SSブログ

アドルフ・ヒトラー[3] -1938-1941 第二次世界大戦- [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ジョン・トーランド著の「アドルフ・ヒトラー[3]」を読破しました。

前巻でオーストリア併合を無血で果たしたヒトラー。
この第3巻での最初のターゲットはチェコスロヴァキアです。
英国チェンバレン首相は、この戦争勃発の危機にドイツ訪問を決意し、
SS儀仗兵の演奏による「ゴッド・セイブ・ザ・キング」で盛大に迎えられます。

アドルフ・ヒトラー③.jpg

ドイツを数回訪れて、チェンバレン自身やフランスのダラディエ、そしてホストのヒトラーらが
母国語しか話せないのに対し、たどたどしい英語とイタリア訛りのフランス語、
ドイツ語も怪しげながらとにもかくにも4ヵ国語を話すムッソリーニを主役としながらも
ミュンヘン会談でなんとか和平を獲得し、帰国後も猛烈な喝采を受けるチェンバレン。
しかし冷静さを失わない下院議員のひとり、チャーチルは呟きます。
「で、チェコスロヴァキアはどうなるのだ?」

Chamberlain at the Oberwiesenfeld Airport in Munich Germany during the 1938 conference.jpg

そのチャーチルの懸念通りの結果となったチェコスロヴァキア・・。
1939年4月20日のヒトラー50歳を祝うドイツ国防軍3軍に新設のSS部隊を含んだ
盛大な軍事パレードではヒトラーの隣りに座るハーハ大統領の姿が・・。
外国の外交官たちは、この意味を見逃さず、一方、ドイツ国民の大半は
この軍事力に誇りを持ち、ヒトラー崇拝は神の領域にまで高まるのでした。

Hitler's 50th birthday.jpg

ダンツィヒをはじめとするドイツとの懸案を抱えるポーランド、
そしてヒトラーに恥をかかされた英国は二股外交を駆使してソ連にも接触しますが、
ドイツよりもソ連を警戒するポーランドと
お互い心の底ではまったく信用していない英国とソ連・・。
スターリンはユダヤ人外相リトヴィノフをクビにし、非ユダヤ人のモロトフを後釜に据えます。
共通する激しいユダヤ人憎悪とスターリンの赤軍大粛清などの容赦のないやり方を
渋々ながら認めていたヒトラーは、このニュースに驚き、ソ連との抱擁の道を模索し始めます。

Vyacheslav Mikhailovich Molotov.jpg

第一次大戦の非人間的な長くてツライ塹壕戦を忘れられないヒトラーは
ポーランドに軍事的に進行するにしても、短期の電撃戦を構想・・。
片や外相リッベントロップがモスクワで「独ソ不可侵条約」にこぎつげ、
その報告を聞いたヒトラーは夕食のテーブルから飛び上がって叫びます。
「われわれは勝った!」

von Ribbentrop, Ciano,hitler.jpg

ソ連が味方に付けば、英国もフランスも口先の威嚇以上のことは出来ないだろう・・。
これで何の気兼ねもなくポーランドに襲い掛かることが出来る・・と判断したヒトラー。
彼にとってはこれは戦争ではなく、本来、ドイツに属するものを取り返すだけの
局地的戦闘行為でしかありません。
そうは言っても、党の茶色の制服からグレーの軍服に衣替えをし、
「今日からは一般のドイツ人が食べる物しか口にしない。それが私の義務なのだ」と語ります。

hitler_02.jpg

本書でも2ページとアっと言う間に片付いたポーランド侵攻・・。
ここからカナリス提督の腹心、ハンス・オスター大佐らの反ヒトラー抵抗グループと
いくつか計画されたヒトラー暗殺計画が紹介され、西方戦を目論むヒトラーと
軍の対立の様子を紹介します。
「私は攻撃しないために軍隊を組織したのではない」と軍部へ宣言するヒトラーの
「妨害する者は容赦なく排除する」との脅しの前に、
陸軍最高司令官ブラウヒッチュと参謀総長ハルダーは震えあがり、
必死になって抵抗グループと手を切ろうとするのでした。

Pz38(t)'s in Poland.jpg

ソ連が調子に乗ってフィンランドにも進行する中、ドイツは英仏との「まやかし戦争」へと突入。
宣伝相ゲッベルスは、フランス軍の様子をその目で確かめるためにマジノ線を訪れ、
フランス兵が清潔で暖かいベッドと女、そして心の平和を求めていることを悟った彼は、
宣伝キャンペーンを展開します。

昼には前線で寒さに震えているフランス兵と、ベッドで英国兵に抱かれている
彼らの妻を描いたビラが頭上からばら撒かれ、
夜になるとセンチメンタルなフランスの歌をマジノ線に向けて放送。
「おやすみ、親愛なる敵兵士諸君。我々もこの戦争を望んでいない」と語りかけ、子守唄で終了。。
フランス国民に対してもユダヤ人と政府の腐敗などを告発する放送が行われますが、
最も効果があったのは、ドイツによるフランス征服という「ノストラダムスの予言」の
ドイツ的解釈を印刷したパンフレットだった・・。

Sitzkrieg.jpg

本書のメインとなる「西方戦役」ですが、軍事的な記述はほとんどありません。
国防軍最高司令部(OKW)の「3羽ガラス」カイテルヨードルヴァーリモントが所々に、
他にはノルウェーでのディートル将軍、フランスでも軍集団司令官のフォン・ボック
フォン・ルントシュテットの名が出てくる程度で、
「電撃戦」の立役者、グデーリアンすら一切、出てこないくらいです。

von_Rundstedt.jpg

その分、勝利に喜ぶヒトラーと側近たちの様子は充実しています。
前大戦の屈辱を晴らすべく、同じコンピエーニュの森、同じ鉄道車両での
休戦協定に望むヒトラー・・。彼には珍しく、嬉しさをこらえ切れません。
最終的にフランス代表団のアンチジェ将軍とカイテルが感動を抑えながら握手を交わすシーンや、
パリ観光とナポレオンの墓を訪れるシーンなどなど・・。

Adolf Hitler and Staff Celebrate France's Surrender at Compiegne, June 21, 1940.jpg

占領者ではなく、解放者としてフランス市民から迎えられるよう兵士に対しても
略奪を禁止し、買い物にはお金を払いパリへ帰還する避難民にも手助けを惜しみません。
しかし一向に対話を求めてこない英国にイライラの募るヒトラーは、バトル・オブ・ブリテン
英国本土上陸の「あしか作戦」の策定を進めますが、
ロンドン爆撃も彼らを挫けさせるだけの効果は無く、逆にドイツ空軍の損害が
日増しに高まるありさま。。。
そこでヒトラーは政治外交で英国を屈服させるため、
スペインのフランコ将軍、ヴィシー政府のペタン元帥に協力を求めます。

paris occupation.jpg

この会談の様子も非常に詳細に書かれていて、これはヒトラーとリッベントロップの通訳官だった
パウル・シュミットの回想をかなり引用しているようですね。
彼の回想録、「外交舞台の脇役-ドイツ外務省首席通訳官​の欧州政治家達との体験」
をホント読んでみたくなりましたが、amazonでも9000円、図書館にも置いてません・・。

Pétain hitler.jpg

特にフランコ将軍の煮え切らない態度にはヒトラーも総統に・・じゃなくて相当にご立腹で、
「フランコはつまらん少佐だ!」と海軍副官プットカマーに言ったかと思うと、
侍従長リンゲには「あの男はドイツでは絶対に軍曹以上にはなれっこない!」と階級を下げ、
最終的には自分の以前の階級である「伍長」にまで引きずり下ろしたとか・・。

Franco hitler.jpg

1941年、遂にソ連への侵攻が迫るなか、副総裁ヘスが勝手に英国へ飛び立ってしまいます。
上司が起こしたこの大事件にボルマンは、ヘスの運転手から秘書や弟まで逮捕し、
妻イルゼに対しても辱めるために全力をあげ、
ヘス夫妻の名前を頂戴した、ルドルフとイルゼの自身の2人の子供も改名・・。
容赦せず家まで没収しようとするものの、さすがのヒトラーもこれは見るに忍びなく、
立ち退き通告への署名は拒みます。。。

Bormann, Keitel,von Below hitler.jpg

始まった「バルバロッサ作戦」。
ヒムラーハイドリヒのユダヤ人虐殺命令を遂行するアインザッツグルッペンも、
国防軍の戦線と同じ程度に書かれています。
極寒のモスクワ前面で攻撃を停止した中央軍集団に、南方軍集団も司令官ルントシュテットの
ヒトラーに対する命令撤回要求と「ほかの人間をみつけられたし」との解任要求も紹介。
もう一つの大国である、米国の動向に気を配りつつも、実に苦しい状況に・・。
しかし「真珠湾攻撃」の電報を読んだヒトラーは「我々は負けるはずがない!」と叫びます。
「我々には3000年間、1度も負けたことのない味方ができたのだ!」





nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

アドルフ・ヒトラー[2] -1928-1938 仮面の戦争- [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ジョン・トーランド著の「アドルフ・ヒトラー[2]」を読破しました。

第2巻はゲッベルス指揮のもと、通算6000回におよぶ大ホールや野外での集会によって
10万人となったナチ党員とヒトラーの、選挙での快進撃から始まります。
しかしベルリンの突撃隊(SA)は空腹と疲労に加え、負傷と逮捕・・という危険にさらされ続けており、
活動資金を増やせと大管区指導者ゲッベルスと対立。
ヒトラー直々に調停に乗り出すなど、依然として、一枚岩の組織ではありません。

アドルフ・ヒトラー②.jpg

一方、ヒトラーのプライベートといえばエヴァ・ブラウンと知り合うものの、
彼の愛するのは姪のゲリ・・。
しかし彼の運転手だった若いモーリスが密かにゲリと婚約を交わしていたことを知ると
激怒したヒトラーはお払い箱にしてしまいます。
そして「奴隷」のような生活を強いられていると感じていたゲリが自殺。
打ちひしがれるヒトラー・・。ウィーンに埋葬されたゲリの墓を目指し、
入国を禁じられている故国へ、逮捕の危険を冒してまで国境を越えを図るのでした。

geli Raubal.jpg

やがてゲリの死の痛手から立ち直り、3度目の復活を果たしたヒトラーは
いかなる悪天候でも見事な飛行機操縦の腕をを見せるハンス・バウアと、
モーリス運転手の後任、ユリウス・シュレックが東部を、
21歳の新人運転手エーリッヒ・ケンプカが西部を受け持って
ドイツ全土を駆け巡る、精力的な演説運動を行います。
大統領選挙ではヒンデンブルクに敗れ、社会民主党系新聞にはエルンスト・レーム
ホモセクシャルがすっぱ抜かれ、1932年の7月だけで共産党員30人、ナチ党員38人が
乱闘で死ぬという大激戦の中、遂に第1党へと踊り出ます。

Hitler,Brueckner&Hans Baur.jpg

ヒンデンブルク大統領とシュライヒャー将軍ラインによって、パーペンを首相とし、
ヒトラーを副首相で満足させようという戦略も完全なるナチ党内閣を目論むヒトラーは跳ねつけます。
しかしグレゴール・シュトラッサーはシュライヒャーから内密に要請された
副首相とプロイセン首相就任に乗り気・・。
分裂するナチ党・・・。この辺りは「ゲッベルスの日記」と同様の展開です。

Julius Schreck has driven more than a hundred thousand kilometers with Adolf Hitler.jpg

結局、1933年1月30日に首相に就任したヒトラーですが、
その内閣にはナチ党からはゲーリングフリックが入っているだけ・・。
憲法改正に必要な2/3を制することはできないと、各政党や軍部は楽観的です。
ニューヨーク・タイムズも「内閣の構成はヒトラー氏の独裁的な野心達成の見込みを奪った」

1932. From left are, Hermann Goering, Dr. Wilhelm Frick, Hitler, Gregor Strasser and Wilhelm Stoehr.jpg

国会議事堂が放火され、共産党がさらに大きなテロを計画しているというデマを
全国に流しつつ、最後の総選挙に挑むヒトラー。
政権党であるために、共産党のポスターを剥がして、自分たちのポスターを貼っても
警察を含め、それに反対する者はすでに存在しません。
このようにして合法的に着実に勢力を拡大していくナチ党とヒトラーは、単一政党国家を宣言します。

hitler-poster.jpg

広大な地所を贈呈してヒンデンブルクのご機嫌を取り、
国際連盟からの脱退を声明し、再軍備も公言。
ヒムラーとハイドリヒらが仕掛けた「SAの反乱」情報はヒトラーを大いに悩ませますが、
国防軍でもフリッチュ陸軍総司令官が全軍待機指令を出しています。
しかしフォン・クライスト将軍は懐疑的で、ヒムラーがSAと軍の抗争を画策していると確信し、
忠実なナチ派の将軍、ライヒェナウは「それは事実かもしれないが、もう手遅れだ」

1934. The youngster is wearing the uniform of Hitler's Sturmabteilung.jpg

そして遂に起こった「長いナイフの夜」事件によって、レームらSAの指導者だけでなく、
シュライヒャー将軍や政敵なども「ついでに」とばかりに殺され、
裏切り者シュトラッサーも独房の窓から雨あられのように銃弾を撃ち込まれ、
檻の中を鼠のように逃げ回った末、止めを刺されます。
本書を読む限りでは、ヒトラーが起こした事件というより、ゲーリングとゲッベルス、
更にヒムラーがライバルを粛清するために、共同で企んで、
ヒトラーをそそのかしたもの・・となりますね。
クノップ先生の「ヒトラー権力掌握の二〇ヵ月」では、ここらあたりどんな解釈なのか、
ちょっと気になるので、今度、読んでみますか。。

Goebbels, Göring, v. Blomberg.jpg

この事件の結果、ナチ党は安定感を増しますが、直後のヒンデンブルク大統領の死・・は
ヒトラーに更なる絶対的権力と独裁政治をもたらします。
国民の90%が支持した「総統」ヒトラーがここに誕生するのでした。
別にヒンデンブルクは暗殺されたわけではありませんが、こうして読んでみると
そのタイミングの良さは、ヒトラーの運命・・のように感じてしまいました。

Goebbels, Hess, Göring, Von Mackensen, Hitler, von Bloomberg, Frick, Raeder.jpg

1936年はラインラント占領を見事な「ハッタリ」によって果たしたり、
ベルリン・オリンピックの成功、スペイン内戦へのコンドル軍団派遣とイベント続きのなか、
運転手のシュレックが死亡し、ヒトラー自身も不眠や耳鳴りに悩ませられるなど、
心身ともにひどく堪える時期であったようです。
そんな彼の息抜きは映画観賞。お気に入りの女優はグレタ・ガルボ。。
また彼が3回観たという「ベンガル槍騎兵」は、ごく少数で、一大陸を支配下に置く
英国人を描いているのが大変気に入ったらしく、
「優秀民族はこうでなければならない」とSS隊員にこの映画を観ることを義務付けた・・。

Berlin-Lichterfelde, Leibstandarte-SS Adolf Hitler.jpg

山荘ベルクホーフでは腹違い姉、アンゲラが女主人として切り盛りしていますが、
彼女が「愚かな牝牛」と呼ぶ、エヴァと姉の関係にもヒトラーは頭を痛めます。
徐々にアンゲラとも不仲となり、彼女が出ていく形で、無事エヴァが女主人に収まり、
全面改装中の山荘の工事責任者も兼ねる、マルティン・ボルマンの姿も・・。
本書では彼の自分をヒトラーにとって不可欠な存在たらしめるべく、努力する姿を紹介します。
ある日の昼食中「このソースには何が入っているのか」と質問したヒトラー。
すぐさま食卓を離れて、大急ぎでベルリンへ何本も電話をかけるボルマン。
「総統閣下、ソースの成分は次のとおりです・・」と、数時間後にキッチリと報告・・。
さすがのヒトラーも呆れ顔です。。

bormann2.jpg

ミュンヘンで過ごすクリスマス・イブのエピソードも出てきました。
SSの護衛兵の目を盗んで忍び足で階段を下りる怪しい2人組。
従僕のクラウゼとともにタクシーに乗り込んで2時間も走り回り、その後も市内を歩き回って
「心配するな。誰もヒトラーが独りで歩き回ってるとは思わんよ」と語るヒトラー。
無事にアパートに辿り着いても、してやったりとばかりに子供のようにハシャギます。
しかし翌日、クラウゼはSS全国指導者ヒムラーから、大目玉を喰らってしまうのでした。。

Adolf Hitler and other Nazi officials celebrate Christmas.jpg

ブロムベルクとフリッチュ事件も詳細に書かれています。
特に「新妻の元売春婦疑惑」で将校団から「名誉を傷つけられた」と非難を浴びたブロムベルクは
国防相の後任を誰にするかという問題にヒトラーを推薦し、国防軍のトップにすることで、
自分を裏切った将校団への腹いせをしようとしていたとしています。
さらに、新設のOKW幕僚長の人事について、「では、君の幕僚の責任者は誰だね?」
との質問についつい「ヴィルヘルム・カイテル将軍」と答えてしまい、慌てて
「そのような重要な地位には不向きで、私の役所を運営してるだけの男です」と付け加えるも、
時すでに遅く、ヒトラーは「それこそ私の捜してる男だ!」

Wilhelm Keitel on Reichs Veterans Day at Kasse.jpg

最後はオーストリア併合です。
首相のシュシュニクは最後まで抵抗し、国民投票を実施しようと試みますが、
ベルリンのゲーリングから再三再四、電話で叱咤され、
シュシュニクと内閣の辞任要求を伝えるザイス=インクヴァルト
後任の首相が自分であることも要求する彼は、苦い口調で言います。
「私に質問しても無駄だ。私は歴史的な電話交換嬢以外の何者でもない」

Adolf Hitler, Arthur Seyss-Inquart, wife of Heinrich Himmler.jpg

無血のアンシュルス。感無量のヒトラーは昔の家の近くにある両親の墓を詣で、
従事長リンゲらも遠ざけて、しばらく墓前で瞑想にふけります。
さらに少年時代の思い出の場所を再訪。偶然に昔の同級生と出会って、おしゃべり・・。
エヴァも呼び寄せて、ウィーンのホテル・インペリアルに宿泊し、
このホテルの前を雪のなか、さまよい歩いたツライ青年時代の思い出も語ります。
そしてリンツで訪ねてきたのは昔の親友クビチェクです。
喜びに声を弾ませて彼を迎えるヒトラー。窓からドナウ川を眺め、
「あの醜悪な橋がまだ残ってる! だがもう少しの辛抱だよ」
と、彼には野心的なリンツ改造計画があるのでした。

Hitler centered among Austrian girls.jpg

この第2巻は結構、読んだような話が多くありました。
特に「第二次世界大戦 ヒトラーの戦い〈1〉〈2〉」に大分似ていたので、確認してみると、
あちらの本が、本書を参考文献に挙げていました。
時期的には当時、本書が最新のヒトラー伝だったんでしょうね。
ただ、この1938年までは、本書のほうが割いているページ数も多く、
政治的な部分より、ヒトラー個人に焦点を当てた濃い内容なのは間違いありません。





nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

アドルフ・ヒトラー[1] -1889-1928 ある精神の形成- [ナチ/ヒトラー]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ジョン・トーランド著の「アドルフ・ヒトラー[1]」を読破しました。

7月に読破したチャーチル著の「第二次世界大戦」に続き、文庫4巻シリーズの登場です。
ヒトラーものシリーズでは児島襄 著「ヒトラーの戦い」全10回シリーズもやりましたが、
同じヒトラーが主役でも、あちらが第2次大戦のヒトラー戦記中心だったのに対し、
こちらは副題でもお分かりのとおり、ヒトラーの人生そのものを追ったもののようです。
実はヒトラーの伝記というのは今まで読んだことがなく、
これは自分はヒトラーという絶対権力を持った大魔神が君臨した第三帝国・・
ということを前提として、それらの周りの人間や市民がどのように生きていたのかに
興味があるからなんですね。
原著は1975年、翻訳版は1979年に上下巻で発刊され、本書は1990年の文庫版で
2年前に4巻セットを1400円で購入していました。
1巻、500ページで、合計2000ページの大作・・・ですが、
「ヒトラーの戦い」での経験もあるので、自信マンマンで挑戦です。

アドルフ・ヒトラー①.jpg

著者のトーランドは過去に「最後の100日」と「バルジ大作戦」を紹介していますが、
米国人の彼は日本人女性と結婚し、太平洋戦争モノも結構書いています。
特に「大日本帝国の興亡」では、一般ノンフィクション部門のピューリッツァー賞を受賞・・。
ちょっと調べてみましたが、これを受賞した本、1冊も読んでませんでした。。
「グラーグ -ソ連集中収容所の歴史-」だけは持ってるんですけどね。

序文でトーランドは「ヒトラーによって生涯を変えられた人間として、可能な限り個人的感情を抑え、
100年前に生きた人物を書くように努め、多くの人びとに会い、話を聞いた」として、
その名前を列挙します。
秘書のユンゲ嬢とクリスティアン嬢、専属運転手ケンプカ、専属パイロットのバウア
将軍連ではマンシュタインミルヒデーニッツマントイフェルヴァーリモント
他にもスコルツェニールーデルといったヒトラーの寵愛を受けた軍人、
女性ではレニ・リーフェンシュタールにトロースト夫人、
プットカマーフォン・ベローエンゲルギュンシェといったヒトラーの副官たち・・、
ここにはヴュンシェという名もありますが、あのマックス・ヴュンシェかも知れません。
もちろん「ヒトラーの建築家」シュペーアの名もあります。

Hitler as a school boy, 10 years old in 1899.jpg

第1章ではヒトラーの生い立ち・・の前に両親の生い立ち、もっと言えば「ヒトラー」姓についても触れ、
オーストリア人には珍しい姓なことなどから、元は「ヒドラール」、または「ヒドラルチェク」と
考えて間違いないとしています。そして後に「ヒドラー」などに変化しているそうです。
厳格な父アロイスと、優しい母クララ、というのはワリと知られた話ですが、
腹違いの兄や姉、そして妹も誕生して、ヒトラーの子供時代が進みます。

Alois-Schickelgruber-u-Klara-Poelzl-Hitlers-eltern.jpg

11歳の頃には学校でも画家の才能を示し出し、仲間のリーダー格に・・。
1903年には父アロイスが死去。それでも父は学校の校長よりも高い年金を貰っていたため
生活はなんとか成り立ちます。
しかし最愛の母、クララも乳癌によってこの世を去ってしまいます。
音楽家を目指すアウグスト・クビチェクという親友もでき、家を飛び出してのウィーンでの生活。
クビチェクは音楽アカデミーへ見事、合格するも、ヒトラーの美術アカデミーへの挑戦は尽く失敗・・。
常に腹を空かせ、何日間もミルクとバターとパンだけで生きることにヒトラーも叫びます。
「この生活はあまりに惨め過ぎる!」
このクビチェクは戦後、「アドルフ・ヒトラーの青春―親友​クビツェクの回想と証言」を書いており、
本書もこれを参考にしているようですね。

A painting by aspiring artist Adolf Hitler.jpg

親友クビチェクと別れたヒトラーは、浮浪者同然の生活へと落ちていきます。
貧民宿泊所から独身男子寮へと移り住み、絵を描いては生活費を稼ぐ生活。
しかしそんな生活に終止符を打つ出来事が・・。
オーストリア皇太子の暗殺です。セルヴィアに宣戦布告するオーストリア。
それに対するロシアの総動員令、そしてドイツ皇帝も対ロシアの総動員令に署名。
このロシアとの開戦のニュースは大群衆に熱狂的に迎えられ、
ヒトラーも当然のようにバイエルン歩兵連隊に志願します。
その熱狂はヒトラーの写った写真からも伝わりますね。

Hitler celebrating WWI.jpg

いきなりの激しい戦闘。連隊長は戦死し、代理の中佐も重傷を負うなか
連隊伝令となった彼は、砲火をくぐり抜け続け、やがて2級鉄十字章を得ることに。
ヒトラーは手紙に書き記します。「私の生涯でいちばん幸せな日でした」
伍長に昇進した彼は、戦友と上官の尊敬を勝ち取り、
敵軍からやってきた犬にもドイツ語を教え込み、フクスルと名付けて溺愛します。

Corporal Adolf Hitler (right) during World War I. He suffered a groin injury during the Battle of the Somme.jpg

長期間の勇敢な勤務ぶりにもかかわらず、ヒトラーが伍長のままだった理由を
彼が指導力を欠いていた、とか、態度の悪さ、また逆にこれ以上昇進した場合、「優秀な伝令」という
お気に入りの任務を放棄せねばならず、また連隊も「優秀な伝令」を失うことになった、としています。
その後も4人のフランス兵を捕虜にした戦功などよって1級鉄十字章も受章。
ですが、遂に毒ガス攻撃を受けて失明・・。そしてドイツの敗戦・・。

回復したヒトラーはミュンヘンで、新しい10万人軍隊によるスパイとして労働者組織を監視する任務を
マイル大尉から与えられ、ドイツ労働者党という小さな組織に潜入。
政治と演説に目覚めたヒトラーは積極的に集会を開き、理性に訴える知識人とは違って、
原始的な力強さと臆することを知らない感情で聴衆を圧倒し、党員と寄付を獲得していきます。
そしてそのなかには20歳の法律学生、ハンス・フランクなどの姿もあります。

Adolf Hitler 1921.jpg

ホモセクシャルの元中隊長、エルンスト・レーム大尉はマイル大尉の後任であり、
ヒトラーの上官という立場で登場します。ふ~ん。。これは知らなかったなぁ。
しかし、軍の任務は本書でも曖昧のまま、いつの間にか2人ともやめてしまった感じで、
党名も「ドイツ国家社会主義労働者党」に変更し、「ナチ党」党首としての活躍が始まります。

rohm.jpg

ベルリンでの「カップ一揆」を観察するという冒険旅行では、このヒトラーが初めて乗った飛行機の
パイロットがリッター・フォン・グライムだったという運命的な話や、
安く売りに出た「フェルキッシャー・ベオバハター」紙を買い取ってローゼンベルクに任せたり、
シュトラッサー兄弟にルーデンドルフ将軍も登場してきます。
党の集会を守る、用心棒グループは「体育・スポーツ部」と命名しますが、
2ヶ月後には「突撃隊(SA)」に変更。
これを軍事組織として鍛えるのは、新たな入党者ゲーリングです。

Hitler _ SA.jpeg

自己主張をしない控えめな「ゲシゲジ眉毛」ルドルフ・ヘス
彼らより、またヒトラーを凌ぐ「反ユダヤ主義者」で、禿頭と怪奇な風貌を持つ野蛮な男、
シュトライヒャーも紹介され、いよいよこの第1巻のハイライト、
1923年の「ミュンヘン一揆」、またの名を「ビアホール一揆」へと雪崩込みます。

The Beer Hall Putsch.jpg

この話はいろいろな本に書かれていますので割愛しますが、
州警察の発砲の前にヒトラーが路上に伏せる一方で、ルーデンドルフ将軍が
胸を張って堂々と銃火のほうへ向かって行くシーンでは、注意書きで
「これはルーデンドルフの勇敢さと逆に、ヒトラーを臆病者にしようとするもの」として
肩を脱臼したヒトラーが下に引っ張られたことは明らかだし、ルーデンドルフも
とっさに伏せて、負傷者か死体を盾に取ったという目撃証言もある・・ということです。

ludendorff_hitler.jpg

このようにして、美術アカデミーの入試失敗と母の死、失明とドイツ降伏、
そしてこのミュンヘン一揆失敗のショック・・・、
その後、収監されたランツベルク刑務所で失敗を反省し、再度、立ち直るヒトラーの様子も
かなり詳しく書かれています。
例えば午前6時に独房のドアが開き、1時間後に集会室で朝食、
8時に中庭でレスリングやボクシングで運動。
しかしヒトラーは腕の怪我のために「レフェリー役で満足しなければならなかった」

hess_hitler_1924.jpg

一揆のときには無視されたかのように、その場に放置されていたルドルフ・ヘスも自首し、
ヒトラーの秘書となって、彼が口述する「わが闘争」をタイプする毎日。
模範囚として、看守をも国家社会主義者に仕立て上げる日々も1年余りで終わりを告げ、
迎えにきた写真家ホフマンに「写真撮影」を要求。

Adolf Hitler, age 35, on his release from Landesberg Prison, 1924.jpg

出所後は分裂しかかった党をまとめるために精を出しますが、
「演説禁止令」のために大きな会場では喋ることが出来ず、、秘密集会を渡り歩いて、
男性には握手、女性の手にはキス、という「草の根テクニック」によって、
党の組織的支配に再び成功します。

Adolf Hitler hät eine Rede. Das Foto entstand um 1925.jpg

ドイツ北部の話は、あの「ゲッベルスの日記」を抜粋して紹介していました。
その抜粋部分が「独破戦線」と同じで、やっぱりソコだよな~と思ったり・・。
また、ベルヒテスガーデンでは、「粗野で、挑戦的で、向こう気の強い女」とホフマンの娘
ヘンリエッテが評する、姪のゲリ・ラウバルも登場。。というところでこの第1巻は終了です。
彼女が書いた本では、ゲリをそんな風に評してなかったんですけどね・・。

geli.jpg

10代で両親を亡くし、しかも母は乳癌・・。妹とそして仲の悪い兄貴というのは、
ヴィトゲンシュタインの育ちと同じなので、ちょっとビックリしました。。
なんとなく気がつかないうちに感情移入しちゃいましたねぇ。。
序文でトーランドが書いているように、感情的でもなく肩入れもせず、
とても公平に書かれていて、小説のような雰囲気もありながらも、多くの登場人物と
彼らが語ったり、書き残したものを明確にしつつ、複数の伝説がある場合には
当該ページの注意書きで解説するなど、この濃い内容でもとても読みやすく
読み手も人間ヒトラーを冷静に知ることが出来る・・と思いました。







nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

武装親衛隊とジェノサイド -暴力装置のメタモルフォーゼ- [武装SS]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

芝 健介 著の「武装親衛隊とジェノサイド」を読破しました。

久しぶりに「武装SS」モノを読みたいなぁ~・・と、amazonで探していると
3年ほど前に刊行された本書のレビューがあまりに切ないので、
どうしようか・・と悩みつつも、買うのは控えてとりあえず図書館で借りてみました。
なんといっても、このタイトルで表紙の写真が「国防軍兵士」であるのはイタイですが、
(1934年、ヒンデンブルク大統領に最後の挨拶をする国防軍兵士のようです)
これは著者のミスとは言えない気もします・・。
しかし内容についてもあそこまでケチョンケチョンに書かれていると
いったい、どんな内容なのかと、怖いもの見たさも手伝って・・という感じですが、
まぁ、いつものように人の評価は忘れて、自分なりに読んでみました。

武装親衛隊とジェノサイド.jpg

ということで、これまたいつものように「あとがき」から・・。
ギュンター・グラスが武装SSだったと告白した話や、パウル・カレルについても
国防軍はもとより、武装SSも戦争犯罪は犯していなかった・・という伝説を散布し続けたと、
戦記作家として断罪しているようにも感じます。
また「武装SS神話」なるものの存在と、国防軍や武装SSはホロコーストに関与していない
純粋な軍事組織であるということへの反論的な解説。
そしてヘルマン・フェーゲラインがどうした・・とか、本書の内容にも触れていて「おぉっと・・」
最近、日本人の著者の「あとがき」を先に読むのはやめるつもりだったんですが、
ついつい読んでしまいました。。。

Deutschland erwache.jpg

そんなわけで、本文を読む前にまずは自分が武装SSをどうイメージしているのか・・
改めて考えてみました。
まさしくパウル・カレルの「バルバロッサ作戦」や「焦土作戦」から
この世界に入った自分ですが、著者の心配はまったく無用であって、
これらを読んでドイツ軍が戦争犯罪は犯していなかったとは、別に思ったこともありません。
それはカレルの本には書かれていないだけで、それがドイツ軍の全てであり
真の姿であるなどと思ってしまうようなアホではないからです。
本書に限ったことではないですが、カレル批判の話を読むと、
正直、「読者を馬鹿にしてんのか!」と腹立ちますねぇ。

Paul Carell Unternehmen Barbarossa.jpg

それから武装SSや国防軍が「ホロコースト(ジェノサイド)」に関与していたのか・・
ということでは「関与していた」と思っています。
ただ、だからと言ってそれらの組織全体が黒だとか白だとかという意味ではなく、
「関与していた人間もいただろう」という意味ですね。
だいたい100万人の組織をひと括りに黒か白か評価しようというのは無茶な話ですし、
そんなことはニュルンベルク裁判とその後の継続裁判で結果はどうあれやっていたこと・・。
それと同じレベルのことを50年、60年経った今頃やることにどんな意味があるのか・・
疑問に思ってしまいました。

The Waffen SS defendants during the Dachau trial - 11 Sepp Dietrich,33 Krämer,45 Priess,42 Peiper,8 Coblenz,13 Fischer,19 Gruhle,23 Henneck,31 Knittel,34 Kuhn,39 Munkemer.jpg

この「独破戦線」を以前から読まれている方ならお分かりのとおり、
ヴィトゲンシュタインは「組織」ではなく、その「組織のなかの個人」に興味があるんですね。
極悪な組織にいるマトモな人間と獣のような人間、
神聖な組織にいる邪悪な人間と清廉潔白な人間。。
その組織のなかの誰をピックアップするかによって、組織全体の印象と評価も変わるわけです。
だいぶ、前置きが長くなりましたが、以上のようなことをいったん頭で整理してから、
いざ、本文に突入しました。

第1章は、この手の本ではお馴染み「SSの起源」などを解説し、アウシュヴィッツ絶滅収容所所長
ルドルフ・ホェース(ヘース)の戦後の回想から、彼らの忠誠心を分析します。
第2章では反ユダヤ主義がナチの政策で実践されていく過程。
ヒムラーハイドリヒ、水晶の夜といったキーワード。新聞では反ユダヤ「シュテュルマー」以外に
SS隊員向け「ダス・シュヴァルツェ・コーア」の論調を解説します。

Das Schwarze Korps.jpg

90ページを過ぎた第3章からアインザッツグルッペンが登場してきて、ユダヤ人を虐殺しはじめると
構成員の内訳を掲載して、武装SSが一番多い・・と解説します。
そしてフェーゲライン率いるSS騎兵連隊がバッハ=ツェレウスキの配下に入ると
「あ~、そういうことね・・」という感じです。
バッハ=ツェレウスキはパルチザン掃討作戦の親玉ですから、
このフェーゲラインの部隊がパルチザンを掃討しつつ、ユダヤ人も一緒に殺した・・、
すなわち、ホロコーストに関与した・・と言いたいんだろうなぁと。。
このバッハ=ツェレウスキがパルチザン掃討作戦の任務に異常なまでに忠実で、
パルチザンしか殺さなかった・・などということは誰も思っていませんから、
これは新発見というより、単なる解釈の違い・・ですね。

Bach-Zelewski.jpg

そして第6軍司令官ライヒェナウの「狡猾で残忍なこの異人種を容赦なく根絶しなくてはならない」
という訓示を紹介して、ユダヤ人絶滅政策は国防軍の戦争政策にもなっていたのである・・・
と、まとめています。
しかし、ナチ派のライヒェナウだけ(しかも、この後1942年1月に急死してますし)の言葉を取って、
これが国防軍全体の戦争政策とするのは、かなり荒っぽい・・というか、
写真で見る ヒトラー政権下の人びとと日常」よりも短絡的で、
読んでいて、思わず苦笑いしてしまいました。。。

Generalfeldmarschall Walter von Reichenau talking to Generalleutnant Otto Stapf September 1941.jpg

SSの医師の章では、ヒトラーの元主治医で安楽死計画にも関与したカール・ブラントなど
戦後、裁判を受けた第三帝国の医師たちの名が列挙され、
武装SS「保険局・衛生部」に配属されて、チクロンBの輸送に携わった
抵抗のアウトサイダー」こと、クルト・ゲルシュタインが登場してきます。
本書ではこのことによって、アウシュヴィッツなどのガス室による大量殺戮に
武装SSが大きく関与していた・・という書きっぷりです。

SS doctors examine Polish children judged racially valuable for adoption by Germans. Poland, October 1942..jpg

最後の章では、ポーランドのゲットー解体に武装SSが駆り出され、大いに貢献した話。
収容所の看守についても元々は「髑髏部隊」という独立した部隊でしたが、
やがてそれを母体として第3SS師団トーテンコップが創設されると、
収容所任務の「髑髏部隊」も武装SSとなった・・ということは良く知られたことですから、
本書に書かれているようなことを、ここで改めて論じるまでもありませんね。。

Stroop_Report_-_Warsaw_Ghetto_Uprising_11.jpg

247ページの本書ですが、50ページほどは注記と参考文献なので、実質190ページほどです。
それでもアッという間に読める本ではなく、なんだろうなぁ・・言い回しなのか、
カッコ書きが多い割にはその意味が良くわからなかったり、ちょっと読みづらいし、
知ってる話も仰々しく書いているトコも多いことから、眠くなったりもしました。

結局のところ本書は、重箱の隅を突いたようにフェーゲラインやゲルシュタインを
取り上げて、「ほ~ら、武装SSは悪いことをやってたんだぞ~」というモノでした。
巨大で、生き物のように変化した怪物のような組織「SS」、
そのなかの1つの組織である「武装SS」がホロコーストに関与した部分だけを検証する・・
という本書の狙いが果たして妥当なのか・・?

Hermann Fegelein - SS-Kavallerie-Brigade.jpg

本書を理解するにはホロコースト、SS全般はもとより、アイザッツグルッペンやSD、
警察、髑髏部隊などの関連性や、それぞれどんな組織や部隊だったのかを
ある程度知っている人でなければ難しい1冊だと思います。
逆に言うと、それらを知っている読者が、武装SSは純粋な軍事組織であり、一般SSとは違い、
戦争犯罪 = ホロコースト(ジェノサイド)に関わっていないとする「武装SS神話」なるものを
信じているとはとても思えません。
となると、自分も含めた読者からしてみれば「なんのこっちゃい」となってしまいますし、
「武装SS神話」を信じている若い方がもしいるならば、
ごたまぜで混乱するような知識しか与えられないような気もしました。

An accordionist leads a sing-along for SS officers at their retreat at Solahutte outside Auschwitz.jpg

amazonのように「★☆☆☆☆」は付ける気はありませんが、
本書を読むにあたって、個人的に武装SSという組織を改めて整理する
キッカケになったことには間違いありませんね。



nice!(2)  コメント(8)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

猛将パットン -ガソリンある限り前進せよ- [第二次世界大戦ブックス]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

チャールス・ホワイティング著の「猛将パットン」を遂に読破しました。

第二次世界大戦ブックスのなかでも、かなり有名な(個人的に・・?)一冊ですが、
なんといってもその副題、「ガソリンある限り前進せよ」が傑作です。
まさに副題のお手本、コレに匹敵するのはちょっと思い浮かびませんね。。
原著のタイトルは単に「パットン」・・です。まぁ、向こうじゃコレだけで通用するんでしょう。
ちなみに1970年の映画「パットン大戦車軍団」も原題は「パットン」でした。
20数年前にこの映画を偶然TVで観て以来のパットン・ファンですが、
パットン対ロンメル」という、若干騙され気味のタイトルの本を先に読んでしまってて、
在庫切れだった第二次世界大戦ブックスを本書を含め、3冊まとめ買いしたので、
今回、遂にパットン本の真打ち登場と相成りました。

猛将パットン.jpg

第1章では簡単にパットンなる人物を紹介します。
先祖はスコットランド、アバディーンまで遡れ、米国独立前に移住。
軍人や医者、法律家を輩出し、カリフォルニアで財を築き、1885年、
ジョージ・スミス・パットン・ジュニアが誕生します。
その後は陸軍士官学校(ウエストポイント)から第1次世界大戦に従軍。
やがて1943年、惨敗を喫した米第2軍団の立て直しを任され、チュニジアに上陸します。

この時の彼の日記には「戦争とは、単純で、即決的で、非情なものである」
パットンの名言も「脳ミソと肝っ玉があれば、それで戦争に勝てる。ドイツには楽勝さ」
著者はそんなパットンをルントシュテットのような精緻さや、モントゴメリーのような用意周到さがなく、
つねに「大胆」で直線的であったが、「策」がなかったと解説します。

Patton-Tunisia.jpg

米第2軍団の将兵の根性を叩き直し、チュニジアでの戦いも上々。
アイゼンハワーは「あとはブラッドレーに任せて・・」と、「ハスキー作戦」にパットンを回します。
このシチリア島上陸作戦は、英軍アレキサンダーを司令官として、モントゴメリーの英第8軍と
パットン率いる米第7軍の共同作戦ですが、栄えあるエル・アラメインの勝者、英第8軍と
新参者の米軍では、与えられる任務は違ってきます。
しかし、補助的な役割に甘んじることなく、最終目標のメッシナ奪取をモントゴメリーと争い、
見事に勝利・・。
さらには野戦病院で「精神がやられました」とメソメソしてる兵をひっぱたく「事件」など
映画「パットン大戦車軍団」の原作か??と思わせる展開です。

Patton Montgomery_The War in Sicily and Italy.jpg

この「ビンタ事件」が全米に報道され、世論から「解任せよ」とブーイングを受け、
パットンは1944年新春に米第7軍司令官から解任・・。
6月のノルマンディ上陸作戦からも外されますが、上陸後の米第3軍の指揮は約束されます。
しかし米地上軍司令官は北アフリカとシチリアで部下だったブレッドレー。
7歳年下の元部下が上官です。ちなみにパットンは最年長の将軍で、年の差で言うと
アイゼンハワーが5歳、モントゴメリーも2歳年下ですね。

Le général George Patton.jpg

7月後半からブルターニュ半島の掃討作戦が始まりますが、ブレストにロリアン、
サンナゼールといった各Uボート基地に同時に進撃するという大胆な作戦を実施します。
結局、ロリアン、サンナゼールは陥落させられないまま、1週間で終了したこの作戦ですが、
対するドイツ軍は2流の部隊だったとして、大した評価ではなかったようです。

また、ここではパットン流の戦闘原則を紹介し、「鼻をひっつかんだまま、尻を蹴っ飛ばせ」は、
歩兵部隊で敵軍を釘付けにし、敵の背後に装甲部隊を送り込んで、中核部を壊滅させる・・
という戦法です。
もうひとつ「岩石スープ」というのも面白いんですが、これは書くと長くなるので割愛します。
気になる方は、安いですから、買ってみてください。。

Patton army.jpg

すっかり宿敵のようなモントゴメリーの英軍と、攻勢の主導権やガソリン問題での
軋轢を繰り広げながらもドイツ国境へと殺到するパットンと米第3軍。
今度の対戦相手はロシア戦線でも勇名をはせていた戦車部隊指揮官、
オットー・フォン・クノーベルスドルフが率いるドイツ第1軍です。

Otto von Knobelsdorff.jpg

1648年まではドイツ領だった古都メッツ(メス)は、37ヵ所の砦のある極めて堅固な要塞で、
守備隊は武装SSの有能な指揮官ヘルマン・プリース(第13SS軍団長)です。
この要塞攻略に手こずるパットンですが、その南側では脅威も迫り、
小柄な馬術選手で貴族出身の将軍、ハッソ・フォン・マントイフェルが、
第5装甲軍の準備が完了次第、パットンの南側面に捨て身の反撃をせよ、
との使命を与えられています。

hasso_eccard_von_manteuffel.jpg

思った以上に苦労するパットン。要塞攻略や歩兵を伴ったちまちました攻撃は苦手です・・。
そして突然の「アルデンヌ攻勢」を喰らったアイゼンハワーは、この窮地をパットンに託し、
3個師団を急旋回させて、バストーニュで包囲された米軍部隊を救出することに成功。
それでもパットンは「我々は、この戦争に敗れるかもしれない」と日記に書き記し、
「ドイツ軍は我々よりもひもじく、寒く、弱いハズなんだ。だが依然、素晴らしい戦いぶりを見せている」
と、参謀にも語ります。

ardennen.jpg

3月になるといよいよライン川の渡河作戦が・・。
10万の兵員と猛烈な集中砲撃と空爆、さらに2個空挺師団を用いた雄大な作戦。
このような作戦を指揮するのは、もちろん用意周到なモントゴメリーです。
しかしその前夜、パットンの第5歩兵師団がドイツ軍の妨害を受けることなく
こっそり渡河を果たし、ドイツ内陸部へ侵入してしまいます。
「ブラッド、誰にも話さんでくれ。俺は越えちまったんだ」
回想録で「パットンは扱いにくかった」と語るブラッドレーは、コーヒーをこぼさんばかりです・・。

Eisenhower, Bradley, and Patton at Bastogne.jpg

最終的にパットンの突進はチェコまで続きますが、彼の戦いは事実上コレにて終了です。

「彼こそ我々の救世主だ。野蛮なロシア人から救ってくれたんだ」
と、バイエルンではドイツ国民から歓声と紙吹雪の歓迎を受けるパットン。
ベルリンでの壮大な観兵式では、ソ連の英雄ジューコフが誇らしげにパットンに語ります。
「あの戦車は砲弾を11㌔もぶっ飛ばす大砲を積んでるんですよ」
「そりゃ大したもんだ。ですが、もし我が軍の砲兵が600m以上の距離からソ連軍に発砲したら
わしゃ、即座にそいつを"臆病な行為"のカドで軍法会議送りにしてやりますよ」

Patton and Marshall Georgy Zhukov.jpg

仰天して黙り込むジューコフ。そして同じく驚いたアイゼンハワーは、
このようなパットンのソ連嫌いが及ぼす影響などを考慮して、再び解任。
そしてそれから間もない12月9日、パットンの乗るクルマにトラックが衝突。
意識こそあるものの、首から下が麻痺状態となって、12月21日、息を引き取ります。

Gen-George-Patton-1945-Vienna.jpg

最後にドイツの将軍たちがパットンを評価します。
西方軍参謀長だったブルーメントリット大将は「信じられないような先制力と、
稲妻のような行動力を持った男だ」
最高司令官ルントシュテット元帥は「今まで戦ったうちで最も優れた将軍」と語ります。
ドイツ軍将兵はパットンの軍隊だけを特別に「パットン軍」と呼び、
公式記録にも、よくこのように書かれているそうです。
そして「電撃戦の創始者」たちにパットンの迅速果敢な戦闘方法が魅力的に見えたとし、
一方のモントゴメリーについては「型にはまって、慎重すぎるほど慎重」という評価を・・。
これは映画「遠すぎた橋」のルントシュテットとモーデルの会話、そのままですね。

General George S. Patton.jpg

本書は古い本ですから、パットンの良いトコを痛快に読ませるモノかと思っていましたが、
決してそんなことはありませんでした。
人間的な部分、戦術的な部分、さまざまに検証し、人間パットンを浮かび上がらせているもので
終戦の半年後・・という彼の死も、「戦争に取り付かれた軍人」パットンらしいようにも思えました。
このボリュームと大量の写真や戦況図を載せているにも関わらず
これだけ綺麗にまとめているのは素晴らしいですね。





nice!(1)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。