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猛将パットン -ガソリンある限り前進せよ- [第二次世界大戦ブックス]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

チャールス・ホワイティング著の「猛将パットン」を遂に読破しました。

第二次世界大戦ブックスのなかでも、かなり有名な(個人的に・・?)一冊ですが、
なんといってもその副題、「ガソリンある限り前進せよ」が傑作です。
まさに副題のお手本、コレに匹敵するのはちょっと思い浮かびませんね。。
原著のタイトルは単に「パットン」・・です。まぁ、向こうじゃコレだけで通用するんでしょう。
ちなみに1970年の映画「パットン大戦車軍団」も原題は「パットン」でした。
20数年前にこの映画を偶然TVで観て以来のパットン・ファンですが、
パットン対ロンメル」という、若干騙され気味のタイトルの本を先に読んでしまってて、
在庫切れだった第二次世界大戦ブックスを本書を含め、3冊まとめ買いしたので、
今回、遂にパットン本の真打ち登場と相成りました。

猛将パットン.jpg

第1章では簡単にパットンなる人物を紹介します。
先祖はスコットランド、アバディーンまで遡れ、米国独立前に移住。
軍人や医者、法律家を輩出し、カリフォルニアで財を築き、1885年、
ジョージ・スミス・パットン・ジュニアが誕生します。
その後は陸軍士官学校(ウエストポイント)から第1次世界大戦に従軍。
やがて1943年、惨敗を喫した米第2軍団の立て直しを任され、チュニジアに上陸します。

この時の彼の日記には「戦争とは、単純で、即決的で、非情なものである」
パットンの名言も「脳ミソと肝っ玉があれば、それで戦争に勝てる。ドイツには楽勝さ」
著者はそんなパットンをルントシュテットのような精緻さや、モントゴメリーのような用意周到さがなく、
つねに「大胆」で直線的であったが、「策」がなかったと解説します。

Patton-Tunisia.jpg

米第2軍団の将兵の根性を叩き直し、チュニジアでの戦いも上々。
アイゼンハワーは「あとはブラッドレーに任せて・・」と、「ハスキー作戦」にパットンを回します。
このシチリア島上陸作戦は、英軍アレキサンダーを司令官として、モントゴメリーの英第8軍と
パットン率いる米第7軍の共同作戦ですが、栄えあるエル・アラメインの勝者、英第8軍と
新参者の米軍では、与えられる任務は違ってきます。
しかし、補助的な役割に甘んじることなく、最終目標のメッシナ奪取をモントゴメリーと争い、
見事に勝利・・。
さらには野戦病院で「精神がやられました」とメソメソしてる兵をひっぱたく「事件」など
映画「パットン大戦車軍団」の原作か??と思わせる展開です。

Patton Montgomery_The War in Sicily and Italy.jpg

この「ビンタ事件」が全米に報道され、世論から「解任せよ」とブーイングを受け、
パットンは1944年新春に米第7軍司令官から解任・・。
6月のノルマンディ上陸作戦からも外されますが、上陸後の米第3軍の指揮は約束されます。
しかし米地上軍司令官は北アフリカとシチリアで部下だったブレッドレー。
7歳年下の元部下が上官です。ちなみにパットンは最年長の将軍で、年の差で言うと
アイゼンハワーが5歳、モントゴメリーも2歳年下ですね。

Le général George Patton.jpg

7月後半からブルターニュ半島の掃討作戦が始まりますが、ブレストにロリアン、
サンナゼールといった各Uボート基地に同時に進撃するという大胆な作戦を実施します。
結局、ロリアン、サンナゼールは陥落させられないまま、1週間で終了したこの作戦ですが、
対するドイツ軍は2流の部隊だったとして、大した評価ではなかったようです。

また、ここではパットン流の戦闘原則を紹介し、「鼻をひっつかんだまま、尻を蹴っ飛ばせ」は、
歩兵部隊で敵軍を釘付けにし、敵の背後に装甲部隊を送り込んで、中核部を壊滅させる・・
という戦法です。
もうひとつ「岩石スープ」というのも面白いんですが、これは書くと長くなるので割愛します。
気になる方は、安いですから、買ってみてください。。

Patton army.jpg

すっかり宿敵のようなモントゴメリーの英軍と、攻勢の主導権やガソリン問題での
軋轢を繰り広げながらもドイツ国境へと殺到するパットンと米第3軍。
今度の対戦相手はロシア戦線でも勇名をはせていた戦車部隊指揮官、
オットー・フォン・クノーベルスドルフが率いるドイツ第1軍です。

Otto von Knobelsdorff.jpg

1648年まではドイツ領だった古都メッツ(メス)は、37ヵ所の砦のある極めて堅固な要塞で、
守備隊は武装SSの有能な指揮官ヘルマン・プリース(第13SS軍団長)です。
この要塞攻略に手こずるパットンですが、その南側では脅威も迫り、
小柄な馬術選手で貴族出身の将軍、ハッソ・フォン・マントイフェルが、
第5装甲軍の準備が完了次第、パットンの南側面に捨て身の反撃をせよ、
との使命を与えられています。

hasso_eccard_von_manteuffel.jpg

思った以上に苦労するパットン。要塞攻略や歩兵を伴ったちまちました攻撃は苦手です・・。
そして突然の「アルデンヌ攻勢」を喰らったアイゼンハワーは、この窮地をパットンに託し、
3個師団を急旋回させて、バストーニュで包囲された米軍部隊を救出することに成功。
それでもパットンは「我々は、この戦争に敗れるかもしれない」と日記に書き記し、
「ドイツ軍は我々よりもひもじく、寒く、弱いハズなんだ。だが依然、素晴らしい戦いぶりを見せている」
と、参謀にも語ります。

ardennen.jpg

3月になるといよいよライン川の渡河作戦が・・。
10万の兵員と猛烈な集中砲撃と空爆、さらに2個空挺師団を用いた雄大な作戦。
このような作戦を指揮するのは、もちろん用意周到なモントゴメリーです。
しかしその前夜、パットンの第5歩兵師団がドイツ軍の妨害を受けることなく
こっそり渡河を果たし、ドイツ内陸部へ侵入してしまいます。
「ブラッド、誰にも話さんでくれ。俺は越えちまったんだ」
回想録で「パットンは扱いにくかった」と語るブラッドレーは、コーヒーをこぼさんばかりです・・。

Eisenhower, Bradley, and Patton at Bastogne.jpg

最終的にパットンの突進はチェコまで続きますが、彼の戦いは事実上コレにて終了です。

「彼こそ我々の救世主だ。野蛮なロシア人から救ってくれたんだ」
と、バイエルンではドイツ国民から歓声と紙吹雪の歓迎を受けるパットン。
ベルリンでの壮大な観兵式では、ソ連の英雄ジューコフが誇らしげにパットンに語ります。
「あの戦車は砲弾を11㌔もぶっ飛ばす大砲を積んでるんですよ」
「そりゃ大したもんだ。ですが、もし我が軍の砲兵が600m以上の距離からソ連軍に発砲したら
わしゃ、即座にそいつを"臆病な行為"のカドで軍法会議送りにしてやりますよ」

Patton and Marshall Georgy Zhukov.jpg

仰天して黙り込むジューコフ。そして同じく驚いたアイゼンハワーは、
このようなパットンのソ連嫌いが及ぼす影響などを考慮して、再び解任。
そしてそれから間もない12月9日、パットンの乗るクルマにトラックが衝突。
意識こそあるものの、首から下が麻痺状態となって、12月21日、息を引き取ります。

Gen-George-Patton-1945-Vienna.jpg

最後にドイツの将軍たちがパットンを評価します。
西方軍参謀長だったブルーメントリット大将は「信じられないような先制力と、
稲妻のような行動力を持った男だ」
最高司令官ルントシュテット元帥は「今まで戦ったうちで最も優れた将軍」と語ります。
ドイツ軍将兵はパットンの軍隊だけを特別に「パットン軍」と呼び、
公式記録にも、よくこのように書かれているそうです。
そして「電撃戦の創始者」たちにパットンの迅速果敢な戦闘方法が魅力的に見えたとし、
一方のモントゴメリーについては「型にはまって、慎重すぎるほど慎重」という評価を・・。
これは映画「遠すぎた橋」のルントシュテットとモーデルの会話、そのままですね。

General George S. Patton.jpg

本書は古い本ですから、パットンの良いトコを痛快に読ませるモノかと思っていましたが、
決してそんなことはありませんでした。
人間的な部分、戦術的な部分、さまざまに検証し、人間パットンを浮かび上がらせているもので
終戦の半年後・・という彼の死も、「戦争に取り付かれた軍人」パットンらしいようにも思えました。
このボリュームと大量の写真や戦況図を載せているにも関わらず
これだけ綺麗にまとめているのは素晴らしいですね。





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