ホロコースト全証言 -ナチ虐殺戦の全体像- [収容所/捕虜]
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
グイド・クノップ著の「ホロコースト全証言」を読破しました。
ドイツのテレビ(ZDF)現代史局長である著者の本はこのBlogを始めた当初から読んでいました。
「ヒトラーの共犯者」や、「ヒトラーの親衛隊」など7冊ですね。
かなり勉強になった半面、自虐的過ぎるような構成と結論に違和感を感じたのも事実です。
そんなこともあって、2004年、441ページの本書を読むことに躊躇していましたが、
2週間ほど前に突然、読んでみよう・・という気になりました。
本書は写真タップリなので、このレビューでも負けず劣らず写真を掲載しますから、
もし「ホロコーストの写真は苦手・・、怖い・・」という繊細な方はスルーしてくださいね。
いまコレを書いている時点で、どんなエグい写真になるか、一切不明なんです。
それでは第1章、「人間狩り」から・・。
1941年7月、ラトヴィアの都市リバウでユダヤ人47人とラトヴィア共産党員5人が射殺されます。
アインザッツグルッペンはこのあとの1ヵ月の間にラトヴィア人「自警団」とともに、
1000人のユダヤ人男性を処刑。
ソ連侵攻当初は、まだ女性や子供、老人は対象外なのです。
この「バルバロッサ作戦」とは、ヒトラーの思考のありとあらゆるイデオロギー的・戦略的要素が
束ねられ、ひとつの実戦的解答になったものだった・・として、
「わが闘争」から具体的に抜粋します。
いわゆる「ユダヤ=ボルシェヴィズム」というヤツですね。
ゲシュタポ、クリポ(刑事警察)、SD(保安防諜部)を中核に武装SSとオルポ(秩序警察)から成る
4個の特別行動隊アインザッツグルッペンも、隊長のシュターレッカーなどが登場しながら
なかなか詳細に書かれ、出動前にはハイドリヒから心構え、
「いかに苛酷で困難な任務であるか」を説かれます。
そして非武装の民間人、「扇動者・ビラ撒き」といった嫌疑をかけられただけでも「ゲリラ」とされ、
銃殺や村を丸ごと焼き払うといった決定が現場の国防軍将校にも与えられるのです。
そんなアインザッツグルッペンvs国防軍兵士のエピソードも出てきました。
砂利採取の穴で300人ほどの民間人が銃殺中なのを発見したシュタルク少尉は駆け寄ります。
「この事態は何だ。ここで銃殺を執行せよという当師団司令官の命令はどこにある」。
プロイセン軍人の毅然とした態度にリトアニア人の死刑執行人とSS隊員は気圧され、
「銃を穴へ捨てろ!諸君を逮捕する!」 そして憲兵がやって来るのでした。
また、オルポの警察予備大隊が虐殺班を支援したという記述では、
ブラウニング著の「普通の人びと」を基準学術書として高い評価を得ている・・と取り上げます。
いや~、あの本は凄かったなぁ。
ウクライナのレンベルク(リヴォフ)でも常軌を逸した虐殺行為が繰り広げられます。
迫るドイツ軍を前にNKVD長官のベリヤが出した命令は「反革命要素はすべて射殺せよ」。
数百人の囚人が後頭部を撃ち抜かれ、大混乱のなか、いまだ人で溢れ返っている監房に
ソ連の看守は手榴弾を投げ込むのです。
ドイツ軍がやってくるとソ連軍が残していった死体の山に、身内を探す遺族と復讐を誓う人々。
反ユダヤ主義の根強いこの地域、スケープゴートとしてユダヤ人狩りが始まります。
ウクライナ人自警団が女性も子供も路上に引きずり出して暴行を加えますが、
「痕跡を残さないポグロムの扇動」もアインザッツグルッペンの任務の一つなのです。
本書はこのように1941年のソ連侵攻から始まるわけですが、疑問に感じる方もいるでしょう。
ホロコーストを記述するなら、1935年に制定された悪法である「ニュルンベルク法」や、
1938年に起きた「水晶の夜事件」、翌年のポーランド侵攻に伴う「ワルシャワ・ゲットー」など、
ホロコーストの前段階とも呼べるこれ等については、単に「ポグロム」としているようです。
ドイツ国内におけるユダヤ人迫害(ポグロム)から、
戦争の拡大によるユダヤ人虐殺(ホロコースト)とを別けて考えているように思いました。
7月30日、ヒムラーはプリピャチ沼沢地域に対する命令をバッハ=ツェレウスキに下します。
そしてこの命令は2個SS騎兵連隊騎馬隊へと伝えられるのです。
「SS国家長官の断固とした命令である。ユダヤ人の男を全員射殺せよ。女は沼へ追い込め」。
第2連隊は命令に従ったものの、第1連隊のやり方は苛烈を極め、
通過した村々に住むユダヤ人全員、女子供も無差別に、機関銃で掃射していくのでした。
このSS騎兵連隊騎馬隊を率いるのは、後のエヴァ・ブラウンの義弟、フェーゲラインです。
この時から遂にユダヤ人は男性だけでなく、無差別に殺害されていくことになるわけですが、
リトアニア人の警察志願兵大隊将校で銃撃手だったマレクサナスはこう語ります。
「子供だけは守ろうと、親が子供を腕の中で庇っていることがよくありました。
それで子供がいっそう苦しむことになるとは、その親たちにはわからなかったのです。
射殺できなかった子供は、穴の中で親の身体の下敷きになり、結局は窒息死するのですから。
私はいつも確実に死なせるため、星の付いた部分、正確に心臓を狙うようつとめました」。
まだまだアインザッツグルッペンを中心とした人間狩りは、
「バービ・ヤール」の大殺戮などへと続きます。
87ページから第2章、「決定」です。
ヒトラーが署名したホロコーストの命令書は存在しない・・ということはよく言われており、
本書でも口頭で伝えられたり、暗示であったり、或いは同意を示すうなずきであったり・・と表現。
そして「最終的解決」に向けての全権を1941年7月に与えられたハイドリヒ。
1942年1月に、「ヴァンゼー会議」を開き、ユダヤ人絶滅について協議。
しかしこのホロコーストの頂点に君臨したのはヒムラーです。
ミンスクで行われた100名の処刑に立ち会ったヒムラー。
この後、バッハ=ツェレウスキはこう訴えたそうです。
「この者たちの神経は、もはや残りの人生に耐えられません。
我々はここで神経症患者や無法者を育成しているのです!」
ドイツ本土のユダヤ人は「最終的勝利」を収めた後に移送されることになっていましたが、
ソ連がヴォルガ=ドイツ人40万人をシベリア送りにするということが判明すると、
東方占領相ローゼンベルクが「中央ヨーロッパのユダヤ人も可能な限り東の果てへ」と考え、
ハンブルクが爆撃されて600人の市民が焼け出されると、ガウライターのカウフマンは、
「ユダヤ人を移送して、焼け出された人々に住居を与えて欲しい」とヒトラーに訴えます。
個人的には、独ソ戦は軍事的に、ホロコーストは政治的政策として切り分けて考えていましたが、
本書ではモスクワ攻略に失敗したヒトラーが、その責任をすべてのユダヤ人に押し付け、
ホロコーストを加速させていった・・という見解です。
いわゆる絶滅戦争にシフトした感じですが、こうなると切り分けて考えることは不可能ですね。
虐殺行為が加害者にかける負担を軽減することの必要性を感じたヒムラーは、
効率的かつ加害者の神経をいたわるような殺害方法をアルトゥール・ネーベに委託。
ネーベの下には刑事犯罪技術研究所が従い、すでに「安楽死(T4作戦)」の開発を行うなど、
その創造性は折り紙つきなのです。
早速、精神病患者20名を地下壕に閉じ込めて爆殺を試みるも、生き残った者がいたため失敗。
今度は大量の爆薬を使用して成功するものの、バラバラになった死体が飛び散り・・。
やがて研究は進み、「ガス・トラック」へと形を変えるのです。
それでも荷台中の排気ガス濃度が致死量に達するまで時間がかかり、
断末魔の苦しみは15分以上続き、凄まじい叫び声が運転席にまで届いてしまうのです。
部下に与える苦痛を軽減したいと目論むヒムラーの願いも虚しく・・。
第3章は「ゲットー」。
ポーランドのウッジ・ゲットー、ドイツ語ではリッツマンシュタットと呼びますが、
この人で溢れかえっていたゲットーにウィーン、プラハから5000人づつ、
その他ベルリン、フランクフルトなどから、〆て25000人のユダヤ人が新たにやって来ます。
彼らの家はすでに当局が家財・家具ごと押収しており、そこには事務的な規定が・・。
真っ先に財務行政機関がやって来て、机や書棚、絨毯に椅子などを差し押さえ、
価格の低い物は「国家社会主義国民福祉協会(NSV)」が引き継いで、慈善事業に回すのです。
有価証券は帝国中央金庫が、ミシンはゲットーの管理部が軍服製造のために引き受け、
切手コレクションはどこどこ、書籍類はドコドコと役所の取り決めがあるものの、
実際には値打ちある物はゲシュタポに確保されてしまっていることが多く、
獲物の分配を巡って熾烈な競争が行われるのです。
下はそんな「NSV」のポスターです。
福祉うんぬんだけあって、爽やかなSA少尉とSS軍曹の顔が印象的ですね。
このように多くの所有物を残してきたままゲットーに到着しても、少ない手荷物も没収されたり、
食料配給と引換えに取り立てられ、さらにはわざわざ「ゲットー通貨」まで導入されているのです。
そして17万人が暮らすこのゲットーで赤痢が大流行すると、4万人もが命を落とします。
ヴァンゼー会議の結果を受けて、ウッジ・ゲットーから2万人が「移住」させられることに・・。
選抜するのはゲットー内の「ユダヤ人評議会」、ユダヤ人警察、裁判所などの各責任者です。
特に今回は対象者が65歳以上の老人に加え、10歳未満の子供たち。。
管理部職員や警官、消防署員の子供は除外して、その彼らが1軒1軒しらみつぶしに捜索。
当然、親は子供を隠したりと、ユダヤ人がユダヤ人に悪魔の手を差し伸べ、
労働力にならない老人と子供たちを移送先で待っているものはひとつしかないのです・・。
重要人物と迫害されるユダヤ人の白黒写真が多く掲載されている本書ですが、
下 ↓ の写真はキャプションによると、「ウッジ・ゲットーで食糧配給を待つ子供たち」。
ゲットーのユダヤ人警察っていうのは、「戦場のピアニスト」にも出てきたかも知れませんが、
まぁ、難しい立場ですねぇ。
人道的な警官もいたでしょうが、特別なバッチを付けた制帽をかぶり、
腕章を付けて威張りくさっていたナチスの犬の如き若造なんかもいたんじゃないかと思います。
ホロコーストを語るとき、ナチス=悪、ユダヤ人=善という図式になるのは当然だと思いますが、
ナチスにも善人はいるし、ウッジ・ゲットーにいる17万のユダヤ人に中にも悪人はいるでしょう。
ちょうど半分まで来ました。第4章は「虐殺工場」です。
この章タイトルでおわかりのように、「アウシュヴィッツ」を中心とした絶滅収容所の様子。
1941年9月6日、600名のソ連軍捕虜と300名の病気の囚人が人体実験の犠牲になります。
それは初めて「チクロンB」を使用した大量ガス殺人が成功したということです。
これで殺しがより迅速に、かつ安価になったばかりでなく、より「人道的」になったのです。
所長のルドルフ・ヘースは語ります。
「白状すると、わたしはガス殺に安堵の息をついた。
いずれ近いうちにユダヤ人の大虐殺を始めなければならない。
わたしはいつも銃殺には震え上がっていた。でも、もう安心だ。
これで我々は皆、血の海を見なくても済むのだ」。
1940年の4月にテオドール・アイケの教え子、SS大尉ヘースがアウシュヴィッツに到着したころ、
ここへ送られてきた最初の囚人はザクセンハウゼン強制収容所の刑事犯30名なり・・。
彼らは殺されるために送られてきたのではなく、監督囚人、すなわち「カポ」として、
収容所ブロックや房の古参として、他の囚人を監督するのが任務なのです。
肉体労働の義務すらなく、良い食事に革の長靴、特別仕立ての囚人服を身にまとい、
ポーランドからやって来た囚人らを怒鳴り、殴り、蹴りながらバラックへと追い立てるのです。
このような「カポ」システムっていうのはアウシュヴィッツだけでなく、大抵の収容所でも行われ、
ドイツ人カポの場合もあれば、ユダヤ人カポだったりするんですね。
ですから被収容者からしてみれば、直接手を出してくる外道はカポ、
その上にウクライナ人などの外国人看守、次にドイツ人SS軍曹といった看守長、
最後にSS大尉、またはSS少佐の階級で君臨する所長となるわけで、
この収容所階級社会から見れば、末端の囚人は所長を王様のように感じたことでしょう。
ちなみにカポの腕章もいろいろありますが、カポリーダーというか上級カポもいたようてす。
1942年になると連日のように、ヨーロッパ全土から数千人が到着します。
アイヒマンの移送計画はアウシュヴィッツだけでなく、トレブリンカ、マイダネク、ゾビボルなど、
計6か所の絶滅収容所に及び、そのガス殺~焼却までの流れ作業も効率化。
本書ではガス室から焼却作業に従事したユダヤ人「ゾンダーコマンド」の回想も挿入しつつ、
「私はガス室の「特殊任務」をしていた」からも抜粋していますから、細かい手順は今回、割愛・・。
それから「死の天使」メンゲレも当然、出てきます。でもコレもゲスい人体実験なので割愛・・。
その他、著名な人物としては「ナチ・ハンター」サイモン・ヴィーゼンタールの証言、
イタリア人、プリーモ・レーヴィの回想が随所に登場。
そういえば、プリーモ・レーヴィ著の「休戦」を以前からチェックしていたのを思い出しました。
第5章は「抵抗」。
1943年1月、「ワルシャワ・ゲットー」に8000人の移送命令が下ると、
これまで確実に命令を遂行してきたユダヤ人警官も今度ばかりは協力を拒みます。
自分が最低5人を引き渡さなかった場合、次に移送されるのは自分の家族だ・・
ということを承知しているにもかかわらずです。
このような反抗的態度は4月に始まった「ワルシャワ・ゲットー蜂起」へと繋がっていくのです。
ポーランドの総督ハンス・フランクはベルリンへ状況を大袈裟に報告します。
「この組織的な蜂起と戦うには重砲を動員しなければならない。
ドイツ軍兵士に対する殺戮が恐ろしい勢いで進行している」。
そしてSS指揮官シュトロープがゲットーに火を放ち、廃墟にしていくのでした。
また、1942年5月には地下の抵抗運動組織によって英国に情報がもたらされ、BBCが報道。
翌月には「デイリー・テレグラフ」紙がホロコーストを記事にし、西側社会に広まります。
「史上最大の大虐殺により、70万人を超えるユダヤ人が殺戮された」。
しかし、外務省の専門化たちも新聞社のトップも、このあまりの人数の多さに内心では、
ユダヤ人が拡張しているのだろう・・と考えていたとします。
それでも実際はこの時点での犠牲者数は、ゆうに2倍になっていたと。。
確かにゲーリングも戦後、「あの数字はあり得ないと思った」と語ってましたねぇ。
11月には新たな証人がロンドンに到着します。非ユダヤ人の彼の名はヤン・カルスキ。
ポーランド亡命政府のエージェントとして、占領下のポーランドに3年間潜伏した彼は、
ウクライナ兵士の軍服を着てルブリンの収容所に潜入したりと、逮捕、尋問、脱走という
修羅場を何度となく、くぐり抜けてきた人物なのです。
本書に掲載されている彼の写真を見て、すぐにピンときました。
2012年に出た、「私はホロコーストを見た: 黙殺された世紀の証言1939-43」の著者ですね。
いや~、そういうことなら読んでみようかなぁ。
ユダヤ人組織の代表者たちは外部から救援を組織しようと努力しますが徒労に終わります。
ローマ教皇に働きかけようとしても、ピウス12世は新ドイツ派であり、
正面切ってヒトラーに対抗するつもりはなく、また、カトリックの因習的な反ユダヤ主義も・・。
もうひとつドイツ国内で道義的中心となるべき機関はドイツ赤十字(DRK)です。
しかしナチスに「同質化」されていたこの機関に期待するのはお門違いであり、
事務局長はSS大将エルンスト・グラヴィッツ医学博士で、「T4作戦」では
精神障害者の殺害を自ら買って出た「SS国家医師」なのです。
それにしてもこの人の名前で、「手榴弾2個」をイメージした方はマニアですねぇ。
「ヒトラー 最期の12日間」で、ベルリンからの退去を許されず、家族もろとも自爆したあの人です。
ユダヤ人を守った人物としてオスカー・シンドラーや、アプヴェーアのハンス・オスターらも紹介。
カナリス提督にシュテルプナーゲル将軍、トレスコウにシュタウフェンベルクらも取り上げ、
彼らの過去の反ユダヤ主義的発言を踏まえたうえで、
1944年のヒトラー暗殺計画へと進んでいった経緯についても検証します。
関与者にはクリポ局長で、アインザッツグルッペンの隊長を務めたネーベも含まれるのです。
ただ個人的には国家元帥ゲーリングの弟、アルベルト・ゲーリングの話が印象的でした。
リスボン経由で脱出するユダヤ人のための資金を準備したり、
ハイドリヒに働きかけてチェコの抵抗活動家をプラハのゲシュタポ監獄から釈放させたり・・。
最終章は「解放」。
1944年4月になって、アイヒマンはいまだ非ユダヤ化されていないハンガリーに手を伸ばします。
一日あたり1万4000人にのぼるハンガリー・ユダヤ人が故郷を追われ、アウシュヴィッツへ直行。
3ヵ月間で43万人の強制輸送をやってのけると、所長を退任していたヘースが
最後の大仕事をやり遂げるため、アウシュヴィッツにカムバック。。
しかし、連合軍がノルマンディに上陸し、ブダペストが空爆され、ルーズヴェルト大統領が
「この蛮行に加担した人間は、1人として刑を逃れることは出来ない」と宣言すると、
ホルティは保身のためにユダヤ人の輸送停止を命令し、それに激怒するアイヒマン。
そして10月、ハンガリーのファシスト、「矢十字党」がクーデターを起こし、ホルティは失脚。
ブダペストに戻って来たアイヒマンはユダヤ人指導者に冷酷に告げます。
「どうだね。わたしはまた帰って来たぞ」。
この部分は早い話、「パンツァーファウスト作戦」のことですね。
本書では触れられていませんが、並行してスコルツェニーがホルティの息子を誘拐したり・・と、
有名な話ですが、今回は「矢十字党」に興味をそそられました。
1945年1月、アウシュヴィッツはとうに絶滅作業を終了し、東から迫るソ連軍から逃れるため、
9000人の病人を残して、5万人が西へ向かいます。
痩せ衰え、消耗しきった囚人たちは雪と寒さのなかバタバタと倒れては監視兵が射殺。
苦しい旅の果てにようやく辿り着いたのは ベルゲン・ベルゼン強制収容所。
いまや看守の暴力も、ガス室も、銃殺も行われないここで、ただ朽ち果てるのみ・・。
アンネ・フランクも若い命を落とした、この不衛生な強制収容所。
監視兵が仕事を放棄した結果、囚人医師が戦後証言したところによると、
仲間の死体を食べるカニバリズムが、少なくとも200件あったということです。
本書ではこのあたり、痩せ細った死体の山の写真が多くなってきますが、
一番印象に残ったのは、「ベルゲン・ベルゼン解放後、仲間の死体の前で食事をする女性たち」。
ダッハウでは解放された収容者の歓声が、午後には野蛮な無政府状態へと変化。
怒りに任せて監視兵に襲い掛かる囚人たち。
米兵がSS看守をまとめて銃殺しただけでなく、囚人服を着て変装したり、身を隠した看守も
あちこちで正体を暴かれて、その場でリンチ。身体が裂け、内臓がはみ出るほど激しく・・。
米軍の従軍ラビはこう書き記します。
「1人の痩せ細った囚人が、死んで硬直した監視兵の顔に小便をかけていた」。
気の良いGIは、あちこちで囚人にコンビーフやチョコレートを配って回ります。
しかし極度の脱水症状を起こしていた彼らの身体は、大量のカロリー摂取に耐えきれず、
数百人が命を落としてしまうのです。う~ん。ヨーロッパ中で起こった話ですね。
最後にアイヒマンは1960年に発見され、メンゲレは捕まらずに1979年に溺死。
所長のヘースは1947年、アウシュヴィッツの敷地内で絞首刑に処せられます。
2007年に本書のドイツTVシリーズ版がDVDになって発売されていました。
6枚組のDVD-BOXで、各章ごとに1枚になっているようですね。
タイトルは「ヒトラーとホロコースト -アウシュビッツ」、計300分の大作です。
ヒストリー・チャンネルで放送したかなぁ??
単純なホロコーストものでは、極悪非道のナチス、その首領ヒトラー、
悪魔の所業を推進した子分ヒムラーと、進んで命令に従ったヘースやアイヒマン・・といった
加害者側と、生き残った被害者ユダヤ人の回想という構成が多いですが、
本書はこのように加害者側にも様々な考えを持った人間がおり、
それは敗戦へと向かって行く過程で起こす行動にも変化が見られます。
また、中立の人間、一般のドイツ市民やナチス占領地の市民が何を考えていたのか??
と、幅広い証言からも成り立っています。
見て見ぬ振りをしたことが、ホロコーストに加担したことになるのか、
ユダヤ人がスウェーデンに逃亡するのを助けたデンマーク漁船の漁師たちが
大金をはずんでもらったことが、恥ずべき行為なのか、
こういった複数のケースに、単純に善悪では切り分けられない問題の難しさも認識しました。
もっと早く、3年前にでも読んでおけばよかった・・と後悔する一冊でした。
そうか。今年は「アウシュヴィッツ解放70周年」だから読もうと思ったのか・・。
グイド・クノップ著の「ホロコースト全証言」を読破しました。
ドイツのテレビ(ZDF)現代史局長である著者の本はこのBlogを始めた当初から読んでいました。
「ヒトラーの共犯者」や、「ヒトラーの親衛隊」など7冊ですね。
かなり勉強になった半面、自虐的過ぎるような構成と結論に違和感を感じたのも事実です。
そんなこともあって、2004年、441ページの本書を読むことに躊躇していましたが、
2週間ほど前に突然、読んでみよう・・という気になりました。
本書は写真タップリなので、このレビューでも負けず劣らず写真を掲載しますから、
もし「ホロコーストの写真は苦手・・、怖い・・」という繊細な方はスルーしてくださいね。
いまコレを書いている時点で、どんなエグい写真になるか、一切不明なんです。
それでは第1章、「人間狩り」から・・。
1941年7月、ラトヴィアの都市リバウでユダヤ人47人とラトヴィア共産党員5人が射殺されます。
アインザッツグルッペンはこのあとの1ヵ月の間にラトヴィア人「自警団」とともに、
1000人のユダヤ人男性を処刑。
ソ連侵攻当初は、まだ女性や子供、老人は対象外なのです。
この「バルバロッサ作戦」とは、ヒトラーの思考のありとあらゆるイデオロギー的・戦略的要素が
束ねられ、ひとつの実戦的解答になったものだった・・として、
「わが闘争」から具体的に抜粋します。
いわゆる「ユダヤ=ボルシェヴィズム」というヤツですね。
ゲシュタポ、クリポ(刑事警察)、SD(保安防諜部)を中核に武装SSとオルポ(秩序警察)から成る
4個の特別行動隊アインザッツグルッペンも、隊長のシュターレッカーなどが登場しながら
なかなか詳細に書かれ、出動前にはハイドリヒから心構え、
「いかに苛酷で困難な任務であるか」を説かれます。
そして非武装の民間人、「扇動者・ビラ撒き」といった嫌疑をかけられただけでも「ゲリラ」とされ、
銃殺や村を丸ごと焼き払うといった決定が現場の国防軍将校にも与えられるのです。
そんなアインザッツグルッペンvs国防軍兵士のエピソードも出てきました。
砂利採取の穴で300人ほどの民間人が銃殺中なのを発見したシュタルク少尉は駆け寄ります。
「この事態は何だ。ここで銃殺を執行せよという当師団司令官の命令はどこにある」。
プロイセン軍人の毅然とした態度にリトアニア人の死刑執行人とSS隊員は気圧され、
「銃を穴へ捨てろ!諸君を逮捕する!」 そして憲兵がやって来るのでした。
また、オルポの警察予備大隊が虐殺班を支援したという記述では、
ブラウニング著の「普通の人びと」を基準学術書として高い評価を得ている・・と取り上げます。
いや~、あの本は凄かったなぁ。
ウクライナのレンベルク(リヴォフ)でも常軌を逸した虐殺行為が繰り広げられます。
迫るドイツ軍を前にNKVD長官のベリヤが出した命令は「反革命要素はすべて射殺せよ」。
数百人の囚人が後頭部を撃ち抜かれ、大混乱のなか、いまだ人で溢れ返っている監房に
ソ連の看守は手榴弾を投げ込むのです。
ドイツ軍がやってくるとソ連軍が残していった死体の山に、身内を探す遺族と復讐を誓う人々。
反ユダヤ主義の根強いこの地域、スケープゴートとしてユダヤ人狩りが始まります。
ウクライナ人自警団が女性も子供も路上に引きずり出して暴行を加えますが、
「痕跡を残さないポグロムの扇動」もアインザッツグルッペンの任務の一つなのです。
本書はこのように1941年のソ連侵攻から始まるわけですが、疑問に感じる方もいるでしょう。
ホロコーストを記述するなら、1935年に制定された悪法である「ニュルンベルク法」や、
1938年に起きた「水晶の夜事件」、翌年のポーランド侵攻に伴う「ワルシャワ・ゲットー」など、
ホロコーストの前段階とも呼べるこれ等については、単に「ポグロム」としているようです。
ドイツ国内におけるユダヤ人迫害(ポグロム)から、
戦争の拡大によるユダヤ人虐殺(ホロコースト)とを別けて考えているように思いました。
7月30日、ヒムラーはプリピャチ沼沢地域に対する命令をバッハ=ツェレウスキに下します。
そしてこの命令は2個SS騎兵連隊騎馬隊へと伝えられるのです。
「SS国家長官の断固とした命令である。ユダヤ人の男を全員射殺せよ。女は沼へ追い込め」。
第2連隊は命令に従ったものの、第1連隊のやり方は苛烈を極め、
通過した村々に住むユダヤ人全員、女子供も無差別に、機関銃で掃射していくのでした。
このSS騎兵連隊騎馬隊を率いるのは、後のエヴァ・ブラウンの義弟、フェーゲラインです。
この時から遂にユダヤ人は男性だけでなく、無差別に殺害されていくことになるわけですが、
リトアニア人の警察志願兵大隊将校で銃撃手だったマレクサナスはこう語ります。
「子供だけは守ろうと、親が子供を腕の中で庇っていることがよくありました。
それで子供がいっそう苦しむことになるとは、その親たちにはわからなかったのです。
射殺できなかった子供は、穴の中で親の身体の下敷きになり、結局は窒息死するのですから。
私はいつも確実に死なせるため、星の付いた部分、正確に心臓を狙うようつとめました」。
まだまだアインザッツグルッペンを中心とした人間狩りは、
「バービ・ヤール」の大殺戮などへと続きます。
87ページから第2章、「決定」です。
ヒトラーが署名したホロコーストの命令書は存在しない・・ということはよく言われており、
本書でも口頭で伝えられたり、暗示であったり、或いは同意を示すうなずきであったり・・と表現。
そして「最終的解決」に向けての全権を1941年7月に与えられたハイドリヒ。
1942年1月に、「ヴァンゼー会議」を開き、ユダヤ人絶滅について協議。
しかしこのホロコーストの頂点に君臨したのはヒムラーです。
ミンスクで行われた100名の処刑に立ち会ったヒムラー。
この後、バッハ=ツェレウスキはこう訴えたそうです。
「この者たちの神経は、もはや残りの人生に耐えられません。
我々はここで神経症患者や無法者を育成しているのです!」
ドイツ本土のユダヤ人は「最終的勝利」を収めた後に移送されることになっていましたが、
ソ連がヴォルガ=ドイツ人40万人をシベリア送りにするということが判明すると、
東方占領相ローゼンベルクが「中央ヨーロッパのユダヤ人も可能な限り東の果てへ」と考え、
ハンブルクが爆撃されて600人の市民が焼け出されると、ガウライターのカウフマンは、
「ユダヤ人を移送して、焼け出された人々に住居を与えて欲しい」とヒトラーに訴えます。
個人的には、独ソ戦は軍事的に、ホロコーストは政治的政策として切り分けて考えていましたが、
本書ではモスクワ攻略に失敗したヒトラーが、その責任をすべてのユダヤ人に押し付け、
ホロコーストを加速させていった・・という見解です。
いわゆる絶滅戦争にシフトした感じですが、こうなると切り分けて考えることは不可能ですね。
虐殺行為が加害者にかける負担を軽減することの必要性を感じたヒムラーは、
効率的かつ加害者の神経をいたわるような殺害方法をアルトゥール・ネーベに委託。
ネーベの下には刑事犯罪技術研究所が従い、すでに「安楽死(T4作戦)」の開発を行うなど、
その創造性は折り紙つきなのです。
早速、精神病患者20名を地下壕に閉じ込めて爆殺を試みるも、生き残った者がいたため失敗。
今度は大量の爆薬を使用して成功するものの、バラバラになった死体が飛び散り・・。
やがて研究は進み、「ガス・トラック」へと形を変えるのです。
それでも荷台中の排気ガス濃度が致死量に達するまで時間がかかり、
断末魔の苦しみは15分以上続き、凄まじい叫び声が運転席にまで届いてしまうのです。
部下に与える苦痛を軽減したいと目論むヒムラーの願いも虚しく・・。
第3章は「ゲットー」。
ポーランドのウッジ・ゲットー、ドイツ語ではリッツマンシュタットと呼びますが、
この人で溢れかえっていたゲットーにウィーン、プラハから5000人づつ、
その他ベルリン、フランクフルトなどから、〆て25000人のユダヤ人が新たにやって来ます。
彼らの家はすでに当局が家財・家具ごと押収しており、そこには事務的な規定が・・。
真っ先に財務行政機関がやって来て、机や書棚、絨毯に椅子などを差し押さえ、
価格の低い物は「国家社会主義国民福祉協会(NSV)」が引き継いで、慈善事業に回すのです。
有価証券は帝国中央金庫が、ミシンはゲットーの管理部が軍服製造のために引き受け、
切手コレクションはどこどこ、書籍類はドコドコと役所の取り決めがあるものの、
実際には値打ちある物はゲシュタポに確保されてしまっていることが多く、
獲物の分配を巡って熾烈な競争が行われるのです。
下はそんな「NSV」のポスターです。
福祉うんぬんだけあって、爽やかなSA少尉とSS軍曹の顔が印象的ですね。
このように多くの所有物を残してきたままゲットーに到着しても、少ない手荷物も没収されたり、
食料配給と引換えに取り立てられ、さらにはわざわざ「ゲットー通貨」まで導入されているのです。
そして17万人が暮らすこのゲットーで赤痢が大流行すると、4万人もが命を落とします。
ヴァンゼー会議の結果を受けて、ウッジ・ゲットーから2万人が「移住」させられることに・・。
選抜するのはゲットー内の「ユダヤ人評議会」、ユダヤ人警察、裁判所などの各責任者です。
特に今回は対象者が65歳以上の老人に加え、10歳未満の子供たち。。
管理部職員や警官、消防署員の子供は除外して、その彼らが1軒1軒しらみつぶしに捜索。
当然、親は子供を隠したりと、ユダヤ人がユダヤ人に悪魔の手を差し伸べ、
労働力にならない老人と子供たちを移送先で待っているものはひとつしかないのです・・。
重要人物と迫害されるユダヤ人の白黒写真が多く掲載されている本書ですが、
下 ↓ の写真はキャプションによると、「ウッジ・ゲットーで食糧配給を待つ子供たち」。
ゲットーのユダヤ人警察っていうのは、「戦場のピアニスト」にも出てきたかも知れませんが、
まぁ、難しい立場ですねぇ。
人道的な警官もいたでしょうが、特別なバッチを付けた制帽をかぶり、
腕章を付けて威張りくさっていたナチスの犬の如き若造なんかもいたんじゃないかと思います。
ホロコーストを語るとき、ナチス=悪、ユダヤ人=善という図式になるのは当然だと思いますが、
ナチスにも善人はいるし、ウッジ・ゲットーにいる17万のユダヤ人に中にも悪人はいるでしょう。
ちょうど半分まで来ました。第4章は「虐殺工場」です。
この章タイトルでおわかりのように、「アウシュヴィッツ」を中心とした絶滅収容所の様子。
1941年9月6日、600名のソ連軍捕虜と300名の病気の囚人が人体実験の犠牲になります。
それは初めて「チクロンB」を使用した大量ガス殺人が成功したということです。
これで殺しがより迅速に、かつ安価になったばかりでなく、より「人道的」になったのです。
所長のルドルフ・ヘースは語ります。
「白状すると、わたしはガス殺に安堵の息をついた。
いずれ近いうちにユダヤ人の大虐殺を始めなければならない。
わたしはいつも銃殺には震え上がっていた。でも、もう安心だ。
これで我々は皆、血の海を見なくても済むのだ」。
1940年の4月にテオドール・アイケの教え子、SS大尉ヘースがアウシュヴィッツに到着したころ、
ここへ送られてきた最初の囚人はザクセンハウゼン強制収容所の刑事犯30名なり・・。
彼らは殺されるために送られてきたのではなく、監督囚人、すなわち「カポ」として、
収容所ブロックや房の古参として、他の囚人を監督するのが任務なのです。
肉体労働の義務すらなく、良い食事に革の長靴、特別仕立ての囚人服を身にまとい、
ポーランドからやって来た囚人らを怒鳴り、殴り、蹴りながらバラックへと追い立てるのです。
このような「カポ」システムっていうのはアウシュヴィッツだけでなく、大抵の収容所でも行われ、
ドイツ人カポの場合もあれば、ユダヤ人カポだったりするんですね。
ですから被収容者からしてみれば、直接手を出してくる外道はカポ、
その上にウクライナ人などの外国人看守、次にドイツ人SS軍曹といった看守長、
最後にSS大尉、またはSS少佐の階級で君臨する所長となるわけで、
この収容所階級社会から見れば、末端の囚人は所長を王様のように感じたことでしょう。
ちなみにカポの腕章もいろいろありますが、カポリーダーというか上級カポもいたようてす。
1942年になると連日のように、ヨーロッパ全土から数千人が到着します。
アイヒマンの移送計画はアウシュヴィッツだけでなく、トレブリンカ、マイダネク、ゾビボルなど、
計6か所の絶滅収容所に及び、そのガス殺~焼却までの流れ作業も効率化。
本書ではガス室から焼却作業に従事したユダヤ人「ゾンダーコマンド」の回想も挿入しつつ、
「私はガス室の「特殊任務」をしていた」からも抜粋していますから、細かい手順は今回、割愛・・。
それから「死の天使」メンゲレも当然、出てきます。でもコレもゲスい人体実験なので割愛・・。
その他、著名な人物としては「ナチ・ハンター」サイモン・ヴィーゼンタールの証言、
イタリア人、プリーモ・レーヴィの回想が随所に登場。
そういえば、プリーモ・レーヴィ著の「休戦」を以前からチェックしていたのを思い出しました。
第5章は「抵抗」。
1943年1月、「ワルシャワ・ゲットー」に8000人の移送命令が下ると、
これまで確実に命令を遂行してきたユダヤ人警官も今度ばかりは協力を拒みます。
自分が最低5人を引き渡さなかった場合、次に移送されるのは自分の家族だ・・
ということを承知しているにもかかわらずです。
このような反抗的態度は4月に始まった「ワルシャワ・ゲットー蜂起」へと繋がっていくのです。
ポーランドの総督ハンス・フランクはベルリンへ状況を大袈裟に報告します。
「この組織的な蜂起と戦うには重砲を動員しなければならない。
ドイツ軍兵士に対する殺戮が恐ろしい勢いで進行している」。
そしてSS指揮官シュトロープがゲットーに火を放ち、廃墟にしていくのでした。
また、1942年5月には地下の抵抗運動組織によって英国に情報がもたらされ、BBCが報道。
翌月には「デイリー・テレグラフ」紙がホロコーストを記事にし、西側社会に広まります。
「史上最大の大虐殺により、70万人を超えるユダヤ人が殺戮された」。
しかし、外務省の専門化たちも新聞社のトップも、このあまりの人数の多さに内心では、
ユダヤ人が拡張しているのだろう・・と考えていたとします。
それでも実際はこの時点での犠牲者数は、ゆうに2倍になっていたと。。
確かにゲーリングも戦後、「あの数字はあり得ないと思った」と語ってましたねぇ。
11月には新たな証人がロンドンに到着します。非ユダヤ人の彼の名はヤン・カルスキ。
ポーランド亡命政府のエージェントとして、占領下のポーランドに3年間潜伏した彼は、
ウクライナ兵士の軍服を着てルブリンの収容所に潜入したりと、逮捕、尋問、脱走という
修羅場を何度となく、くぐり抜けてきた人物なのです。
本書に掲載されている彼の写真を見て、すぐにピンときました。
2012年に出た、「私はホロコーストを見た: 黙殺された世紀の証言1939-43」の著者ですね。
いや~、そういうことなら読んでみようかなぁ。
ユダヤ人組織の代表者たちは外部から救援を組織しようと努力しますが徒労に終わります。
ローマ教皇に働きかけようとしても、ピウス12世は新ドイツ派であり、
正面切ってヒトラーに対抗するつもりはなく、また、カトリックの因習的な反ユダヤ主義も・・。
もうひとつドイツ国内で道義的中心となるべき機関はドイツ赤十字(DRK)です。
しかしナチスに「同質化」されていたこの機関に期待するのはお門違いであり、
事務局長はSS大将エルンスト・グラヴィッツ医学博士で、「T4作戦」では
精神障害者の殺害を自ら買って出た「SS国家医師」なのです。
それにしてもこの人の名前で、「手榴弾2個」をイメージした方はマニアですねぇ。
「ヒトラー 最期の12日間」で、ベルリンからの退去を許されず、家族もろとも自爆したあの人です。
ユダヤ人を守った人物としてオスカー・シンドラーや、アプヴェーアのハンス・オスターらも紹介。
カナリス提督にシュテルプナーゲル将軍、トレスコウにシュタウフェンベルクらも取り上げ、
彼らの過去の反ユダヤ主義的発言を踏まえたうえで、
1944年のヒトラー暗殺計画へと進んでいった経緯についても検証します。
関与者にはクリポ局長で、アインザッツグルッペンの隊長を務めたネーベも含まれるのです。
ただ個人的には国家元帥ゲーリングの弟、アルベルト・ゲーリングの話が印象的でした。
リスボン経由で脱出するユダヤ人のための資金を準備したり、
ハイドリヒに働きかけてチェコの抵抗活動家をプラハのゲシュタポ監獄から釈放させたり・・。
最終章は「解放」。
1944年4月になって、アイヒマンはいまだ非ユダヤ化されていないハンガリーに手を伸ばします。
一日あたり1万4000人にのぼるハンガリー・ユダヤ人が故郷を追われ、アウシュヴィッツへ直行。
3ヵ月間で43万人の強制輸送をやってのけると、所長を退任していたヘースが
最後の大仕事をやり遂げるため、アウシュヴィッツにカムバック。。
しかし、連合軍がノルマンディに上陸し、ブダペストが空爆され、ルーズヴェルト大統領が
「この蛮行に加担した人間は、1人として刑を逃れることは出来ない」と宣言すると、
ホルティは保身のためにユダヤ人の輸送停止を命令し、それに激怒するアイヒマン。
そして10月、ハンガリーのファシスト、「矢十字党」がクーデターを起こし、ホルティは失脚。
ブダペストに戻って来たアイヒマンはユダヤ人指導者に冷酷に告げます。
「どうだね。わたしはまた帰って来たぞ」。
この部分は早い話、「パンツァーファウスト作戦」のことですね。
本書では触れられていませんが、並行してスコルツェニーがホルティの息子を誘拐したり・・と、
有名な話ですが、今回は「矢十字党」に興味をそそられました。
1945年1月、アウシュヴィッツはとうに絶滅作業を終了し、東から迫るソ連軍から逃れるため、
9000人の病人を残して、5万人が西へ向かいます。
痩せ衰え、消耗しきった囚人たちは雪と寒さのなかバタバタと倒れては監視兵が射殺。
苦しい旅の果てにようやく辿り着いたのは ベルゲン・ベルゼン強制収容所。
いまや看守の暴力も、ガス室も、銃殺も行われないここで、ただ朽ち果てるのみ・・。
アンネ・フランクも若い命を落とした、この不衛生な強制収容所。
監視兵が仕事を放棄した結果、囚人医師が戦後証言したところによると、
仲間の死体を食べるカニバリズムが、少なくとも200件あったということです。
本書ではこのあたり、痩せ細った死体の山の写真が多くなってきますが、
一番印象に残ったのは、「ベルゲン・ベルゼン解放後、仲間の死体の前で食事をする女性たち」。
ダッハウでは解放された収容者の歓声が、午後には野蛮な無政府状態へと変化。
怒りに任せて監視兵に襲い掛かる囚人たち。
米兵がSS看守をまとめて銃殺しただけでなく、囚人服を着て変装したり、身を隠した看守も
あちこちで正体を暴かれて、その場でリンチ。身体が裂け、内臓がはみ出るほど激しく・・。
米軍の従軍ラビはこう書き記します。
「1人の痩せ細った囚人が、死んで硬直した監視兵の顔に小便をかけていた」。
気の良いGIは、あちこちで囚人にコンビーフやチョコレートを配って回ります。
しかし極度の脱水症状を起こしていた彼らの身体は、大量のカロリー摂取に耐えきれず、
数百人が命を落としてしまうのです。う~ん。ヨーロッパ中で起こった話ですね。
最後にアイヒマンは1960年に発見され、メンゲレは捕まらずに1979年に溺死。
所長のヘースは1947年、アウシュヴィッツの敷地内で絞首刑に処せられます。
2007年に本書のドイツTVシリーズ版がDVDになって発売されていました。
6枚組のDVD-BOXで、各章ごとに1枚になっているようですね。
タイトルは「ヒトラーとホロコースト -アウシュビッツ」、計300分の大作です。
ヒストリー・チャンネルで放送したかなぁ??
単純なホロコーストものでは、極悪非道のナチス、その首領ヒトラー、
悪魔の所業を推進した子分ヒムラーと、進んで命令に従ったヘースやアイヒマン・・といった
加害者側と、生き残った被害者ユダヤ人の回想という構成が多いですが、
本書はこのように加害者側にも様々な考えを持った人間がおり、
それは敗戦へと向かって行く過程で起こす行動にも変化が見られます。
また、中立の人間、一般のドイツ市民やナチス占領地の市民が何を考えていたのか??
と、幅広い証言からも成り立っています。
見て見ぬ振りをしたことが、ホロコーストに加担したことになるのか、
ユダヤ人がスウェーデンに逃亡するのを助けたデンマーク漁船の漁師たちが
大金をはずんでもらったことが、恥ずべき行為なのか、
こういった複数のケースに、単純に善悪では切り分けられない問題の難しさも認識しました。
もっと早く、3年前にでも読んでおけばよかった・・と後悔する一冊でした。
そうか。今年は「アウシュヴィッツ解放70周年」だから読もうと思ったのか・・。
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更新お疲れ様です(^^)ホロコーストについての本は読んでいて心がいつも重くなります…。特に囚人が解放後に復讐をするという展開に仕方ないとはいえ悲しくなります…。
by カナリス (2015-05-01 17:42)
ど~も、カナリスさん。
囚人の復讐はホントそうですねぇ。もっとボコボコにされた看守のカラー写真があったんですが、自主規制しました。。
そういえば囚人ではなく、多くいた外国人労働者も復讐者になったという本を以前読みました。農家や工場で働いていたウクライナやポーランド、フランス、イタリア人たちが、ヒトラーの死とともに立場が逆転。街中で集団暴動に出て、ドイツ人の旦那をブッ飛ばして、目の前で奥さんや娘さんを強姦・・なんてヤツです。恐ろしいですね。。
by ヴィトゲンシュタイン (2015-05-01 19:40)
ホロコースト、重いですね…。
多分自分がその立場になったら同じかもしれないですが、死体の山の前で食事とか、看守をリンチ殺人とか、そういうのもズシンと来ます。
人間は極限に来ると残酷にもなるんでしょうね。
平和な現代に生まれて感謝です。
by ちい (2015-05-03 19:42)
ど~も、ちいさん。
せっかくのGWなのに暗い話でスイマセン。。
今読んでる「遠すぎた家路 戦後ヨーロッパの難民たち」ではこんな風に書かれています。
「復讐心と飢えと歓喜であり・・」
解放コンプレックスっていう、この3つの要素は精神的アンバランスで、詳しく分析しています。
現在でもISISの処刑とか、北○鮮の収容所なんてのは、この70年前と変わらないですね。
もっともヒトラーも、米国のインディアンや、黒人奴隷に対する政策を参考にしていたわけですけど・・。
by ヴィトゲンシュタイン (2015-05-03 22:09)
いいタイミングでヴィト様がこの記事Upしてくださったので、自分も久々に歴史ネタ投下出来ました。ドイツは先日終戦70年を迎えて、その辺の行事が目白押し、地元新聞も毎日のように歴史ネタを補給してくれるので、遅読の自分は読みきれませんw
ドイツ敗戦と収容所の解放が同時に発生するというのは、当事者たちは予測していなかったんでしょうか。。。。ね。
>う~ん。ヨーロッパ中で起こった話ですね。
この辺がヴィト様節wwwと自分は感じてるんですが。
犠牲者の方々は、本当にお気の毒ですね。合掌です。
by IZM (2015-05-04 18:49)
ど~も、IZMさん。
今日の一般紙でも「メルケル独首相がダッハウの式典に出席して・・」って報道しているくらいですからねぇ。
意識してなかったけど、タイミングは絶妙になりました。
上のコメントで書いた本を読んでるところですけど、結局、2年も3年も閉じ込められて、平和だった以前の母国での暮らしを日々、夢見ていたのに、いざ解放されてみたら、帰国もままならない、とりあえず食いたい、酒呑みたい、時間があるからついでに復讐したい・・と、暴徒化したなんて。。
ヴィト節ってのは、しょぼい感想とか、自分突っ込みのコトですか??
なんか昨日の夜、アクセス数が以上に多くて、今確認してみたら「世界まる見えTV特捜部」でナチスとUFOをやってたらしいです。
日本は平和だなぁ。。
by ヴィトゲンシュタイン (2015-05-05 06:40)
今朝の新聞でロシアのオートバイクラブ「ナイトウルフ」が爆音とロシア国旗を翻しながらダッハウ収容所に駆けつけ、ロウソクを灯してお祈りして去っていったという記事が載っていました。w 不良がちょっと良い事するとすごく良いことしてるように感じるのは万国共通なのですね。
解放コンプレックスって初めて聞きましたが、理想と現実の物理的問題がかみ合わないと人はちょっとおかしくなってしまいますね。。。そういえば小泉政権下で、テロリストに誘拐されて、その後開放・帰国できたあかつきに日本政府を訴えたとかありましたっけ。・・・あれはでもちょっとケースが違うかな。
>ヴィト節ってのは、
いや、味のある突っ込みだと思って読んでいるんですが。ワタシが勝手にそう感じているだけなので、どうぞお気になさらずに。
>「世界まる見えTV特捜部」
今でもやっているんですか? 懐かしい響き!!www
by IZM (2015-05-05 15:02)
へ~、ちょっとググったら「ナイトウルフ」ってプーチンのお墨付きの愛国者バイク野郎で、暴走族というより「コサック化」しているんだそうな・・。意味不明。
全然関係ない話なんですけど、30年は使ってた「爪切り」がいま壊れちゃって、急遽買おうと思ってるんですが、これが実は裁縫用の「糸切りはさみ」なんですよ。なんか切るのにちょうど良いんですよね。
コレって変ですか?? 裁縫マニアのIZMさん?
ちなみに同じようなコレ買うつもりです。
http://www.amazon.co.jp/Clover-36-668-%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%81%AF%E3%81%95%E3%81%BF-%E3%82%BD%E3%83%AA%E5%88%83-%EF%BC%91%EF%BC%91%EF%BC%95/dp/B001I3OL12/ref=pd_sim_home_1?ie=UTF8&refRID=12PA9EZ7H76SM4HRETQ5
by ヴィトゲンシュタイン (2015-05-05 19:31)
前の前の分は、嬉しさのあまり名前を入れ忘れ、失礼しました(^^;
ホロコーストで一番印象に残っているのは、ドキュメンタリー映画「ショアー」です。
アウシュビッツ行きの路線は、まだ蒸気機関車を走らせることは出来るみたいで、監督が手配して、当時の機関士を乗せて空の貨物車を曳かせ、運行させたんですが……
件のじいさん機関士、一旦停車の場所で、機関車の窓から身を乗り出して貨物車を振り向き、立てた親指を自分の喉に当て、ゆっくり横一文字に引いて見せた。
凝然としました。
じいさん、やってたんですね。
毎回。
同じ場所で。
もう、条件反射になるまで。
後からカメラの前で「ユダヤ人に警告してやってたんだ」とか言ってましたが、あれは「ざまを見ろ」って顔にしか、感じられませんでした。
ホロコーストは、ほぼ「ナチがみーんな悪いのよ」で手打ちになってますが、傍観者の存在も、記憶されるべきだと思います。
でも、自分が傍観者だったら……
じいさんの側に立たず、納屋にユダヤ人や社会主義者を匿うことが、果たしてできるでしょうか。
答えるのが、難しい問いです。
by トイフェル (2015-05-08 02:58)
実はホロコーストもの読むのに本書か、「ショアー(全テクストの翻訳)」にするかちょっと悩んだんです。他にも候補があったり。。
で、映画「ショアー」観てないんですよねぇ。
いまamazonで見たらDVD5枚組で、計9時間・・。
さらに中古しかなくて、お値段12万円也。。
その機関車じいさんはDVDパッケージの爺さんでしょうか??
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A2-DVD-%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%83%9E%E3%83%B3/dp/B000244RS0/ref=sr_1_2?ie=UTF8&qid=1431048278&sr=8-2&keywords=%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A2%E3%83%BC
by ヴィトゲンシュタイン (2015-05-08 10:32)
まさに、このじいさん!
既にヒストリーchは「ナチ祭り」状態で、ソビボルの脱走とかもやってますから、またやるかもしれません。
あとは、最終兵器・国会図書館とか……
by トイフェル (2015-05-08 12:57)
>ソビボルの脱走とかもやってますから
マジすか。見逃したなぁ。
今日はベトナム祭りのようで、映画「ウィンター・ソルジャー ベトナム帰還兵の告白」とか、「ソンミ村 虐殺の真実」を録画します。
by ヴィトゲンシュタイン (2015-05-08 18:40)
ヴィトゲンシュタイン様、お久しぶりです!
あぁ!!!!
復活されたのですね。
すみません!!!
凄く出遅れております。
あんまり嬉しくて
あんまり驚いたので
好きな(?)ホロコーストネタ(←不謹慎な!)にも関わらず
読む前に御挨拶を。
ところでヒストリーchってなんですか?
by しゅり (2015-05-13 07:35)
ど~も、しゅりさん。こんにちは。
まぁ。復活って言っても、完全復活じゃないから、常連さんにも宣伝してないんですよ。こうやって気づいてもらえるのを楽しんでるんです。
ヒストリーchってのは、CSの歴史エンタテイメントの専門チャンネル「ヒストリー・チャンネル」のことです。
https://www.historychannel.co.jp/
では、またコメント、お待ちしておりますです。
by ヴィトゲンシュタイン (2015-05-13 11:49)