第10戦車師団戦場写真集 -東部および西部戦線、アフリカ戦線1939‐1943年- [パンツァー]
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
J.ルスタン、N.モレル共著の「第10戦車師団戦場写真集」を読破しました。
久しぶりに大日本絵画の大判の写真集をやっつけました。
著者の大判写真集は、「クルスクの戦い―戦場写真集」と「ハリコフの戦い―戦場写真集」を
過去に紹介済みで、2004年発刊、327ページの本書は
カレコレ5年前から読みたかったものですが、まぁ、定価6000円というのが・・。
でも3月に独破した「ドイツ機甲師団」の表紙がほとんど同じこともあって本格的に検討。
結局、新品同様の綺麗な古書を半額で手に入れました。
特別に有名な師団ではないという、確かにマニアックな一冊ですが、戦車に詳しくない方でも
後半に有名人が登場しますので、ど~ぞ、最後までお付き合い下さい。
最初の36ページは帯にも書かれている「車両のカラー側面図約90点」が掲載。
Ⅰ号戦車からⅥ号戦車ティーガーまでなのは当然ですが、ポーランド軍戦車や
英国軍、フランス軍の戦車、戦車以外にも榴弾砲にクルップ製のトラックまで
バリエーション豊富ですね。
続いて本文の第10戦車師団の歴史。といってもわずか3ページで概要というレベルです。
1939年4月に動員された師団は当初プラハに司令部が置かれ、
コレは占領任務も兼ねたものだったということです。
そして半年も経たない9月にはポーランド戦に参加。
編成表は細かく書かれていて、1個戦車連隊(第8戦車連隊)、1個歩兵連隊、
その他、対戦車部隊と偵察部隊、通信中隊に工兵大隊です。
8個中隊に分かれた戦車連隊の戦車戦力の表では、
後にクルップ製スポーツカーと呼ばれたⅠ号戦車が圧倒的に多く91両、
Ⅱ号戦車が20両、Ⅲ号12両、Ⅳ号戦車は4両というもの。
ポーランド戦にⅣ号戦車って出動してたんですねぇ。
さらに「おいおい、今更そんな・・」と言われることを承知で書きますが、
上部支持輪というキャタピラの上の転輪の数が3個なのがⅢ号戦車、
4個だとⅣ号戦車である・・・ということに気が付きました。。
そしていよいよ写真の出番です。
編成当初のプラハでの行進の様子に、初代師団長ガヴァントゥカ少将のポートレートが・・。
しかしこのガヴァントゥカ師団長は7月に死亡しています。
死亡原因は書かれていませんが、2代目師団長となったのはフェルディナント・シャールです。
お~、この将軍の名は聞いたことがありますねぇ。
ポーランド戦ではブレスト要塞攻略に参加。
東から攻め込んできたロシア軍と出会い、グデーリアンが協議の末、
この土地の管理をロシア側に移管する有名な写真も出てきました。
翌年のフランス電撃戦。
第7戦車連隊が加わり、2個戦車連隊編成となった第10戦車師団。
その第7戦車連隊の編成はⅠ号戦車は20両に激減し、Ⅱ号戦車が77両、
Ⅲ号25両、Ⅳ号戦車は18両というもの。第8戦車連隊もほぼ同数ですが、
この時点でも中心となるのは、まだⅡ号戦車なのが良くわかります。
進撃する写真ではⅠ号戦車の車体を流用した「自走15㎝重歩兵砲」の姿が微笑ましいですね。
ムーズ川を渡河し、ストンヌでの激しい戦闘の写真とグロースドイッチュランドの突撃砲が出てくると
思い出しました。「電撃戦という幻〈下〉」で印象的だった戦いのことですね。
そしてクライスト装甲集団の証である「K」のマークを車両に描いた師団は、
カレーでの激戦からリヨンまで進撃・・。
この町のルノーの工場を使って消耗した車両の整備を行い、軍隊式パリ観光も実施するのでした。
この戦役終了後に本書の表紙の有名な写真と、「ドイツ機甲師団」のカラー写真が、
本国の雑誌の巻頭ページを飾ったということですが、
砲塔部分に描かれている「バイソン」が第7戦車連隊のマークなんだだそうです。
続く章は「ロシア侵攻」です。
再度、編成表を確認しますが、遂にⅠ号戦車は姿を消し、Ⅱ号戦車が40両、
Ⅲ号104両、Ⅳ号戦車は20両というもの。
Ⅲ号戦車が中心となったのは良くわかりますが、Ⅳ号戦車はほとんど増えてません。
それどころか第8戦車連隊が無くなって1個戦車連隊に逆戻り・・。
コレは「バルバロッサ作戦」に向けて、ヒトラーが装甲師団を増やすように要請したことによるもの
なんでしょうね。紙の上の装甲師団数は増えても戦力は変わらず・・というヤツです。。
フランス戦での「K」のマークから、グデーリアン集団の証である「G」のマークに変更した
第10戦車師団。
架橋大隊がブグ川に橋を架けると、その橋には「グデーリアン大将橋」との看板が・・。
そして戦死者の墓には十字架にヘルメットがかぶせられますが、
その脳天に大穴がパックリ開いて、ひび割れているヘルメットの写真は印象的です。
いったい彼は、どんな死に方をしたのでしょう・・。
8月、シャール師団長が軍団長へと転出し、旅団長だったフィッシャー大佐が後任に選ばれます。
お~と、この人も知ってます。「グリーン・ビーチ」に出てきた将軍ですね。
10月には遅ればせながらモスクワを目指す「タイフーン作戦」に参加。
ヘプナーの第4装甲集団のシュトゥンメの第40軍団に配属されます。
このシュトゥンメも聞いたことある名前ですが、
北アフリカでロンメルの代わりに心臓発作で死んでしまった人ですか・・。
夏から冬へと変わっていく写真の数々。。
第10戦車師団と連携して作戦した武装SS「ライヒ」師団の若い兵士が、
負傷した陸軍兵士をおんぶして運んでくる写真も良いですね。
酷寒のロシアの土地は凍りつき、「第10戦車師団(Panzer-Division)」は
第10ソリ師団(Panje-division)になってしまった・・」と言い合うほど、
重宝するのは馬橇です。。
1942年4月の春休み、第10戦車師団は再編成のためにフランスへ。
夏には英加軍による「ディエップ奇襲」が起こり、海岸に乗り捨てられたチャーチル戦車に対して
ちょうど良いとばかりに射撃訓練をする様子が・・。
師団長フィッシャーも中将へ昇進して、北アフリカで後退中のアフリカ軍団を救うため、
マルセイユからナポリを経て、イタリア海軍の駆逐艦の船旅をする兵士たちや
車両は超大型輸送機「ギガント」に乗ってチュニジアまで。
早速撃破した英軍のクルセイダー戦車の検分をするのはロンメル元帥です。
そしてティーガー戦車を揃えた第501重戦車大隊も登場し、後に連隊に配属となるわけですが、
こういうのが出てくると、「重戦車大隊記録集〈1〉陸軍編」を買わなくちゃって気になりますね。。
しかしキチンと標識を設置していなかったイタリア軍の地雷原に
誤って入り込んだフィッシャー師団長が爆死・・。
後任にフォン・ブロイヒ少将が・・。
この人はなんとなく聞いたことがある・・と調べると、シュタウフェンベルクとの写真を思い出しました。
本書にもこの ↑ 写真が掲載されていましたが、ロンメルと参謀長のバイエルラインが
顔の写っていないブロイヒと第10戦車師団作戦参謀シュタウフェンベルクになにやら語る・・という
初見の写真も登場。
こんなところでロンメルとシュタウフェンベルクは会話してたんですねぇ。
そして1ヶ月後には、連合軍の航空機攻撃によって片目、片腕を失うこととなり、
シュタウフェンベルクは「ワルキューレ」へと突き進んで行くのです。。
カセリーヌ峠の戦いにおけるシディ・ブー・ジッドで第7戦車連隊に撃破された
米軍シャーマン戦車の一連の写真もとても印象的でした。
開けた土地で行軍隊形のまま大破した初陣の米第1機甲連隊・・。
経験豊富なⅣ号戦車とティーガーの恰好の標的となったようです。
また、米軍捕虜たちの写真も何枚かありますが、ニヤニヤ、チャラチャラした連中も多く、
これじゃ総統大本営が「米軍は弱い」と考えたのも無理はないと思いました。
ですが、戦局は物量に勝る連合軍が優勢。
ティーガーも自らの手で破壊し、鹵獲したヴァレンタイン戦車も遺棄して後退を続け、
最後の写真ではチュニジアの戦時捕虜収容所がドイツ兵で溢れ返っています。
初戦のポーランドからフランス、ロシアと戦い続けてきた第10戦車師団は、
この北アフリカの地で全滅し、2度と再編されることはありませんでした。
タイトルが「写真集」となっているとおり、ありがちな戦記や個人の日記は一切ありません。
しかし時系列で豊富な写真と、そのキャプションを読むだけで、
この師団の歴史がキチンと理解できるものでした。
5時間ほどかけて読みましたが、満足度の高い一冊でした。
次の大日本絵画の大判の写真集としては、「重戦車大隊記録集〈1〉陸軍編」を
まずやっつけるつもりですが、本書の著者J.ルスタンのもう一冊、
「続・クルスクの戦い―戦場写真集北部戦区1943年7月」が先になるかも知れません。。
などと考えながら、昨日たまたま立ち寄った本屋さんの入り口に貼っていたポスター・・、
DeAGOSTINI の「隔週刊 コンバット・タンク・コレクション」。。
今週から発売で初回は890円也!
小走りに入って立ち読みしてみると、グロースドイッチュランドのティーガーE型の
1/72のコレクション・タンク付きでした。詳しくはコチラをどうぞ。
いや~、でも数年前に「鉱石」のシリーズを買いましたけど、1週買いそびれて挫折した・・
という苦い経験があるので、コレは悩みます。。
J.ルスタン、N.モレル共著の「第10戦車師団戦場写真集」を読破しました。
久しぶりに大日本絵画の大判の写真集をやっつけました。
著者の大判写真集は、「クルスクの戦い―戦場写真集」と「ハリコフの戦い―戦場写真集」を
過去に紹介済みで、2004年発刊、327ページの本書は
カレコレ5年前から読みたかったものですが、まぁ、定価6000円というのが・・。
でも3月に独破した「ドイツ機甲師団」の表紙がほとんど同じこともあって本格的に検討。
結局、新品同様の綺麗な古書を半額で手に入れました。
特別に有名な師団ではないという、確かにマニアックな一冊ですが、戦車に詳しくない方でも
後半に有名人が登場しますので、ど~ぞ、最後までお付き合い下さい。
最初の36ページは帯にも書かれている「車両のカラー側面図約90点」が掲載。
Ⅰ号戦車からⅥ号戦車ティーガーまでなのは当然ですが、ポーランド軍戦車や
英国軍、フランス軍の戦車、戦車以外にも榴弾砲にクルップ製のトラックまで
バリエーション豊富ですね。
続いて本文の第10戦車師団の歴史。といってもわずか3ページで概要というレベルです。
1939年4月に動員された師団は当初プラハに司令部が置かれ、
コレは占領任務も兼ねたものだったということです。
そして半年も経たない9月にはポーランド戦に参加。
編成表は細かく書かれていて、1個戦車連隊(第8戦車連隊)、1個歩兵連隊、
その他、対戦車部隊と偵察部隊、通信中隊に工兵大隊です。
8個中隊に分かれた戦車連隊の戦車戦力の表では、
後にクルップ製スポーツカーと呼ばれたⅠ号戦車が圧倒的に多く91両、
Ⅱ号戦車が20両、Ⅲ号12両、Ⅳ号戦車は4両というもの。
ポーランド戦にⅣ号戦車って出動してたんですねぇ。
さらに「おいおい、今更そんな・・」と言われることを承知で書きますが、
上部支持輪というキャタピラの上の転輪の数が3個なのがⅢ号戦車、
4個だとⅣ号戦車である・・・ということに気が付きました。。
そしていよいよ写真の出番です。
編成当初のプラハでの行進の様子に、初代師団長ガヴァントゥカ少将のポートレートが・・。
しかしこのガヴァントゥカ師団長は7月に死亡しています。
死亡原因は書かれていませんが、2代目師団長となったのはフェルディナント・シャールです。
お~、この将軍の名は聞いたことがありますねぇ。
ポーランド戦ではブレスト要塞攻略に参加。
東から攻め込んできたロシア軍と出会い、グデーリアンが協議の末、
この土地の管理をロシア側に移管する有名な写真も出てきました。
翌年のフランス電撃戦。
第7戦車連隊が加わり、2個戦車連隊編成となった第10戦車師団。
その第7戦車連隊の編成はⅠ号戦車は20両に激減し、Ⅱ号戦車が77両、
Ⅲ号25両、Ⅳ号戦車は18両というもの。第8戦車連隊もほぼ同数ですが、
この時点でも中心となるのは、まだⅡ号戦車なのが良くわかります。
進撃する写真ではⅠ号戦車の車体を流用した「自走15㎝重歩兵砲」の姿が微笑ましいですね。
ムーズ川を渡河し、ストンヌでの激しい戦闘の写真とグロースドイッチュランドの突撃砲が出てくると
思い出しました。「電撃戦という幻〈下〉」で印象的だった戦いのことですね。
そしてクライスト装甲集団の証である「K」のマークを車両に描いた師団は、
カレーでの激戦からリヨンまで進撃・・。
この町のルノーの工場を使って消耗した車両の整備を行い、軍隊式パリ観光も実施するのでした。
この戦役終了後に本書の表紙の有名な写真と、「ドイツ機甲師団」のカラー写真が、
本国の雑誌の巻頭ページを飾ったということですが、
砲塔部分に描かれている「バイソン」が第7戦車連隊のマークなんだだそうです。
続く章は「ロシア侵攻」です。
再度、編成表を確認しますが、遂にⅠ号戦車は姿を消し、Ⅱ号戦車が40両、
Ⅲ号104両、Ⅳ号戦車は20両というもの。
Ⅲ号戦車が中心となったのは良くわかりますが、Ⅳ号戦車はほとんど増えてません。
それどころか第8戦車連隊が無くなって1個戦車連隊に逆戻り・・。
コレは「バルバロッサ作戦」に向けて、ヒトラーが装甲師団を増やすように要請したことによるもの
なんでしょうね。紙の上の装甲師団数は増えても戦力は変わらず・・というヤツです。。
フランス戦での「K」のマークから、グデーリアン集団の証である「G」のマークに変更した
第10戦車師団。
架橋大隊がブグ川に橋を架けると、その橋には「グデーリアン大将橋」との看板が・・。
そして戦死者の墓には十字架にヘルメットがかぶせられますが、
その脳天に大穴がパックリ開いて、ひび割れているヘルメットの写真は印象的です。
いったい彼は、どんな死に方をしたのでしょう・・。
8月、シャール師団長が軍団長へと転出し、旅団長だったフィッシャー大佐が後任に選ばれます。
お~と、この人も知ってます。「グリーン・ビーチ」に出てきた将軍ですね。
10月には遅ればせながらモスクワを目指す「タイフーン作戦」に参加。
ヘプナーの第4装甲集団のシュトゥンメの第40軍団に配属されます。
このシュトゥンメも聞いたことある名前ですが、
北アフリカでロンメルの代わりに心臓発作で死んでしまった人ですか・・。
夏から冬へと変わっていく写真の数々。。
第10戦車師団と連携して作戦した武装SS「ライヒ」師団の若い兵士が、
負傷した陸軍兵士をおんぶして運んでくる写真も良いですね。
酷寒のロシアの土地は凍りつき、「第10戦車師団(Panzer-Division)」は
第10ソリ師団(Panje-division)になってしまった・・」と言い合うほど、
重宝するのは馬橇です。。
1942年4月の春休み、第10戦車師団は再編成のためにフランスへ。
夏には英加軍による「ディエップ奇襲」が起こり、海岸に乗り捨てられたチャーチル戦車に対して
ちょうど良いとばかりに射撃訓練をする様子が・・。
師団長フィッシャーも中将へ昇進して、北アフリカで後退中のアフリカ軍団を救うため、
マルセイユからナポリを経て、イタリア海軍の駆逐艦の船旅をする兵士たちや
車両は超大型輸送機「ギガント」に乗ってチュニジアまで。
早速撃破した英軍のクルセイダー戦車の検分をするのはロンメル元帥です。
そしてティーガー戦車を揃えた第501重戦車大隊も登場し、後に連隊に配属となるわけですが、
こういうのが出てくると、「重戦車大隊記録集〈1〉陸軍編」を買わなくちゃって気になりますね。。
しかしキチンと標識を設置していなかったイタリア軍の地雷原に
誤って入り込んだフィッシャー師団長が爆死・・。
後任にフォン・ブロイヒ少将が・・。
この人はなんとなく聞いたことがある・・と調べると、シュタウフェンベルクとの写真を思い出しました。
本書にもこの ↑ 写真が掲載されていましたが、ロンメルと参謀長のバイエルラインが
顔の写っていないブロイヒと第10戦車師団作戦参謀シュタウフェンベルクになにやら語る・・という
初見の写真も登場。
こんなところでロンメルとシュタウフェンベルクは会話してたんですねぇ。
そして1ヶ月後には、連合軍の航空機攻撃によって片目、片腕を失うこととなり、
シュタウフェンベルクは「ワルキューレ」へと突き進んで行くのです。。
カセリーヌ峠の戦いにおけるシディ・ブー・ジッドで第7戦車連隊に撃破された
米軍シャーマン戦車の一連の写真もとても印象的でした。
開けた土地で行軍隊形のまま大破した初陣の米第1機甲連隊・・。
経験豊富なⅣ号戦車とティーガーの恰好の標的となったようです。
また、米軍捕虜たちの写真も何枚かありますが、ニヤニヤ、チャラチャラした連中も多く、
これじゃ総統大本営が「米軍は弱い」と考えたのも無理はないと思いました。
ですが、戦局は物量に勝る連合軍が優勢。
ティーガーも自らの手で破壊し、鹵獲したヴァレンタイン戦車も遺棄して後退を続け、
最後の写真ではチュニジアの戦時捕虜収容所がドイツ兵で溢れ返っています。
初戦のポーランドからフランス、ロシアと戦い続けてきた第10戦車師団は、
この北アフリカの地で全滅し、2度と再編されることはありませんでした。
タイトルが「写真集」となっているとおり、ありがちな戦記や個人の日記は一切ありません。
しかし時系列で豊富な写真と、そのキャプションを読むだけで、
この師団の歴史がキチンと理解できるものでした。
5時間ほどかけて読みましたが、満足度の高い一冊でした。
次の大日本絵画の大判の写真集としては、「重戦車大隊記録集〈1〉陸軍編」を
まずやっつけるつもりですが、本書の著者J.ルスタンのもう一冊、
「続・クルスクの戦い―戦場写真集北部戦区1943年7月」が先になるかも知れません。。
などと考えながら、昨日たまたま立ち寄った本屋さんの入り口に貼っていたポスター・・、
DeAGOSTINI の「隔週刊 コンバット・タンク・コレクション」。。
今週から発売で初回は890円也!
小走りに入って立ち読みしてみると、グロースドイッチュランドのティーガーE型の
1/72のコレクション・タンク付きでした。詳しくはコチラをどうぞ。
いや~、でも数年前に「鉱石」のシリーズを買いましたけど、1週買いそびれて挫折した・・
という苦い経験があるので、コレは悩みます。。