく、オマケといった印象でした。

ですから、「1941‐1944」となっていても、事実上は「1941年6月-1942年9月」の
テーブル・トークということですね。。
この歯抜けとなっている期間については説明が無いのでわかりませんが、
今まで読んできたヒトラー伝を思い起こしても、食事の場や夜会での談話が全く無くなった
なんてことはなく、せいぜい国防軍将校とは一緒に食事しなくなったということですから、
速記者がいなかったか、ボルマンがあえてどこかにやったか、
あるいは、1952年に発見された時に何らかの理由で抜け落ちたか・・と推測されます。

Hitler eats with his personal physician, Professor Theodor Morell.jpg

今回は本書の内容に極力手を加えずに個人的に興味深かった部分のみを
抜粋してみました。ただし、通して読んでみると、ヒトラーの知識の豊富さ・・、
例えば、「日本人が年間、魚をどれだけ食べてるか」とか、
「フランスのなにそれは51%である・・」とか、数字を挙げて解説するところは、
国防軍将校が兵器生産の報告でヒトラーから細かい数字を挙げられてダメ出しされた
という有名な話も、なるほどねぇ・・こういうことか・・と納得しました。
正直、これくらい面白いことを知っていたなら、もうちょっと早く読んでも良かったですねぇ。

それからヒトラーの好きな音楽家としては、あのモーツァルトがおり、
2回はモーツァルトを絶賛する談話がありました。
曰く、「彼ほどの人物が共同墓地に葬られ、いまやその場所すらわからないのだ」。
ヴィトゲンシュタインは映画「アマデウス」が大好きですから、
この2人が絡んだ新刊、「モーツァルトとナチス: 第三帝国による芸術の歪曲」は
とっても気になります。







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