SSブログ

東部戦線 ―SS未公開写真集― [武装SS]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

イアン・バクスター著の「東部戦線―SS未公開写真集」をなんとか読破しました。

姉妹編である「西部戦線―SS未公開写真集―」を読んだのが、もう3年以上前。
同時に買っていた本書ですが、その「西部戦線」の内容にやられてスッカリ読む気は失せ・・。
その後、同じ出版社である「リイド社」の武装SS師団シリーズも読みましたが、
SS-WIKING -第5SS師団の歴史」を最後に本書は無かったことにしていました。
しかし、それから2年半も経つと、顔も見たくないほどムカつくアイツがどうしているか、
久しぶりに会ってみたい・・という悲しい人間の性によって、本書を開いてみることに。。

東部戦線 ―SS未公開写真集―.jpg

最初のバルバロッサ作戦の章の概要説明では、いきなりお約束「ヴァッヘンSS」が登場。
本書の「ヴァッフェンSS」との割合も、7:3くらいでしょうか。
そして、「トーテンコープフ師団は当初、マンシュタイン(訳注:ドイツの陸軍元帥で
南方軍集団の第11軍司令官)の猛攻を左側面から援護した」と書かれます。
この後、ラトヴィアからレニングラードへ進む「トーテンコープフ師団」の話が続きますが、
マンシュタインの「訳注」ヒド過ぎますね。。
トーテンコープフとマンシュタインが南方軍集団にいたのかと思ってビックリしました。
ここで翌年の話すんなよ・・。

SS-Totenkopf-Division.jpg

さらに「ダス・ライヒ師団」がオリョールへ向けて前進すると、
「エリョーメンコ(訳注:ソ連軍陸軍元帥でスターリン方面軍の司令官)が指揮する
ブリャンスク方面軍の背後を・・・」。
う~む。。結局エリョーメンコ(エレメンコ)はドコの司令官なんでしょうか?
そもそも「スターリン方面軍」ってのは何でしょう??
彼も翌年、スターリングラード(南東)方面軍の司令官にはなりましたけどね。。

Andrey Yeryomenko.jpg

そしてこの3ページの概要説明は「もはやロシアで冬季戦を戦う以」
で突然、終わりを告げ、次のページから、写真とキャプションが始まります。
ここでもダス・ライヒのⅢ号戦車の写真のキャプションが凄い。
「ダス・ライヒ、トーテンコープフ、ヴィーキング、ポリツァイの各師団は
ボック元帥の中央軍集団に属していた」。
え~、もう、正解はなにか?? を書くのがバカバカしくなってきたので、
いっそのこと、ジョーク本のように面白かった部分を紹介しましょう。

Battle of Kursk - The crew of a Pz_Kpfw_ III tank assigned to the 2nd SS Panzer Division Das Reich rests after heavy fighting near Belgorod.jpg

本書にはかなりの「ポリツァイ師団」の写真が出てきます。
後に正式に第4SS警察装甲擲弾兵師団となるこの部隊の当時の制服は
完全に武装SSとは違って、警察と国防軍のごったまぜのような感じであり、
鮮明ではないものの、これはこれでなかなか珍しいなぁ・・と思うんですが、
1941年9月レニングラード戦線の写真では、
このポリツァイ師団の兵士たちが敬意を表している墓が
ライプシュタンダルテ」の兵士のものだそうです。
さすがライプシュタンダルテ・・、どこでも戦ってんですね。。

SS-Polizei-Panzergrenadier-Division.JPG

休息を取るダス・ライヒ士官連の写真では、
「乗車の後部にダス・ライヒのマークである「G」が白地で記されているのに注目。
当然、この師団がSSの一翼を担っていたことを示す」。
こうして書きながらも笑いが込み上げてきて、キーボードを叩く指が震えます。。

Panzer III of Panzergruppe Guderian.jpg

そのダス・ライヒの師団長の「パウル・ハウサーによる閲兵のようす」では、
いまいちハウサーに似ていないのも気になりますが、やっぱりキャプションが・・。
「ハウサーはドイチュラント、ゲルマニア、デア・フューラーの各連隊を統合して
SS-VTを編成したが、この師団が後にダス・ライヒのライバルとなっていく」。

・・コレはいくらなんでもヒド過ぎます。翻訳が完全に間違っているとしか思えません。
たぶん原文は「ライバルの各連隊を統合してSS-VTを編成し、
後にダス・ライヒ師団となった」とか、そんなところなんじゃないでしょうか?

paul hausser.jpg

32ページのトーテンコープフの写真では、
「マンシュタイン率いる北方軍集団第56装甲軍団に配属され・・」と出てきました。
もう、最初からそう書けよ・・。

1942年の「デミャンスク・ポケット」でのトーテンコープフの写真は多いですね。
しかしやっぱり「ヂェミャーンスク」となっては、
「第1戦闘団の指揮官テオドール・アイケが包囲網南部の守備を命ぜられ、
第2戦闘団を率いるSS上級大将マックス・ジーモンは北西端の・・」。
まったく、アイケとジーモンのどっちが偉いんだか・・。

Eicke_Simon.jpg

ちなみに本書で階級付きで書かれているのはハウサーSS上級大将に
ゼップ・ディートリッヒSS大将、グデーリアンとホトは大将となっています。

109ページの伝令用オートバイの写真になっても、再び、
「消えかけた白い「G」のマークが残っていて、これが一時期ダス・ライヒの偵察連隊に
所属していたことがわかる」と、完全に自信満々ですが、
さすがに訳注では、「G」はダス・ライヒが所属したグデーリアンの第2装甲集団を
意味すると思われる・・と気弱な突っ込みが入っていました。
ビビってないで、最初から訂正しましょう。

ツィタデレ作戦」あたりから戦車の写真も増えてきました。
しかしⅣ号戦車の写真のキャプションはこんな感じです。
「SS3個師団で約422両の突撃砲を擁していたが、そのうち170両がⅣ号戦車だった」。

Unternehmen Zitadelle Pz.Kpfw.IV_Liebstandarte Adolf Hitler.JPG

クルスクで敗北すると「国防軍」の記述も多くなってきます。
わさわざ「ヴェーアマハト」と振りがな付きですが、後半はほとんど「ヴェーヤマハト」。。
前半の中央軍集団も、「中部軍集団」に改名します。
ダス・ライヒも突如として、「ドイツ国家」という師団名になったり・・。

その東部戦線で戦い続けるダス・ライヒも5000名と消耗すると、
「戦闘集団ラマーディング」と呼ばれます。
ラマーディングが何の名前か・・? には一切触れず、その編成は、
「第1大隊がドイチュラント連隊、第2大隊としてデア・フューラー連隊、
その他に1個歩兵連隊があった」そうです。
結局、大隊なのか連隊なのかはわかりません。

Lammerding.JPG

写真そのものは帯に「東部戦線秘蔵写真集」とアピールしているとおり、
未見の写真がほとんどでした。
これらは個人所有の250枚の写真だということですが、
まぁ、同じような写真や連続写真もあったり、特に第4SS「ポリツァイ」と
第6SS山岳師団「ノルト」の冬装備の写真が多かった印象ですね。

6th-ss-div-nord.JPG

後半にはティーガーの写真も出てきて、ヴィットマンの戦車キラーぶりがキャプションで
書かれていますが、もちろんヴィットマン本人の写真はありませんし、
国防軍の戦車兵の写真が堂々と出てきたりして、
果たして、これらが本当に武装SSの戦車なのか・・? と疑問に思ってしまいます。
それは将校の写真にしても一緒で、SS大佐クラスでも「誰か」は不明で、
その代わりに写真と直接関係ないことがダラダラと書かれていて、やっぱり眠くなりました。

Waffen SS soldier sleeping.jpg

無理やり大人な姿勢で評価するならば、初めて武装SSの本を読まれる方には
「ほ~・・」という印象を与えられるかも知れません。
しかし、独ソ戦や武装SSに詳しい方が読まれた場合には、
その知識を激しく揺さぶられる衝撃的な一冊であり、
怒るか、呆れるか、笑うかしかありません。
怖いもの見たさで読んでみるのも、アリですよ。。
まぁ、コレでやっと「リイド社」のシリーズは終了です。 めでたし、めでたし。



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ドレスデン逍遥 -華麗な文化都市の破壊と再生の物語- [ドイツの都市と歴史]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

川口 マーン惠美 著の「ドレスデン逍遥」を読破しました。

何度かこの「独破戦線」では、1945年2月の「ドレスデン爆撃」について触れています。
ドイツを焼いた戦略爆撃 1940-1945」も強烈な一冊でしたが、
以前から「ドレスデン爆撃」に特化した本を読みたいと思っていました。
本書を見つけたのもそんな経緯からですが、
シュトゥットガルトに20年来住んでいる著者が復興したドレスデンを訪れ、
無差別爆撃で廃虚となったこの街の歴史をカラー写真も交えて紹介してくれるものです。

ドレスデン逍遥.jpg

序文では、1871年までいくつもの邦国に分かれていたドイツと、
そのひとつであるザクセン国の首都として繁栄したドレスデンの歴史を紹介。
著者は交通博物館で、空襲直後のドレスデン市内の様子をフィルムで見て、
大きな衝撃を受けます。
そして宿に選んだペンションの老夫人から、空爆の体験談を聞くことに・・。

老夫人は1945年当時、11歳の双子の姉妹。
歳の離れた2人の姉は子供も生まれたばかりで市の中心街に住んでいます。
そんな大好きな姉のところへ遊びに行き、「また明日」と別れた晩、
英国からは四発爆撃機ランカスター243機が飛び立ちます。
二波に分かれ、ドルトムントなどへの陽動攻撃も含めると、合計1180機が投入された大作戦。
午後10時、ドレスデン市内に空襲警報が鳴り響くと、寝入りばなを母親起こされた姉妹は
リュックサックを背負って地下室へ・・。

Avro Lancaster WWⅡ.jpg

ドイツ本土はルール地方やベルリン、ケルン、ハンブルクと執拗な爆撃によって
半身不随の状態であったにも関わらず、
ドレスデンといえば、これまでわずか2回の爆撃があっただけ。
戦後、連合軍司令部が置かれる予定だ・・、とか、
チェコに割譲される予定になっているからだ・・とか、
チャーチル首相の叔母さんが住んでいるからだ・・とか、
バロック建築の文化的価値が高いから・・、という噂が、
爆撃されない理由とされています。

Dresden1.jpg

実際、重工業や軍需産業は存在せず、煙草やチョコレート、ガラスに陶磁器といった軽工業だけで、
せいぜい、近郊にレンズやレーダーを作る精密機械工場が存在しているのみ。
数週間前にはいくつかの高射砲は取り外されて、ライプツィヒやベルリンなどの
多くの危機に晒されている都市に移され、88㎜砲も対戦車用に東部戦線へと送られています。
そんなこともあって、今夜の空襲警報を本気にしない市民も・・。

そして大編隊による空爆が始まります。高性能爆弾で屋根を破壊してから、焼夷弾の雨・・。
あちこちで巨大なファイヤーストームが発生すると、地表では物凄い真空状態となり、
その強風と、凄まじい火力のため、たとえ火中に吸い込まれなかったとしても、
一瞬のうちに皮膚が乾燥し、血液と体液が蒸発して即死します。
さらに酸素欠乏で窒息したり、熱風を吸い込んで肺が溶けたり、破裂したり・・。

dresden.jpg

3時間後の第二波は倍以上の大編隊、529機で襲来。
この時間差攻撃は、すでに始まっている消火活動を妨害し、被害を拡大しようという意図が
あるわけですが、予想以上の大火災のため、目標を中心部から周辺地域に変更するのでした。
このようにして、第一波のあと、疎開の子供たちを乗せて発車を待っていた列車は
瞬く間に火に包まれ、子供たちは全員丸焼きに。
地下に避難していた人々も、すでに外は火の海で脱出は叶わず、地下室がそのまま棺桶に・・。
川に辿り着いた人たちは、水の上を舐めるように走る業火に晒されて、一瞬のうちに焼け死にます。

dresden5_.jpg

ようやく一夜が明けると、お昼には米軍による第三波である昼間爆撃が・・。
500㌧の爆弾と300㌧の焼夷弾。
これでもか・・とばかりに、エルベ河畔にいた被災者を機銃掃射で狙い撃ちします。

この第1章では、11歳の双子の姉妹の姉たちが命を落とした話だけではなく、
ドレスデン空襲という地獄から生き残った数人の回想録や
英空軍の通信記録まで掲載して、なかなか迫力あるものに仕上がっています。
興味のある方は映画「ドレスデン-運命の日」をご覧なっても良いんじゃないでしょうか。
ヴィトゲンシュタインは未見ながら有名な「スローターハウス5」、
映画よりも、小説の方を読んでみたくなりました。

Desden after the bombing.jpg

63ページからは第2章、「アウグスト強王とコーゼル伯爵夫人」と題して、
ドレスデンの歴史上、最も有名な人物であるアウグスト強王と側室女性の運命を中心に、
1700年代からのザクセンの繁栄、そしてこのザクセン王がポーランド王にもなったり、
スウェーデンとの戦争、また宮殿などもカラー写真で紹介します。

Dresden Stadtpanorama 1930.jpg

第3章は「磁器」のお話。
ヴィトゲンシュタインも「なんでも鑑定団」を見ていたおかげで、
ドレスデンといえば「マイセン」であるくらいの知識はありました。
本書ではヨーロッパでは18世紀に入っても磁器を製造することが出来ず、
そのため、王侯貴族は中国や日本からの輸入品を宝石のように扱っていたという歴史から、
アウグスト強王の執念も手伝って、初めて磁器の製造に成功して、マイセンに・・。
ふ~ん。コレも面白いですね。勉強になりました。

Meissen Porcelain Nodder.jpg

次の章「ドレスデン美術館めぐり」では、1939年、ドレスデン美術館館長ポッセが
「総統の特別全権大使」に任命され、ヒトラーが故郷のリンツに建築しようとしていた
「総統美術館」のための芸術作品を選ぶことや、新しい作品を集め、またはユダヤ人から没収し、
ウィーンに保管してある作品を鑑定し、目録作りをする・・という話も興味深かったですね。
実はこの手の本を探しているんでけどねぇ・・。

Hitler's art collection was destined for a new museum in his hometown of Linz.jpg

ドレスデンの音楽の章と続き、最後の章は「聖母教会の奇跡」です。
著者が最初に訪れた時に目にした、復元工事中の聖母教会。
1743年に完成したこの教会は第1章の大空襲によって崩壊してしまいます。
そして翌月から始まった瓦礫の片づけ作業がすべて終了したのは20年後・・。
戦後、東ドイツとなったドレスデン。政府はスターリン好みの巨大な多目的ホールや、
巨大高層住宅といった東ベルリンのような復興を意図しますが、
市民はバロック建築の復元を望みます。
多くの寄付が集められ、聖母教会の瓦礫の山から使えそうな石が回収されます。

frauenkirche-ruine-1967.jpg

「宗教はアヘン」として教会を憎むウルブリヒトは、やはり廃墟となっていたソフィア教会を爆破し、
ドイツで最も古い教会のひとつ、ライプツィヒの大学教会も爆破するという人物です。
しかし予算不足で聖母教会の瓦礫の撤去は行われないまま、やがて東西ドイツ統一へ。。

復元にはコンピュータが使われ、使える石も同じ場所にという徹底ぶり。
2005年現在で、世界中からの寄付金は1億ユーロにもなり、
丸屋根のてっぺんには高さ7.6メートルの金色の十字架が取り付けられますが、
これを寄贈したのは、1945年にドレスデンを火の海にした英国です。
さらにこの「平和の十字架」を鋳造した人物の父親が、あの爆撃に参加していたという
とんでもない偶然も・・。

Frauenkirche_Dresden_Juni_2004.jpg

最初のドレスデン空爆以降は、18世紀からの歴史や、マイセンの陶器といった文化、
そして最後は聖母教会の修復と、第2次大戦に特化したものではありませんが、
とてもわかりやすく、かつ、勉強にもなりました。
261ページですから、1日で読んでしまいましたが、特に最後の聖母教会の件は、
以前にNHKの番組である程度、知っていたにもかかわらず、ちょっと感動してしまいました。

豪華絢爛な生活を送るドイツの王族や貴族たちですが、
その料理といえば、フランスやイタリアから料理人を連れてきて・・。
ということで、ドイツでは独自の料理が発達しなかったということです。
コレは面白いですね。
確かに「高級ドイツ料理」、「ドイツ宮廷料理」とかって聞いたことがありません。
実は「アイスバイン」も食べたことないですし、
上野のとんかつ御三家を食べて育ったヴィトゲンシュタインは、
「ウィンナーシュニッツェル」は大好きなんですが、コレ実はオーストリア料理なんですね。。
しかも、もともとは「ミラノ風カツレツ」をウィーン持ち込んだものだとか・・。

著者は「ドイツ料理万歳!」という本も書いているので、
ちょっと読んでみようか・・という気になりました。











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愛は絶ちがたく -アイゼンハワーとの秘められた恋- [女性と戦争]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ケイ・サマーズビー・モーガン著の「愛は絶ちがたく」を読破しました。

本書の著者の名を見て「おっ!」と思われる方はどれくらいいらっしゃるんでしょうか?
以前に児島 襄 著の「第二次世界大戦 ヒトラーの戦い〈6〉」と
デイヴィッド・アーヴィング著の「将軍たちの戦い」で登場した彼女。
連合国遠征軍最高司令部(SHAEF)の長であるアイゼンハワー付き運転手から、
副官、そして「愛人」という女性であり、そんな経歴を持つ彼女が晩年に書いた回想録です。
しかし我ながら、よくこんな本を見つけるなぁ・・と、ちょっと自慢です。。
1977年発刊で344ページの表紙を見ても日本語なしで向こうの恋愛小説風ですしねぇ。
なので、週間△△の「アイゼンハワーの愛人が情事を赤裸々に告白!」というような、
下世話な感じで読んでみましょう。

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1939年9月、英首相チェンバレンが「ドイツと戦争状態に入った」と告げた翌日、
ゴードン・サマーズビーと離婚をして、モデルの仕事をしていたケイが、
ロンドンの自動車輸送部隊に入隊するところから話は始まります。
翌年のロンドン空襲では救急車を運転し、ドイツ軍の落下傘兵に対する恐怖から、
道路標示や道順標識が無くなったロンドンで運転を磨いたケイは、
やがて続々とやってくる米軍御用達の運転手に任命され、
無名のアイゼンハワー少将の運転手となります。

The force of a bomb blast in London piled these furniture vans atop one another in a street after a raid on December 5, 1940..jpg

当初は「おはようございます、閣下。」とドアを支える一介の運転手だったケイですが、
高級レストランへ案内しても「一緒にどうか?」と米国人特有のおおらかさを見せるアイク将軍。
喜ぶケイを尻目にドアマンは、運転手風情が立場もわきまえず、けしからん・・という態度です。
この時期、マーク・クラーク将軍も含め、3人でドライブなどで楽しみ、ロンドン爆撃の
恐ろしい思い出を興味深く聞いては、彼女に同情する将軍2人。
彼女は米士官ディック大尉と婚約しますが、すっかりアイクにも魅せられるのでした。

ksummersby.jpg

ハリー・ブッチャー海軍大尉、アーネスト・リー大佐、そして当番兵のミッキー軍曹という
3人から成るヨーロッパ戦域司令官アイクの側近チームのなかに徐々に溶け込んでいくケイ。
特にミッキーの将軍崇拝は大変なもので、アイクがパリッとした軍服で降りてくると、
フッとため息をついて「ゲーリー・クーパーよりカッコいいや」と呟くほど・・。

Gary Cooper in Sergeant York.jpg

途中では1908年にアイルランドで生まれ育った彼女の生い立ちも紹介しながら進みます。
また、ケイへプレゼントを兼ねて、黒いスコッティ犬「テレク」を司令官アイクが飼うことになると、
まるで2人にとっての子供のような関係が出来上がります。
昼食の席でアイクが自分の皿からテレクに食べさせてるのを見た英海軍のカニンガム提督は
「その犬は甘やかされてますぞ」と我慢できずに非難。

Eisenhower TELEK.jpg

やがて北アフリカ上陸の「トーチ作戦」の指揮のためにB-17でジブラルタルへと向かうアイク。
「ケイ、君は一緒に来たいか?」 ということで、遅れること1ヵ月後、
ストラトハーレン号に乗船するケイですが、地中海で魚雷攻撃を受け、船は沈没・・。
救命ボートに乗り移り、命からがら駆逐艦に収容されるのでした。

連合軍とアイクにとって重要なカサブランカ会談
ボスのなかのボスであり、密接に仕事をした一人であるにも関わらず、
一度も「アイク」とは呼ばずに「アイゼンハワー将軍」と呼ぶ、
魚のように冷血な人物として登場するのは、米参謀総長マーシャル将軍です。
まぁ、「君をジョージと呼びたい」とルーズヴェルト大統領に言われても、
ソレを断るという規律の鬼のような軍人ですからねぇ。。
そんなマーシャル将軍を部屋に案内し、ベッドの快適さを説明するアイクを尻目に
テレクはベッドの上に飛び乗ると、枕の上で片脚を上げて・・。

General George Marshall and General Dwight D. Eisenhower.jpg

彼女が全連合軍司令官のうちでたった一人嫌いな人物は、モントゴメリーです。
曰く「彼は尊大で、女性嫌いのやかまし屋で、閲兵台に私が立っていることが彼の機嫌を損ね、
しかも私は、それを面白がるほど意地が悪いときた」。
もちろん、モンティのアイクに対する嫌がらせや、逆にアイクのモンティ評も書かれていて
まさしく「将軍たちの戦い」ですね。

Eisenhower_Montgomery.jpg

シシリー上陸の「ハスキー作戦」に本腰を入れ始めた頃、別荘の部屋にケイを招き入れるアイク。
彼女の婚約者ディックが地雷で死んだことを苦しそうに告げます。
ショックを受け、泣きじゃくる彼女を優しくなだめ続けるアイク。
しかし、戦争のこの時期に知り合ったディックのことは実は何も知らず、
将軍に身も心も捧げていたことに気が付くのです。

kay-summersby-001.jpg

そして「ケイ、君は私にとって極めて特別な人なんだよ」と語るアイクと手を重ね、
「私はこの髪が薄くなり、眼鏡をかけ、歪んで疲れた顔の中年男を愛したのだ」と
無言で愛を告白する2人。
いよいよ・・と思ったのも束の間、鍵も掛かっていない朝の司令官のオフィスには、
すぐにリー大佐が飛び込んでくるのでした。。
それでも互いの愛を確認した2人はお昼に激しく爆発します。
「愛しているよ」と、飢え、求めるようなキスの雨。ケイも同じ激しさでそれに応じ、喘ぎますが、
朝のことを思い出して正気に返ります。アイクの顔のあちこちに付いた口紅を慌てて拭き取るケイ。

「もし事情が違っていたらなぁ」とアイクは溜息交じりに呟きます。
「ずっと前から愛していた。君の乗った船が撃沈されたという知らせが入った晩は、
地獄の苦しみを味わった」としわがれた声で語ります。
しかしこの愛は誰にも知られてはならない、禁断の愛なのでした。

ike.jpg

モンティを除いてアイクの一番厄介な相手・・、それは「猛烈将軍」パットンです。
アイクに勧められたパットンを乗せて、ケイの運転でロンドン・ツアーに出発した際の
パットンらしいエピソードなど、相変わらず話題が豊富で、ホント憎めない人ですね。

Eisenhower_patton.jpg

その他、チャーチル首相からは大いに気に入られ、国王ジョージ6世にも紹介されるケイ。
ルーズヴェルト大統領が訪問してきた際には、「女には絶対に運転させない」という
頑固なシークレット・サービスと大喧嘩。。

Churchill and Ike's driver, British Officer Kay Summersby.JPG

夜中になってようやく帰ってきたロンドンの屋敷。
当番兵のミッキーに「もう休んでいい」と命令し、ケイと2人で酒を呑みながらくつろぐアイク。
遂に抱擁に身をゆだね、気が狂ったように求め合います。
しかし疲れ切った挙句、「ああ、ケイ、ごめんよ。私は君の役に立ちそうもない」。
何年間も愛の営みを考えずに仕事に没頭してきたアイクは、
「どうかして私の身体は機能を失ったんだ・・」と、背を向けて語るのでした。

General Eisenhower.jpg

いよいよ、人生を賭けた大一番、「オーヴァーロード作戦」の開始です。
死地へと向かう空挺部隊員たちに握手をし、言葉をかける司令官アイク。
こんなときに「愛」だの、「立つの立たない」のと考えている場合ではありません。

Eisenhower and 101st Airborne U.S. Paratroopers June 5th 1944.jpg

ウェスト・ポイントを6月に卒業したばかりの息子ジョンを連れて、
ワシントンでの休暇をケイに提案します。
初めて訪れた平和な米国。
しかし、救急車のサイレンを耳にしたケイは反射的に歩道に伏せて。。
周りの人々は「どうしたんです? ご病気ですか?」と助け起こしてくれますが、
「そうね。これが爆弾が落ちた時に命が助かるひとつの方法よ」と塵を払いながら答えるのでした。

Kay_Summersby.jpg

パリを開放し、ルントシュテットが急いで立ち去った小奇麗な邸宅に住むことになったアイク。
ケイも戻ってきますが、正式に婦人部隊に編入され、中尉に任命されます。
もはや運転手ではありませんが、女性として初めての元帥付き補佐官として、
どこまでも一緒の生活。

こうしてルーズヴェルト、ヒトラーが死に、ドイツ軍も降伏。
ヨードルとフリーデブルクが降伏文書に署名をし、彼らが部屋から出ていくと、
大勢のカメラマンが押し掛けるなか、「ではシャンパンで乾杯といくか」。

Kay Summersby.jpg

お祝い行事が毎日にように続き、ヒーローとなったアイクは劇場にもケイを同伴します。
それでも次の勤務地がワシントンで参謀総長・・ということになると、
米国民ではないケイの居場所はペンタゴンにはありません。
米国市民権の獲得のために奔走し、その未来を夢見て、再び、愛を交わす2人。
しかし、この最後の機会も、「駄目だ・・」。
・・まぁ、ヴィトゲンシュタインも、正直この数年のこと思うと、他人事と笑ってられません。。

Dwight D. Eisenhower and Kay Summersby.JPG

1945年11月、先にワシントンへと帰っていたアイク。
彼の個人的職員たちにもワシントンへの出発命令が届きます。
しかし、そこには「サマーズビー中尉」の名は無いのでした。

「将軍アイク」というTVシリーズが1978年に製作されているようで、
日本では3本セットのビデオのみなんとか売っていますが、
このドラマで描かれているケイとの私生活シーンは本書がベースになっているようです。
また、アイクを演じるは、我らがロバート・デュヴァル。。
もともと「ゴッドファーザー」のときから好きで、「鷲は舞いおりた」のラードル中佐は最高でしたし、
そして同じTVドラマでは「スターリン」も演じています。
アイゼンハワーとスターリンの両方を演じれる役者さん・・さすがですね。

Ike The War Years (TV mini-series 1979).jpg

当初、想像していたより遥かに面白かったですねぇ。
ここまでの恋愛モノを読むのは、もう10年以上振りでしたし、
もともと好きじゃなかった「アイク」も本書では「可愛い親父」風ですから・・。

実は「プロローグ」でケイが本書を書き上げた経緯が語られています。
戦後、連合軍の将軍たちの回想録ラッシュのなか、ケイもまた、
「アイゼンハワーはわたしのボスだった」を1948年に発表しますが、
アイクとの親密さは誤魔化した一冊で、私生活にも触れられていなかったものの、
それから25年も過ぎた1973年に「トルーマン元大統領の口述伝記」が発表され、
そこに「アイクはマーシャル参謀総長に手紙を送り、アメリカに帰ってこの英国女と結婚するため、
夫人と離婚したいと伝えたのだ。マーシャルは返事を書き、
そんなことをすれば君を軍から放逐する・」・。といった経緯が書かれていて、
一躍、注目を浴びたケイは全米のマスコミから追われることになります。

Eisenhower Was My Boss by Kay Summersby.jpg

しかし、そのとき彼女は余命6ヶ月の宣告を受けて入院中。。
すでに4年前にはアイクもこの世を去っており、彼女は人生の締めくくりに
余命を1年以上も伸ばしながら、最後に真実を語るために本書を書き上げました。

Summersby_tv.JPG

そしてアイクが彼女を裏切って去っていったのか・・? については、
男目線から考えると、「そのとおり」であった気もします。
本当に彼女を愛していたかも知れませんが、戦争の英雄であり、
この後、大統領にもなる野心家ですから、そちらを選んだとも思えますし、
または、「不能者」であることを気にして、ケイを幸せに出来ないと考えたのかも知れません。

最近もアフガニスタン駐留米軍司令官だったCIAのペトレイアス長官の
不倫スキャンダルが世間を賑わせていますが、
こういう「陣中妻」のような文化は、ず~と続いているのかも知れませんね。

paula-broadwell-general-david-petraeus-affair.jpg

いずれにせよ、アイクのケイに対する想いは想像するしかありませんが、
男女双方に読んでもらい、意見を聞いてみたくなる一冊でした。
でも、本書は結構なレア本のようなので、そういうわけにもいきませんか・・。





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重戦車大隊記録集〈1〉陸軍編 [パンツァー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ヴォルフガング・シュナイダー著の「重戦車大隊記録集〈1〉陸軍編」を遂に読破しました。

姉妹編である「重戦車大隊記録集〈2〉SS編」を読んで以来、2年も経ってしまいましたが、
8月にやっと姉である463ページの陸軍編を2700円で購入しました。
1996年発刊で定価6000円の大型本ですが、いま確認してみると
なぜか「〈2〉SS編」はプレミア価格で1万円超えてますねぇ。危ない、危ない・・。
その「〈2〉SS編」も大作でしたが、本書は100ページも多く、ボリュームたっぷりです。

重戦車大隊記録集①.jpg

まずPart1、「各重戦車大隊のカモフラージュとマーキング図版」として
第501重戦車大隊~第510、第301戦車大隊、第316戦車中隊の順で、
お馴染みのカラーイラストをふんだんに使って紹介します。
特に部隊特有のマーキングについては、カラーイラストだけでなく白黒の実物写真も掲載して、
第505重戦車大隊の「突撃する馬上の騎士」などにも細かく触れます。
う~ん。こういうの大好きですねぇ。

Schwere Panzerabteilung Insignia.jpg

51ページからメインのPart2、「各重戦車大隊の日誌と編成・写真」となります。
第501重戦車大隊は第501、第502重戦車中隊を合併し、
第1補充戦車大隊などから兵を抽出して1942年5月に編成されます。
部隊のマーキングは「忍び寄る虎」。このアップの写真も良いですが、
アフリカでの「ヒトコブラクダ」とティーガーの仲むつまじいショットが最高です。 
「日誌」部分では、以前に紹介した「第10戦車師団戦場写真集」にも登場したように、
この師団に配属されて、ロンメルと共に戦っています。

Schwere Panzerabteilung 501 & camel.jpg

特に興味深いのは1944年5月の第2中隊長の無線手が「なんと、ロシア人女性であった!」
というヤツですね。おそらく捕虜の志願補助兵ヒヴィスなんだと思いますが、
ちょっと考えられません。。
8月にはフォン・レーガット大隊長がヒトラー暗殺未遂事件の連座容疑で解任されたり、
また、装備をティーガーⅡ(ケーニッヒスティーガー)に一新したクルーの写真では
333号車の戦車長が「左肩に優等射撃手章」を付けていますが、
コレは「ナチ独逸ミリタリー・ルック」で、「砲手勲功懸章」と書かれていて
気になっていたヤツと同じもののようですね。 

Schützenschnur der Wehrmacht.jpg

そして1945年1月には燃料不足により全車両を爆破し、残存部隊は
余剰装甲車両を受領します。
それらはパンター2両、Ⅳ号戦車3両、ホルニッセ2両、ヘッツァー数両というもの。。
この有名な部隊の最期は物悲しいですね。

続いては、第502重戦車大隊です。
部隊のマーキングが「マムート(マンモス)」なのも知られていますが、この部隊が有名なのは、
150両撃破の大エース、オットー・カリウスが所属していたことも大きいでしょう。
本書では部隊ごとの最初のページに、大隊の総戦果や大隊長の任期、
そして騎士十字章以上の受章者が紹介されます。
この第502だと、総戦果は1400両以上の戦車に火砲2000門以上で、
騎士十字章はカリウス以外にも8名排出し、大隊長のイェーデ少佐や、
カリウスの相棒ケルシャー軍曹の名も・・。

Russland,_502_Panzer_IV_und_Infanterie.jpg

1943年に大島大使が第1中隊を訪問し、その後、日本政府はティーガーを1両購入したそうです。
ちなみに価格は645000ライヒスマルク。。
これが同盟国に対する適正価格なのか、ボッタくっているのかはわかりません・・。
1944年になると「日誌」にはカリウスの名が多くなってきます。
グラーフ・シュトラハヴィッツ大佐は躊躇する第2中隊長を解任し、カリウス少尉が指揮を取る」。

CariusOtto.jpg

しかし「数両の戦車に援護されてソ連軍女性大隊が攻撃を開始・・・」という記述に一番驚きました。
知っている限りでは、赤軍の女性兵士は通常の男性兵士の部隊に編入されて、
同等の扱いを受けるというもので、空軍の「夜の魔女」などを除き、
女性兵士で構成された狙撃兵(歩兵)部隊というのは存在しないと思っていました。
この記述が正しいとすると、ひょっとしたら「懲罰大隊」なんじゃないでしょうか?

Soviet woman soldiers.jpg

最近、ソ連の懲罰大隊を描いたドラマ「捕虜大隊 シュトラフバット」のDVD5枚組をまとめて購入し、
3日間で観倒したばかりで、確かにこの懲罰大隊には女性が1人もいなかったので、
余計にそう思っています。
ちなみに「シュトラフバット」、とても面白かったですよ。
戦闘シーンより、人間ドラマが深く描かれ、助演クラスの中隊長はみんなヒドイ顔してますが、
演技が上手くて、感動してしまいました。

SHTRAFBAT.JPG

第503重戦車大隊にはカリウスを凌ぐ162両撃破の大エース、クニスペル曹長が。
1944年1月にはDr.ベーケ中佐配下となり、「チェルカッシィ」で包囲されたドイツ軍の救出に参加。
ティーガー332号車が撃破されてしまいますが、これを屠ったのは
ライプシュタンダルテ」のパンター戦車です。やっぱり国防軍と武装SSは仲悪かったのか・・?
ということではなく、単なる誤射だそうで、本書では所々で自軍の対戦車砲などで
誤射により撃破されていました。

Kurt_Knispel.jpg

10月にはブダペスト城を占拠します。
これはスコルツェニーの「パンツァーファウスト作戦」ですね。
12月には部隊名が「フェルトヘルンハレ」に改称され、
1945年4月29日という終戦直前、エースのクニスペル曹長が戦死。。
もし、あと数日生き残って回想録でも書けば、カリウスを凌ぐ人気者になったかも知れません。。

Unternehmen Eisenfaust tiger.jpg

ここから1943年になって編成された部隊、最初は第504重戦車大隊です。
西側連合軍に押される北アフリカに派遣され、ヘルマン・ゲーリング装甲師団と共に戦いますが、
イタリアへ撤退を余儀なくされます。
このメッシーナ海峡をフェリーで渡ることの出来た、唯一の222号車の写真は良いですね。
1945年4月の日誌、「投降兵の一部がニュージーランド軍第2師団によって虐殺される」
というのは印象的です。

同じく1943年に編成された第505重戦車大隊ですが、アフリカ行きを予定されていたものの、
初陣となったのは夏の東部戦線「ツィタデレ作戦」です。
第9軍司令官モーデルの訪問も受け、中央軍集団司令官クルーゲも視察に訪れます。

battle_kursk_0156.jpg

第506重戦車大隊では、ティーガーⅡを45両受領した後、何の因果か、
オランダのアーネムへの移動命令を受けています。時は1944年9月8日・・。
モントゴメリーの「マーケット・ガーデン作戦」が始まるわずか9日前・・。
到着したのは24日で、本書での記録によると第9SS、第10SS装甲師団に配属されて
後半の掃討戦に活躍しているようです。

さらにこの後、「バルジの戦い」にも参加していますが、バストーニュ攻撃に失敗し、
ティーガーⅠ、ティーガーⅡも爆破処分したあと、第5装甲軍司令官マントイフェルによって、
大隊長のランゲ少佐が解任されてしまっています。

schwere Panzer Abteilung 506 TigerⅡ by American troops.jpg

第507重戦車大隊の日誌では、1945年3月に米軍第3歩兵師団のローズ少将を
「過失により殺害」すると、この事件に怒った米軍は報復として100名のドイツ兵捕虜を殺害し、
4月にはカイザーホフ・ホテルの前で動けなくなったティーガーⅡの搭乗員も
米軍によって殺害・・と、この写真は有名ですが、彼らはそんな運命だったんですねぇ。
100名のドイツ捕虜殺害も初めて知りました。

kingtiger-hotel-kaiserhof.jpg

編成されて1944年1月にイタリアに向かったのは第508重戦車大隊ですが、
パラッツォ・デ・アンジュリスの前やテヴェレ川でローマ市民と共に記念写真に興じる
ティーガー戦車兵が笑えます。

A PzKpfw VI Ausf. E in Rome, 1944.jpg

第509重戦車大隊は1945年1月、オットー・ギレが指揮する第4SS戦車軍団に配属されますが
ちょっとしたゴタゴタが続きます。
まず、大隊長が軽傷にも関わらず入院してしまったため、Dr.ケーニグ大尉が
代わって指揮を取ります。しかし3日後、武装SS「トーテンコップ」から派遣された
ライベルSS大尉が大隊の猛反対にも関わらず、指揮を取ることに・・。
その結果、損害を被った大隊は、「SS戦車連隊への配属」、「不適任者による指揮」といった苦情を
第3装甲軍団のブライト将軍を批判する報告書として、グデーリアンに提出。。

最後にオマケ程度に紹介される第301戦車大隊と第316戦車中隊は
ティーガーと無線操縦のボルクヴァルトBⅣ重装薬運搬車を装備した部隊です。

V Panther _Borgward IV.jpg

いや~、「〈2〉SS編」は2日で読んだ記憶がありますが、今回は週末2回、計4日間かかりました。
掲載されている写真のほとんどがティーガーですし、その1枚1枚の写真の見所を探すだけでも
結構、時間がかかったようです。
「日誌」部分も今回紹介した以外にも興味深い記述も多く、
特に大隊と言いながらも実際は中隊や小隊単位であちらこちらの防衛戦に借り出され、
まさに「火消し」としてのティーガー戦車であったのがよく理解できますが、
大隊長からしてみれば、勘弁してよ・・と愚痴りたくなるのもわかります。
まだ大日本絵画の大判写真集は「続・クルスクの戦い」と「ヤークトパンター戦車隊戦闘記録​集」
がありますので、来年にでも購入できれば・・。







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ヒットラーを焼いたのは俺だ [回想録]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

エリヒ・ケムカ著の「ヒットラーを焼いたのは俺だ」を読破しました。

1年前、トレヴァ=ローパー著の「ヒトラー最期の日」を読んだときに見つけた本書。
40年前の本でも平気で新刊のように紹介する独破戦線ですが、
その古さではNo.1、1953年(昭和28年)という、60年前の一冊となります。
また、No.1ということでは、このタイトルのインパクトも独破戦線No.1。。
174ページですから、3時間で読んじゃうのもモッタイナイ・・と、数日放っておいたものの、
本書を読んでる夢を見て、明け方に目が覚めてしまいましたので、
仕方なく朝の6時から、このヒトラー専属運転手の回想録の独破開始です。

ヒットラーを焼いたのは俺だ.jpg

ヒトラーが首相となる1年前である1932年2月、エッセンのガウライター
テルボーヴェンの運転手を勤めていた21歳のケンプカ青年が、
ベルリンのカイザーホーフ・ホテルに出頭する電報を受け取るところから本書は始まります。
ホテルにはヒトラーの副官、ブリュックナーの他、ドイツ各地から来た同じような運転手30名・・。
そして順番に党首ヒトラーからのマニアックな質問攻めに遭います。
「君は8㍑=マーシー=ド=コンプレッサー=モーターを知っていますか?」
「この車は何馬力出ますか?」
「見通しのきかないカーブで80㌔で走っているとき、対向車が来たらどうしますか?」

Mercedes_Hitler.jpg

エッセンへ戻っていた彼の下に再び、電報が・・。
そこには「ミュンヘンのブラウン・ハウスルドルフ・ヘスの許へ出頭されたし」。
こうして試験に見事合格したケンプカ。
早速、ヒトラーの運転手兼従者のユリウス・シュレックから親切に手ほどきを受けます。

Schreck_Hitler.jpg

すぐに大統領選挙を迎え、ドイツ中を演説で周らねばなりません。
ヒトラーは地図を膝の上に広げ、自分でコースを決めると、運転手のために話しかけ、
食事も作ってやり、疲れからくる睡魔を払ってやるのでした。

Driving Hitler.jpg

シュレックは西北地方を随従し、ケンプカはその他を担当するわけですが、
1936年、先輩運転手のシュレックが脳膜炎で急死。
それ以来、ケンプカには自由な時間はなくなり、一日中待機するという責任重大な任務を負います。
しかし同時に若いケンプカの運転に命を預けるという、
深い個人的信頼を寄せるヒトラーの側近という地位も得るのでした。

erich kempka with hitler.jpg

仕事は単なる運転手に留まらず、ダイムラー=ベンツ社と共同で新型車の開発にも携わります。
不測の事態に備え、防弾などを施した総統専用車を自腹で開発するものの、
「わたしがドイツ国民に襲われるわけはない!」と、ヒトラーは乗ることを拒否。。
しかし1939年、ビュルガーブロイケラーで爆弾が爆発すると、
「今後はコレに乗る」と宣言し、ようやくボルマンからお金も頂けるのでした。

Bürgerbräukeller_1939.jpg

「最も好ましくない客人」としてヒトラー専属医となったモレルに関して1章を割き、
続いて、「側近のうちで一番憎まれていた人物」として、ボルマンの章が登場します。
1940年、ベルギー国王の妹でイタリア王女のマリア・ジョゼーがボルマンの作った
ケールシュタイン・ハウスを訪れると、出されたお茶が熱すぎて、王女は口を火傷。。
ヒトラーは幾度も謝る羽目に・・。
この問題の調査を受けたボルマンは、老齢の副官ブリュックナーを排除する絶好の機会と捉え、
責任を押し付けて、ヒトラーに勇退させるように進言します。
この結果、後任にはユリウス・シャウプが任命されますが、
すでに副官室の大粛清を行っていたボルマンの前に何の発言権も持っていないのでした。

Gerda Christian_Brueckner.jpg

ポーランド戦の間も毎日のように最前線までヒトラーを乗せていったケンプカ。
本書では「長官」と表現されるヒトラーですが、これは初めてですね。
よく側近や秘書らは「ボス」とか、「シェフ(チーフ)」とか呼んでいたと書かれていますが、
まぁ、翻訳の違いなのかもしれません。
ケンプカ(Kempka)にしても、本書の「ケムカ」と、どちらが正しいのかよくわかりません。

やがて戦況の悪化とともに1945年を迎え、ベルリンへと戻ってきたヒトラー。
父の埋葬を済ませたばかりのケンプカを呼び出し、この大変な時期にも関わらず、
両手を差し伸べて父の急死にお悔やみの言葉を述べるヒトラーの姿に心を打たれます。

Kempka Hitler.jpg

西部の司令官であるケッセルリンクがベルリンへ報告に来ると、
特に高く買っている、この元帥の健康を心配したヒトラーの指示によりケンプカは
ナウハイム温泉に連れて行くことに・・。
この時期の危険な旅行からなんとか帰り着いたのも束の間、
今度は軍需相シュペーアの前線視察の旅の運転手に指名されます。
5昼夜に渡る「ヤボス機(ヤーボ)」にも襲われる命がけのドライブから無事に帰り着くと、
いなくなっていた息子が戻ってきたかのように彼を抱き、両手を強く振るヒトラー。
しかし、その様子を背後から苦々しく見つめるのはボルマンです。
特別の許可もなく、「長官」の私室に自由に出入りできる最後の一人であるケンプカに
憎悪を抱いているのでした。

Hitler_&_Bormann.jpg

4月20日の総統誕生日も過ぎて、ゲーリングからの「裏切り」の電報に激怒したあと、
1932年から良く知っていたエヴァ・ブラウンと初めてゆっくりと話す機会を待ちます。
彼女によれば、総統はずっと前からボルマンの肚を見抜いているものの、
後任者に慣れるのが容易ではないために、戦争の間はその権力の地位から
遠ざけることが出来なかったとしています。

fuhrerbunker.jpg

翌日には長い間「君僕」で付き合ってきた間柄のSS中将フェーゲラインから
2台の車を都合してくれるよう依頼されます。
そしてヒムラー単独講和を伝えるロイター通信のニュース・・。
「総統が狙撃されて脳出血を起こし、もはや意識を回復することはできず、
彼の命は48時間は持つまい」というのがヒムラーの講和の根拠です。
こうしてフェーゲラインの逮捕と処刑へ・・。

続いてはヒトラーとエヴァの結婚の様子。
この土壇場でのヒトラーの決意に対してケンプカはこのように語ります。
「彼は生涯の最も忠実な伴侶を、情婦として歴史の前に立たせたくなかったのである」。

Eva_Braun_stor.jpg

新政府の首相に任命したゲッベルスに家族共々ベルリンから即刻、去ることを
要求するヒトラーですが、ゲッベルスはコレを拒否し、激論が交わされます。
「自分の一番忠実な支持者のきみまでも、もはや自分の命令に従おうとしないのか!」
眼に涙をためて、踵を返して会議室から出ていくゲッベルス。。

Goebbels and his wife, Magda are pictured with Hitler, centre, and their children.jpg

やがて興奮したヒトラーの個人副官ギュンシェから電話が・・。
「今すぐ、君から200リットルのベンジン(ガソリン)を貰わなければならないんだ!」
彼の声はいまや悲鳴に近いものとなり、「ベンジン・・・、エリヒ、ベンジン!」
訳もわからず部下に指示してガレージに残っていた車から調達したケンプカ。
今度は侍従長のリンゲが絶望的に叫びます。「ベンジン!、何処にベンジンが置いてある?」

Günsche、traudl&Hans Hermann Junge、kempka.jpg

そしてヒトラーの遺体に続いて、ボルマンがエヴァの遺体を抱いて姿を現すと、
その光景に心打たれ、エヴァが憎んでいたボルマンの腕から彼女を奪い取ります。
防空壕の出口から3メートルの所に2人を横たえますが、ロシア軍の榴弾が激しさを増すなか、
タイミングを計りながら、ベンジン缶を取り、
全身を震わせながら2人の遺体にベンジンを注ぎかけるケンプカ。
「自分にはこれはできない!」
それでも義務感が苦痛に打ち勝ちます。
ゲッベルスから渡されたマッチに火をつけ、明るい炎が音を立てて燃え上がります。
こうして5時間半に及ぶ荼毘のあと、遺骨は壁際の小さな墓穴に埋められるのでした。

downfall burning hitler_eva.jpg

5月1日、若い少女が衣服を引き裂かれ、大怪我をして運ばれてきます。
彼女の恋人は総統官邸の運転手。歩哨任務を解かれて駆け付けたケンプカの部下の男は、
ヒトラーと同じく、結婚したいと言い出し、困り果てるケンプカ・・。
それでも想像を絶した情勢の中で、厳粛な結婚式が会議室で行われます。
やっぱり「最終戦」はみんな愛を求めるんですねぇ。

BERLIN  1945 _8.jpg

そして遂に脱出。
途中でボルマンらと合流することとなり、3両のⅣ号戦車を発見する一行。
この武装SSの残存戦車部隊を率いるハンゼンという指揮官に状況を説明し、
協力を求めたケンプカは、各戦車の周りに葡萄の房のように集まってゆっくりと前進。
しかし敵が砲口を残らず開いて撃って来ると、ボルマンは爆破の圧力で投げ飛ばされ、
彼自身も意識を失うのでした。
こんな古い本書ですが、総統地下壕の見取り図や、
このような「ボルマン死出の旅」なんてのも掲載されています。

ヒットラーを焼いたのは俺だ2.jpg

ケンプカはその後、ユーゴスラヴィアの外国人労働者の少女に助けられ、
エルベ川を泳いで渡り、ベルヒテスガーデンの妻の元に帰り着きます。
休養後に出頭するつもりだったケンプカですが、すぐに米軍情報部によって逮捕。
ニュルンベルク裁判で4週間、証人席に縛り付けられ、1947年になってようやく自由の身に・・。

Nuremberg trials, Kempka.png

丸々1年間、状態が良くて、手頃な値段の本書を探し続けていましたが、
神保町の軍○堂で、綺麗なモノを1400円で購入することが出来ました。
ちなみに定価は180円ですが、地方売価190円というのはどういうシステムなんでしょうね??

ヒットラーを焼いたのは俺だ3.jpg

ヒトラーの最期モノは結構読みましたが、本書はさすが「焼いたのは俺だ」と言うだけあって、
そのシーンは今まで読んだなかでも一番迫力がありました。
原著は1950年で、当時、根強い噂のあったヒトラーやボルマンの生存説に対して、
真実を提示することを目的に書き上げたそうです。
ただ、このように側近が「死んだ」と言えば言うほど、「匿うためなんじゃ?」と
思われてしまうのも悲しい現実ですね。。

全体的な印象としては「ヒトラー最後の十日間」に通じるものがありました。
回想録って感情移入できるので、とても好きなんですね。
もちろんボリュームはないので、予定通り3時間で一気読みしてしまいましたが、
本の状態、内容、値段を含めて、大満足の1冊でした。




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