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第二次世界大戦〈3〉 W.チャーチル [英国]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

W.S.チャーチル著の「第二次世界大戦〈3〉」を読破しました。

前巻は英国本土の航空戦とUボートとの死闘、そして地中海に
北アフリカでの戦いという、その副題のとおり、独伊の枢軸国に対して
「単独で」戦うチャーチルと英連邦軍でしたが、
1941年の夏から始まるこの第3巻は、「大同盟」の副題が象徴するように、
米ソを巻き込んだ連合軍としての戦いの様子です。

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チャーチルが情報を流していたにも関わらず、これを無視した結果、ドイツ軍の
バルバロッサ作戦」をモロに受けて、各戦線で崩壊寸前となったスターリンのソ連。。
9月15日、チャーチルはスターリンから1通の電報を受け取ります。
「英国は危険を冒すことなく、30個師団をイラン経由でソ連の南部地域に輸送することが
出来ると思われます。こうすれば、英ソ両軍の軍事協力をソ連領内に確立できます」。

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これにはチャーチルも「大国の最高責任者がこのような非現実的で愚かなことを主張するとは・・」
という感想です。
このような間にも米国大統領ルーズヴェルトと「プリンス・オブ・ウェールズ」の艦上で会談し、
枢軸国に対する共同宣言を行い、孤立から、巨大な味方を得ることになるのでした。
そして、日本による真珠湾攻撃が「米国が死に至るまで戦争に入った」として、
この時点で早くもチャーチルは勝利を予感します。

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ここからは一進一退を繰り返す、北アフリカのロンメル軍団に対する戦いと、
日本軍の東南アジア侵攻に対する戦いが交互に登場する展開ですが、
ヴィトゲンシュタインが非常に疎い、この英日戦はなかなか勉強になりました。
日本がまず攻め込むのは香港。そして英国はシンガポールの防衛も放棄します。

海での戦いもこの時期の様々なエピソードが語られ、例えば、
シャルンホルストとグナイゼナウによるドーヴァー海峡を白昼堂々突破された顛末や、
戦艦ティルピッツの大西洋沿岸でのドック入りを防ぐためのサン・ナゼール急襲
米国東海岸でUボートが暴れまわる「パウケンシュラーク」作戦。

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1942年6月、ワシントンを訪れていたチャーチルの手元に電報が渡されます。
そこに記されていたのは「トブルク降伏。捕虜25000.」。
「あまりに驚くべきもので、私には信じられなかった」と語るチャーチルは、
すでにシンガポールで85000名もの捕虜を出し、今もまた・・。
そしてルーズヴェルトに懇願します。「出来るだけ多くのシャーマン戦車をください」。

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この敗北はロンドンでもメディアを賑わせています。
「トブルク陥落は内閣更迭へ発展か」、「チャーチル不信任されん」などなど・・。
このようにオーキンレック将軍の英第8軍がロンメル軍団にエジプト方面に押し込まれつつあるなか、
英米による第2戦線に向けた4つの反撃作戦も計画され始めます。

①暗号名「体育家」 北西アフリカ上陸作戦で後に「トーチ(松明)作戦」に改名。
②暗号名「ジュピター」 北ノルウェー作戦。
③暗号名「狩り立て」 ドイツ占領下ヨーロッパ侵入で後に「オーバーロード(大君主)作戦」に改名。
④暗号名「大槌」 1942年ブレスト、またはシェルブール攻撃。

結局は②と④は脱落し、残った①と③が連合軍にとって決定的な作戦となっていきます。

砂漠軍の信頼を失ったオーキンレック将軍の解任と、その後継者問題に悩むチャーチルの話は
かなり詳しく書かれています。プライドの高い彼ら軍人に対する人事は、
大変気を使ったもので、ヒトラー流に即、更迭、軍事裁判・・などということは当然ありません。

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当初は参謀総長ブルックを検討したというチャーチルですが、結局は後任の中東司令官として
アレキサンダー将軍を、そしてモントゴメリー将軍をアレキサンダーの「トーチ作戦」後任とし、
ゴット将軍をアレキサンダーの元で第8軍を指揮・・・と玉突き人事が行われますが、
その直後、ゴット将軍が戦死。これによって最終的にはモントゴメリーが第8軍にと
なるわけですが、オーキンレックにも中東総司令官の地位が与えられたそうですが、
彼自身がこれを威厳をもって拒絶したようです。
ここまでの英将軍連についての印象としては、ブルックは当然ながら、チャーチルは
アレキサンダーをとても信頼している感じです。

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いよいよチャーチルは同盟国のもう一人の首領、スターリンと会見するためにモスクワへ旅立ちます。
この陰気で邪悪なボルシェヴィキの国への使命に思いを巡らせ、
かつて、この国の誕生にあたって、これを絞め殺すことに懸命に努力をし、
ヒトラーが出現するまでは、文明化した自由の不倶戴天の敵と見なしていた国・・。

この数日間の初会談の模様も非常に細かく書かれています。
「トーチ作戦」を説明すると、スターリンはその作戦の背後にある戦術的利益・・
フランス国内での対立とスペインへのけん制、そしてイタリアを戦争の矢面に立たせることを
すぐさま理解し、また、自慢の新兵器カチューシャ・ロケット砲に関する情報を全部与えるから、
その代り、何か提供してくれないか。。

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北アフリカでは新任のモントゴメリーがエル・アラメインでロンメルを撃破し、
大勝利を収めます。このような細かい戦記の部分は、以前にココでも紹介した、
デズモンド・ヤングの「ロンメル将軍」を参考にして引用しています。
そして、この戦いが戦史に残るものとして、このように語ります。
「アラメイン以前に我々に勝利はなく、アラメイン以後、我々に敗北はなかった」。

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クライマックスは発動された「トーチ作戦」の様子。
細かい戦闘の推移よりも、ここではドゴール自由フランス軍にアンリ・ジロー将軍、
ペタンのヴィシー政府と大の英国嫌いダルラン提督までが絡んでくる
2つ、3つに分かれたフランスのドロドロ感がとても印象的でした。
これはちょっと何かの本で勉強したいですねぇ。

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ダルランは暗殺されたものの、ドゴールとジローもいがみ合い、
なんとかカサブランカ会談で握手させますが、チャーチルはドゴールについて、
彼の傲慢な態度には腹がっ立った・・と、その悪感情を本書でさらけ出しています。
曰く「彼は亡命者であり、死の宣告を受けた祖国からの放浪者であり、
どこにも拠り所がなく、英米政府からの善意に完全に依存する立場にあったのだ」。

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最後のページには、全く知らなかったエピソードが紹介されていました。
中立国ポルトガルの飛行場から飛び立った飛行機がドイツ空軍機に撃墜され、
「風と共に去りぬ」にも出演していた有名な英俳優レスリー・ハワードが死亡した・・というものです。

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この乗客の中に太って葉巻を咥えた人物がいたということで、チャーチルは
「大英帝国の首相が護衛も付けず、白昼堂々、旅客機で帰国するなどあり得ない」と
ドイツの残虐さと防諜の間抜けさ加減を批判しています。
その代り、ハイドリヒ暗殺の話は一切出てきません。ちょっと楽しみにしていたんですけどね。





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第二次世界大戦〈2〉 W.チャーチル [英国]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

W.S.チャーチル著の「第二次世界大戦〈2〉」を読破しました。

第2巻 -単独で- は、1940年5月のドイツ軍による西方作戦に対するベルギー軍、オランダ軍、
そしてフランス軍と英国の大陸派遣軍の、果敢な抵抗を詳しく振り返るところからです。
フォン・ボックフォン・ルントシュテットの指揮するドイツ装甲部隊による近代戦に対して
フランス軍も戦車を差し向けるものの、その運用は分散し、戦車発祥の地である英国も
やっと最初の装甲師団の編成と訓練が、本国で完了したばかりです。

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空においてもドイツ空軍が優勢です。ハリケーン戦闘機の10個中隊をはじめとして
474機あったものが、瞬く間に206機になってしまうと、
英国本土を無防備にして、どれほどの戦力をフランスに送ることができるのか・・が
重要な問題となってきます。
本土防衛戦闘機隊総指揮官のダウディング空軍元帥は、戦闘機中隊25個が
ドイツ空軍の総攻撃から本土防衛出来る限界とチャーチルに語ります。 

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フランス首相レイノーは早々と「我々は敗れました」とチャーチルに電話をかけ、
ペタン元帥を副首相に、ガムラン将軍に代えてウェイガンを起用するなど
内閣と最高司令部の大改造を行います。

しかし、そんなことでドイツ軍の怒涛の前進は止められるものではなく、
英国はダンケルクからの大陸派遣軍の撤退、「ダイナモ作戦」を発動。
英国本土沿岸に住む住民もが蒸気船や帆船でダンケルクへと向かい、
海軍省地図室長のビム大佐ら数名の顔が見えなくなったのにチャーチルが気付くと、
彼らはオランダの快速艇を手に入れ、4日間で800名の兵士を運んでいた・・という
海の男たちによる、まさに人海戦術です。

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イタリア外相チアーノが「5000年に一度しかやってこない機会」と語ったという、イタリアの参戦・・。
獲物であるフランスの背後を突く、ムッソリーニのイタリア軍ですが、
フランス軍のアルプス部隊の陣地は意外に難攻不落で、あっさり阻止。。。。

この西方戦役で特に印象的だったのが、フランスに戦争継続を要求する英国が、
逆にフランス側から英空軍の増援を再三要求され、チャーチルが苦しむ場面でしょう。
それはこの問題を総括し、もしヒトラーに超自然的な知恵があったならば・・として
「ダンケルクの後、数週間セーヌ戦線にとどまり、その間に英本土進攻の準備を始めたならば、
それは恐るべき選択となり、苦悶するフランスを見殺しにすべきか、それとも我々が
将来生き延びるための必要な最後の手段まで使い果たすか、拷問にかけることにもなったはずだ」。
う~ん。以前に読んだ「ヒトラー対チャーチル -80日間の激闘-」を思い出しますね。

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結局、本土防衛に必要な戦闘機隊を確保できた英国は、来るべきバトル・オブ・ブリテン
Me-109を相手にスピットファイアとハリケーンが果敢な航空戦を繰り広げ、
チャーチルの下院での有名な演説が行われることになります。
「人類の闘争の場において、このように多数の人間が、このように大きな恩恵を、
このような少数の人間によって受けたことは、未だかつてなかったのであります」。

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この当時のロンドン空襲を振り返る部分は、なかなか興味深いものです。
「戦争の最後の3年間にドイツ人が受けた試練と比較することは難しい」としつつも、
ドイツへの空爆では爆弾の威力が遥かに大きくなったが、彼らはドイツらしい鉄の規律によって
対爆避難所や地下の巨大な回廊で寝ており、多くの場合、ただ地上の瓦礫の山を
吹き飛ばしていたに過ぎないと語っています。
後半に出てくるであろう、ハンブルクやドレスデンへの無差別爆撃では、なにを語るのか
気になるところです。

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「戦争中、真に私に不安を与えたものといえば、それはUボートだった」と語るチャーチル。
Uボート艦隊司令官デーニッツによって生み出された「狼群戦術」を解説し、
「恐るべきプリーン」と「優秀な将校に指揮されたU-99、U-100」が沈められ、
この3名の卓越した指揮官が除かれたことがUボート戦の転機となったとしています。
さらには「Uボート艦長で冷酷な能力と大胆さにおいて、彼らに匹敵するものはほとんどいなかった」と
名前こそ書いていませんが、クレッチマーシェプケも最高の評価ですね。

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この時期、イタリア軍がエジプトへ、さらにはギリシャまで侵攻をはじめます。
ギリシャではあっさり駆逐され、アルバニアまで押し返されたイタリア軍ですが、
ドイツ軍が助っ人に参戦。ユーゴスラヴィアと最近、気になっている若き国王ペータル2世
登場しながら、地中海の話は進み、ダンケルクに続いて英軍は海路撤退を余儀なくされます。

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一方、北アフリカでも、エジプトの英軍の大逆襲により、大損害を被って西へと逃げ惑う
イタリア軍を救うため、「一人の新しい人物が世界の舞台に踊り出た」。
ご存知"砂漠のキツネ"ロンメルの登場ですが、本書ではだいたいこんな感じで紹介されています。
「彼こそ素晴らしい戦争の賭博師であり、機動部隊の操縦において、急速に再編成を行い、
勝ちに乗じてさらに進む点では、全く達人であることを立証した」。

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また、チャーチルが公式にロンメルを賞賛した・・といわれる件もちゃんと書かれていて、
1942年1月の下院で次のように述べたそうです。
「我々には非常に大胆な、そして巧妙な敵手がおります。
戦争の大破壊を越えて、偉大な将軍と申してよいかと思います」。

そして英国の恐れるドイツ降下猟兵による、クレタ島奪取・・。
この激戦で最終的にクレタ島はドイツの手に落ちたものの、ゲーリングは愚かにも、
このようなかけがえのない兵力を英国戦士たちとの死闘によって捨て去ったのだ・・
としています。

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ここまで前半部分の2冊を読んだ印象としては、ドイツ側が良く書かれているなぁというものです。
予想はもっと英国内の政治問題とか、閣僚との軋轢とかが多いのかと思っていましたが、
それらの方が完全な脇役です。
後半は、米ソとの関係が中心になりそうですが、どうなるでしょうか?





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第二次世界大戦〈1〉 W.チャーチル [英国]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

W.S.チャーチル著の「第二次世界大戦〈1〉」を読破しました。

英首相チャーチルの、この有名な第二次世界大戦回顧録を購入したのは2年ほど前ですが、
挑戦しようと2~3回は試みたものの、一巻350ページ程度で、最後の第4巻は480ページ。
合計1500ページの大著ですから、結局いつも「や~めた」となってしまいます。
今回は、4月にWOWOWで放送され、録画していたドラマ「チャーチル 第二次大戦の嵐」を
興味深く観たことなので、その記憶が残っているうちに・・・と本格的に挑んでみました。
英国人の回想録では「モントゴメリー回想録」に続いて2人目になりますね。

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まずはチャーチルのこの有名な回顧録と、日本での出版の経緯について簡単に整理すると、
もともと政治家でありながら、過去の「戦記」などの執筆も行っていたチャーチルは
第一次世界大戦の回想録、そしてこの全6巻の大作、第二次世界大戦も書き上げたことで
1953年にノーベル文学賞を受賞。

日本で全6巻の完全な翻訳本が出たのは1950年代のようで、後に戦争の部分を中心に、
チャーチル自身で短くまとめたものが、本書「第二次世界大戦」。
これは1972年に上下巻の単行本として、1975年には4分冊となり、1983年に文庫化。
最近では2001年に文庫で再刊されていて、ヴィトゲンシュタインが購入したのは
一番安かった1983年の文庫版①~④のセットです。
ちなみに抄訳版「第二次大戦回顧録 抄」も出ていますが、わずか300ページというもので
さすがにこれは・・、大作映画の長めの予告編みたいな感じですかね。。

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それにしても、ただ単に「第二次世界大戦〈1〉」なんてタイトルは味気ないなぁ、
と思いながら目次を見ると、どうやら各巻に副題が付いていました。
この第1巻は「不幸への一里塚」で、以降「単独で」、「大同盟」、「勝利と悲劇」と続くようです。

第一次大戦後の1919年から始まるこの第1巻は、1931年にかけてのドイツ、英国、
フランス、米国の社会と政治をヴェルサイユ条約、フランスによるラインラント占領、
インフレ、ヒンデンブルク大統領の誕生・・などのキーワードと共に簡単に紹介します。

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そして第3章は「アドルフ・ヒトラー」。ゲーリングレームローゼンベルクといった
初期の重要人物も登場させながら、「わが闘争」に触れ、ヒトラーが政権を握った当時、
連合軍の軍事・政治家たちにとって、これほど注意深く研究に値する本はなかった・・として、
「わが闘争」の主要テーゼは簡単・・と2ページほど解説。

ちょっと抜粋すると「つまり、人間は闘う動物であり、ゆえに国家は戦闘単位である。
教育は最小限の訓練によって軍人となれるようなドイツ人を作ることである。
英国とイタリアのみがドイツと同盟となり得る二国であり、
フランスを感情的理由だけで攻撃するのは馬鹿げている。
西欧に対してソ連と手を組んで戦いを仕掛けることは罪悪である」。
ヴィトゲンシュタインはこの「わが闘争」を読んだことがないので、大変参考になりました。
しかし、まさかチャーチルのレビューで教えてもらうことになろうとは・・。

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そして1932年の夏、著作のために各国の古戦場巡りをしていたチャーチルは
滞在したミュンヘンのホテルで、「ヒトラーを紹介しましょう」という人物に出会います。
しかし、この人物に総統のユダヤ人問題についての意見を聞いたところ、
翌日の会見はヒトラーが来られなくなったとのことで「キャンセル」。
「こうしてヒトラーと会見する唯一の機会を失ってしまった」と回想します。

長いナイフの夜」事件に衝撃を受け、さらに軍備の拡張を進めるナチス・ドイツに対する
懸念を下院で報告するチャーチル。
「ドイツはすでに空軍力を保有していることを断言いたします。
しかもこれは、急速にわが軍との均等に近づいているのであります」。
ですが、この声明は下院で否定され、すべての人々が喜ぶことに・・。

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第9章「ヒトラー出撃す」からは1936年のヒトラー最初の軍事行動、ラインラント再占領
詳しく書かれています。当時のフランスがドイツ軍が追い出すだけの力があるにも関わらず、
英国の顔色を見ながら、戦争の危険を冒すことが出来ないと、コレを見逃したといった感じです。
また英国でもこんな論調が・・「結局、ドイツ人は自分たちの領土に帰るだけに過ぎないのだ」。

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その英国の議場では別の大問題が持ち上がっています。
チャーチルが幼少の頃から知っていたエドワード8世が愛する女性と結婚しようとする情熱のために
その座を弟、ジョージ6世に譲るという英国王室の大スキャンダルです。
う~ん。やっぱり「英国王のスピーチ」観たいなぁ。。

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翌年の駐英ドイツ大使、リッベントロップとの2時間にも及ぶ会談の様子も。
「ドイツはポーランドとダンツィヒ回廊、白ロシアとウクライナを増加する人口のために
併合しなければならない。英国に対して求めるのは、
ただ干渉してもらいたくないということだけである」。

アンシュルスについてもベルヒテスガーデンに呼びつけられて、ヒトラーに脅された
当時のオーストリア首相シュシュニクの記録を用いながら、その対話を詳細に再現し、
続くズデーテンラント問題でも「ミュンヘン会談」によって戦争を回避させたチェンバレン首相を中心に
ドイツ国防軍の将軍たちの、それまでのヒトラーに対する嫌悪と不信感が、天才的指導能力と
奇跡的な幸運に対する驚嘆に圧倒された・・ということにまで触れています。

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後半、スターリンとソ連が登場してきますが、ここでチャーチルがあえて説明を加える人物は
ソ連の新外相、モロトフです。
曰く「卓越した才能を持った、冷酷無慈悲な人物であり、粛清の脅威を伴った、変転極まりない
陰謀の社会を生き抜いた、予想しがたいカラクリ政策の代理人」というものです。
こうして両外相、リッベントロープとモロトフによって「独ソ不可侵条約」が結ばれ、
この不吉なニュースは爆発のように世界を襲います。

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1939年当時、英国にはドイツ人のナチ党員が2万人いることがわかっていたそうで、
ヒトラーから個人的に「敵」と思われていることを知っている「重要人物」のチャーチルは、
護衛も付けて、自らも銃を携帯することになります。

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遂にドイツがポーランドへ侵攻するのと同時に英国は宣戦を布告。
チェンバレンから戦争内閣に入閣し、海相の地位を提供したいと言われたことに喜ぶチャーチル。
第一次大戦でも同様の地位を務めた、この人事に海軍省は即刻、全艦隊に打電します。
「ウィンストン帰れり」。

そんなことも束の間、スカパフローで戦艦ロイヤル・オークがUボートに撃沈され、
800名が戦死するという大失態が・・。
新任だったためにこの非難から逃れられたチャーチルは、本書では
「U-47の艦長、プリーン大尉の武勲と見なさなければならない事件」と表現しています。

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ここからは通商破壊作戦を始めたドイツ艦隊との戦い、巡洋艦シャルンホルストとグナイゼナウ
ポケット戦艦 ドイッチュラントと「大胆で想像力に富んでいた」グラーフ・シュペー

一方、地上では「まやかし戦争」が続き、英仏が宣戦布告後、
ドイツに対する攻勢に出なかった理由を軍事的観点で説明します。
「たとえフランス軍が緒戦において成功を収めたとしても、
1ヶ月以内に征服地を維持することが困難となり、やがて北方において
ポーランド戦を終えたドイツ軍の全兵力を挙げての反撃にさらされたであろう」。

また、その後のソ連によるフィンランド侵攻も「ソ連政府に感じていた激しい怒りは、
この残忍な弱い者いじめと侵略行為によって、炎と燃え上がった・・」と振り返ります。
クライマックスはノルウェーを巡る英独の海戦です。
しかし結局はドイツの勝利に終わり、ファシズム政党のクヴィスリングが支配者として登場。

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こうして1940年5月10日の朝を迎え、ドイツ軍の満を持した西方への進撃の情報が・・。
チェンバレンは辞任し、国王から首相としての組閣を依頼されるチャーチル。
かくして今後5年に渡る、英首相チャーチルの戦いが始まるのでした。





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深海からの声 -Uボート234号と友永英夫海軍技術中佐- [第三帝国と日本人]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

富永 孝子著の「深海からの声」を読破しました。

4月の「Uボート総覧」に書かれていた、終戦間際の謎を秘めたU-234の話・・。
それは日本人士官2名と560㎏の「ウラン酸化物」を乗せたU-234がキールを出港したものの
ドイツの降伏の知らせに、日本人士官は自決、降伏したU-234は米軍に捕えられ
「ウラン酸化物」はそのまま行方不明・・という事件でした。
本書はこの事件にスポットを当て、特に日本人士官2名のうちの一人、
表紙を飾るイケメン、友永英夫海軍技術中佐の人生を大きく取り上げたものです。

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「序章」では著者が本書の執筆に至る経緯・・、昭和も終わろうとする頃、
吉村昭著の「深海からの使者」を読み、そこに登場する2人の技術士官の秘話に胸を打たれ、
偶然、友永海軍技術中佐の遺族が身近にいることがわかったことから
取材を進め、U-234の乗組員たちにインタビューを行うために、北ドイツのキールも訪れます。
ウラン酸化物や日本人士官2名の自決の件など、この時点でダイジェスト的に書かれていて
おぉっと、という感じですが、これは本書がそれを前提としているということなんですね。

次の章から本格的に36歳の潜水艦設計のベテラン友永技術中佐と、
42歳の航空機エンジン開発リーダー庄司技術中佐がU-234に乗り込み、
その艦内での生活・・ドイツ人の若きボート乗組員たちとの交流の様子が語られます。
1945年2月末から始まるこの章は、このU-234に乗り込むメンバーが非常に興味深く、
あの仮装巡洋艦アトランティスの拿捕士官という経歴を持つ25歳の新人Uボート艦長
フェラー大尉に始まり、ミサイルの専門家である空軍大将ケスラーもお客として日本行き。
これは前年のヒトラー暗殺未遂に賛同していたことから、ゲシュタポの追及を逃れるため・・
というのがその理由です。
さらにはメッサーシュミット社から民間のトップ技術者など、日本人の2人を入れると
12人のお客と海空の各種新兵器、そして「ウラン」を乗せて、いざ日本へ向けて出航。

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しかし直前には「出航中止」命令が総統司令部から届くと、これを覆す命令・・、
「U-234は私の命令で即時出航せよ」がデーニッツ司令官から届くなど、
終戦間際のドタバタに、装備の故障、さらに敵機からの空襲に急速潜航を余儀なくされたりと
出だしから問題山積です。

無事に大西洋へ進出したものの、そこで送られてきた無電は「ヒトラー総統死去」、「ドイツ降伏」、
そして「日本はドイツとの同盟関係を放棄した」というものです。
フェラー艦長にケスラー大将らは対策を協議し、このまま帰国するか、アルゼンチンへ向かうか・・。
まるで「U‐ボート977」とそっくりの展開ですが、このU-234には頑固な日本人も乗艦していて
もちろん彼らは、執拗に当初の目的どおりの日本行きを進言し続けます。
しかし、その願いが叶わないことを悟った二人は、遺書をしたため・・。

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この二人の最期と同時に米海軍に拿捕されたU-234の物語が終わった段階で
150ページを過ぎたところです。
ちなみに本書はハードカバーの448ページという結構なものなんですが。。

U234.jpg

そしてここからは友永中佐伝が始まり、幼少の頃から妻との出会い、
呉の造船部に実習士官として配属、その後、佐世保で潜水艦設計で大きな注目を集め、
昭和15年(1940年)には「自動懸吊装置」と「重油漏洩防止装置」の2大発明によって
海軍技術関係のノーベル賞ともいわれる「海軍技術有功章」が2度も与えられます。
ちなみに勲章好きのヴィトゲンシュタインはこれをちょっと探してみましたが、
綺麗な物は見つかりませんでした(空襲で無残に焼けたものだけ・・)。
七宝焼きで、とても美しいもののようです。

このような活躍が認められて東京の海軍艦政本部勤務となり、友永一家も東京へ。
住所は「東京市小石川区賀籠町102番地」。。ヴィトゲンシュタイン家と結構ご近所さんですね。
そして1943年、彼の発明をドイツに伝達することと、Uボートの調査/研究のため、
いよいよドイツへと旅立ちます。
家族共々と過ごす最後の休日では上野広小路の写真屋や上野動物園のエピソードと
その写真も掲載され、よりヴィトゲンシュタインの地元でのこの場面は不思議な気持ちになりました。
そういえば「象の花子」の話もこんな時かなぁ。。

上野動物園 象の花子.jpg

洋上で「伊29」から「U-180」に乗り換え、カレーライスの作り方も伝達して、人気者になる友永。
また逆に「U-180」から「伊29」に乗り換え、日本へと向かうのが
インド独立を目指してドイツへ亡命していたチャンドラ・ボースです。
この話、何かで読んだなぁと探してみたら「Uボート戦士列伝」のU-180元機関員の話でした。
ちゃんと友永中佐についても触れられていましたねぇ。

印象的だったのが、乗艦時、日独両語で一文を添えて日本刀をU-180の艦長に贈呈した話です。
「私の命を預けた男。U-180潜水艦長、ムーゼンベルグ海軍少佐殿へ」。
もちろん、艦長はいたく感動・・。読んでるこっちも感動・・、友永中佐、カッコ良過ぎるぜ・・・。

Werner Musenberg u180.jpg

こうして無事、ボルドーへ入港し、陸路、ベルリンへ向かう友永。
彼の発明を半信半疑にに聞いていたUボート関係者もそれを理解すると、
畏怖の念を込め、われ先にと握手を求めます。
三国同盟の話では、イタリアをまったく信用していないドイツ軍の態度が面白く、
機密兵器に関する時には「イタリア海軍には内密に・・」と日本海軍に念を押す始末です。

「あとがき」ではキールのUボート記念碑メモリアルホールに、日本の両中佐を顕彰した
記念板があり、「勇士たちよ!・・・」と刻まれている詩が紹介されます。
そして、あの降伏交渉を成し遂げた後、自決したフリーデブルク提督の名がもう一枚の額に・・。
さらにドイツ政府は二人の命日には駐日大使を通して、
毎年、献花や供物を手向け続けていた・・ということです。

Admirał Karl Donitz_admirał Hans Georg von Friedeburg.jpg

全体的に友永英夫海軍技術中佐、そしてもうひとつの主役であるU-234と乗組員たち、
さらにはUボートそのもの、例えばシュノーケルの解説など、非常に良く調査され、
わかりやすく丁寧に書かれているなぁ・・と感心しました。
友永中佐の奥さんと娘さんが1992年のU-234の会合に出席する話は
帰れなかったドイツ兵」を彷彿とさせるものでしたし・・。

ただ、これはあくまで個人的な趣味による見解ですが、
本書の構成は果たしていかがなもんでしょうか?
ヴィトゲンシュタインが一番知りたかった部分はあっさり前半で終わってしまい、
その後は半分以上が友永中佐伝(これはこれで面白いですが・・)。
もうちょっと、どうにかならんもんかなぁ・・という印象です。

自分だったら、友永中佐が初めてUボートブンカーのU-234を訪れた際に、
彼がここに至った経緯を回想形式で紹介するとか、
自決を決意するところで奥さんと娘さんの話が出てくるとか、
独立した章ではなくて、うまく混ぜ合わさっていたら、たぶん、涙ボロボロだったと思います。

実際、友永伝の後半では、ちょっと「うぅ・・」となりましたしねぇ。
なにかもったいない・・構成次第で「名著」と呼ばれるものになった気もするのが残念です。。



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ヒトラー戦跡紀行 -いまこそ訪ねよう第三帝国の戦争遺跡- [ドイツの都市と歴史]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

齋木 伸生著の「ヒトラー戦跡紀行」を読破しました。

今年の2月に発売された315ページの本書ですが、タイトルのヒトラーうんぬんはともかく、
副題の「いまこそ訪ねよう第三帝国の戦争遺跡」の方が気になっていました。
一度はドイツを訪れてみたい・・と思っているヴィトゲンシュタインですが、その際の参考に、
または、本書を読破することで、その想いが強烈なまでに高まってしまって、
とりあえず今年の夏休みにでも行ってみよう!という気持ちになることも期待しながらの読破です。
なお、著者の齋木氏は「チェルカッシィ包囲突破戦」などの訳者さんでもあるようです。

ヒトラー戦跡紀行.jpg

最初の遺跡は、この「独破戦線」でも何度も登場した、ヒトラーの山荘「ベルヒテスガーデン」です。
この山荘が作られた経緯・・特にマルティン・ボルマンが仕切って・・が解説され、
著者による観光ガイドと続く展開です。
ミュンヘンからより、オーストリアのザルツブルクからの方が遥かに近いなどの情報、
また、ベルヒテスガーデンというのは地名であり、山荘自体は「ベルクホーフ」と呼ばれ、
ここは終戦時に米軍によって破壊され、その後もドイツ政府によってナチスの痕跡を抹消しようと
再開発されているようです。

To deter tourists, sight-seers, and neo-Nazis, the Bavarian government blew up the ruins of the Berghof on 30 April 1952.jpg

博物館もつくられているそうですが、著者によると「いかにも私たちは反省していますよ、という
とってつけたような施設にしか見えない」ということですが、
ボルマンがヒトラー50歳の誕生日にプレゼントとして建てたことで知られる、
ケールシュタインのティーハウス(イーグル・ネスト(鷲の巣)のほうが一般的??)は健在で、
SS副官フェーゲラインエヴァの妹、グレートルの結婚披露宴が行われたこともあるこの場所は、
ヒトラーの城砦のなかでも美しさでは最高傑作としています。

Kehlsteinhaus.jpg

続いては「ゲルマニア建築計画」で、ベルリンを世界首都にしようというヒトラーの野望と
若き建築家シュペーアとの共同計画が解説されますが、結局は戦争の勃発により、
ほとんどが計画倒れなわけですが、いったい、何を紹介するんでしょう??

答えを先に書くと、せいぜい1936年のオリンピック向けに建てられた
オリンピア・シュタディオンくらいです・・。
後はブランデンブルク門に修復された国会議事堂。かつての官邸街は完全に姿を消し、
アパートなどが立ち並んで、有名なプリンツ・アルブレヒト通りのゲシュタポ本部
完全に取り壊されてしまっています。
そんななかで写真だけの紹介ですが、旧陸軍総司令部(OKH)は残っていて、
現在は「抵抗博物館」になっているというのは気になりました。
シュタウフェンベルク大佐の「蝋人形」がお出迎えしそうな感じですが、
個人的にはグデーリアンらの歴代参謀総長が、ソ連とヒトラーを相手に、
ここで苦悶を続けていたということを感じ取りたいですね。

Military demonstration at Hitler's 50th birthday celebration in Berlin. April 20, 1939.jpg

お次は、またまた南に戻ってナチ党の聖地であるニュルンベルクとミュンヘンです。
エヴァ・ブラウンの実家は極々「普通の家」・・。
ミュンヘン一揆」でヒトラーたちが行進した足取りをたどりますが、
あの「ビュルガーブロイケラー」はすでにありません。
最初のナチ党本部「褐色の家(ブラウン・ハウス)」も同様ですが、
その後に建てられた党本部は健在です。

Braunes Haus.jpg

ニュルンベルク党大会の壮大な建築物はいくつか残っていて、シュペーアの手による、
会場となった「ツェッペリンフェルト」も今も原型をとどめ、
「SS兵舎」は1992年まで駐留米軍が使用していたために、綺麗に残っています。

Reichsparteitag der NSDAP in Nürnberg.jpg

読み進めていくと自然に気づくと思いますが、本書はジャンルとしては「フォトエッセイ」のようで、
かなり気楽にいろいろ言いたいことを書いています。
すべて白黒なのが残念ですが、もちろん「フォト」も当時の写真と著者の撮った現在の写真も
多く掲載されています。

対ソ戦の総統大本営で有名な「ヴォルフスシャンツェ」の紹介では、
当時の東プロイセン、ラステンブルクにあったこの地が、現在はポーランドであり、
東プロイセンの中心地であったケーニヒスベルクは、カリーニングラードとして
ロシアの領土となっているという、話は興味深いものでした。

wolfsschanze_hitler_bunker.jpg

カイテルゲーリングらの専用ブンカー、ヒトラーを狙った爆弾の炸裂した軍ブンカーの跡地には
記念碑が建てられ、1992年のセレモニーにはシュタウフェンベルクの息子たちが参列したそうです。
なかなかの観光地となっている「ヴォルフスシャンツェ」に日本から行くには、
アエロフロート・ロシア航空が便利なようですが、
「いまやサービスは社会主義時代に逆戻りしていて、そのレベルは最低にまで転落した」と、
けちょんけちょんにこき下ろしています。。
ヴィトゲンシュタインはまだ乗ったことありませんが、こんな客を馬鹿にした不謹慎な態度かな・・。

Flight attendant Aeroflot.jpg

ただ本書は、どのレベル(第三帝国の知識)の読者をターゲットにしているかが良くわからず、
その「遺跡」にまつわる当時の話、例えばヒトラー暗殺未遂事件の顛末など・・・、
が多いのも気になりました。
本書に興味を持つのは、そうゆうことはある程度知っている人なんじゃないかなぁ。。

相変わらず目次は読まずに本文へと突き進むヴィトゲンシュタインですから、
本書になんの第三帝国の戦争遺跡が登場するのか、知らないまま、
「次はなんだろう・・?アレは出てくるかな?」と期待しながら読み進めましたが
(実は表紙に書いてありましたね・・。すぐにカバーを付けてしまうので。。)
後半は「第三帝国の戦争遺跡」ではなく、まさに「ヒトラー紀行」といった感じでした。

特に「西方電撃戦」からは、ベルギーの総統大本営、「ヴォルフスシュルフト」が出てきたまでは
良かったですが(ここも博物館に・・)、フランスの遺跡としては「ヒトラーの電撃パリ観光」が主題で、
エッフェル塔やら凱旋門やらが紹介されてしまいます。
ベルギーだったら「エーベン・エメール要塞」だったり、フランスなら「大西洋の壁」のトーチカや
Uボート・ブンカーなんかが知りたかったなぁ。。

U-Boot Bunker.jpg

オーストリアへ行くとヒトラーの生まれ故郷であるリンツや、青年時代を過ごしたウィーンが紹介され、
1938年のオーストリア併合までの、ヒトラーの足跡を辿るものとなり
(ヒトラーの両親の墓を探すものの見つからず・・)、チェコでもプラハ城などの紹介程度です。
個人的にはハイドリヒがそのプラハ城への通勤途中で暗殺の襲撃を受けた「トラムの停留所」とか、
リディツェ村」なんかの方がヒトラーが演説したホテルのバルコニーよりも、
「第三帝国の戦争遺跡」と言っても良いのでは?と考えますが、どうでしょう。

Liditz.jpg

最後のページにコッソリ書かれていましたが、本書は書き下ろしではなく、
月刊「丸」 に2009年~2010年にかけて連載されていたものを加筆/訂正したものだそうです。
そういうことであれば、本書のヒトラー好きの気ままな一人旅エッセイというのは、
ある程度納得できますが、本当の旅行ガイドのように「予算」と「現地調査」がしっかりしたものを
イメージするとちょっとガッカリしてしまうかも・・。
ヒトラーが泊まった高級ホテルも「値段が高くて泊まれなかった」という展開なので・・。
ただ、個人旅行の好きな人なら、「なるほど~」とその「エッセイ」部分を楽しめるでしょう。

rodina-mat-volgograd.jpg

読み終えてみて、本書に紹介された遺跡に関わらず、行ってみたいなぁという場所を
初めて真剣に考えてみました。
ベルリンのゲシュタポ本部やヒトラーの地下壕のように、現在は存在していない場合もありますが、
ロシアだったらスターリングラードセヴァストポリ、イタリアではモンテ・カッシーノ
ドレスデンの聖母教会・・ちょっと考えただけでもいろいろありますねぇ。



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