第二次大戦下ベルリン最後の日 -ある外交官の記録- [第三帝国と日本人]
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
新関 欽哉 著の「第二次大戦下ベルリン最後の日」を読破しました。
「第二次世界大戦 ヒトラーの戦い〈10〉」でチョロっと登場してきた
当時のベルリン在独日本大使館員であった新関氏が
1988年に書かれた手記のご紹介です。
「ヒトラーの戦い〈10〉」では日本大使館から見たベルリン最終戦の様子が出てきましたが、
本書はその部分をメインに、若き新関氏が在独日本大使館員となった経緯、
そしてドイツと日本という二つの国の終戦を体験するまでが、
時代に翻弄される波乱万丈の青春モノのような雰囲気で書かれているものです。
1938年(昭和13年)、23歳で外務省に入省した著者は、「在外研究員」という制度によって
3年間の留学を進められますが、ドイツ語を学んでいた彼の行先は「リガ」・・
という話から始まります。
すでにドイツ語の研究員がいたため、ウオッカとトロイカしか知らないロシア語を
学ぶこととなったわけですが、当時のモスクワはスターリンの「血の大粛清」によって
トハチェフスキー元帥も処刑されるなど、非常な混乱期であり、
秘密警察GPU(ゲー・ペー・ウー)によって外国人は厳しく監視されるなどの理由によって
このバルト3国のひとつ、ラトヴィアの首都リガが留学地に選ばれた・・というものです。
ロシア語の勉強に勤しみ、東ヨーロッパ各国を旅して様々な文化も学んだりして過ごしますが、
ベルリンに到着した翌日、ドイツによるポーランド侵攻が始まり、
リガへの帰路も遮断されてしまいます。
デンマークとスウェーデンを経由してなんとか帰り着いたのも束の間、
今度は、ソ連によるバルト3国侵攻によって、国外退去となってしまいます。
しかし研修期間も残っていた彼はトルコ行きを決め、イスタンブールでの研修生活を続けますが、
「イカの刺身」にやられて、入院・・。60㌔の体重が40㌔まで減り、文字通りの
「骨川筋右衛門」と化してしまいます・・。
さらに独ソ戦も勃発して、シベリア鉄道で帰国する道も閉ざされ、途方に暮れていたところに
ベルリン在独日本大使館勤務を命ぜられる・・という運命であるわけです。
そしてここでは大島大使がヒトラーをはじめ、ナチ党や国防軍、さらにドイツ国民からも
非常に人気と信頼があったことなどを紹介しますが、日本の政府に対しては、
ドイツ一辺倒の自分の考え方を無理やり押し付けようと、行き過ぎたところがあったと語っています。
独ソ戦を中心として戦争の推移がゾルゲやロンメルといった有名人も登場しながら解説され、
いよいよ1945年4月、ソ連軍がベルリンに迫ります。
外相リッベントロップからドイツ政府は南ドイツへ移転すると聞かされた大島大使は、
10数台の自動車に大使館員を分乗して4月14日にベルリンを出発。
しかしベルリン陥落の場合を想定し、占領軍と折衝するしかるべき大使館員が残る必要性もあり、
河原参事官を筆頭に数名の残留組も組織され、著者も参事官補佐役として留まることに・・。
そして4月16日からは「ヒトラーの戦い〈10〉」に出てきた、彼の「日記」をそのままの形で掲載し、
それに若干解説を加える・・というスタイルで進んでいきます。
まず気になった「例の件についてカイテル元帥と会見」という部分ですが、
これはいまだ100隻近くを保有しているドイツUボートが連合軍に引き渡される前に
日本が譲り受けようというもので、デーニッツに対して申し入れを行った後、
カイテルとも話し合ったようですが、ドイツの降伏を前提とした、この身勝手な話は
当然、一向に埒があかなかったそうです。
「袖珍戦艦リュッツォウ号撃沈サル」では、この「袖珍戦艦」という初めて見る表現が新鮮です。
まあ、「袖珍戦艦」とは「ポケット戦艦」のことなんですね・・。
また、あの「ヒンムラー」も本書では、当時の日記だけではなく、
解説でも一貫して「ヒンムラー」でした。
確かに「Himmler」ですから、ちょっと「ン」の発音はしそうです。これは著者のコダワリかなぁ。
ゲッベルスの「敗戦主義者は断固処刑すべし」命令や、
「ライマン中将がベルリン防衛司令官に任命さる」、
さらには「シェレンベルクは離伯せる」などと、なかなかの情報が日記には書かれています。
また、西側の空襲は一応警報が鳴るものの、ソ連の砲弾は無警告でいつ、
どこから飛んでくるのかわからず、危険極まりないというのも、当事者しか知らない状況でしょう。
大使館前で休息しているパンター戦車隊員の話では、
デブリッツ付近でT-34戦車を撃破したそうで、「イヅレモ態度立派ナル青年ナリ」。
しかしこの頃から、大使館の敷地内に入ってくるドイツ軍兵士たちに手を焼くようになります。
鉄兜を被って退去を要求するも、「日本は同盟国ではないか」と食って掛かられたりしますが、
日本はソ連との中立条約があることなど説くと、彼らも大人しく出ていきます。
そして4月27日の日記には、大使館前の道路をドイツ軍兵士が女子を連れて移動し、
戦車にも女子が出入りする有様は異様に感じるとして、
軍用車両内に女下着が散らばっているのを発見するに及んで、
ソ連の襲撃を逃れようとする婦女子が、兵士と行動や寝起きまでも共にしていると推察します。
「軍律厳シキ独逸軍モ末期的、退廃的症状ヲ露呈スルニ至レルカ」。
これはなんとなく、印象に残った日記の一文です。
遂にヒトラー死亡のニュースももたらされますが、ここでは「非常に迂闊な話であるが・・」として
大島大使以下、大使館員は誰もヒトラーの愛人の存在に気が付かなかった・・ということです。
エヴァ・ブラウンは本当に、対外的に隠された存在だったんですねぇ。
最後は、占領軍であるソ連軍が大使館に乱入し、ここでも「中立条約」を説くものの、
時計目当てのソ連兵士たちには理解されません。
やがてソ連司令部との折衝とポーランドからシベリアへの汽車の旅。
これはシベリア送りではなく、日本への帰国の道です。
6月末、7年ぶりに日本の土を踏んだ著者ですが、今度は日本の敗戦も経験することになります。
220ページほどなので休日なら一気読みしてしまうボリュームですが、
メインとなる「日記」の部分が漢字とカタカナなので、いつもの倍の時間がかかりました。
これは読みなれてないとなかなか大変です。
しかし、この一文一文が非常に興味深く、不安やその時の状況も目に浮かぶようです。
思った以上にドイツ政府や軍人の名も多く出てきましたし、
当時の日本人の置かれた状況も知ることが出来、全体的に楽しめました。
今度、「最後の特派員」、「ベルリン戦争」、「ベルリン特電」といった日本人の見た最終戦モノを
独破していこうという気になりました。
新関 欽哉 著の「第二次大戦下ベルリン最後の日」を読破しました。
「第二次世界大戦 ヒトラーの戦い〈10〉」でチョロっと登場してきた
当時のベルリン在独日本大使館員であった新関氏が
1988年に書かれた手記のご紹介です。
「ヒトラーの戦い〈10〉」では日本大使館から見たベルリン最終戦の様子が出てきましたが、
本書はその部分をメインに、若き新関氏が在独日本大使館員となった経緯、
そしてドイツと日本という二つの国の終戦を体験するまでが、
時代に翻弄される波乱万丈の青春モノのような雰囲気で書かれているものです。
1938年(昭和13年)、23歳で外務省に入省した著者は、「在外研究員」という制度によって
3年間の留学を進められますが、ドイツ語を学んでいた彼の行先は「リガ」・・
という話から始まります。
すでにドイツ語の研究員がいたため、ウオッカとトロイカしか知らないロシア語を
学ぶこととなったわけですが、当時のモスクワはスターリンの「血の大粛清」によって
トハチェフスキー元帥も処刑されるなど、非常な混乱期であり、
秘密警察GPU(ゲー・ペー・ウー)によって外国人は厳しく監視されるなどの理由によって
このバルト3国のひとつ、ラトヴィアの首都リガが留学地に選ばれた・・というものです。
ロシア語の勉強に勤しみ、東ヨーロッパ各国を旅して様々な文化も学んだりして過ごしますが、
ベルリンに到着した翌日、ドイツによるポーランド侵攻が始まり、
リガへの帰路も遮断されてしまいます。
デンマークとスウェーデンを経由してなんとか帰り着いたのも束の間、
今度は、ソ連によるバルト3国侵攻によって、国外退去となってしまいます。
しかし研修期間も残っていた彼はトルコ行きを決め、イスタンブールでの研修生活を続けますが、
「イカの刺身」にやられて、入院・・。60㌔の体重が40㌔まで減り、文字通りの
「骨川筋右衛門」と化してしまいます・・。
さらに独ソ戦も勃発して、シベリア鉄道で帰国する道も閉ざされ、途方に暮れていたところに
ベルリン在独日本大使館勤務を命ぜられる・・という運命であるわけです。
そしてここでは大島大使がヒトラーをはじめ、ナチ党や国防軍、さらにドイツ国民からも
非常に人気と信頼があったことなどを紹介しますが、日本の政府に対しては、
ドイツ一辺倒の自分の考え方を無理やり押し付けようと、行き過ぎたところがあったと語っています。
独ソ戦を中心として戦争の推移がゾルゲやロンメルといった有名人も登場しながら解説され、
いよいよ1945年4月、ソ連軍がベルリンに迫ります。
外相リッベントロップからドイツ政府は南ドイツへ移転すると聞かされた大島大使は、
10数台の自動車に大使館員を分乗して4月14日にベルリンを出発。
しかしベルリン陥落の場合を想定し、占領軍と折衝するしかるべき大使館員が残る必要性もあり、
河原参事官を筆頭に数名の残留組も組織され、著者も参事官補佐役として留まることに・・。
そして4月16日からは「ヒトラーの戦い〈10〉」に出てきた、彼の「日記」をそのままの形で掲載し、
それに若干解説を加える・・というスタイルで進んでいきます。
まず気になった「例の件についてカイテル元帥と会見」という部分ですが、
これはいまだ100隻近くを保有しているドイツUボートが連合軍に引き渡される前に
日本が譲り受けようというもので、デーニッツに対して申し入れを行った後、
カイテルとも話し合ったようですが、ドイツの降伏を前提とした、この身勝手な話は
当然、一向に埒があかなかったそうです。
「袖珍戦艦リュッツォウ号撃沈サル」では、この「袖珍戦艦」という初めて見る表現が新鮮です。
まあ、「袖珍戦艦」とは「ポケット戦艦」のことなんですね・・。
また、あの「ヒンムラー」も本書では、当時の日記だけではなく、
解説でも一貫して「ヒンムラー」でした。
確かに「Himmler」ですから、ちょっと「ン」の発音はしそうです。これは著者のコダワリかなぁ。
ゲッベルスの「敗戦主義者は断固処刑すべし」命令や、
「ライマン中将がベルリン防衛司令官に任命さる」、
さらには「シェレンベルクは離伯せる」などと、なかなかの情報が日記には書かれています。
また、西側の空襲は一応警報が鳴るものの、ソ連の砲弾は無警告でいつ、
どこから飛んでくるのかわからず、危険極まりないというのも、当事者しか知らない状況でしょう。
大使館前で休息しているパンター戦車隊員の話では、
デブリッツ付近でT-34戦車を撃破したそうで、「イヅレモ態度立派ナル青年ナリ」。
しかしこの頃から、大使館の敷地内に入ってくるドイツ軍兵士たちに手を焼くようになります。
鉄兜を被って退去を要求するも、「日本は同盟国ではないか」と食って掛かられたりしますが、
日本はソ連との中立条約があることなど説くと、彼らも大人しく出ていきます。
そして4月27日の日記には、大使館前の道路をドイツ軍兵士が女子を連れて移動し、
戦車にも女子が出入りする有様は異様に感じるとして、
軍用車両内に女下着が散らばっているのを発見するに及んで、
ソ連の襲撃を逃れようとする婦女子が、兵士と行動や寝起きまでも共にしていると推察します。
「軍律厳シキ独逸軍モ末期的、退廃的症状ヲ露呈スルニ至レルカ」。
これはなんとなく、印象に残った日記の一文です。
遂にヒトラー死亡のニュースももたらされますが、ここでは「非常に迂闊な話であるが・・」として
大島大使以下、大使館員は誰もヒトラーの愛人の存在に気が付かなかった・・ということです。
エヴァ・ブラウンは本当に、対外的に隠された存在だったんですねぇ。
最後は、占領軍であるソ連軍が大使館に乱入し、ここでも「中立条約」を説くものの、
時計目当てのソ連兵士たちには理解されません。
やがてソ連司令部との折衝とポーランドからシベリアへの汽車の旅。
これはシベリア送りではなく、日本への帰国の道です。
6月末、7年ぶりに日本の土を踏んだ著者ですが、今度は日本の敗戦も経験することになります。
220ページほどなので休日なら一気読みしてしまうボリュームですが、
メインとなる「日記」の部分が漢字とカタカナなので、いつもの倍の時間がかかりました。
これは読みなれてないとなかなか大変です。
しかし、この一文一文が非常に興味深く、不安やその時の状況も目に浮かぶようです。
思った以上にドイツ政府や軍人の名も多く出てきましたし、
当時の日本人の置かれた状況も知ることが出来、全体的に楽しめました。
今度、「最後の特派員」、「ベルリン戦争」、「ベルリン特電」といった日本人の見た最終戦モノを
独破していこうという気になりました。