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君はヒトラー・ユーゲントを見たか? 規律と熱狂、あるいはメカニカルな美 [ヒトラー・ユーゲント]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

中道 寿一 著の「君はヒトラー・ユーゲントを見たか?」を読破しました。

武装SSではない、純粋な青年団としてのヒトラー・ユーゲント本は今回で3冊目になります。
以前の2冊はかなり良い本で、これ以上、勉強できる本があるとは思っていませんでしたが、
1999年発刊で254ページの本書は、
ヒトラー・ユーゲント -第三帝国の若き戦士たち-」にも触れられていた
1938年(昭和13年)の「ヒトラー・ユーゲント来日」をテーマにしたものです。
しかし、「君は見たか?」と言われても、「ボクは見た!」って答えられるのは
発刊当時でも65歳以上のおじいちゃんじゃなければ無理ですよねぇ・・。

君はヒトラー・ユーゲントを見た​か.jpg

まず、第1章「ヒトラー・ユーゲントとは?」で、ナチ党の青少年団でしかなかったものが、
ナチ党政権獲得以後、その他の数多く存在した青少年団を強引に吸収し、
国家として唯一の青少年団となった経緯を解説します。
反抗的な若者グループのひとつ、「エーデルヴァイス海賊団」にも触れて、
1944年秋、ケルン市のゲシュタポ本部長を殺害したかどで、
彼ら13名が「裁判抜きの公開絞首刑に処せられた」など初めて聞いた話もありました。
「エーデルヴァイス海賊団―ナチズム下の反抗少年グループ」でも買ってみようかなぁ。。

Hitlerjugend.jpg

続いて「日独青少年団交歓事業の経緯」の章へと移ります。
1936年11月、ヒトラー・ユーゲント指導者フォン・シーラッハより、日本の青少年団を招待し、
交流後、今度は一緒に日本に向かうという提案がなされます。
そして33歳のヒトラー・ユーゲント外国部長ラインホルト・シュルツェが
公式代表としてドイツ大使館に着任し、計画は現実的なものとなっていきますが、
まずは日本側から30名をドイツに派遣。その後、ヒトラー・ユーゲントが来日することで決定。
当時の日本には大日本連合青年団とか、大日本少年団連盟とか、帝国少年団協会とか
いろいろと青少年団が存在し、これらの中から団員が選抜。
代表団が一覧表になっていますが、19歳から25歳までで、平均は22歳くらいでしょうか。

Yoshinori Futara Baldur von Schirach Hitlerjugend Bremen 1937.jpg

そして1938年5月、神戸港から靖国丸に乗船する訪独派遣団一行。
第3章ではマルセイユからパリを経由して、7月2日にドイツ国境の街アーヘンに到着し、
歓迎を受けながらベルリンに到着する様子が詳しく書かれています。
カリンハルゲーリングを訪問したり、ヒトラー・ユーゲントらと1週間野営したりと
多忙な日程をこなしていると、8月には真新しい制服が完成します。
これは戦闘帽に団服、巻脚半にリュックといういでたちが「貧弱で惨めであった」と
在独日本人会によって作られたものです。
ヒトラー・ユーゲントの型に似ていて、緑のネクタイにねずみ色のワイシャツだそうです。

大日本青少年団独逸訪問.jpg

9月には訪独のメインイベントである、ニュルンベルクの党大会に出席。
第1日目にはホテルのバルコニーから姿を見せたヒトラーに感激し、
「BdMの団員の少女はもう泣いている」と彼らの記録から紹介。
第5日目の「ヒトラー・ユーゲントの日」の謁見に興奮するさまも興味深いですね。

Reichsparteitag 1938.jpg

ここまでも知らないことが多く、非常に楽しめる内容でしたが、
いよいよ来日するヒトラー・ユーゲント一行の様子は当時の新聞などを駆使して、
大変詳しく書かれています。
「彼らを多忙と疲労に陥れないよう、各地での行事は時間厳守、
簡素にして誠意のこもったものとし、神社、仏閣、史跡、青少年団生活、芸術、風俗、
武道に温泉」といったものを推奨して、北海道から九州まで、心構えを示します。
北原白秋作詞による「万歳ヒットラー・ユーゲント」といった曲も作られ、
コレは歌詞も載っていますが、かなりヒドイ・・。
ついでに曲も聞いてみましたが、輪をかけてヒドイ・・、酷すぎるぜ。。

ドイツ語.jpg

7月12日、訪独日本代表団の見送りを受けてブレーメンを出港し、8月16日に横浜港へ入港。
30名の団員は17歳~19歳がほとんどで、日本到着まで団長を務めるレデッカーくんでも20歳です。
その横浜港では数千の歓迎陣が迎えるなか、外国部長シュルツェが団長として感謝の辞を述べると
続いて副団長レデッカーくんが立派な日本語で「大日本帝国万歳!」を叫びます。

hitlerjugend 1938.jpg

東京駅に移動して日独大使や東京府知事らが出迎えるなか歓迎式典。
幹部団員はカーキ色の制服、団員たちは濃紺のユニフォームに襷掛けの白のベルトを結び、
胸には功績を示すバッジにハーケンクロイツの腕章、褐色のワイシャツに黒のネクタイという姿に
「これが青年団なのか」と驚きと賞賛の声が・・。
その機械的で美しく一糸乱れぬ行進も、すべての日本人を魅了するのに充分です。

Japanese crowds welcoming Hitler Jugend in front of Tokyo station.jpg

その後は現在の皇居である宮城広場へと行進し、明治神宮に靖国神社を参拝、
本日の宿泊は新橋の「第一ホテル」となっております。
3日後には最初の大きな行事、歓迎野営と富士登山。
日本の青少年団500名が待ち受けるなか、夏季用の真っ白なユニフォームで登場します。
「わぁ!」という歓声が巻き起こり、みな大興奮で写真を撮ったり・・。
ヒトラー・ユーゲントらも九合目で御来光を拝しながら、
富士山頂からの大パノラマに感嘆の声を上げるのでした。

ハイル! 天皇陛下.jpg

軽井沢では近衛首相の晩餐会が開かれますが、
食後には首相と共に円陣を作って歌ったりと大はしゃぎ。
「全く感激した。あんな遊びで僕たちも総理をいくらかでも慰めるのに役立ったと思う」と
20歳のシュレーターくんは感想を語ります。

近衛内閣総理大臣.jpg

ちなみに本書によると来日メンバーにはBdMの女子は入っていないそうですが、
在日ユーゲントも度々、合流したそうですから、このような写真もあるようですね。
しかし、このドイツ大使館と思われる庭ですが、さすが提灯もハーケンクロイツ・・!

Dinner at the German embassy on their first day in Japan.jpg

軽井沢からは東北、北海道を巡る旅。
わずかな停車時間でも各駅には女学生群が押し寄せ、
車窓に詰め寄ってのサイン攻めに、人形などのプレゼント攻撃が・・。
会津若松駅ではユーゲント一行がドイツ国歌に続き、「君が代」まで合唱します。
東山温泉の旅館では初めての純日本式ということもあって、
温泉に飛び込んだり、浴衣姿で刺身もパクついたり・・と日本を満喫。

Japanese girls doing a stage show for Hitler Jugend.jpg

翌日は飯盛山にある白虎隊の墓が参拝予定ですが
折からの雨と強風で中止しようとの意見も、彼らの強い希望で決行。
同年代の「白虎隊」に特に強い関心を持っていた彼らですが、
報道陣が写真を撮るために白虎隊の墓に上ったりする様に苦言も呈します。。

何を隠そう江戸時代から続く??日本舞踊の家系に育ったヴィトゲンシュタインは
子供の頃にこの「白虎隊」を演じたことがあるので、改めて興味を持ちました。
当時は「白虎隊」がなんたるか・・も知らず、たぶん、男らしく「刀」を使った演目が踊りたいという
要望を両親に出したんでしょう。覚えているのは最後に切腹で果てるトコだけですが・・。
「白虎隊」という本もいろいろ出ていますので、今度、なにか読んでみようと思います。

花の白虎隊.jpg

秋田、青森を経て、連絡船で函館に入港。そのまま札幌へ・・。
軽井沢で風邪でダウンしていた2名が合流しますが、
会津若松で転倒して怪我をしていたローターくんが治療のために残留することに・・。
仙台から東京へと戻ると、陸軍幼年学校を訪れ、日本刀鍛錬見学に、三越デパート見学、
相撲部屋見学、講道館にも行ったかと思えば、合間には外相招待のお茶会にも出席し、
夜には日比谷公会堂での朝日新聞社主催の歓迎大講演会とハードスケジュールをこなします。
ちなみに本書では多くの写真が掲載されていますが、
白鵬も敬愛する大横綱、双葉山との写真も出てきました。

Hitlerjugend visit to Yasukuni Shrine State Shintō wreath procession kannushi 1938.jpg

まだまだ、大島に渡ったり、鎌倉見物と続きますが、9月25日のせっかくの休養日、
由比ヶ浜海岸を散歩していたフォルタースドルフくんは海の中で溺れる20歳の娘を助ける羽目に。
当然、新聞にも大きく掲載。「盟友青年が救助/投身娘、感謝に泣く」

hitlerjugend in japan.jpg

明治神宮外苑陸上競技場での最大の歓迎行事が行われると、
10月から近畿、九州、四国を巡る旅に・・。
岐阜では鵜飼を見物し、名古屋城見学、愛知一中とのサッカーの試合では2-0と勝利し、
伊勢神宮参拝して松坂から奈良ホテルへ。
春日神社に大仏を拝んだ後、京都に到着。駅前広場では一般市民3万人の「万歳」の声の中、
二列縦隊でまたもや「一糸乱れぬ壮重な足どり」で東本願寺前まで行進。
こりゃ大変ですねぇ。

Hitlerjugend_1938 Meiji shrine.jpg

さすがにこの頃は班ごとに分かれて行動し、休養班も出来たと思えば
元気な希望者は比叡山にも登ります。
そして大阪ではその歓迎ぶりが最高潮に達し、沿道の観衆5万人が日独の国旗を打ち振って、
「天にも轟けよ!」とばかりに万歳を連呼。
大ブラスバンドの行進曲に合わせて右手を高く差しのべながら
新大阪ホテルまで行進するのでした。

Hitler Jugend 1938.jpg

四国に入ると瀬戸内海の景色に感動し、彼らが日本の発祥の地と語る九州にも上陸。
しかし文部省からこれまでと同じような歓迎行事や観光は慎むようにと伝達されていたものの、
さしものヒトラー・ユーゲントも繰り返される歓迎行事には辟易。。
サッカーやハンド・ボールの試合が若い彼らにはとても楽しめたようですし、
副団長レデッカーくんは「日本の異文化を理解することに相当疲れ、
最高の印象は富士山の荘厳な姿であり、江田島の海軍兵学校は
近代化の衣を着けたる日本武士道の神髄であった」と語ります。

Hitlerjugend meeting event with Japanese leaders 1938.jpg

九州を一周したあとも広島、神戸と訪れ、11月12日、ついに日本滞在最後の日を迎えます。
日本中が熱狂したヒトラー・ユーゲントですが、外務省の担当者の批判的な談話も。
「確かに彼らは体格も良く、眼鏡もかけていないが、途中病気で落伍した者の人数を数えれば
日本青年は断じて負けておらず、体力の問題ではなく、精神の問題である」。
さらに「良い青年たちだがナチス的な考え方しか知らず、自分というものがなく、
融通の利かない鈍重なドイツ人には鉄の如き規律の組織が適しているのだ」。

Hitlerjugend Japan 1938.jpg

それでも彼らヒトラー・ユーゲントが残した影響もあって、大きく3つに分かれていた
日本の青少年団も1941年に一元化されることになります。
また一回こっきりと考えていた日本に対し、ドイツ側から第2回を行いたいとの要望が来たものの、
1939年の独ソ不可侵条約の衝撃で平沼内閣が総辞職という事態もあって中止。。
しかし1940年には指導者6名の相互派遣が実現して、まずドイツ側が来日。
1941年2月には訪独団がベルリンに到着しますが、「独ソの風雲ただならぬ」として6月6日に出発。
21日に東京へと戻りますが、その翌日には「バルバロッサ作戦」が・・。

Hitler Youth Unity trip to Japan in 1942.jpg

著者は「ヒトラー・ユーゲントがやってきた」という本も1991年に出しており、
あとがきによると本書は、訪日部分を中心とした続編だということですが、
単なるヒトラー・ユーゲントものの一冊ではなく、
ナチス・ドイツにおける青年団と、今までまったく知らなかった日本の青年団との関係と
彼らの訪日が与えた影響、全国各地での国民の熱狂の様子、
そして何より、国内旅行記のような展開は、自分が如何に日本の名所を知らないかも教えられ、
出来ることなら、ヒトラー・ユーゲントの足跡を辿るかのように
夏休みにでも同じルートで全国行脚をしてみたくなりました。
とりあえず白虎隊のお墓参りにでも行こうかなぁ・・。





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