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健康帝国ナチス [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ロバート・N. プロクター著の「健康帝国ナチス」を読破しました。

先日、不覚にも風邪をひいてしまい、病院へ行ってきました。
風邪で病院に行ったのは小学生以来でしたが、
大きな怪我や病気もしたことないヴィトゲンシュタインも、
認めたくはなくとも立派な中年なので健康には気を使うようになってきました。
そんなことで数年前からチェックしていた、2003年発刊でちょっとトボけたようなタイトルの
373ページの本書を選んでみましたが、原題は「ナチスのガン戦争」という感じでしょうか?

去年の7月に「ナチスの発明」という、気軽な本を読んだ際に、
ナチスが「ガン対策」にも取り組んでいた・・というのを知りましたし、
その4ヵ月後に読んだ「アドルフ・ヒトラー[1] 」でも、最愛の母、クララが乳ガンで死去し、
嘆き悲しむヒトラー少年の話もありましたから、下準備は完了しています。

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本書ではまず、20世紀初頭のドイツが豊かな工業先進国であると同時に、
ガンの発生率が急増。1900年には世界に先駆けて国立のガン対策機関が設けられますが、
1928年には結核を抜いて死亡原因の第2位となり、1930年代には毎年、
ドイツのガンによる死亡数は10万人、ガン患者は50万人を数えた・・という歴史を紹介。

ナチス政権になるとシュトライヒャーや、党衛生指導者レオナルド・コンティらが提唱した
ガン撲滅運動プロパガンダが広まり、その中心となるのは「早期発見」です。
これは手遅れのガン治療よりも、予防に重点を置いたもので、
特に女性の子宮ガンや乳ガンの治療の可能性を高くするため、
大々的な宣伝活動をしつつ、診察所や病院での大量検査、そしてガンと診断されれば
すぐに入院させて、無料で治療を施す・・という徹底ぶりです。
いかにも女性を大事にするナチス政府とヒトラーの政策のような感じがしますね。

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しかし同時にナチスの政策でも最も有名なユダヤ人排除も進みます。
ベルリンのガン研究所の研究者13人中、12人が職を失っている・・と、
この分野でユダヤ人の研究者や医者がいかに多かったかがわかろうというものです。

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ナチ党の幹部はというと、副総裁のヘスは同毒療法の信者で、自然医療も尽力。
ヒトラーとの昼食会に自分専用の料理を持ち込んで、大いにヒンシュクを買ったり、
同じく自然療法信奉者のヒムラーは、ダッハウ強制収容所に温室を作り、
さまざまな種類の薬草や香草類を栽培し、土着療法の実験を援助し続けます。
人体の「生体熱」の効果を証明しようと、氷のように冷たい海に落ちたパイロットを想定して、
凍死寸前にした人間を女性被収容者に無理やり全裸で抱かせる・・といった
強制収容所での悪名高い実験についても説明しています。

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しかし本書ではこのヒムラーの実験をオカルト的に面白おかしく紹介しているわけではなく、
「全裸で抱かせる」のは別として、摂氏10度の海上で3時間たった場合、
生存の可能性があって、救出の努力に値するかどうかの軍事衛生学的回答を
軍が得ようとしたものであるとしています。

中盤は原題のとおり、ガンに対する話が中心です。
1943年、早くもアスベストに起因する肺ガンを労災と認定して保障対象としたナチス。
そしてそのようなナチス・ドイツに関する研究はすべて無視しようとする
戦後の西側諸国の風潮やナチス後遺症にも言及します。

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ここまで半分ほど読んで気がついた点は、ナチスの健康対策というものは
1930年代と、戦争の始まった1940年代ではその考え方が大きく違うことです。
1933年に政権を取ってからは、工場や採掘場で働くドイツ国民の健康を考えたものですが、
開戦してからは、軍へ徴兵されたドイツ人労働者の代わりに、
ポーランド人や政治犯、戦争捕虜などが強制労働でドイツ国内で働くことに・・。
そうなると結局は、労働者の健康などは知ったことではなく、それどころか
ドイツ人の配給の半分・・という劣悪な状況で散々、働かされた挙句、
病気にでもなろうものなら、強制収容所行き・・になってしまいます。

また、化学工場でもアウシュヴィッツのI・G・ファルベン工場を例に挙げ、
入院者は全体の5%と定めていることから、病人がそれを超えれば医師による「選別」が行われ、
ビルケナウのガス室行き。。

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本書では所々でプロパガンダ・キャンペーンのポスターなどが出てくるのが楽しいですね。
漂白した「化学製品」に過ぎない白パンではなく、国民の健康向上のため奨励された「全粒パン」や
「健康診断」の促進に、「禁煙」・・。
本書の表紙の中央も煙草と葉巻、パイプを蹴り出す当時のポスターが使用されています。
ヒトラー・ユーゲントの手帳には「栄養摂取は個人の問題ではない!」と書かれ、
この論理は宣伝ポスターでも繰り返されます。「お前の身体は総統のもの!」
合成着色料や保存料を使わない自然食品、脂肪が少なく、繊維質の多いものを食べ、
コーヒー、アルコール、煙草といった刺激物に、缶詰も極力控えるという国家スローガンです。

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ヒトラーが菜食主義者になった経緯も仮説を展開し、母、クララの乳ガンの思い出と
彼がガンを恐れていたかも検証しますが、やっぱりココでもSS全国指導者ヒムラーの
マニアックぶりが上を行っていますね。
1940年8月にハイドリヒと協力して、SS隊員の肥満撲滅計画に着手し、
SS隊員に禁酒、禁煙、菜食を要請したということですが、
「この酷な要請がどれほど功を奏したかは不明である・・」。

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「ベルリン西部で最も食事が乏しく、不味いのはゲッベルス家であった」と紹介される宣伝大臣。
食物にまったく頓着せず、好物のニシンと茹でたジャガイモをひたすら食べ続け、
客にも平気でそれを出した。。。
一方、ゲーリング・・といえば、まぁ、なんでも呑んで食って・・ですから、
この政策と本書には、なんの関係もありません。

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アルコールについては1933年という早い時期から「アルコール撲滅作戦」が実行され、
「国民労働の日」はアルコール抜きとされたそうです。
アルコール飲料の広告も未成年者を対象にした図柄は禁止され、
「衛生効果」や「食欲増進効果」といったキーワードもNG・・。

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悪名高い大酒呑みの労働戦線ロベルト・ライが職場でアルコールを飲む習慣を廃止しようと
圧縮してブロック状にした紅茶を配布する「紅茶作戦」を大々的に開始。
ノンアルコール・ビールの開発に、りんごジュースを飲みましょうキャンペーン・・。
痛飲に喫煙を日々、規則正しく続けているヴィトゲンシュタインでも
この健康的なキャンペーンには便乗していました。
つがる100%りんごジュースを朝の起きぬけにググっと一杯・・。10年以上は続けてますねぇ。

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後半は個人的に一番興味のあった煙草と肺ガン・・。
ナチスの煙草撲滅政策と、禁煙ガム、禁煙薬、催眠術といった禁煙法も盛んに・・。
1938年には空軍の基地内、役所に病院が禁煙となり、国内の列車には禁煙車が登場し、
違反者には2ライヒスマルクの罰金が・・。う~む。。最近の日本のようですね。。
ヒムラーも制服警官とSS将校の職務中の禁煙を告知したそうですが、
本書では私服のゲシュタポは例外だったようだ・・と。

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こうなってくると煙草の広告もアルコールと同様に規制が厳しくなります。
煙草を吸うことが男らしいという印象を与えるような図柄は禁止。
スポーツ選手やパイロットなど、魅力的な仕事に就いている若い男性の図柄は禁止。
女性向けの煙草広告も、もちろん禁止。

ヒトラーの煙草嫌いは良く知られていて「エヴァ・ブラウン」にも書きましたが、
「兵士が煙草なしでは生きていけないなどというのは誤りである」とし、
戦争終結後には兵士への煙草配給を必ず廃止すると、軍隊への喫煙許可を後悔していたそうです。
しかし戦局が長引くと、前線で煙草を吸う兵士たちは増えるいっぽうで、
戦闘後に気持ちを落ち着かせるためのアルコールに、
身体に悪いとされる保存料タップリの缶詰も必需品であり続けます。。

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「反煙草キャンペーン」がこのように繰り広げられたものの、
結局は煙草の消費には影響を及ぼさず・・だったことについて、
その高額な煙草税が経済省を煙草擁護派にし、
また国民の反ナチス的な感情もあったのでは、としていますが、
そう思えば、中学2年生のときから、パートナーに始まって、マイルドセブン、
そして今はケントの3㎎と、一日も休むことなく喫煙を続けているヴィトゲンシュタインも
もともとは、反社会的行動から始まっていますので、
もし子供の喫煙が許可されていたら、煙草なんか吸っていなかったかもしれません。。

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最後はメンゲレなどに代表されるナチスの医学犯罪にも触れます。
1942年の秋に建設が開始された、第三帝国ガン研究所の話では、
実はそれが「生物兵器製造施設」だったのではないか・・?

そして現在でも広く使われている解剖学のテキストで、正確さとリアルさで評価の高い
「ペルンコップ臨床局所解剖学アトラス」がナチスの犠牲者によるものではないか・・という問題。
この反道徳的なものであると同時に医学的に価値のあるものをどうすべきか・・?
出版禁止にするべきか、図書館の棚から撤去するべきか?
あるいは犠牲者に献辞を記すべきか・・?

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思っていたより、とてもシッカリと書かれた一冊でした。
最初から最後まで、著者が何度となく「ナチスを肯定するつもりはない」と書いているように
「ナチス=悪」という前提を捨てて、その時代の、その政府で行なわれていたことを
冷静に評価しようという姿勢は、とても好感が持てました。

よく「SSモノ」で、様々な思惑が入り乱れて一枚岩の組織などではなかった・・
という話がありますが、本書でも同様に、ナチス政府自体が一枚岩ではなく、
なにかひとつの政策でも、それを推進しようとする組織と反対する組織が存在し、
さらにはヒトラーを筆頭にゲッベルス、ゲーリング、ヘスにヒムラーなどの幹部の
各々の考えにも振り回される、まさにカオスと呼ぶべき混沌とした政府のように感じました。

ガンについての知識をつきましたし、本書のレビューも、こうして無事、書き終わりましたので、
とりあえず、煙草で一服しながらビールでも呑みますか。。



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母と子のナチ強制収容所 回想ラーフェンスブリュック [女性と戦争]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

シャルロッテ・ミュラー著の「母と子のナチ強制収容所」を読破しました。

この「ラーフェンスブリュック強制収容所」というのは、主に女性専用ということもあって
それなりに知られているところです。
独破戦線では、ちょうど1年ほど前に「ナチズムと強制売春 -強制収容所特別棟の女性たち-
という本で、この女性収容所にも触れていました。
そんな経緯もあって、1989年発刊で224ページのこの特殊な収容所の
女性被収容者の回想に恐々、挑戦してみました。
ちなみに本書やwikiでは「ラーフェンスブリュック(KZ Ravensbrück)」ですが、
ココでは「ラーヴェンスブリュック」で統一しています。

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1942年4月、「保護拘置」と呼ばれるラーヴェンスブリュック行きを言い渡されたシャルロッテ。
1901年生まれの彼女は、1928年に共産党に入り、その5年後にヒトラーが政権を取って、
共産党の活動が非合法なものになると、同志の裏切りによって窮地に陥り、
必死の思いでオランダの国境を越えることに・・。
その後、ベルギーへと移りますが、この中立国に電撃戦で攻め込んできたドイツ軍・・。
ゲシュタポに逮捕され、反逆準備罪で15ヶ月の禁固刑。
やっと服役を終えた彼女を待っていたのが、ラーヴェンスブリュック行きだったのです。

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青と灰色の縞模様の囚人服に、逆三角形に囚人番号が書かれたワッペンを手渡されますが、
この逆三角形は色で識別され、紫は宗教家、緑は犯罪者、黒なら社会からの落ちこぼれ、
そして彼女の赤は政治犯を意味し、他にもアルファベットで国籍も表されます。

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最初に振り分けられたのは「新入りブロック」。
ブロック長は前科42回を誇る、緑のワッペンを付けたオーストリア女、ハンジーです。
新入りが隠し持っている結婚指輪などを取り上げて、個人の財産にし、
狭い部屋の中で、身動ぎもせず、座っていなければなりません。
ロシアやウクライナから来た婦人たちに狙いを定めて虐め、
言葉も通じない病気の少女も虐待されて死んでしまいます。

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シャルロッテは修理屋だった父親を手伝っていたおかげで、収容所での修理係に任命・・。
それまでSS隊員が行っていた水道管や排水の修理や電気器具の故障などを
モスクワの医学生だったマリアらを助手にして、働き始めます。
SSの監視もゆるい、この仕事によって、他のブロックの同胞の政治犯(共産主義者や反ナチ)と
密かに交流することも可能になるのでした。

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ココからは、収容所生活のエピソードが5ページ程度の短い章で語られていきます。
1日2回の点呼は長い時間、立ちっぱなしにされることもしばしば・・。
冬の寒さのなかで病気で倒れてしまう人を助け合い、
このようなときにお腹を空かせた彼女たちがいつも話題にするのは料理の作り方です。
「私のところじゃ、こうして作るの・・」。
男たちは前線や収容所では、地元の家庭料理をたらふく食べることを話題にしますが、
さすが、女性ですね。。

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この女性専用の収容所では看守長も女性です。
なんの理由もなく、点呼の列に割り込んで殴りかかり、
点呼を拒否した宗教家たちを狭い独房に20人も閉じ込め、真っ暗な中、食事も与えられず、
この責め苦に耐えきれずに多くが死んでいきます。
脱走したジプシーの女性が捕えられると、めった打ちにされたうえ、犬が飛びかかります。
飛び出した内臓をを押さえて哀れに泣き叫び、やがて死んでしまうのでした。。

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SS隊員に媚びへつらい、仲間の囚人に暴力を振るう一般的に「カポ」と呼ばれる囚人頭ですが、
本書では「ブロック長」と呼ばれます。
そして収容所側としてはSSのスパイとなるような犯罪者などの人物を「ブロック長」に
任命しようとしますが、反抗的な彼女たちによって逆に混乱を招く結果になることも・・。
そのため、「ブロック長」には彼女たちが選んだ信頼できる女性が就くことも多かったそうです。

また、SS看守は男女が混在していますが、女看守の凶暴性も際立ってますね。
特に女看守長のビンツ・・。
先日、映画「愛を読むひと」を観ましたので、彼女たちには興味があります。
ドイツ人女性にとって工場で働くより、単純に給料が良かった・・なんて話もありますし、
以前に「ゲシュタポ -恐怖の秘密警察とナチ親衛隊-」でUPした、
鬼みたいな顔をした女看守は単なるサディストのようで恐ろしい・・。

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そしてこの収容所には多くの子供の姿もあります。
ハイドリヒ暗殺の報復として選ばれた「リディツェ村」の大虐殺を生き残った
200人の女性と子供も送り込まれてきます。
しかし収容所側にとっては、仕事もできない子供はただの厄介者にしか過ぎません。
昼間は棟から出てはいけない、おもちゃを与えてはいけないなどの特別規則が・・。
子供用の囚人服や靴もなく、大人用のブカブカを身にまとい、隅っこでジッとしているだけ・・。
泣いていれば、女看守がやって来て、殴るだけ殴って押し入れに閉じ込めます。
そんな大人の世界を真似た子供たちの遊びはアウシュヴィッツ行きを真似た「囚人移動」に
「点呼」、そして「死ぬこと」といったものです。

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牛ムチを使用した「25回のムチ打ち刑」。
ドイツ軍の迷彩服用生地の裁断作業。
母親のいない子供の面倒を、わが子のように見る「収容所のママ」。
チフスで死んでいく者や、精神病となった者の悲惨な末路・・。
レニングラードから連行されてきた女医は、死体解剖室でSSの医者が医学研究に必要とする
臓器の摘出をやらされています。
1944年秋には遂に自前の「ガス室」も完成し、老人や病人5000人以上が
殺されたということです。
ラーヴェンスブリュックにガス室があったというのは初めて知りました。

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この1944年にもなると東部ポーランドにソ連軍が迫り、アウシュヴィッツなどの収容所も
西へと撤退。それらの囚人がラーヴェンスブリュックに流れ込み、収容者の数は膨れ上がり、
新たなバラックやそれに続く道路が彼女たちの労働によって作られます。
機械で引っ張るような大きな「地ならしローラー」が運び込まれ、
わざわざ一度も肉体労働などしたことのなさそうな婦人たちのグループが編成されます。
重たいローラーを手で引っ張り、ローラーに巻き込まれて足が潰れたり、亡くなったり・・。

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何度か登場する収容所所長の名はフリッツ・ズーレンSS大尉です。
1944年のクリスマスに向け、400人の子供たちのためにパーティを開催しようという企画も
迫るソ連軍の情報に動揺しているズーレンは珍しく許可を出します。
もちろんこれは、いざとなった時に「人道的であった」と証言してもらうために他なりません。
森林作業班がモミの木を持ち込み、みんなで子供の手袋や靴下、人形の編み物を・・。

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1945年にはベルナドッテが団長を務めるスウェーデン赤十字の視察団のための茶番が
盛大に行われますが、こっそりと真実を伝えようと代表団に耳打ちする者も・・。
このベルナドッテはヒムラーシェレンベルクと休戦交渉した人物ですね。
こうして4月27日、いよいよラーヴェンスブリュックも撤退を開始。
西を目指す「死の行進」が始まるのでした。

「訳者あとがき」によると1981年の原著の抄訳だということですが、
日本語版向けに写真や挿絵も多く掲載しています。
それほどボリュームはありませんから、3時間ほどで独破してしまいましたが、
まぁ、それでもこの手の本は疲れますね・・。
実は著者が生粋の「共産党員」ということもあって、大げさに書いているかも・・と
疑いながら読んでいましたが、ひとつひとつのエピソードはとても印象的で
女性らしい繊細さと、その苦悩が充分伝わってくるものでした。



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ヒトラーとスターリン -死の抱擁の瞬間- 〈下〉 [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

アンソニー・リード, デーヴィッド・フィッシャー共著の「ヒトラーとスターリン〈下〉」を読破しました。

上下2段組で326ページという結構なボリュームのあった上巻よりも
「こっちの方が厚そうだなぁ」と後ろのページをめくってみると、676ページ・・?。
なんとページは上巻から引き続いているんですねぇ。
この下巻の1ページ目が327ページになっていますが、こんな上下巻システムは初めてです。。

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1939年9月1日、上巻ですでにスターリンとの「死の抱擁の瞬間」を迎えていたヒトラーは
ポーランドへ侵攻を開始します。
しかし予想に反して英国からの「最後通告」を受け取ってしまい「さて、お次は?」と
自分を間違った方向へと導いた外相リッベントロップに物凄い表情で問いかけるヒトラー。。

ポーランドへ向かう総統専用列車「アメリカ号」に続くのは、国防軍総司令部の「アトラス号」と
カール大帝が乗ったという古い装飾を施した車両から、最新式流線型サロン車両まで
まるで鉄道車両発達史のような驚くべき列車の「ハインリヒ号」。
この車両の主はハインリヒ・ヒムラーですが、ヒトラー曰く、「気ちがい急行」・・。

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早々にポーランドを席巻するドイツ軍ですが、協定に基づいて「分け前をいただく」ため、
「ポーランド領内に生活し、運命の慈悲にすがるしかないウクライナ人と白ロシア人同胞」
の生命財産を保護下に置くことを理由に、スターリンの赤軍もポーランド国境を越え、
1920年にポーランドに喫した敗北の復讐を楽しむのでした。

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そして東西から進撃してきたドイツ軍とソ連軍が遭遇・・。
ドイツ軍がポーランド軍と見誤ったことにより、銃撃戦が始まるものの、
誤認に気づいて両軍は仲良く握手。。
至る所で交歓と乾杯が始まり、めでたし、めでたし・・。

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ポーランドの死の苦悩はコレで終わりではありません。
ポーランド総統府となったドイツの占領地には「インテリやくざ」のハンス・フランクが総督に任命され、
「ポーランド人はドイツ帝国の奴隷たるべし」と宣言。
東のソ連側でも内務人民委員部(NKVD)によって、実にSSと似通った処置が取られ、
大量の政治家や地主、弁護士、聖職者がシベリア送り・・。軍人将校には「カティンの森」が・・。

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続いてスターリンは、第2の首都レニングラードに近いフィンランドの国境問題に勤しみますが、
この「冬戦争」へと向かうソ・フィンの外交はとても詳しく書かれています。
しかし「勇敢な小国」を相手に無様な戦いを世界に披露してしまったスターリンは、
数か月前に「ヤク1号機」の設計を終えた若き航空機設計技師、ヤコブレフを呼び出し、
航空機産業人民委員代理という、航空機開発の事実上のトップの地位を提示します。
「私は設計の専門家であり、若輩です」と、この名誉を懸命に辞退しようとするヤコブレフ。
「ひょっとしてもっと上の地位が欲しいのかね?」と残忍そうな笑いを浮かべるスターリン。

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一方ヒトラーも英仏との「まやかし戦争」が続くなか、
いつかは倒さねばならない相手であるソ連から食料と原料、そして石油を輸入し、
スターリンはいつか攻めてくるであろうドイツを撃退するため、
そのドイツから機械、武器、装備を輸入するという滑稽きわまる状態に・・。
ヤコブレフもメッサーシュミットドルニエハインケルの最新型を見るために派遣されますが、
なにを見せられても「最新型」とは信じずに文句を言う、ソ連の兵器視察団・・。

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1940年の春、最終的に冬戦争がソ連の勝利で終わると、
今度はドイツ軍の西方電撃戦の出番です。
「独ソ不可侵条約」の効力もあって、東部にわずか7個師団を残しただけで、
西部にほとんどの戦力を展開し、わずか2ヶ月でフランスを破り、
英国を島へ追い返してしまったヒトラーに対して、恐れを抱くスターリン・・。

事実上、ソ連の従属国でありながら、イデオロギー上はモスクワよりベルリン寄りであるバルト3国が
ソ連への絶好の跳躍台となっていることを危惧して、慌てて侵攻するスターリン。
ここではスターリンと出身が同じグルジア・マフィアで「バクーの絞殺者」の異名を持つ、
強力な権力を持ったNKVDの外国部長で、身長150㎝あるかないかという
デカノゾフが印象に残りました。↓ のリッベントロップの後ろを歩く小人です。。

Soviet Foreign Minister Molotov and Dekanozov is greeted by Ribbentrop in Berlin, November 14, 1940..jpg

う~む。ここまで読んだ印象では、スターリンはヒトラーより一枚上手のように感じますし、
デカノゾフが「それはモロトフじゃないと答えられない」と言うと、
カーテンの後ろからモロトフが早速、現れたり、
そのモロトフが「それはスターリンしか答えられない」と言うと、
やっぱりスターリンがカーテンの後ろから登場・・。
こんなマンガのような話が何度も出てきます。。

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新たに74万㎢の領土と2000万人以上の人口を獲得し、
ドイツの攻撃から緩衝地帯を数百㌔作り出したスターリン。
あとは自らが「粛清」してしまった赤軍の再編成を急ぐのみ・・です。
新しい労働法で生産の向上を目指さねばならず、それまでソ連では
日曜日を無くそうという意図から「1週間が6日だけ」。
それも月曜、火曜といった曜日は数字に置き換えられ、第1日、第2日・・と労働日が続き、
第6日が休日だったものが、労働時間も延長したうえで、
週労働日数は7日に増やして、休日は廃止です。
医師の証明書なしに20分遅刻するのは、「犯罪行為」とみなされ、禁固刑や強制労働に・・。
ソ連邦労働英雄」が誕生するのもなんとなくわかりますね。

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ヒトラーは英国本土上陸の「あしか作戦」の策定をレーダー提督とOKWを中心に進めるものの、
遂に将軍たちに向かって語ります。
「英国の最後の希望はロシアと米国であり、ロシアという希望が絶たれれば、
米国という希望も絶たれる。
なぜならロシアの抹殺は、極東における日本の重要性の増大を意味するからだ」。

こうして来るべきソ連侵攻作戦へと戦略目標を切り替え、油田を持っているルーマニアが
アントネスク将軍の独裁となり、ルーマニア軍の参加も確実、
ウクライナへの跳躍台の役目も果たします。
ハンガリーもドイツ寄り、伝統的にロシア支持とドイツ支持に分裂しているブルガリアには
スターリンが友好相互援助を目論みますが、ヒトラーは武器供与と軍事的な後ろ盾として、
3万人のドイツ軍人を観光客としてブルガリア入りさせるのでした。

Adolf Hitler with Rumanian Marshal Ion Antonescu. In the background we can see Hitler's interpreter Gustav Paul Schmidt with General Wilhelm Keitel.jpg

1940年11月、ソ連の首相兼外相のモロトフ一行がベルリンを訪れます。
出迎えるリッベントロップはゲッベルスローゼンベルクなどナチ党のイデオロギー指導者たちが
誰ひとり来ていないことに肝をつぶします。。
ヒトラーを買収してギクシャクした独ソ関係を改善することは可能なのか・・?
スターリンの目的はソコですが、モロトフの頑固な態度にヒトラーは爆発寸前・・。
報告を聞いたスターリンは直系のスパイの専門家でもある、ちっちゃいデカノゾフを
ベルリン大使として派遣するのでした。

Molotov, left, meets with Nazi German chancellor Adolf Hitler in Berlin, on November 13, 1940.jpg

いよいよ1941年を向かえると、イタリアのムッソリーニギリシャへ、そして北アフリカで暴れ出し、
ヒトラーも予想外の展開ながら慌てて助け舟を出しますが、ユーゴでも軍事クーデターが勃発・・。
これによって「バルバロッサ作戦」は5週間遅れとなりますが、本書では、
「どのみち、この年の春は例外的に雨が多く、6月初旬までは装甲部隊は行動できなかった」
としていますが、このような解説は最近よく読みます。

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このバルカン半島でドイツ軍が泥沼に嵌るのを見たい・・というスターリンのはかない希望は
またしても蹂躙突破するドイツ軍の軍事力に対する恐れを増大させただけ・・。
5月、モロトフに代わってソ連首相に就任し、遂に中央の舞台に登場することにしたスターリン。
モロトフとヒトラーの不仲に終止符を打つべく、国境にソ連部隊が集結しているなどの報道を
強く否定するなど、ドイツへの信頼と善意のサインを送り出します。

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しかし、「ヒトラーの代理人」であるヘスがメッサーシュミットで英国に旅立った
というニュースがスターリンを苛立たせることに・・。
「ヘスはヒトラーの密令を受け、ドイツが自由に東部進出できるよう、
西部での和平交渉をしに行ったのだと思います」と語るフルシチョフ・・。
スターリンは答えます。「そうだ。その通りだ。」
かつてチャーチルが、「自分はボルシェヴィズムの不倶戴天の敵だ」と宣言したことも思い出します。

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ドイツ軍の攻撃開始は6月20日ごろ・・という正確な情報が赤軍情報部(GRU)から
スターリンの元に送られ始めます。
それは有名なスパイ網「赤いオーケストラ」であり、東京のゾルゲでもあります。
スターリンは「あのXX野郎は日本の売春宿に居続けて、片手間にしか仕事をやっていないクセに
ドイツ軍の攻撃開始は6月22日だとほざいているそうだ。この私が信じると思うかね?」と
ヴォロシーロフの後任のティモシェンコ元帥に語るのでした。

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本書では、この不可解なほどに英国も含めた世界各国から寄せられる情報に目をつぶった理由を
GRUの部長で参謀本部次長のゴリコフ中将の責任が大だとしています。
スターリンの子飼いで40歳そこそこの、この小柄でずんぐりし、どんな帽子も収まりそうもない
丸い大頭の人物が作成した報告分析をスターリンは読むだけで、
ゴリコフは参謀長である自分とティモシェンコにさえ報告しなかった・・とジューコフは語ります。
戦争が間近いという情報は英国のでっち上げと見なし、スターリンが望む情報をのみを提供する・・。
生き延びるための手段ですが、その後はヒトラーとその周辺も同じようになりましたね。。

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ヨードルに暗号「ドルトムント」を発信するよう命ずるヒトラー。
遂に「バルバロッサ作戦」の開始です。
ベルリンではリッベントロップがデカノゾフを前に「軍事的対抗措置を取らざるを得なくなった」と
尊大に語り、モスクワでは苦悩するシューレンブルク大使がクレムリンに向かいます。
モロトフはうわずった声で尋ねます。「これは宣戦布告なのか?」
そしてスターリンに電話で各戦線の状況を報告するジューコフ。
電話の向こうから聞こえてくるのは、激しい息遣いだけです・・。

German panzers in Russian road.jpg

669日ののち、史上最もありうべからざる同盟は終わりを告げた・・と締めくくられた本書。
それにしても、スターリンの代理であるモロトフと、ヒトラーの対談の詳細はもとより、
スターリンを中心としたソ連政治がここまで書かれているものは初めてです。
ヒトラーが何を考えていたか・・は、様々に研究され、色々な説があるにしろ、
それらを読んできましたが、スターリンが何を考えていたか・・となると、不気味でしたね。。

開戦当初はスターリンが神経衰弱に陥って、なにも出来なかった・・という話が一般的ですが、
本書では、そうではなく、指示を出していたという説も挙げています。
もちろん、最後にはスターリンがヒトラー相手だけではなく、西側諸国に対しても笑うことに
なるわけですが、良いも悪いも、より強く「疑心暗鬼」を持っていた人間が勝ったという気もしました。

Stalin_076.jpg

ヴィトゲンシュタインの今の知識で、やっとこさ独破することが出来た、
大変なボリュームのある本書でしたが、ソ連側に興味をそそられたこともあって、
大御所ヴェルナー・マーザーの「ヒトラーVS.スターリン 独ソ開戦―盟約から破約へ」や
「スターリン時代―元ソヴィエト諜報機関長の記録」も読んでみたくなりました。

そういえば今回で「独破戦線」はナント、4年目に突入しました。
この1年で独破した本は108冊・・。まぁ、我ながら良く続いてます。
まだまだ読みたい本がありますので、あと1年は続けられそうです。







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