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モスクワ攻防1941 -戦時下の都市と住民- [ロシア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ロドリク ・ブレースウェート著の「モスクワ攻防1941」を読破しました。

ソ連の駐在大使も務めた経歴、そして「sir」の称号を持った英国人の著者による
2008年発刊の530ページというボリュームたっぷりな1冊です。
主に1941年6月に始まったドイツ軍によるソ連侵攻「バルバロッサ作戦」にうろたえるスターリンから
危機迫るモスクワの一般市民に至るまでが、必死の防戦によって
モスクワ前面で押し留める様子が最新の資料を基に丁寧に描かれたものです。
明けましておめでとうございます・・という、今年一発目の「独破戦線」ですが、
果たして、この本で良いんだろうか・・。

モスクワ攻防1941.png

まずはこの「モスクワ攻防戦」が双方合わせて史上最大の兵員数、700万人を超える会戦であり、
1942年のスターリングラード戦が400万人、クルスク戦が200万人だっとという話に驚きました。
そして1999年の人気投票でもNo.1の座を勝ち取ったソ連の誇るジューコフ元帥・・・、
ではなく、No.2の人気将軍ロコソフスキーが主役級の扱いで、
彼の回想録を参考にして、1930年代「赤軍大粛清」の波に呑み込まれ、
ロコソフスキー自身も酷い拷問を味わい、家族までも・・という最悪の状況を耐えた結果、
戦争勃発の危機に釈放、そして巡ってきた軍司令官の立場・・・。

Konstantin Rokossovsky4.jpg

「人当たりがよく、エレガントで、度量が大きく、博識で、第1級の分析能力を備えた軍人」と
評価されるロコソフスキーに対して、「過度の野心、戦略思考の貧困、
人的損害を考慮しない強引な作戦指導」をいまでは批判されているジューコフ。。
ロコソフスキーは、このジューコフについても回想録でコメントしています。
いや~、これは読みたい!!ですね。

Жуков и Рокоссовский.jpg

開戦が刻一刻と迫る中、東京のゾルゲやドイツ空軍司令部内に潜む、
コードネーム「スタルシナー」といったスパイたちによって
ドイツ軍の侵攻準備が完了したことがスターリンに伝えられますが、彼は一向に信用しません。
しかし、その情報通り6月22日に「バルバロッサ作戦」が発動され、各戦線は崩壊・・。

Richard Sorge.jpg

敵であるドイツ軍については「悪役」ではないものの、それほど登場してきません。
モスクワを目指す中央軍集団司令官のフォン・ボックと、その中心となる
装甲集団を率いるグデーリアンの快進撃が中心となって、戦局の推移が語られます。

モスクワでは大学生5万人やボリショイ劇場の団員たちが防衛陣地の構築に駆り出され、
志願兵の中には多くの女性も含まれます。

Barricades in the central part of Moscow, 1941.jpg

戦時中、全部で80万人が赤軍で勤務したという、これらの女性たち・・、
「夜の魔女」の司令官ラスコヴァやリリー・リトヴァクといった女性パイロットの話も出てきますが、
個人的には女性狙撃兵、309人のドイツ人を殺したというパヴリチェンコ
特にマーシャ・ポリヴァノヴァとナターシャ・コフショーヴァの2人が印象的でした。
有名な狙撃手となったこの2人は、1942年にドイツ軍に包囲され、弾薬も尽きたとき、
捕虜になるよりは・・と手榴弾で自爆する道を選び、伝説の人物となったそうです。

Natalia Kovshova - Woman Russian sniper - 167 kills.jpg

パニックを起こした赤軍の前線指揮官たちは、スターリンの鉄の命令とNKVDによって
簡単に処刑されてしまいます。
懲罰部隊についても書かれており、700人を擁する部隊が総攻撃によって
数十人しか残らなかったということで、よく、独ソ戦記に出てくる、あの
「ウラー!」の声と共に正面突撃を何派もかけてくる歩兵部隊は懲罰部隊なのかも知れませんね。
なんせ懲罰部隊員総数は40万人を超えたそうですから・・。

soviet army.jpg

モスクワ上空での攻防・・、それが前年のロンドン爆撃とほぼ同じ規模だったという話は、
なかなか勉強になりました。
整備の良くない占領地の飛行場から飛び立ったドイツ軍爆撃機ですが、
モスクワまでの距離の遠さから護衛の戦闘機が付けられず、
逆に整備の整った近隣の飛行場から迎撃に出る赤色空軍と高射砲部隊の活躍により、
大した成果は挙げられなかったようです。
しかし、ここでの独ソ双方の損害には大きな乖離があり、ドイツの主張するモスクワ空襲の回数は
ソ連側の主張だと倍にもなり、ドイツ軍機の撃墜数は1400機という凄まじいもので、
著者も「攻撃側の損失がこんなに多いことはありえないし、とうてい信用できない」。

Moscow_1941.jpg

10月になってもモスクワではチェスの大会やディナモ・モスクワvsスパルタク・モスクワという
サッカーのダービー・マッチが行われていたりする一方、
スターリンはドイツ軍の進撃を止めることの出来なかったコーネフの銃殺を考えます。
しかし、ジューコフに説得されて彼の副官にという人事に疑わしげに納得・・。
大工場はあらかた疎開したものの、残る中小の工場は兵器生産に切り替えられ、
モスクワの専業主婦40万人が「モロトフ・カクテル」を含むあらゆる兵器の製造と修理に勤しみます。

この攻防戦の最中ジューコフの主治医となった女性軍医がそのままジューコフの愛人となり、
戦後までその関係が続いた・・など、これらは「陣中妻」と呼ぶそうです。
このようなことは「戦争は女の顔をしていない」で書かれていた
「男たちの中でナニをやってたんだか・・」と戦後、
後ろ指を指されたという女性の話を思い出しました。

Russian Girl snipers.jpg

実際のところは、隊長や司令官の「妾」となった女性もいたのでしょうし、
単に戦士として戦い続けた女性もいたんだと思います。
ちなみにロコソフスキーもシベリアに疎開している妻子を心配する傍ら、
司令部の女性に子供まで生ませてしまうものの、
戦後はさっさと愛する妻子のもとへ帰っていきます。。。

11月7日の革命記念日。
スターリンは恒例のパレードを赤の広場で行うことを突如宣言し、将軍たちを慌てさせます。
士官候補生を含む総計2万8000名をなんとかかき集め、
前線からT-34やKV重戦車も引き抜いて無事パレードも成功。。。

Parade in Moscow in 1941.jpg

モスクワまでわずか24キロにドイツ軍が迫ると、幾度の危機を乗り越えてきたロコソフスキーに
「これ以上後退したら銃殺するぞ」とジューコフが脅します。
「この司令部の周辺に飛んでくる砲弾でいつ死んでもおかしくないときに、そんな脅しは無意味だ」と
ロコソフスキーは辛辣に切り替えし、結果、補充部隊として、あのウラソフ将軍が投入されます。

正規軍以外にもNKVDによって破壊工作員とパルチザンの養成学校が開設され、
そのなかの18歳の少女、ゾーヤ・コスモジェミャーンスカヤは5日間の訓練を受けたのち、
ドイツ軍の占領地域に潜入し、複数の目標の放火に成功します。
しかし、逃走中に発見され、惨たらしい尋問の末、「放火犯」と書かれたプラカードを
首からかけられた挙句、100名ものドイツ兵が見守るなかで絞首刑に・・。
その遺体は見せしめのため、6週間もぶら下げられたまま放置され、
1月、撤退するドイツ軍によって、やっと埋葬されたそうです。。。

Зоя Космодемьянская перед казнью. 29 ноября 1941 г.jpg

そしてモスクワは持ちこたえたものの、3月にはウラソフ将軍がドイツ軍に包囲され、
片っ端から兵士たちが殺されていくなか、原野をあてもなくさまよい、
スターリンに完全に愛想を尽かしたウラソフ自身もようやく、7月にドイツ軍に捕えられ、
その後「ロシア解放軍」を組織することになります。

Gen. Andrei Vlasov reviews his troops.jpg

最後には再び、ジューコフとロコソフスキーの戦後までがダイジェスト的に語られ、
レニングラードやスターリングラード、セヴァストポリがすぐ「英雄都市」となったのに対して、
モスクワは1965年まで待たされ、記念館が開設されたのも1995年になってから・・という
この攻防戦を長年、軽視してきた理由、
それはスターリンにとって初戦の壊滅的敗北や誤算と屈辱を連想させ、
そしてジューコフの名に結びついている、といったことのようです。

また、この独ソ戦の人的損害についても検証していて、500万人が・・という数字よりも
英米兵1人に対して、日本軍の戦死者は7人、ドイツ軍が20人、
ソ連軍は85人・・というのは、今までで一番に記憶に残りそうな数字です。



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