クルスクの戦い1943: 独ソ「史上最大の戦車戦」の実相 [戦記]
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
デニス・ショウォルター著の「クルスクの戦い1943」を読破しました。
クルスクなんとか・・というタイトルの本は数多くありますが、今回は3月に出た新刊です。
410ページのハードカバーで、米国軍事史学会会長を務めたという著者の本は、
以前に「パットン対ロンメル」を紹介しましたね。
まぁ、あの本も邦題が詐欺みたいなもので、原題は「PATTON AND ROMMEL」。。
今回も原題は「ARMOR AND BLOOD」=「装甲と犠牲」といった感じであり、
クルスク戦に詳しい戦史好きなら、何かこう、グッ・・と来るものがあると思います。
第1章はまず、1943年初頭からの東部戦線を簡単に振り返ります。
スターリングラード~ハリコフと続いた激戦であり、そこには必ずマンシュタインの姿が・・。
過去に読んできたクルスクものでも大概はこのような出だしに始まるもので、
コレは「クルスク大屈曲部」と呼ばれるイビツな戦線が出来上がってしまった経緯と、
なぜソレがドイツ軍にとって戦略的目標になったのかを理解する必要があるからです。
一方でソ連軍についても充分にページを割き、特に戦車兵についての記述を抜粋しましょう。
「ソ連では戦争中に40万人の戦車兵が養成された。戦闘で30万人以上が死んだ。
この戦死率はナチのUボート乗組員の損害に匹敵する。しかし、その数は10倍多い。
NKVDの敵前逃亡兵銃殺隊が戦車部隊に同行することは滅多になかった。戦車兵は、
どうせ死ぬのなら、なるだけ多くのヒトラー主義者を道連れにしてやろうという決意である」
54ページから第2章「準備」です。
ロンメルが精神的にも、肉体的にもぼろぼろだった1943年3月・・。
一度、罷免されていたグデーリアンが装甲兵総監として復活します。
彼は酷使されてきた機械化兵力の再建が必要であり、1943年中の大規模攻勢には大反対。
自走砲、突撃砲、新世代重戦車によって編成された師団を以て、しかる後に東部を叩くべき・・。
しかし東部戦線の第一人者にしてカリスマ的な南方軍集団司令官マンシュタインは、
赤軍の増大しつつある数量と有効性をグデーリアンは無視しすぎていると思っているのです。
5月4日には「ツィタデレ作戦」の踏ん切りがつかないヒトラーが関係者を集めます。
ヒトラーの意見は第9軍のモーデルと同じく、クルスクの防御陣地と塹壕線を突破するには
さらなる装甲車両が必要なため、それまで延期・・というもので、
マンシュタインはその強化で時間を失うより、突破のための歩兵を2個師団増やすことを要請。
なるほど、セヴァストポリ要塞攻略でも、なんやかんや歩兵が活躍しましたからね。
続いてクルーゲが延期に強く反対し、モーデルはソ連軍戦力を拡張しており、
遅延は自分の中央軍集団正面の危険を高めることになると警告するものの、
ヒトラーに「悲観主義者は君だ」と言われて黙り込んでしまいます。
そしてグデーリアンは臆することなく「ツィタデレは不毛の作戦だ」と発言し、
初期トラブルに見舞われているパンターは当てにすべきではないし・・。
結局、7月まで延期・・と決定したヒトラー。
各戦区ではツィタデレ作戦の準備が始まり、北部を受け持つ第9軍の内訳も・・。
歩兵4個師団を擁する第20軍団が右翼に、
その隣に屈指の精鋭が揃った4個歩兵師団からなる第46装甲軍団、
重心の攻撃はレーメルゼンの第47装甲軍団が、その隣にハルペの第41装甲軍団。
東端に第23軍団と、33万の兵員、フェルディナンド、ティーガーを含む600両の戦車に
300両の突撃砲という布陣です。
南部はめでたいことに本日、4月12日が誕生日であるヘルマン・ホトの第4装甲軍です。
新品のパンター200両を持つクノーベルスドルフの第48装甲軍団の中核は
これまた精鋭中の精鋭グロースドイッチュランドであり、
ハウサーの第2SS装甲軍団はライプシュタンダルテ、ダス・ライヒ、トーテンコップの
3個武装SS師団という強力な軍団です。ティーガー42両を含む500両の戦車と突撃砲を保有。
確かに軍団というレベルではこの当時、ドイツ軍最強軍団といっても良さそうですね。
下の写真は ↓ グロースドイッチュランドを見上げて閲兵するホト爺さんです。カワイイなぁ。
さらにホトの右には9個師団からなるケンプフ軍支隊が布陣。その内の3個は装甲師団であり、
この第3装甲軍団を指揮するのは新人高級将校のヘルマン・ブライト。
スパイ「ルーシー」や、英国の「ウルトラ」からドイツ軍の情報を得ていたソ連。
最高司令部スタフカの「難問処理係」であるジューコフは、スターリンを説得します。
「ハリコフの再現を招かぬよう塹壕を掘り、守りを固め、装甲部隊は直接作戦地域の外に配置、
ドイツ軍を、ドイツ軍戦車を消耗させ、しかる後に本格的な反撃に転じるべきである」。
しかしスターリンはドイツとの単独講和の可能性を真剣に考えていた証拠があるとします。
ドイツには不可能なほどの兵力補給能力ですら、その人的、物的資源は無限ではありません。
スウェーデンで始まった外交官同士の間接的な接触はこの年いっぱい続き、
たとえ単独講和が一時的なものであっても、ソ連に回復の時間を与え、
西側連合軍が約束している第2戦線が築かれない現状では、戦闘停止をリークすることで、
英米の作戦ペースを速めることができるかもしれない。
そしてドイツと西側連合軍が戦争を続けても、高みの見物中のソ連には利益しかないのです。
4月半ばから始まった要塞化には250個の工兵中隊、ほとんどが女性の30万人以上の民間人が
駆り出されて、6月まで続き、320㌔に近い幅は戦争史上未曾有の規模であって、
今後もコレを超えるものは恐らく現れないだろう・・としています。
そしてこの防御地帯では100万の兵力を吸収し、2万門の火砲、3300両の戦車、
カチューシャ・ロケット300基、64万個の地雷が待ち構えているのでした。
まぁ、凄そうなことはわかりますが、すべての規模が大きすぎて、逆に伝わってきませんね。。
ついでにスターリンはスタフカの代表として、ロコソフスキーの中央方面軍にジューコフを
バトゥーチンのヴォロネジ方面軍に参謀総長のワシレフスキーを送り込むのでした。
102ページから第3章の「打撃」。7月5日、独ソの大兵力が遂にど突き合いを始めます。
まずはモーデルの北部戦区の状況が語られますが、あまりに細かいので割愛・・。
その代わり、この初期段階における著者のモーデル評を紹介しましょう。
「彼は意志の力で第9軍を前進させようとして過ごした。
空襲から身をかわして麾下各司令部を回り、午後は第2装甲師団と話しを付けるために使った。
モーデルは大隊の指揮官をしていた方が良かったかも知れない。
この状況が必要としていたのは戦闘の管理者であって、戦闘現場の大尉ではなかった。
干渉より管理が必要であり、司令官が戦線を回っている間に、
束の間の好機は進展させられずに消えた」。
なかなか手厳しい批評ですが、著者はこのように前提条件を表明しています。
「後から考察し、後知恵で批判するのが、軍事史の常套手段である」。
細かい戦記に負けずに細かく読んだヴィトゲンシュタインは、ちょっとした間違いにも・・。
第9軍に配属されたティーガーを保有する「第505戦車大隊(第505重戦車大隊)」が一ヶ所だけ、
「第505装甲師団」という部隊名で出てきます。
この重戦車大隊で言うと、南部のケンプフ軍支隊に配属された「第503重戦車大隊」は、
「第503装甲大隊」で統一されていました。誤訳か原著の表記の問題かは不明なり・・。
間違い探しのお好きな方は、その他の部隊についても頑張ってみてください。
続いてその南部戦区の激闘の様子。
しかしここまで登場する独ソ双方の軍人は、基本的に軍団長までです。
これは軍集団、軍、軍団、師団、連隊という単位からすれば妥当だとも言えるでしょう。
師団長までわさわさ登場して来たら収拾がつかなくなる気もする一方で、
戦闘が細かく記述されるライプシュタンダルテや、グロースドイッチュランドの師団長名くらい
書かれていても良いんじゃないか・・とも思いました。
例外的にはグロースドイッチュランドの戦車指揮官、伯爵シュトラハヴィッツ・・。
さすが「戦車伯爵」の貫録ですね。
ハウサーの第2SS装甲軍団の成り立ち、武装SSの3個師団の概要は以下のとおりです。
「SS流は向こう見ずのエネルギーと無慈悲であり、不屈の積極果敢であり、
速度と獰猛性重視していた。SSの訓練は身体的頑丈さに重点を置き、
軍の訓練を遥かに上回るほどの危険を組み込んでいた。
バルバロッサまではその実力を発揮できず、スターリングラード後まで2軍的存在だった。
クルスクで初めて東部戦線の戦闘に決定的役割を果たし始めたのである」。
そんな武装SSの兵士たちは塹壕戦、掩蔽壕一つ一つを白兵戦で奪取していきます。
ダス・ライヒの火炎放射手はこのように語ります。
「炎が前に押し広がり、ロシアの防御兵たちを包み込むのを見るのは怖かった」。
また別の退役軍人が著者に語ったこと。
「あの時以来、自分はローストビーフの臭いに堪えられなくなった」。
この戦いは地上戦だけでなく、激しい航空戦も繰り広げられています。
赤色空軍はタフな地上攻撃機 Il-2「シュトゥルモヴィーク」でドイツ軍前線を脅かし、
片やドイツ空軍はシュトゥーカ急降下爆撃機とHs-129bがソ連軍戦車を狙い撃ちにするのです。
そして護衛の戦闘機同士、YakとMe-109の空中戦へ・・。
ここまで半分ほど、第4章「取っ組み合い」まで読んで思いましたが、
朝日ソノラマの「クルスク大戦車戦」と展開的には同じですね。
ただし、こちらの方がボリュームがあるというか、より細かく、マニア向けのように感じます。
ちなみに戦況図は必要な箇所に11枚、
写真は巻頭に以前に紹介したマンシュタインとホトが協議する写真など14枚です。
いよいよ第6章「激闘」。通ならお分かりのようにプロホロフカへと進んでいきます。
状況を検討するためホトとケンプフに会ったマンシュタインはこう言います。
「ツィタデレは断片化しつつある。北部戦区で第9軍が行き詰っているとしたら、
そして南部戦区でも敵兵力の急速な増大があるとしたら、
南方軍集団の攻撃も中止すべき時ではないか?」
ホトは攻撃の続行を勧めますが、今はクルスクに手が届かないのだというマンシュタインの
本音を察したので、もっと限定された目標を示唆します。
しかしケンプフがそれほど楽観的ではないと知るや、ホトはケンプフを悲観論者呼ばわり・・。
いや~面白くなってまいりました。
個人的には前線司令部の、司令官たちの生々しい討議、毒々しい議論が好きです。。
マンシュタインは回想録で自分より年長であるホトについて、好意的に語っていましたが、
本書で紹介される2人の関係性と作戦指導における切り分けは、
南部戦区全体の戦略を決めるのは当然、軍集団司令官たるマンシュタインで、
具体的な戦術、作戦を決めるのが軍集団の中核である第4装甲軍のホト。
そしてそのホトの提示した作戦案をほぼほぼマンシュタインは了解しています。
またケンプフ軍支隊の直接的な協力も不可欠であり、
その関係を維持するのにマンシュタインの存在が重要です。
そんなケンプフ軍支隊の重要なブライトの第3装甲軍団による夜間作戦が始まります。
ティーガーも含む戦車2個中隊の戦闘団を率いるのは、最強の歯科医ベーケ少佐です。
しかしこの夜間に重要なのは先頭を行く鹵獲したT-34戦車2両であり、
途中で出会ったソ連軍の隊列もドイツ軍とは気づかずに、気前よく場所を開けるのでした。
またこの軍団の中核には、あの第6装甲師団がいて、師団長のヒューナースドルフが登場。
しかしその司令部が味方He-111の誤爆に見舞われて、50名が死亡か負傷・・。
そのなかには師団長も含まれるのでした。
このあたりになると戦闘が局地化しているせいか、最前線の隊長クラスの名が出てきますね。
ソ連側では、体形が男子より小さいことから、T-34の窮屈な操縦室に楽に収まることの出来た
という女性戦車兵も。
とりわけ車長/砲手としてティーガー3両撃破したというアレクサンドラ・サムセンコ大尉を紹介し、
彼女がソ連軍で唯一の女性戦車副大隊長になったものの、
ベルリン攻撃の途中で戦死という経歴が・・。
こうして7月12日の朝を迎え、「目にしたものに私は言葉を失った・・。
現れた戦車群は15両、30両、40両と次第に数を増し、我々に向かって高速で突進してきた」
と回想するのは、ライプシュタンダルテの戦車中隊長、ルドルフ・フォン・リッベントロップです。
7両のⅣ号戦車が互いに援護しながら、90m以下の射程で敵戦車の側面を狙います。
第2SS装甲軍団長ハウサーは、この脅威に対して航空支援を要請。
そしてコレに応えて、敵戦車12両撃破するのは、「ソ連人民最大の敵」こと、ルーデルです。
リッベントロップ自身も14両を撃破し、生き残ったもう1両も7両撃破・・。
しかし直後にソ連軍戦車の攻撃力が落ちたのは、彼らの頑張りだけが理由ではなく、
もともとティーガーのために掘られていた深さ4.5mの戦車壕に
自ら突っ込んでいったからなのでした・・。
別の場所では100両のソ連戦車が殺到。
ここでドイツ外相の御子息を上回るヒーローとなるのは伝説のティーガー乗り、ヴィットマンです。
またソ連戦車兵の偉大な逸話として「クルスク大戦車戦」のクライマックスでも描かれていた、
炎上したT-34に操縦手が再度乗り込み、ティーガーに突進して双方大爆発・・というヤツですが、
ドイツ軍側の話によると、「炎が両方の戦車を包んだとき、ティーガーは突然後退した。
5m先でT-34が爆発した。車体の損害は塗装に少しひっかき傷がついた程度だった」
歴戦のライプシュタンダルテは戦車兵だけでなく、擲弾兵も踏ん張ってます。
そのまま引用しましょう。
「ソ連軍がライプシュタンダルテの装甲擲弾兵大隊本部を制圧した。
その大隊長で、後に悪名を高めたヨッヘン・パイパーは自ら手榴弾の束でT-34を仕留めた。
これは武装SS内でも、先任将校が通常やるような任務ではなかった」。
他にも第170戦車旅団との白兵戦では、「その旅団長はあるSS将校との格闘で殺された」と。
隣りの戦区ではダス・ライヒが激戦中・・。
鹵獲したT-34による即席中隊を効果的に利用し、内側から学んだT-34の脆弱点・・、
側面と外部燃料タンクを標的にして、50両すべての戦車を短時間で炎上させるのでした。
もう一つの武装SS師団トーテンコップも疲労困憊です。
こうしてプロホロフカを巡る戦車戦はSS軍団が手詰まりに追い込まれたことで終わりを告げ、
オリジナルのソ連版神話では、「独ソあわせて1500両以上の戦車が
幅5㌔の土俵でがっぷり組み合い、一日の終わりにはティーガー70両を含む
400両のドイツ軍戦車があちこちに散在していた。
ソ連側の損害もおおよそ同等・・」と語られます。
しかしドイツ軍側の資料では、ライプシュタンダルテとダス・ライヒがこの日に利用できたAFVは
合わせて200両に過ぎず、全損はわずかに1両・・。
他方、ソ連軍装甲車両300両が撃破されているとしています。
この後は翌日に始まったモーデル軍に対するソ連の攻勢「クトゥーゾフ作戦」が詳細に書かれ、
ヒトラーから呼び出された両軍集団司令官と、そこで休養していたロンメルとの対話。
クルーゲはオリョール危機が解決してももはやツィタデレ終わった・・と考えているのに対して、
マンシュタインは、この1週間でソ連戦車1800両を撃破しており、
もし第9軍が前線を維持できるならば、そしてOKWの予備である第24装甲軍団を
ケンプフ軍支隊に派遣できるならば、自分の戦区でソ連軍を撃破できると進言します。
しかしムッソリーニが逮捕されたことで、ライプシュタンダルテはイタリア派遣となり、
グロースドイッチュランドはすぐに第一線から引揚げられて、苦戦中の中央軍集団へ・・。
最後の「結び」の章では、クルスク戦全体を総括します。
ソ連側は「2800両のAFVを破壊した」と主張しているものの、
ドイツの公文書の数字では「約250両」であり、ティーガーも10両に過ぎません。
また、ソ連側の自軍の損害は「1600両~2000両」となっていて、
両軍の損害比は「8対1」となるとしています。
ドイツ軍の整備班も負けず劣らず働いてますからねぇ。
人的損害になると、ドイツ軍の死者、負傷者、行方不明者が5万4000人。
ソ連側は32万人を超えているそうです。ティーガーは「戦闘の達人」であり、
悪口を言われることの多いフェルディナンドも第9軍戦区で「あっぱれ忠勤を励んだ」と、
「ヤークトパンター戦車隊戦闘記録集」と同じ評価ですね。
それでも最大の激戦地プロホロフカで武装SSが戦術的勝利を収め、
ここがティーガーの墓場ではなく、T-34のガラクタ置き場になったにしても、
ソ連軍は持ちこたえ、ドイツ軍は膝を屈したのだと・・。
ソ連の物量、そして北部、続いて起こった南部戦区に対するソ連の攻勢に
ドイツ軍は撤退を続けていくことになるのです。
410ページの本書は、後半71ページが人名、地名、部隊索引と原注になっています。
この原注の参考文献ですが、邦訳されていない書籍でも著者とタイトルを和名で記してあり、
珍しいというか、有難いというか、邦訳して欲しい気持ちが強くなって逆にイラつく・・というか。。
本書のクルスク戦記としての特徴を一言でいうなら「意図」です。
ドイツの軍司令官が、またはソ連の方面軍司令官各々が、どのような意図をもって
攻撃し、或いは防御し、予備部隊を繰り出したのか・・。
そしてその各々の「意図」は、実際にはどのように展開し、日々どのような終息を迎えたのか。
1日はこのように進み、翌日はまた新たな「意図」をもって、戦線が開かれるというわけです。
率直に、戦況図が載っているとはいえ、クルスク・デビュー戦の方が読む本ではありません。
人名、地名、部隊索引だけで13ページもあるわけですから、
ある程度のことを知っている戦史マニア向けの一冊と言えるでしょう。
今回は時間的にできませんでしたが、もし再読する際には、
大型写真集の2冊、「クルスクの戦い -戦場写真集 南部戦区1943年7月-」、
「続・クルスクの戦い -戦場写真集北部戦区1943年7月-」と突合しながら
ジックリと読んでみたいですね。
デニス・ショウォルター著の「クルスクの戦い1943」を読破しました。
クルスクなんとか・・というタイトルの本は数多くありますが、今回は3月に出た新刊です。
410ページのハードカバーで、米国軍事史学会会長を務めたという著者の本は、
以前に「パットン対ロンメル」を紹介しましたね。
まぁ、あの本も邦題が詐欺みたいなもので、原題は「PATTON AND ROMMEL」。。
今回も原題は「ARMOR AND BLOOD」=「装甲と犠牲」といった感じであり、
クルスク戦に詳しい戦史好きなら、何かこう、グッ・・と来るものがあると思います。
第1章はまず、1943年初頭からの東部戦線を簡単に振り返ります。
スターリングラード~ハリコフと続いた激戦であり、そこには必ずマンシュタインの姿が・・。
過去に読んできたクルスクものでも大概はこのような出だしに始まるもので、
コレは「クルスク大屈曲部」と呼ばれるイビツな戦線が出来上がってしまった経緯と、
なぜソレがドイツ軍にとって戦略的目標になったのかを理解する必要があるからです。
一方でソ連軍についても充分にページを割き、特に戦車兵についての記述を抜粋しましょう。
「ソ連では戦争中に40万人の戦車兵が養成された。戦闘で30万人以上が死んだ。
この戦死率はナチのUボート乗組員の損害に匹敵する。しかし、その数は10倍多い。
NKVDの敵前逃亡兵銃殺隊が戦車部隊に同行することは滅多になかった。戦車兵は、
どうせ死ぬのなら、なるだけ多くのヒトラー主義者を道連れにしてやろうという決意である」
54ページから第2章「準備」です。
ロンメルが精神的にも、肉体的にもぼろぼろだった1943年3月・・。
一度、罷免されていたグデーリアンが装甲兵総監として復活します。
彼は酷使されてきた機械化兵力の再建が必要であり、1943年中の大規模攻勢には大反対。
自走砲、突撃砲、新世代重戦車によって編成された師団を以て、しかる後に東部を叩くべき・・。
しかし東部戦線の第一人者にしてカリスマ的な南方軍集団司令官マンシュタインは、
赤軍の増大しつつある数量と有効性をグデーリアンは無視しすぎていると思っているのです。
5月4日には「ツィタデレ作戦」の踏ん切りがつかないヒトラーが関係者を集めます。
ヒトラーの意見は第9軍のモーデルと同じく、クルスクの防御陣地と塹壕線を突破するには
さらなる装甲車両が必要なため、それまで延期・・というもので、
マンシュタインはその強化で時間を失うより、突破のための歩兵を2個師団増やすことを要請。
なるほど、セヴァストポリ要塞攻略でも、なんやかんや歩兵が活躍しましたからね。
続いてクルーゲが延期に強く反対し、モーデルはソ連軍戦力を拡張しており、
遅延は自分の中央軍集団正面の危険を高めることになると警告するものの、
ヒトラーに「悲観主義者は君だ」と言われて黙り込んでしまいます。
そしてグデーリアンは臆することなく「ツィタデレは不毛の作戦だ」と発言し、
初期トラブルに見舞われているパンターは当てにすべきではないし・・。
結局、7月まで延期・・と決定したヒトラー。
各戦区ではツィタデレ作戦の準備が始まり、北部を受け持つ第9軍の内訳も・・。
歩兵4個師団を擁する第20軍団が右翼に、
その隣に屈指の精鋭が揃った4個歩兵師団からなる第46装甲軍団、
重心の攻撃はレーメルゼンの第47装甲軍団が、その隣にハルペの第41装甲軍団。
東端に第23軍団と、33万の兵員、フェルディナンド、ティーガーを含む600両の戦車に
300両の突撃砲という布陣です。
南部はめでたいことに本日、4月12日が誕生日であるヘルマン・ホトの第4装甲軍です。
新品のパンター200両を持つクノーベルスドルフの第48装甲軍団の中核は
これまた精鋭中の精鋭グロースドイッチュランドであり、
ハウサーの第2SS装甲軍団はライプシュタンダルテ、ダス・ライヒ、トーテンコップの
3個武装SS師団という強力な軍団です。ティーガー42両を含む500両の戦車と突撃砲を保有。
確かに軍団というレベルではこの当時、ドイツ軍最強軍団といっても良さそうですね。
下の写真は ↓ グロースドイッチュランドを見上げて閲兵するホト爺さんです。カワイイなぁ。
さらにホトの右には9個師団からなるケンプフ軍支隊が布陣。その内の3個は装甲師団であり、
この第3装甲軍団を指揮するのは新人高級将校のヘルマン・ブライト。
スパイ「ルーシー」や、英国の「ウルトラ」からドイツ軍の情報を得ていたソ連。
最高司令部スタフカの「難問処理係」であるジューコフは、スターリンを説得します。
「ハリコフの再現を招かぬよう塹壕を掘り、守りを固め、装甲部隊は直接作戦地域の外に配置、
ドイツ軍を、ドイツ軍戦車を消耗させ、しかる後に本格的な反撃に転じるべきである」。
しかしスターリンはドイツとの単独講和の可能性を真剣に考えていた証拠があるとします。
ドイツには不可能なほどの兵力補給能力ですら、その人的、物的資源は無限ではありません。
スウェーデンで始まった外交官同士の間接的な接触はこの年いっぱい続き、
たとえ単独講和が一時的なものであっても、ソ連に回復の時間を与え、
西側連合軍が約束している第2戦線が築かれない現状では、戦闘停止をリークすることで、
英米の作戦ペースを速めることができるかもしれない。
そしてドイツと西側連合軍が戦争を続けても、高みの見物中のソ連には利益しかないのです。
4月半ばから始まった要塞化には250個の工兵中隊、ほとんどが女性の30万人以上の民間人が
駆り出されて、6月まで続き、320㌔に近い幅は戦争史上未曾有の規模であって、
今後もコレを超えるものは恐らく現れないだろう・・としています。
そしてこの防御地帯では100万の兵力を吸収し、2万門の火砲、3300両の戦車、
カチューシャ・ロケット300基、64万個の地雷が待ち構えているのでした。
まぁ、凄そうなことはわかりますが、すべての規模が大きすぎて、逆に伝わってきませんね。。
ついでにスターリンはスタフカの代表として、ロコソフスキーの中央方面軍にジューコフを
バトゥーチンのヴォロネジ方面軍に参謀総長のワシレフスキーを送り込むのでした。
102ページから第3章の「打撃」。7月5日、独ソの大兵力が遂にど突き合いを始めます。
まずはモーデルの北部戦区の状況が語られますが、あまりに細かいので割愛・・。
その代わり、この初期段階における著者のモーデル評を紹介しましょう。
「彼は意志の力で第9軍を前進させようとして過ごした。
空襲から身をかわして麾下各司令部を回り、午後は第2装甲師団と話しを付けるために使った。
モーデルは大隊の指揮官をしていた方が良かったかも知れない。
この状況が必要としていたのは戦闘の管理者であって、戦闘現場の大尉ではなかった。
干渉より管理が必要であり、司令官が戦線を回っている間に、
束の間の好機は進展させられずに消えた」。
なかなか手厳しい批評ですが、著者はこのように前提条件を表明しています。
「後から考察し、後知恵で批判するのが、軍事史の常套手段である」。
細かい戦記に負けずに細かく読んだヴィトゲンシュタインは、ちょっとした間違いにも・・。
第9軍に配属されたティーガーを保有する「第505戦車大隊(第505重戦車大隊)」が一ヶ所だけ、
「第505装甲師団」という部隊名で出てきます。
この重戦車大隊で言うと、南部のケンプフ軍支隊に配属された「第503重戦車大隊」は、
「第503装甲大隊」で統一されていました。誤訳か原著の表記の問題かは不明なり・・。
間違い探しのお好きな方は、その他の部隊についても頑張ってみてください。
続いてその南部戦区の激闘の様子。
しかしここまで登場する独ソ双方の軍人は、基本的に軍団長までです。
これは軍集団、軍、軍団、師団、連隊という単位からすれば妥当だとも言えるでしょう。
師団長までわさわさ登場して来たら収拾がつかなくなる気もする一方で、
戦闘が細かく記述されるライプシュタンダルテや、グロースドイッチュランドの師団長名くらい
書かれていても良いんじゃないか・・とも思いました。
例外的にはグロースドイッチュランドの戦車指揮官、伯爵シュトラハヴィッツ・・。
さすが「戦車伯爵」の貫録ですね。
ハウサーの第2SS装甲軍団の成り立ち、武装SSの3個師団の概要は以下のとおりです。
「SS流は向こう見ずのエネルギーと無慈悲であり、不屈の積極果敢であり、
速度と獰猛性重視していた。SSの訓練は身体的頑丈さに重点を置き、
軍の訓練を遥かに上回るほどの危険を組み込んでいた。
バルバロッサまではその実力を発揮できず、スターリングラード後まで2軍的存在だった。
クルスクで初めて東部戦線の戦闘に決定的役割を果たし始めたのである」。
そんな武装SSの兵士たちは塹壕戦、掩蔽壕一つ一つを白兵戦で奪取していきます。
ダス・ライヒの火炎放射手はこのように語ります。
「炎が前に押し広がり、ロシアの防御兵たちを包み込むのを見るのは怖かった」。
また別の退役軍人が著者に語ったこと。
「あの時以来、自分はローストビーフの臭いに堪えられなくなった」。
この戦いは地上戦だけでなく、激しい航空戦も繰り広げられています。
赤色空軍はタフな地上攻撃機 Il-2「シュトゥルモヴィーク」でドイツ軍前線を脅かし、
片やドイツ空軍はシュトゥーカ急降下爆撃機とHs-129bがソ連軍戦車を狙い撃ちにするのです。
そして護衛の戦闘機同士、YakとMe-109の空中戦へ・・。
ここまで半分ほど、第4章「取っ組み合い」まで読んで思いましたが、
朝日ソノラマの「クルスク大戦車戦」と展開的には同じですね。
ただし、こちらの方がボリュームがあるというか、より細かく、マニア向けのように感じます。
ちなみに戦況図は必要な箇所に11枚、
写真は巻頭に以前に紹介したマンシュタインとホトが協議する写真など14枚です。
いよいよ第6章「激闘」。通ならお分かりのようにプロホロフカへと進んでいきます。
状況を検討するためホトとケンプフに会ったマンシュタインはこう言います。
「ツィタデレは断片化しつつある。北部戦区で第9軍が行き詰っているとしたら、
そして南部戦区でも敵兵力の急速な増大があるとしたら、
南方軍集団の攻撃も中止すべき時ではないか?」
ホトは攻撃の続行を勧めますが、今はクルスクに手が届かないのだというマンシュタインの
本音を察したので、もっと限定された目標を示唆します。
しかしケンプフがそれほど楽観的ではないと知るや、ホトはケンプフを悲観論者呼ばわり・・。
いや~面白くなってまいりました。
個人的には前線司令部の、司令官たちの生々しい討議、毒々しい議論が好きです。。
マンシュタインは回想録で自分より年長であるホトについて、好意的に語っていましたが、
本書で紹介される2人の関係性と作戦指導における切り分けは、
南部戦区全体の戦略を決めるのは当然、軍集団司令官たるマンシュタインで、
具体的な戦術、作戦を決めるのが軍集団の中核である第4装甲軍のホト。
そしてそのホトの提示した作戦案をほぼほぼマンシュタインは了解しています。
またケンプフ軍支隊の直接的な協力も不可欠であり、
その関係を維持するのにマンシュタインの存在が重要です。
そんなケンプフ軍支隊の重要なブライトの第3装甲軍団による夜間作戦が始まります。
ティーガーも含む戦車2個中隊の戦闘団を率いるのは、最強の歯科医ベーケ少佐です。
しかしこの夜間に重要なのは先頭を行く鹵獲したT-34戦車2両であり、
途中で出会ったソ連軍の隊列もドイツ軍とは気づかずに、気前よく場所を開けるのでした。
またこの軍団の中核には、あの第6装甲師団がいて、師団長のヒューナースドルフが登場。
しかしその司令部が味方He-111の誤爆に見舞われて、50名が死亡か負傷・・。
そのなかには師団長も含まれるのでした。
このあたりになると戦闘が局地化しているせいか、最前線の隊長クラスの名が出てきますね。
ソ連側では、体形が男子より小さいことから、T-34の窮屈な操縦室に楽に収まることの出来た
という女性戦車兵も。
とりわけ車長/砲手としてティーガー3両撃破したというアレクサンドラ・サムセンコ大尉を紹介し、
彼女がソ連軍で唯一の女性戦車副大隊長になったものの、
ベルリン攻撃の途中で戦死という経歴が・・。
こうして7月12日の朝を迎え、「目にしたものに私は言葉を失った・・。
現れた戦車群は15両、30両、40両と次第に数を増し、我々に向かって高速で突進してきた」
と回想するのは、ライプシュタンダルテの戦車中隊長、ルドルフ・フォン・リッベントロップです。
7両のⅣ号戦車が互いに援護しながら、90m以下の射程で敵戦車の側面を狙います。
第2SS装甲軍団長ハウサーは、この脅威に対して航空支援を要請。
そしてコレに応えて、敵戦車12両撃破するのは、「ソ連人民最大の敵」こと、ルーデルです。
リッベントロップ自身も14両を撃破し、生き残ったもう1両も7両撃破・・。
しかし直後にソ連軍戦車の攻撃力が落ちたのは、彼らの頑張りだけが理由ではなく、
もともとティーガーのために掘られていた深さ4.5mの戦車壕に
自ら突っ込んでいったからなのでした・・。
別の場所では100両のソ連戦車が殺到。
ここでドイツ外相の御子息を上回るヒーローとなるのは伝説のティーガー乗り、ヴィットマンです。
またソ連戦車兵の偉大な逸話として「クルスク大戦車戦」のクライマックスでも描かれていた、
炎上したT-34に操縦手が再度乗り込み、ティーガーに突進して双方大爆発・・というヤツですが、
ドイツ軍側の話によると、「炎が両方の戦車を包んだとき、ティーガーは突然後退した。
5m先でT-34が爆発した。車体の損害は塗装に少しひっかき傷がついた程度だった」
歴戦のライプシュタンダルテは戦車兵だけでなく、擲弾兵も踏ん張ってます。
そのまま引用しましょう。
「ソ連軍がライプシュタンダルテの装甲擲弾兵大隊本部を制圧した。
その大隊長で、後に悪名を高めたヨッヘン・パイパーは自ら手榴弾の束でT-34を仕留めた。
これは武装SS内でも、先任将校が通常やるような任務ではなかった」。
他にも第170戦車旅団との白兵戦では、「その旅団長はあるSS将校との格闘で殺された」と。
隣りの戦区ではダス・ライヒが激戦中・・。
鹵獲したT-34による即席中隊を効果的に利用し、内側から学んだT-34の脆弱点・・、
側面と外部燃料タンクを標的にして、50両すべての戦車を短時間で炎上させるのでした。
もう一つの武装SS師団トーテンコップも疲労困憊です。
こうしてプロホロフカを巡る戦車戦はSS軍団が手詰まりに追い込まれたことで終わりを告げ、
オリジナルのソ連版神話では、「独ソあわせて1500両以上の戦車が
幅5㌔の土俵でがっぷり組み合い、一日の終わりにはティーガー70両を含む
400両のドイツ軍戦車があちこちに散在していた。
ソ連側の損害もおおよそ同等・・」と語られます。
しかしドイツ軍側の資料では、ライプシュタンダルテとダス・ライヒがこの日に利用できたAFVは
合わせて200両に過ぎず、全損はわずかに1両・・。
他方、ソ連軍装甲車両300両が撃破されているとしています。
この後は翌日に始まったモーデル軍に対するソ連の攻勢「クトゥーゾフ作戦」が詳細に書かれ、
ヒトラーから呼び出された両軍集団司令官と、そこで休養していたロンメルとの対話。
クルーゲはオリョール危機が解決してももはやツィタデレ終わった・・と考えているのに対して、
マンシュタインは、この1週間でソ連戦車1800両を撃破しており、
もし第9軍が前線を維持できるならば、そしてOKWの予備である第24装甲軍団を
ケンプフ軍支隊に派遣できるならば、自分の戦区でソ連軍を撃破できると進言します。
しかしムッソリーニが逮捕されたことで、ライプシュタンダルテはイタリア派遣となり、
グロースドイッチュランドはすぐに第一線から引揚げられて、苦戦中の中央軍集団へ・・。
最後の「結び」の章では、クルスク戦全体を総括します。
ソ連側は「2800両のAFVを破壊した」と主張しているものの、
ドイツの公文書の数字では「約250両」であり、ティーガーも10両に過ぎません。
また、ソ連側の自軍の損害は「1600両~2000両」となっていて、
両軍の損害比は「8対1」となるとしています。
ドイツ軍の整備班も負けず劣らず働いてますからねぇ。
人的損害になると、ドイツ軍の死者、負傷者、行方不明者が5万4000人。
ソ連側は32万人を超えているそうです。ティーガーは「戦闘の達人」であり、
悪口を言われることの多いフェルディナンドも第9軍戦区で「あっぱれ忠勤を励んだ」と、
「ヤークトパンター戦車隊戦闘記録集」と同じ評価ですね。
それでも最大の激戦地プロホロフカで武装SSが戦術的勝利を収め、
ここがティーガーの墓場ではなく、T-34のガラクタ置き場になったにしても、
ソ連軍は持ちこたえ、ドイツ軍は膝を屈したのだと・・。
ソ連の物量、そして北部、続いて起こった南部戦区に対するソ連の攻勢に
ドイツ軍は撤退を続けていくことになるのです。
410ページの本書は、後半71ページが人名、地名、部隊索引と原注になっています。
この原注の参考文献ですが、邦訳されていない書籍でも著者とタイトルを和名で記してあり、
珍しいというか、有難いというか、邦訳して欲しい気持ちが強くなって逆にイラつく・・というか。。
本書のクルスク戦記としての特徴を一言でいうなら「意図」です。
ドイツの軍司令官が、またはソ連の方面軍司令官各々が、どのような意図をもって
攻撃し、或いは防御し、予備部隊を繰り出したのか・・。
そしてその各々の「意図」は、実際にはどのように展開し、日々どのような終息を迎えたのか。
1日はこのように進み、翌日はまた新たな「意図」をもって、戦線が開かれるというわけです。
率直に、戦況図が載っているとはいえ、クルスク・デビュー戦の方が読む本ではありません。
人名、地名、部隊索引だけで13ページもあるわけですから、
ある程度のことを知っている戦史マニア向けの一冊と言えるでしょう。
今回は時間的にできませんでしたが、もし再読する際には、
大型写真集の2冊、「クルスクの戦い -戦場写真集 南部戦区1943年7月-」、
「続・クルスクの戦い -戦場写真集北部戦区1943年7月-」と突合しながら
ジックリと読んでみたいですね。
ヴィト様節が立て続けに拝読できて、至極幸福でございます。
>女性戦車兵
ええ~! 飛行士だけでなく、戦車兵もいたとは、しかも副大隊長。。。 面白いですね。
ローストビーフの匂いがトラウマに、ですか。。。。 広島原爆の体験者が「焼き魚が食べれなくなった」というのとか、お風呂で沸かし直してる最中に亡くなっちゃった人の検死に入った人が「水炊き食べれなくなった」とか言うのは聞いたことあります。記憶と匂いの結びつきって強烈ですが、どうも脳の構造上そうなっているようですね。「死」の匂いっていう恐怖の印象になるのでしょうね。。。
ヴィト様お忙しいことと存じますが、これからも気が向いた時に更新してくださると嬉しいです。楽しみにしています。
余談ですが、自分は「キスカ島奇跡の撤退」という本をゲットしました。2年前の靖国の展示を見てからずっと「アッツ島、キスカ島」のキーワードが気になっていたので。。。
by IZM (2015-04-14 02:31)
ど~も、IZMさん。
ヴィト節っていうのがどんな「節」なのか、悲しいかな自分ではわからんのですよ。。
女性副大隊長は、以前からソ連女兵士でググるとよくヒットする写真なんですが、今回はじめて彼女について知ることが出来ました。誰かもわからずに持っていた若い女性写真。その素性をようやく摑んだ・・って感じですね。
死の匂いの件は、今晩「水炊き」なんでパスします・・。東京寒いんですよ。なんてこったい。。
キスカ島は全然わからないので、その本ちょっくら見てみます。
ではまたそのうちに。。
by ヴィトゲンシュタイン (2015-04-14 18:11)
ヴィトゲンシュタイン様こんばんは!
仕事から早く帰り、すでに酔っている酔っ払いです。
早速の更新、うれしいですね~
今回、一番楽しんだのはホト爺さんと、でかい将校の対比の写真です。
(内容でなくてすみません)
しかし、この将校の身長、どのくらいあるのか気になります。
まさにグロースドイッチュランドですね!
by ハッポの父 (2015-04-15 20:01)
ど~も、ハッポの父さん。こちらも酔っ払いです。
>まさにグロースドイッチュランドですね!
しまった・・。そういう表現にすればよかった。。我ながらセンスなし・・。
ホト爺は170㎝無いんじゃないかと思ってますが、あの巨人将校は205㎝とみています。
隣の将校なんて、完全に笑ってますしねぇ。
当初はホト爺の写真はコレだけにするつもりだったんですが、UPする日が誕生日だということがわかって、急遽、シブい表情でハウサーと写った写真も追加しました。まぁ、ホト爺への誕生日プレゼントです。
by ヴィトゲンシュタイン (2015-04-15 20:44)
女性の副大隊長、かっこいいですねー。
飛行機どころか戦車ですか。
アニメとかだと大人気になる設定ですね。
ところで、この、そびえたってるスターリン写真はソ連公式ポスターか何かですか?
見ようによってはギャグですが……。
by さくら (2015-04-16 00:14)
ど~も、さくらさん。
女性戦車長ということでは、夫が戦死してナチスに対する怒りに燃える主婦マリアが全財産を売り払ってT-34を購入し、自ら戦車長として戦うも、1944年に戦死・・なんて話もあります。
ロシアでも最近、大祖国戦争をテーマにしたB級映画が結構製作されているのに、なぜか女性兵士モノは聞いたことがありませんねぇ。
スターリンのポスターはロシア製だったと思いますけど、公式かどうかは忘れました。そもそも公式の定義が不明確ですしね。
by ヴィトゲンシュタイン (2015-04-16 08:18)
更新お疲れ様です。いつも楽しく読ませてもらっています(^^)私は最近「ドイツ国防軍情報部とカナリス提督」という本を読破しました。このブログではまだ紹介されてないと思うので是非~。
by カナリス (2015-04-16 21:31)
ど~も、カナリスさんありがとうございます。
「ドイツ国防軍情報部とカナリス提督」、ちゃんと去年からチェックしてますよ~。ただ、カナリスはこのBlogで結構紹介しているので、新ネタがあるのかなぁ?? と自重しています。う~ん。。実に悩ましい。。
by ヴィトゲンシュタイン (2015-04-16 21:56)
こんにちは!
クルスク戦、最近の研究によってかなり見方が変わってきましたね。
この本でもそれが反映されていると思います。リッベントロップの回想は
SS戦友会誌に掲載されたのが最初と記憶してます、近年はこの戦車戦を語るとき必ず引用されており、これがまた新たなスタンダードを作り出していくのでしょうかね。ただ対戦車壕の効果?についてはまだ異論があるようです。大日本絵画「クルスク南部戦区」地図II/SSGrRgt2が最前線になってますが、III大隊でしょうね。でも回想記は第II大隊兵士が
我々が最前線にいたと言っているので困惑してます。
誤訳は戦記につきもので、校正できる(知識ある)人がいないのでしょうね。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/5870/RKKA.html
このサイトはご存じですか?ロシア兵士の回想が読めるのが貴重です。
twitterで ミッテルバウについて書かれていましたが、熊谷徹氏といえば、中高生時代はタミヤ模型のジオラマコンの常連で超有名人でした。
NHK入局でその黒歴史?を封印し(まあ当然ですね)奥様もドイツの方だったような、現在在独フリーライターです。図らずもドイツ軍マニアの地が、取材対象だけに出てしまったのかもしれませんね。
by グライフ (2015-04-19 13:38)
ど~も、グライフさん。こんばんは。
リッベントロップの回想は大日本絵画「クルスク南部戦区」にも載っていたと思いますが、やっぱりボクも再読したい所です。
本書のように数限りない部隊名が出てくると訳者さんも大変でしょうねぇ。読んでて同情してしまいました。
教えていただいたサイト、これから拝見します。ちょっと酔っ払ってますけど。。
それからミッテルバウのニュース記事、有名な人なんですねぇ。全然知りませんでしたが、やっぱり内容にピンと来るものがありました。
クライフさんにもtwitterチェックされていると思うと、ヘタなこと書けないな・・。
by ヴィトゲンシュタイン (2015-04-19 20:20)