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攻撃高度4000 -ドイツ空軍戦闘記録- [ドイツ空軍]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

カーユス・ベッカー著の「攻撃高度4000」を読破しました。

ここのところ読み倒している「ルフトヴァッフェ興亡史」の元祖にして本命とも言えそうな
有名な1冊のやっとの紹介です。
まぁ、有名なのでいつでも古書が買えるという気でいましたが、軍事モノの取り扱いでは
これまた有名な古書店「軍学堂」が11月に神保町に引っ越してきましたので、
早速繰り出して、割と綺麗な本書を2000円で購入しました。
著者のカーユス・ベッカーは海軍興亡史「呪われた海」を以前に紹介していますが、
副題は「ドイツ海軍戦闘記録」なんですね。本書は「ドイツ空軍戦闘記録」ですから、
海空の姉妹本なのかも知れません。

攻撃高度4000.jpg

1939年8月25日、ポーランド侵攻直前から始まる本書は
ライヒェナウの第10軍司令部に同行しているリヒトホーフェン少将が
翌朝からの侵攻作戦の中止命令を受ける場面からです。
「我々は停止命令をもらっていないので空軍なしでも進撃しますぞ」と話すライヒェナウに
空軍の無線でベルリンに問い合わせ、深夜になってようやく陸軍にも停止命令が入るという
間一髪の状況です。

German Stuka Dive Bombers over Poland, 1939.jpg

そして9月1日、遂にドイツ軍は侵攻開始。He-111爆撃機の護衛に就く、Me-110には
後に夜間戦闘機乗りの大エースになるヘルムート・レント少尉の姿も・・。
Ju-87シュトゥーカ急降下爆撃機もポーランド軍港を襲い、駆逐艦2隻を撃沈。
このシュトゥーカを中心とした陸軍の進撃を援護する攻撃方法は良く出てくるものですが、
本書では高射砲大隊の陸軍砲兵の如き活躍も取り上げており、イルザの戦いでは
20ミリ中隊が歩兵たちのうっぷんを晴らし、88ミリ中隊もポーランド陣地に襲い掛かります。
しかし、夜間になるとポーランド軍もこの高射砲をなきものにしようと忍び寄り、
激しい白兵戦も繰り広げます。

Deutsche Flak 8,8 cm in Nowegen.jpg

続くノルウェー、デンマーク侵攻の「ヴェーザー演習」作戦では、
オスロの飛行場奪取を目指す降下猟兵を乗せたJu-52輸送機が悪天候のため引き返します。
しかしそんなことを知らずに予定通り援護に向かうレントらのMe-110・・。
待てど暮らせど現れない降下猟兵、そして燃料も尽き、この駆逐中隊での占領を試みます。
強行着陸、そして後方機銃を外して飛行場を制圧。
オスロで戦闘中の連絡を受けたJu-52も引き返してきます。

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西方作戦では、あのエーベン・エメール要塞を攻略したグライダーと降下猟兵の活躍、
そしてアルベール運河の西40キロに降下し、ベルギー軍を混乱させた200体の「わら人形」部隊・・。
ロッテルダムではHe-111爆撃機百機が目標に向かいます。
しかしオランダの降伏に伴う、爆撃中止命令が間に合わず、57機が爆弾を投下・・。
さらに快進撃してきたSS部隊「ライプシュタンダルテ」が降伏していたオランダ兵とぶつかり、
戦闘開始・・。やめさせようと司令部の窓へ走り寄ったシュトゥーデント将軍は
頭部に弾丸を受けて重傷を負ってしまいます。
う~ん。パンツァー・マイヤー戦記にはどう描いてありましたかねぇ。

フランスで電撃戦を見せるグデーリアン。マース川ではレルツァー将軍との共同作戦です。
シュトゥーカが急降下し、Do-17の綺麗に並んだ爆弾が敵陣に吸い込まれます。
また、戦闘機もガーランドメルダースがスピットファイアとハリケーンを屠っていきます。

Messerschmitt vs. Spitfire.jpg

そして迎えたダンケルク・・。ゲーリングが「総統、我が空軍にお任せください!」。
これにヨードルは苦々しげに「またあいつ、大口を叩きおって」。
目前にして停止命令を受けたクライスト装甲集団とクルーゲの第4軍。
クルーゲはリヒトホーフェンに「もうダンケルクを空から取られたかな?」。
本書は空軍だけでなく、陸軍の将軍もちょくちょく出てくるので、これがまた楽しめます。

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ドーヴァー海峡での船団攻撃。護衛で飛び立つ戦闘機パイロットはトラウトロフト
ヴァルター・エーザウといったエースたちです。ブラウヒッチュ元帥の息子、
フォン・ブラウヒッチュ大尉もシュトゥーカで貨物船2隻に命中させています。

Walter Oesau.jpg

そして始まった「バトル・オブ・ブリテン」。
この戦いを回想するのは、エース・パイロットとしてはエーリッヒ"ベイブ"ハルトマンより、
ベイビーフェイスだと思っている第54戦闘航空団のヘルムート・オスターマン少尉です。
特にMe-109でロンドン爆撃の護衛を繰り返し、燃料切れの赤ランプが灯るなか、
ドーヴァー海峡上を陸地を求めて飛び続ける緊張・・。

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クレタ島の戦い」も降下猟兵たちの甚大な損害を紹介しながら詳細に描かれ、
本土防衛のカムフーバー・ラインで知られる「夜戦総監」のカムフーバー将軍の登場・・
と続き、「バルバロッサ作戦」からウーデットの失脚と自殺・・。

Paratroopers Crete '41.JPG

1942年に南方方面軍司令官となったケッセルリンクが北アフリカで戦うロンメルのために
地中海の要衝「マルタ島攻略」に挑みます。
この天然の岩の要塞に1000㎏の徹甲爆弾を叩きこみ、陥落寸前に追い込むものの、
海空による占領作戦にイタリアが難色を示したことから、再び、攻勢に出ようとする
ロンメルも窮地に立たされます。
それでもイタリア軍を中心にクレタ島の5倍の戦力で自信マンマンで準備を進めるシュトゥーデントに
ヒトラーは「占領後、英艦隊が出動したら、イタリア軍がどんなざま見せるかわかるだろう。
最初の無線が入るや、シチリアの港に引っ込んで、貴官の降下猟兵は島で孤立するのだ」。

Generaloberst Kurt Student Fallschirmjäger.jpg

北アフリカに上陸したのは自称「空軍最古参の少尉候補生」、21歳のヨッヘン・マルセイユです。
とっくに少尉になれていたはずが、訓練期間中の素行の悪さから彼の評定表には
「パイロットとしての不品行」というヘンテコな書き込みがされていたそうです。
そしてこの地での彼のロンメルをも凌ごうかという大活躍と
世界一ともいえるエース・・「アフリカの星」が消えるまで・・が紹介されています。

Marseille_9.jpg

デーニッツのUボートを支援する空軍の戦いも1章が割かれています。
特にソ連へ物資を運ぶ第2次大戦で最も有名な船団「PQ17」にJu-88とHe-111が襲い掛かり、
Uボートと共に24隻という大戦果を挙げたこの戦いを読むと
いや~、久しぶりにUボートものを読みたくなりました。

A_formation_of_Heinkel_He_111.jpg

舞台は再びロシア・・。デミヤンスクホルムの包囲陣に空からの空輸に成功。
そしてスターリングラードで包囲された第6軍参謀長シュミット将軍
「補給は空輸に頼らねば」と第8航空軍団司令のフィービヒ中将に伝えます。
第6軍の高射砲師団を率いるピッケルトは参謀長シュミットと古くからの友人で
彼の日記を紹介し、パウルス司令官と共に脱出か否かを語った話はとても興味深いものです。

stalingrad Luftwaffe JU-52s made many resupply runs into the pocket.jpg

一方、本書の主役であり、不可能とも思える空輸を任された空軍と言えば、
飛行場へ迫るソ連軍を撃退するために、高射砲隊、修理班、補給部隊、
迷子グループをかき集めて、警戒部隊を編成。
リヒトホーフェンが探す第8航空軍団参謀長のハイネマン中佐も「第一線で機銃を撃っております」。

ルーデルやドルシェルといった爆撃パイロットも奮戦・・。しかしそんな努力も虚しく、
パウルスは最後にこう語ります。「想像できますかな、兵が古い馬の死体に殺到し、
その頭を割り、脳みそを生ですすっている姿を?」。

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ツィタデレ作戦」では37ミリカノン砲を装着し、急降下爆撃機から戦車襲撃機へと転身した
ルーデル・・・2年半の間にソ連戦車519両を屠った男が紹介され、
ドイツ本土に米軍も昼間爆撃を始めると、この最後の章では250㎏の爆弾を抱えたドイツ戦闘機が
迎撃に向かい、B-17B-24といった四発重爆を撃墜します。
そしてこの中隊長はハインツ・クノーケ中尉・・。「空対空爆撃戦隊」ですね。

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最後のページでは「高名な夜戦パイロットも戦死した」として
プリンツ・ツー・ザイン・ヴィトゲンシュタイン少佐とヘルムート・レント大佐の最期・・。
特にヴィトゲンシュタインは巻頭の写真に登場し「夜戦パイロットの中の暴れん坊」と
紹介されていたので、どこで出てくるかとドキドキしていましたが・・・ぜんぜんでした。。。

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副題の通り、本書はこのような特定の「戦闘記録」が多いので、
過去に紹介した「ルフトヴァッフェ興亡史」に比べ、まったく違った味わいがあり、
さまざまなパイロットたちや前線任務の厳しさをドラマチックに理解できるものでした。
また、陸軍を支援する空軍という意味でも、有名な会戦と陸の将軍たちも
多く出てくることで、こちらの専門の方でも楽しめるんじゃないでしょうか。
さすが以前にオススメのコメントを頂いただけのことはある、とても充実した1冊です!



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トレブリンカ -絶滅収容所の反乱- [収容所/捕虜]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ジャン=フランソワ・ステーネル著の「トレブリンカ」を読破しました。

本書を吉祥寺の古書店で900円で購入したのが、ほぼ3年前です。
いわゆる「ホロコースト」もの・・、数ある絶滅収容所のなかでも、このトレブリンカが
アウシュヴィッツに次ぐ70万人もの人々を葬った収容所であることを考えると
なかなか読破しようという勇気が起きず、ズルズルと時間が経ってしまいました。
ただ、トレブリンカの特徴である、収容者たちの反乱による集団脱走というテーマが
今回、やっとこさ手をつけた理由でもあり、この収容所の所長でもあったシュタングルの
人間の暗闇」も読破したことで、双方を客観的に理解できる自信もついたことが、
今回の独破に至った経緯です。

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「千年帝国の建設者たちは、厄介払いしようとしたユダヤ人を残らず移住させることが
遂にできなかったので、皆殺しにすることを決めた」。から始まる本書は、
この「最終的解決」の第1段階である「ゲットー」の様子とそのシステムを解説します。

そして、その「ゲットー」から「収容所」への移送と「処理」方法・・、当初の銃殺にしても
古典的な12歩離れた銃殺隊によるものから、首筋に一発ぶち込むだけ・・
という新しく効率的な方法が優勢となりますが、執行人にとっても耐えがたいものでもありました。
このようなことから、世界で初めて「百万単位の人間をどのように消すか」という問題に
真剣に取り組むこととなり、その発明は「ガス・トラック」として1942年春に登場します。

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しかしこの方法も、扉が開いた際の光景があまりに恐ろしいことからSS隊員たちは、
その衝撃に耐えるため、酒に酔っていなければならない・・など、問題点も多いものです。

1942年7月、いよいよポーランドのワルシャワから完成したトレブリンカに向けて、第1陣が出発。
20両編成の列車から降ろされたユダヤ人たち・・、女性と子供は、そのまま「シャワー室」へ、
男性たちは丈夫な者を選び出そうとする、マックス・ビエラスSS少尉の
容赦ない暴力的な選抜テストを受けることに・・。

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2つの区画から成るこのトレブリンカは、ガス室から死体を取り出し、金歯を抜き、
壕へ運ぶ作業に従事する200名のユダヤ人たちの第2収容所と、
到着したユダヤ人たちの品物や衣類の選別したり、収容所内の建築に関わる者たち、
SS隊員の身の回りの世話や靴や衣料品の製造班、そして医師といった
収容所の運営に必要なユダヤ人たちの住む第1収容所に分かれています。

前者は衣食住、すべてにおいて非常に劣悪な環境で、「最終的解決」の目撃者でもある彼らは
どちらにしても生き残ることは許されず、また、彼らの交代要員はいくらでもいるという
常に死の1歩手前で生き延びている状況です。

Some of Treblinka staff members.jpg

それに引き替え、幸運にも後者に選ばれた者たちは、その技術と体力が
トレブリンカを維持するためにも、運営にあたる20名程度のドイツ人SS隊員と
100名程度のウクライナ監視兵とともに必要とされる存在であり、
そして、このような組織作りと人員の選抜を行うのは、クルト・フランツSS曹長です。

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やがて第1収容所の3名のユダヤ人によって密かに組織された「トレブリンカ抵抗委員会」。
ここからは、脱走モノのサスペンス小説のような展開になるので
あまり細かいことは書きませんが、列車での脱走や
極悪人のSS隊員マックス・ビエラスSS少尉を刺し殺し、
宿敵であるはずのウクライナ監視兵との交流など、様々な話が興味深く、楽しめます。

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ドイツ側の主人公はクルト・フランツで、途中、彼の生い立ちからも紹介されます。
トレブリンカの所長、イルムフリート・エベールと、続くフランツ・シュタングル
単に司令官とい名で登場するだけで、事実上、クルト・フランツが取り仕切っており、
最終的にはSS少尉として、所長としてもトレブリンカに君臨します。

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ガス室も13戸へ増やし、熟練したユダヤ人によって完璧に調整された殺人工場と化した
トレブリンカ・・。ヨーロッパ中から莫大な数のユダヤ人を率先して受け入れ、
適切に「処理」していきます。
しかし、1943年には訪れたヒムラーから「閉店」の命令が・・・。

Treblinka station.jpg

アウシュヴィッツのような焼却炉を持たないトレブリンカの大地には、すでに70万人もの
死体を埋蔵しており、証拠隠滅のためには、これらも消し去る必要にクルト・フランツは迫られます。
1日千体を処理しても、まるまる2年はかかるという窮地・・。
掘り返した壕の死体にガソリンをかけたところで、すべてを燃やし尽くすことはできません。

そこでヘルベルト・フロスと名乗る、死体火葬の専門家が派遣され、彼によって
巨大なクレーンを使って死体が掘り起こされ、人海戦術を用いた流れ作業によって
積み上げられた死体が連日、燃え続け、壕は空になっていきます。

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反乱を計画していたユダヤ人たちは、単に逃げ出すことだけが目的ではなく、
この絶滅収容所の生き証人になることも重要な使命です。
しかし、そうこうしているうちにトレブリンカはそれ自体の痕跡すら消そうとする、時間との闘い・・。
そして、遂に彼らは「武器庫」を襲い、反乱に成功します。

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前半は、毎夜バラックで起きる首つり自殺など、悲惨な話で気が滅入りますが、
後半は、クルト・フランツによって提案されたリクリエーション・・、
音楽好きの彼のためのオーケストラや日曜日のボクシングなどの催し、さらに結婚までと
あくまで「奴隷」ではあるものの、意外な絶滅収容所生活を知ることができました。

1938年にパリで生まれた著者は、ユダヤ人であった父親を強制収容所で亡くした過去を持ち、
本書を書くにあたって、脱出して生き残った生存者を訪ね歩くなどして、
ドラマチックな小説のような雰囲気に仕上げています。



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赤軍大粛清 -20世紀最大の謀略- [ロシア]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ルドルフ・シュトレビンガー著の「赤軍大粛清」を読破しました。

この「独破戦線」でも何度か登場したキーワードである「赤軍大粛清」。
主に独ソ開戦前、トハチェフスキー元帥らがスターリンによって粛清されたという話で使いますが、
格好つけて書いていた割には、本書は読んだことがありませんでした・・・。
まぁ、それでもこの有名な話・・。独ソ戦記だけではなく、SS興亡史にも付き物と言える話ですから、
ある程度は知っているという、根拠のない自信も持ちつつも、
モスクワ攻防1941」で改めて興味を持ったことで、本書にチャレンジしてみました。

赤軍大粛清.jpg

序文では「なぜトハチェフスキー元帥が1937年6月11日に殺されねばならなかったのか?」
その噂・・スターリンに対する謀反を企んだ・・やナチス・ドイツの手先として、または共謀した・・、
そしてソ連邦の軍事独裁者「赤いナポレオン」になろうとしていたのか・・?
といった疑問を紹介し、続く各章でその他の疑惑なども検証していく展開です。

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この「赤軍大粛清」の裏の主役と一般的に解釈されているドイツのSD長官ハイドリヒ
1936年暮れにソ連の軍事クーデターの情報を入手します。
彼はSD東方課長、ヘルマン・ベーレンツSS中佐と共に、この情報を
ドイツの将来にとって有益に活用する方法を検討。
それは、ヒトラーにとってより危険なのは、血なまぐさいボルシェヴィキ独裁者、スターリンか、
ドイツの将軍たちとも手を結びそうな、赤い将軍連なのか・・。

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ヒトラーの決断は、その非情さと残忍さを密かに賞賛しているスターリンよりも
軍人に対する憎悪心が勝ります。

続いてはミハイル・トハチェフスキーの幼少時代からの生い立ちが語られ、
第1次大戦でのドイツ軍の捕虜時代、そこでフランス軍将校と非常に親しくなり、
そのなかには、若きシャルル・ド・ゴール大尉も含まれます。

やっと帰国を果たすも、内戦の真っ只中です。
ここで戦功を挙げるものの、ポーランド戦では敗北・・。
しかしその敗因には政治委員スターリンが関与していたことが、後の粛清に繋がっていきます。

Joseph Stalin_ 1918.jpg

1920年代のドイツは「国防軍とヒトラー」に書かれていたように、
ゼークトによってソ連と連携した軍事政策が取られ、1932年の軍事演習には
トハチェフスキーも4週間にも渡って訪独し、ヒンデンブルク大統領とも握手を交わします。
この時のドイツ側では最後の参謀総長クレープスが「トハチェフスキー付き」として同行。
またブロムベルク将軍のトハチェフスキー評も興味深いものです。

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しかし翌年のヒトラー政権誕生により、独ソの軍事協力関係も解消され、
ドイツの再軍備を懸念したトハチェフスキーは第1次大戦の盟友、英仏との協力を進めていきます。
それとは逆にスターリンはヒトラーへ接近し、友好関係を維持しようと画策します。

このようにして1936年のハイドリヒによる、偽造文書作戦が始まり、
シェレンベルクの回想録も紹介しながら
ベーレンツの他、ナウヨックスSS大尉なども登場してきます。

Alfred Helmuth Naujocks.jpg

1935年には5人のうちの元帥の一人となったトハチェフスキーが
クーデターを目論んでいるといった偽造書類は完成したものの、
コレをいかにして疑心暗鬼の権化であるスターリンのもとへ疑いのないように届けるのか・・、
ハイドリヒは頭を痛めます。
最終的には独ソ両大国の狭間で生き残りを模索し、ヨーロッパ中のスパイが暗躍する
チェコのベネシュ大統領のもとへ・・。
この中盤での部分にはかなりの調査とページを割いて、ベネシュ大統領の人格から
彼の外交政策などを詳細に分析しています。

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NKVDからトハチェフスキーに関する文書を受け取ったスターリン。
1937年5月、人民委員第一代理というポストを解任され、
ヴォルガ軍管区へ突然の転属命令を受け取ったトハチェフスキー。
そのヴォルガ軍管区とはわずか3個師団と2個戦車大隊という軍団長レベルの場所です。

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そして遂に逮捕。トハチェフスキー以外にも共謀者として7名の戦友も逮捕され、
「拷問と死の家」として名高い、ルビャンカへ収容されます。
1937年6月11日、秘密軍法会議が開かれ、全員に死刑判決が・・。
「スターリンに言え! 奴こそは人民の敵、赤軍の敵だ!」トハチェフスキーは叫び、
ルビャンカの中庭で即刻、銃殺刑に処せられます。。

それからの大量殺戮・・。元帥5人のうち3人が、軍司令官15人のうち13人、
軍団長85人のうち62人、師団長195人のうち110人、大佐も3/4が粛清されます。
こうして書いていても、相変わらず信じられない数字です。
さらに軍人だけではなく、政治委員も最低2万名が殺され、
彼らの近親者にもそのスターリンの魔の手が及びます。
トハチェフスキーの妻や兄弟も処刑され、12歳の末娘は自ら首を吊っています。
このような苛烈な手段は、戦争末期にはヒトラーも採用した手口ですね。

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結局、序文での「なぜトハチェフスキー元帥が殺されねばならなかったのか?」は
この400ページの本書の最後の1行に結論が書かれています。
あくまで個人的な感想ですが、ソレは、かなり衝撃的なものでした。。。
でも、決して、大どんでん返しではありませんよ。あくまで読書家としての個人的な感想ですから・・。

著者のシュトレビンガーは武装SSの連隊長にいそうな名前ですが、
1931年生まれのチェコ人で、1968年に西ドイツへ亡命した現代史研究家です。
プラハにおける一大事件「ハイドリヒ暗殺」を調査中に、
この赤軍大粛清とチェコの大きな関与に気付いたということで、
もちろん「プラハの暗殺」という本も書いているようです。これも読みたいですねぇ。



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死刑執行人との対話 [SS/ゲシュタポ]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

カジミェシュ・モチャルスキ著の「死刑執行人との対話」を読破しました。

先日の「ナチス裁判」に紹介されていた本書は、1943年の「ワルシャワ・ゲットー蜂起」で
ユダヤ人を容赦なく、残虐に鎮圧したとして知られるユルゲン・シュトロープSS少将が
戦後、裁判のために拘留されていたポーランドの刑務所において
自身の生い立ちから、1ヶ月にも及んだ「ワルシャワ大作戦行動」の様子、
そして終戦までを語ったものを会話形式で、400ページに二段組びっしりとまとめたもので
ある意味「シュトロープ回想録」ともいえるかも知れません。

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一口に「ワルシャワ蜂起」といっても、1944年の「ワルシャワ蜂起」と
この1943年の「ワルシャワ・ゲットー蜂起」の2つがあるわけですが、
「ゲットー蜂起」については映画「戦場のピアニスト」とその原作を読んだだけで、
印象的ではあったものの詳細はわからず、今回初めての
「ワルシャワ・ゲットー蜂起」モノを読んだということになります。

また、このような「ナチ戦犯」に対するインタビュー本ということでは
有名な「ニュルンベルク・インタビュー」やトレブリンカ強制収容所所長のシュタングルを扱った
人間の暗闇」をイメージしていました。
しかし、本書が書き上げられた経緯は実にとんでもないもので、ほとんど「奇跡」のように感じます。。

1949年3月、ワルシャワの刑務所。ポーランド人の著者モチャルスキが別の監房に
移されるシーンから本書は始まります。
この新入りに対して先輩の2人は「ドイツ人の戦犯」であり、
一人は文書係であったSS少尉のシールケ、そしてハンカチで作った蝶ネクタイを締め、
公式に2人前の食事をたいらげるもう一人は「シュトロープ中将です」と丁寧に自己紹介します。

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「これが、あのシュトロープか・・」と興奮するモチャルスキは、しかし冷静に
シュトロープから可能な限りの真実を引き出そうと努め、この後、
225日間に及ぶ、奇妙な三角関係が始まります。

1895年、独立した小国家であるリッペ侯国の小さな警察署長を務めるカトリックの父と
しつけの厳しい母の間に生まれた「ヨーゼフ」シュトロープ。
従順な子供であり、両親の前では直立不動の姿勢を取ります。
第1次大戦が勃発すると、歩兵連隊に志願。ルーマニアやハンガリーを転戦します。
ここでは、アウグスト・フォン・マッケンゼン元帥に尊敬の念を抱き、独特の風貌・・
「よく熊皮帽をかぶり、貴族と騎兵両方の顔を持っていました」と語ります。

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1932年にナチ党へ入党。地元でナチ党の選挙活動に明け暮れます。
この時の功績から1934年には、ヒムラーから特進でSS大尉に任命されることに・・。
SSのエリート教育として、イデオロギーの知識とより高度な尋問の仕方も教え込まれます。
モチャルスキは尋ねます。
「あなたがレーベンスボルン(生命の泉)に加わっていたことを奥さんは知っていたんですか?」
「とんでもない!」

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ヒムラーは人種について造詣が深く、創造的な直観と科学的研究に対する勇気を兼ね備えていた」
と語るシュトロープを、ヒムラーが贔屓にしていたのは、「ルーン文字研究」と
「北欧人種の血の貴族性信仰」を持った双子のような存在であったのでは・・と推測しています。
そしてヨーゼフ・シュトロープも、よりゲルマン的な名前である「ユルゲン」へと改名するのでした。

遂に黒いベルベット襟に「樫の葉を3枚」つけるまでに昇進。しかし武装SSの階級を取得するため
1941年にはトーテンコープ師団やライプシュタイダルテに配属されます。
3ヵ月程度の腰掛け研修期間をまっとうし、武装SSでも「予備役中尉」に昇進・・。
第1次大戦の2級鉄十字章の略章も授かります。

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翌年のロシアへの夏季攻勢での目標のひとつ、カフカス。
ヒムラーの命により視察旅行へ赴いたシュトロープですが、
A軍集団司令官リスト元帥からは邪魔者扱い。
後にリスト元帥が罷免された理由を「この私とのいざこざが原因」と高慢に語りますが、
モチャルスキは、この大事な時期に「そんな低い次元の威信のわけがない」といった感想です。

Wilhelm List, Hans von Greiffenberg,Sepp Dietrich.jpg

SS社交界では戦局の悪化の時期においてもファッションが行き渡っていて、
特に身だしなみと流行にうるさいシュトロープは、このカフカス訪問で気に入った
「エーデルヴァイス」の記章に「山岳帽」をかぶり出します。
そして、この姿・・。「ワルシャワ・ゲットー蜂起」で写るシュトロープのスタイルが完成です。

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この「ワルシャワ・ゲットー蜂起」とは、ゲットーを解体し、ここに残るユダヤ人数万人を
強制収容所送りにしようとするドイツの作戦に気付いたユダヤ人住民たちによる決死の反乱ですが、
当初、ヒムラーから輸送の監視の任務を与えられていたシュトロープに、
この鎮圧指揮のお鉢が回ってきます。ポーランド・クラクフ地区の上官である
フリートリヒ・ヴィルヘルム・クリューガーからも詳細な命令を受け、
3日間の掃討作戦を実行に移します。

Kurt Daluege,Heinrich Himmler,Erhard Milch,Friedrich-Wilhelm Kruger,von Schutz,Karl Wolf Bonin,Heydrich.jpg

しかし、建物ごとに拠点を築き、狙撃兵やモロトフ・カクテルで激しく抵抗するユダヤ人に手を焼き、
最終的には28日間・・・、そしてこれら1日1日を詳細に振り返ります。

鎮圧部隊の中心となるのは「アスカリ」と呼ぶ、リトアニア人やラトヴィア人、ウクライナ人たちです。
ポーランド語も喋れず、強靭で残虐・非道な性格の彼らが、拠点を潰していくわけですが、
「退屈なんですよ・・」と言い訳して、やみくもに発砲する兵士もいれば、
「俺にはできない・・、女や子供たちが・・」と、その死体を見てメソメソと泣き出す兵士まで・・。

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シュトロープを驚かせたのは「女性闘士」たちの存在です。
すっかり諦めた表情で捕えられた彼女たちに、シュトロープらが集団で近づいて行くと
突然、スカート中の手榴弾に手を伸ばしたり・・。
このようなことから、その後シュトロープは娘たちを捕虜にせず、
離れた所から銃殺するよう指示します。

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SS人事本部長のマキシミリアン・フォン・ヘルフやクリューガーが視察に訪れた日には、
2000人を捕え、500人を銃殺・・と張り切り、クリューガーは「すべてを写真に収める」よう命じます。
これが有名な「シュトロープ・レポート」となるわけですね。
下水道には毒ガスと見せかけた発煙弾を放り込み、最終的に建物にも火を放って、
燻り出し作戦に変更。シナゴークも爆破し、「ワルシャワ大作戦行動」も正式に完了します。
5万人以上のユダヤ人を捕えた以外に、シュトロープは、自殺、焼死、圧死、
そして指揮官に無断で射殺されたユダヤ人の数を1万人以上に見積もっています。

Stroop_Maximilian von Herff.jpg

この「ワルシャワ・ゲットー蜂起」についてちょっと調べてみると「アップライジング」というTV映画が
2001年に製作されていました。どうもシュトロープを演じるのは、あのジョン・ボイト・・・です。
「真夜中のカーボーイ」とか「チャンプ」の名優として良く知られていますが、
「独破戦線」的には「オデッサ・ファイル」も良く憶えていますね。
最近では怪優といった感じで、確か「アナコンダ」に丸呑みされたりしてたような・・。
アンジェリーナ・ジョリーの親父さんでもありますが、
でもやっぱり「暁の7人」のハイドリヒと同様に、実際のシュトロープが48歳だったことを考えると、
だいぶ年寄り = 63歳の将軍ということになるようですね。

uprising_Voight.jpg

さらに、同じくいまや子供のキーファーのほうが有名な「ドナルド・サザーランド」も出ています。
この「ドナルド・サザーランド」といえば、もちろん「鷲は舞いおりた」です!
主演女優は「リーリー・ソビエスキー」という女優さんですが、
彼女の眼になんとなく見覚えがあると思ったら「ディープ・インパクト」の女の子でした。
このような役者陣でありますので、気が付いたらamazonでDVDを購入していました。

Leelee Sobieski_uprising.jpg

ヒムラーから「ヴォルフちゃん」と呼ばれていたというカール・ヴォルフとの会話では、
ポーランドでやりたい放題のグロボクニクの話題となり、
「あの、ならず者の泥棒野郎の出世も終わりだな」とヴォルフ。

続く任地、ギリシャではこの地のユダヤ人1万人以上をポーランドへ移送・・。
ボクシングの世界ヘビー級チャンピオンとして有名なマックス・シュメリングが
降下猟兵に加わっていたというクレタ島では、卑怯、不服従、不正な行為によって
シュメリングが銃殺寸前だったという話題も出てきます。

Max Schmeling - Luftwaffe-Fallschirmjaeger _hitler.jpg

1944年には西部戦線、フランスやルクセンブルクをSSとして統治するという役割を与えられ、
その豪勢な生活の様子・・、外国人の使用人たちを見張るのは
特別あつらえのSSの制服に身を包んだ8歳の息子オーラフです。
これには訪れたヒムラーも膝に乗せて大喜び。

そして、「7月20日事件」を回想し、偉大な軍人ロンメルの裏切りに続いて、
クルーゲがフリーメーソンに属していたという話から、
一般的に自殺とされている、クルーゲ死の真相を語ります。
それは、ヴィトゲンシュタインも今まで全く聞いたことがない、最期です。。。
また、終戦間際に処刑されたカナリス提督の、その処刑方法も、
7月20日事件の他の被告たちとは全く違う、これも初めて聞いた実に恐るべきものです。。。

Deutsche Offiziere, u.a. Generalfeldmarschall Hans-Günther von Kluge.jpg

最後に、本書の著者であるポーランド人のモチャルスキがなぜ、地元の刑務所で
シュトロープと共に収監されたのか・・が、書かれています。
ドイツ軍の侵攻によってロンドンへ逃れた亡命政府の指示によって誕生した
「国内軍(AK)」の指揮官であり、1944年の「ワルシャワ蜂起」にも参加したモチャルスキは、
戦後間もなく、新たな占領軍であり、「国内軍(AK)」を完全に無視するソ連軍によって
逮捕されてしまいます。
数年に渡る「地獄の尋問」に耐えたモチャルスキを精神的に屈服させるために取られた手段が、
彼にとって「不倶戴天の敵」であるシュトロープとの狭い監房での共同生活だったということです。

Kazimierz_Moczarski_izquierda_Jurgen_Stroop.jpg

本書は出来ることなら、ナチス親衛隊を熟知している方や、
戦中のポーランドに詳しい方・・が読まれることをオススメしますが、
主役であるシュトロープが期待を裏切らない、典型的なナチ将校、またはSSの将軍・・
であるので、この人物を知らない方でも楽しめるかも知れません。

第1次大戦に従軍したものの、生粋の軍人や貴族の家系出身ではなく、
大学出のエリートでもないというシュトロープのバックボーンは、
彼が最後まで信頼し、敬愛するヒムラーやヒトラーと変わらないような気がします。
アーリア人思想と反ユダヤ主義を持ち続けているところもそうですし、
女性に対してジェントルマンを気取ったところも似ているのでないでしょうか。

Ghetto_Uprising_Warsaw2.jpg

ただし、個人的な興味・・、ヒトラーと第三帝国を盲目的に信じ、
己の行為に恥ずべきものは何もない・・と思っているかというと、
そうでもないことが、行間から充分に伝わってくるものでもあります。
古いナチ党員ということも手伝って、最終的にはSS中将まで出世したものの、
この「SS」という世界の中で特筆すべき技能と能力を持たず、
盲目的に上官に服従することを良しとする彼の生き様は、なにか物悲しくもありました。

Jürgen Stroop-1951.jpg

なんとも凄い本でした・・。
この1年で独破したなかでも、Best3に入るでしょう。ひょっとすると「No.1」かも知れません。
監房の3人の様子はとても緊張感があり、非常に生々しく書かれていますし、
ひとりの、SSの、将軍の、人間性をここまで深く掘り下げたものは、
他にはないんじゃないでしょうか。






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ヒトラー・ユーゲント -戦場に狩り出された少年たち- [ヒトラー・ユーゲント]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

H.W.コッホ著の「ヒトラー・ユーゲント」を読破しました。

近頃、すっかりお気に入りで、全巻読み倒そうか・・と密かに企んでいる
「第二次世界大戦ブックス」からの紹介です。
このシリーズで面白いのは、古書の価格が結構マチマチなことですね。
綺麗なのにタダ同然のモノもあれば、本書はかなり良い値段がします。
ヴィトゲンシュタインは¥1600で購入しましたが、これでもだいぶ安いほうです。

ヒトラー・ユーゲント -戦場に狩り出された少年たち-.png

このヒトラー・ユーゲントを題材にしたものは、ココでも以前に
ヒトラー・ユーゲント -第三帝国の若き戦士たち」を紹介していますが、
これもなかなか良い本で、自分にとってはヒトラー・ユーゲントの基礎となっています。

本書は帝政時代の青少年運動から始まり、特に第1次大戦勃発による
ドイツ学生志願兵の一団が、1914年11月、ランゲマルクの英国陣地に
ドイツ国歌を口ずさみながら正面攻撃を掛け、機関銃の掃射の前に全滅した・・という
「ドイツの若者は身を捨ててまで祖国に献身する」ランゲマルク神話なるものが紹介されます。
そしてこの神話の不気味な影響力は、事実上、第2次大戦が終わるまで続いたということです。

Blood and Honour.jpg

1920年代には様々な青少年運動と団体が乱立している状態ですが、
ヒトラーとナチ党の台頭によって、これらの青少年団体は徐々に吸収されていき
1926年、ナチ党唯一の公認青少年組織「ヒトラー・ユーゲント」が誕生します。

その2年後には10歳から14歳未満の少年たちの組織「小国民隊」と
女子部門(のちのBDM=ドイツ少女連盟)とその組織と対象も拡大していきます。

BDM girls in Kletterjackel.jpg

ドイツ国内で政治活動も繰り広げるヒトラー・ユーゲントたちですが、
1931年~33年の間に26人もの生命が失われ、その最も有名な事例として
12歳のヘルベルト・ノルクス君がベルリンの共産主義者に捕まり、
7か所もナイフで刺されるという痛ましい話を紹介して、これがゲッベルスにより
殉教者としての宣伝材料として、映画化もされることになります。
まぁ、このノルクス君については、15歳とか16歳とか、いろいろ説はありますね。

Goebbels&HitlerYouth.jpg

ヒトラー・ユーゲントという組織が勢力を増していく過程が丁寧に書かれている本書ですが、
プロテスタント団体やカトリック団体との対決については、特に深く書かれています。
プロテスタント国家主教ルートヴィヒ・ミュラーが早くからナチズムに転向し、
彼がライヒェナウ大佐を転向させ、そしてブロムベルク将軍までも
彼の自宅でヒトラーに紹介してしまいます。
抵抗のアウトサイダー」でゲルシュタインが早々とナチ党へ入党していた理由も
わかったような気がしました。

ヒトラー・ユーゲントの入隊式の様子や2ヶ月~6ケ月行われたという「テスト訓練」も詳細です。
そのハイライトである「勇敢度テスト」では2階の窓から飛び降りることが求められた・・と
これは著者コッホが「私の場合・・」の例として挙げています。

Hitlerjugend2.jpg

シーラッハの全国青少年指導部と学校の対立も非常に興味深い話が多くありました。
ヒトラー・ユーゲントの活動に対し、学校側が考慮を払うように迫り、
例えば、リーダーのユーゲントの活動や訓練のために休校を認めるよう求めたり、
このようなリーダー・ユーゲントを部下や仲間の前で
彼の威信を傷つけることがないよう、要請したり・・。

1943年に中等学校の生徒だった著者の受け取った教科書の内容もそれぞれ紹介され、
算数の問題では「ドイツ民族を絶やさないために家庭では子供を何人つくる必要があるか?」
しかもこのような問題は、別に珍しくもなかったということです。

BDM_G.jpg

「エリート育成」の章では、ナチ党の指導者養成に重点を置いた「アドルフ・ヒトラー学校」と
政治、経済、軍事、学問と国民のあらゆる領域におけるエリートの養成を目指す
「NAPOLA(ナポラ) = 国家政治教育学院」が登場してきます。
1933年に3校が開校された「NAPOLA」は1944年までに計18校が創設され、
そのうち2校は女子校だっということです。う~ん。「NAPOLA」の女子校があったとは・・。

HJ.jpg

寄宿生活を送る「NAPOLA」は英国のパブリック・スクールを手本とし、
ドイツ軍士官養成学校の伝統との融合を目指したもので
その入学の選抜基準は10倍という高さです。

Farbige Ansichtskarte aus den Anfangsjahren der Napola.jpg

ここでも著者の経験談として、管区指導者でもある校長が勝手に申込みをしたいきさつを語り、
未亡人で、すでにロシア戦線に兄を送っている母親の抗議に対し、
「奥さん、息子さんはあなたに預けられているものの、ドイツの財産であり、
これに反対することは、総統と帝国に反対することにほかならないのです」。

NAPOLA.jpg

やがてSSが「NAPOLA」の費用を持つようになるとハイスマイヤーSS中将が責任者となり、
その教育方針や、卒業生の扱いなどでSS本部長のベルガーや、上司のヒムラーとも対立します。

そして1943年に「第12SS装甲師団 ヒトラー・ユーゲント」が創設されると、
17歳程度の少年たち1万人が新師団に合流します。
しかし彼ら全員が志願兵であったわけではなく、空軍などへ志願していたものの、
「着いた先は武装SSの兵舎だった・・」という者も多かったそうです。

Hitlerjugend Recruiting Poster -Also You-.jpg

なかば強制的にヒトラー・ユーゲントに入団させられた少年たちのなかには、反発心から
ユーゲントの集会をぶち壊したり、リーダーを襲ったりする反逆ユーゲントも現れます。
ただし、このような不良ユーゲントたちの行為が「反ナチ・イデオロギー」に基づいたものではなく、
いつどこの時代にも共通する、画一性に対する反抗と
そして第三帝国の息苦しい管理体制に対する反抗でもあるとしています。

また、ヒトラー・ユーゲントたちを動かしたものが「イデオロギー」であったかは疑わしい・・・
として、パレードやデモ行進は彼らのエネルギーはけ口であり、
タダで旅行ができて、食料もタップリ、学校も休むことができたというのが魅力であって、
それが彼らの本音だっただろう・・と推測しています。

Bój o Kołobrzeg.jpg

このような解釈は著者コッホの体験談が度々出てくることもあり、
自分のしょうもなかった少年時代に照らし合わせてみても非常に納得できる結論です。
割と新しい「ヒトラー・ユーゲント -第三帝国の若き戦士たち」に決して引けを取らない内容で、
改めて「第二次世界大戦ブックス」をつくづく見直しました。



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