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バービイ・ヤール [ロシア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

クズネツォーフ著の「バービイ・ヤール」を読破しました。

バービイ・ヤールといえばホロコーストもの、特にアイザッツグルッペンものでは
良く登場するキーワードで、ウクライナ・キエフにある峡谷の名前です。
バルバロッサ作戦開始後の1941年9月29日から30日の2日間に
連行されたユダヤ人3万人以上がこの谷で銃殺され、
この「大虐殺」以降も2年間に渡ってバービイ・ヤールでは殺害が続いたということですが、
キエフ生まれのウクライナ人著書による、1967年発刊で324ページ本書を
5年も前に買っていたのは、「ドキュメント小説」とも呼ばれるその内容が
とても高い評価を得ていると聞いていたからです。
コレでもホロコースト物は苦手なので、長い間眠らせていましたが、
最近、ソ連ものに興味出てきている勢いで挑戦してみました。

バービイ・ヤール.jpg

「1941年9月21日、わが軍はキエフを放棄した」というソ連邦情報局の公報とともに
撤退する味方と、やって来たドイツ軍の姿を目撃する12歳の著者。
ゴツゴツした格好の自動車が止まると、奇術師のように身軽なドイツ兵たちが
たちまち大砲を連結したかと思うと全速力で走り去ります。
そんな様子を一緒に見ていた祖父は言います。
「なーるほど・・。ソヴィエト政権もおしまいだな・・」。

続いてポケット会話読本を持ったドイツ兵たちが登場し、
ページをめくっては、歩道を歩く娘に叫びかけます。
「オチョウサン、ムシメサン!ボルショヴィク おしまいね。ウクラーイナ!
おさんぽしましょう。ビッテ!」
そして老人たちは「パンと塩」をお盆に乗せ、ドイツ軍将校に差出して歓迎するのです。

Wehrmacht-ww2.jpg

4人家族の著者。パパは離婚して出ていき、
教師のママは「キエフが占領されたなんて悪夢だわ」。
レーニンと同い歳の祖父は、若い頃にドイツ開拓民の元で働いていたこともあって、
「ドイツ人というのは何をすべきか心得ているからな。この世の天国になるぞ」と大はしゃぎ。
しかし祖母は「立派な人たちがみんな死んでいくのに
あんたみたいなゴクツブシがいつまでも生きててさ・・」。
このような家族の意見の相違や、ウクライナ人の反ソ的な考え方も
小説を読んでいるかのように楽しく理解できました。

しかし間もなく、ドイツ軍警備司令官からの告示が・・。
それは略奪の禁止、余分な食料の提出、武器やラジオの提出。違反者は銃殺という厳しいもの。
そんな折、警備司令部の建物が爆破され、クレシチャーチク街のあちこちでも連続爆破が発生。
キエフ中心街は数日間渡って燃え続け、多くのドイツ兵が死亡。
犯人はハッキリしていないようですが、簡単に言うとパルチザンの自爆テロだと推測しています。

The priest on the ruins of bombed Uspenski Cathedral of the Kiev-Pechersk Lavra, November 1941.JPG

ようやく火災が収まるとキエフ市及びその近郊の全ユダヤ人に対する出頭命令が・・。
身分証明書、現金、貴重品、下着なども携帯するようにとの内容に、
ユダヤ人嫌いの祖父は「こいつはめでたいぞ!」とまたもや興奮。。
大勢のユダヤ人たちからは「ゲットー!」という言葉や「殺されるのよ!」との声も聞かれます。
そして著者もバービイ・ヤールから「タタタ・・」という機関銃の発射音を耳にするのでした。

ukraine-babi-yar.jpg

その地獄から命からがら逃げだしてきた女性の物語。
多くの人々と同様、列車に乗るものだと思っていた彼女は荷物が山積みになっているのを見て
不安に駆られます。駅もなければ、近くからは機関銃の音・・。
さらに進むとキエフ出身ではないウクライナ人警官が乱暴に殴ったり、
わめきながら「服を脱げ!早くしろ!」
彼女は見逃してくれるドイツ兵にも出会い、なんとか逃げ出すことに成功するのでした。

babi-yar4.jpg

アインザッツグルッペによって、その2日間で3万人以上が殺された「バービイ・ヤール大虐殺」。
このあたりは「慈しみの女神たち <上>」にも出ていましたが、
本書は殺される側の視点、あちらはブローベル率いるゾンダーコマンド4aによる殺す側の視点・・
というのがなんとも不思議ですね。

babi-yar.jpg

食糧難は徐々に激しくなり、著者も闇市でタバコを売ってなんとか食いつなぎます。
年も明けた1942年1月には、ドイツ本土での外国人労働者としての輸送の布告が。
「ボリシェヴィキは工場を破壊し、君たちからパンと賃金を奪った。
ドイツは素晴らしい報酬を得る労働の可能性を君たちに提供するものである。
家族については常に配慮が払われるであろう。
17歳から50歳の金属工諸君は進んで申し込むべきである。」

ukraine-kiev.JPG

その結果、ドイツ行きの列車は満員。
しかしドイツから祖国に宛てて書いた手紙には絶望が記されています。
「私たちは奴隷です。奥さんという人は、まるで犬畜生です。
口から唾を飛ばして、気違いみたいに怒鳴ってばかりいます・・」。

まだまだ身を隠しているユダヤ人やパルチザンを密告すれば、1万ルーブルか、
食料品、或いは雌牛1頭が与えられるとの布告も張り出され、
捕虜となった赤軍兵士たちもバービイ・ヤールへと向かうことになります。
そしてこの3万人以上が埋められた峡谷には収容所が建設されます。

A German patrol caught two disguised Soviet soldiers. September 1941, Kiev, Ukraine..JPG

ディナモ -ナチスに消されたフットボーラー-」で紹介した
元ディナモの選手達が結成したチームである「スタルト(スタートの意味)」が
ドイツ枢軸軍サッカーチームに対し、連戦連勝を重ねた結果、
この強制収容所送りとなり、殺害されてしまった話もなかなか詳しく書かれていました。
先日のEURO2012でも、このディナモ・キエフのスタジアムが決勝戦の舞台となっていましたが、
「デス・マッチ」と呼ばれたこの試合が今年、ロシア映画として製作されたようです。

FC Start and the infamous Death Match.JPG

本書では単にラーゲリと呼ばれているこの収容所は
「シレツ強制収容所」という名前のようですが、
責任者(所長)のパウル・フォン・ラドムスキーというのが、またかなり悪いヤツで、
「シンドラーのリスト」のアーモン・ゲート級の残酷SS将校です。
ちょっと調べてみましたが、1902年生まれのナチ党古参闘士で、
確かに金枠党員章に、「ナチ・ドイツ軍装読本」で読んだ1929年党大会章も付け、
ゼップ・ディートリッヒの出来損ないのような顔をした、
典型的な能無しで暴力だけが取り柄のSS将校・・といった風貌ですね。。

Paul Otto von Radomski with the rank of SS-Untersturmführer..JPG

人肉を食いちぎる訓練を受けているという牧羊犬レックスだけではなく、
ラドムスキーの代理人である赤毛のサディストや銃殺専門家、チェコ人の班長と
獣のように女囚人を打ちのめす女班長らも登場し、
点呼で5人目になった者は銃殺・・、食事の列に2列に並んだために銃殺・・、
パルチザンの銃殺に、わざと実の弟のウクライナ人警官を指名したり・・。

A German guard lets his dogs have fun with a “living toy”..JPG

次の冬になると、パルチザンによる破壊活動が活発になってきます。
毎晩のように工場が爆発したり、ファシストが殺されたり・・。
ミュージカル劇場ではウクライナ総督のエーリッヒ・コッホも出席した将校集会に
時限爆弾が仕掛けられ、爆発15分前に偶然ドイツ兵が発見して命拾い。。

Alfred Rosenberg_Alfred Meyer_rich Koch und Hinrich Lohse.JPG

1943年の春にもなると完全に形勢は逆転し、ソ連空軍の爆撃機による空襲も始まります。
8月にバービイ・ヤールのシレツ強制収容所も爆撃され始めると、死体の掘り起し作業が・・。
「掘り起こし作業」の責任者として来たSS将校は、トパイデとなっていて、
注釈でもこのような名前のSS将校が戦後も見つからなかったということなので、
ひょっとするとこの人物は大虐殺を指揮したパウル・ブローベル自身と
特別行動1005部隊なのかも知れません。

german_babi-yar.jpg

しかし、当初はただ埋めていた死体を、戦局の悪化に伴う撤退と証拠隠滅のために
重機まで投入して掘り起こし、焼却するというのは、「トレブリンカ」と同じですね。
こうなるとSSのトップからの命令であったのは命令書がなくても判断できます。
それにしてもこの期に及んで、1年も2年も前の死体から、いちいち金歯を抜いたり・・と
このような話も逃亡者の一人であるダヴィドフの証言から詳しく書かれています。

babi-yar2.JPG

いよいよソ連軍はドニエプル河を渡って、キエフ市内は戦闘区域に・・。
著者の家にはドイツ軍の偵察チームが転がり込み、ソ連軍の激しい砲撃の前に、
ほうほうの体で戻ってきます。
そんなドイツ人の古参兵と17歳の少年兵との「交流」の場面は一番、印象的でした。

著者の祖母はすでに病気で死に、ドイツびいきだった祖父も
「ろくでなし!貴様らは死んじまえ、神様の火の唸りでやられちまえ!」と心を入れ替えてます。 
こうして2年前にやって来たドイツ軍は、今度は逆に向けて著者の目の前を通り過ぎて行くのでした。

Red Army engineers build a bridge across the River Dnieper, north-east of Kiev.JPG

読む前まで本書は「バービイ・ヤール大虐殺」を中心としたもの・・と想像していましたが、
2日間の大虐殺と、2年続いた収容所での悲惨な実情と反乱は
そこから生き残った者の証言によって数10ページに渡って構築されているものの、
実際は1941年9月にドイツに侵攻され、1943年暮れにソ連軍によって奪還されたキエフが
如何にして廃虚と化し、住民の1/3が失われたかを少年の目を通して見たものが軸であり、
祖父やママの食い違う意見に混乱し、解放者だったドイツ軍が冷酷な、
ならず者の殺し屋に変貌していくなかで、彼自身も戦争というものを理解しながら、
生き残る術を身に付けていく・・という、戦争ドラマの意味合いが強い印象を持ちました。

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著者アナトリー・クズネツォーフは1929年のキエフ生まれ。
1966年に検閲を受けつつ、ソ連で本書を発表し、2年後に亡命した英国で
未検閲版が1970年に出版されたということです。
本書は大光社から1967年に出版された翻訳版ですから、当然ソ連の検閲版です。
1970年の未検閲版は、同じタイトルで講談社から1973年に出ているようで、
どのくらい未検閲なのか、試しに読んでみたくなりましたが、恐ろしくレアな古書のようですね。
Amazonでは、17000円からとなっております。。





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