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失われた勝利〈下〉 -マンシュタイン回想録- [回想録]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

エーリヒ・フォン マンシュタイン著の「失われた勝利〈下〉」を読破しました。

上巻の10章は、1938年~1942年まで、階級で言えば中将から元帥昇進まで、
別の言い方をすれば、参謀本部次長~第11軍司令官までの回想です。
基本的には自らが体験した戦闘の指揮状況が中心ですが、
各々の戦役全般についても解説しつつ、ヒトラーと陸軍総司令部の軋轢を危惧し、
その統一されない戦略についても、あくまで軍人の立場から見解を示します。
それにしても5年ぶりの再読かと思うほど、覚えている話が所々に出てきました。
コレは本書が西方電撃戦と独ソ戦の著名な戦記の元本になっているということなんでしょう。

失われた勝利_下.jpg

下巻は第11章、「軍統帥におけるヒトラー」からです。
クリミアを奪取して元帥となったものの、まだ一介の軍司令官という立場であり、
最高司令官であるヒトラーの直接干渉は受けていないマンシュタインでしたが、
軍集団司令官となったこれからは、そういうわけにはいきません。
犠牲を顧みず獲得した土地を「固守」するという硬直した原則、
技術的手段を重視すればするほど、ますます「数字狂」堕ち込んでいき、
新兵器が戦線に姿を現したということだけで満足して、
部隊の訓練や用法の慣熟はヒトラーにとって、どうでもよかったのだ・・と非難。

それでも勇敢な行為に与えられる「鉄十字章」の規定については肯定的で、
「もしも後世、ヒトラーが制定した多種多様の勲章類を物笑いの種にするのなら、
わが軍の将兵が成し遂げた業績を思い浮かべるべきである。
白兵戦章』や、『クリミア盾章』の如き勲章は、常に誇りをもって佩用されて然るべきものだ」。

Heavy decorated LW soldier.jpg

そしてヒトラーが怒りを爆発させて対談相手を委縮させるやり方も意識的な演出であり、
相手によっては距離を保った対応・・と個性に応じて使い分ける術を心得ており、
その相手の提言の意図を承知したうえで、あらかじめ自分の反論を準備していたとします。
この章の最後には、暴力をもって国家の統帥機構に変更を加えようという問題、
すなわち、1944年のヒトラー暗殺未遂事件に立ち入るつもりはないとし、
「戦線における責任ある一司令官として、戦争の最中のクーデターという思想には、
考慮の余地がないと信じている」。

このようなヒトラー評を踏まえたうえで次の章は「スターリングラードの悲劇」。
まずは犠牲となった20万人の第6軍兵士たちの英雄的精神を称え、追悼。
「結果が無駄となってしまうならば、その犠牲は無益なりとされるべきか。
尊敬できないような政権に捧げられる忠誠は、無意味とすべきか。
その頼るべき契りが偽りのものとわかったら、服従もまた過ちと判定すべきか。
しかしなお、その勇気、忠誠、責任観念こそは、ドイツ軍人精神の賛歌として不滅である!」

stalingrad.jpg

マンシュタインが1942年11月のスターリングラード危機によって
急遽、新設の「ドン軍集団」司令官となった時の南部戦線の状況を解説します。
カフカスへ向かっていたA軍集団はリストを解任したことで、ヒトラー自らが司令官を兼任。
ヴァイクスのB軍集団は第6軍を含む、7個以上の軍を指揮し、そのうち4個は同盟国軍であり、
軍集団司令部というものは、有利な状況でも5個の軍を何とか指揮し得ることから、
この軍集団司令部の任務は能力をはるかに超えていたとします。
まして、ヒトラーが干渉し、第6軍の指揮に関しては閉め出される結果に・・。

WEICHS, PAULUS, AND SEYDLITZ.jpg

以上のような困難な状況を熟知していたOKHは、アントネスク元帥の統率の下に
「ドン軍集団」を編成しようと準備していたそうですが、
スターリングラードが陥落するまで・・と、ヒトラーによって"待った"がかかっていたのです。
マンシュタインは「元帥の作戦能力は、まだ実地に証明されていなかったものの、
登用を見送ったことは重大な過誤であった」と、アントネスクを非常に高く買っていますね。
ポイントは延伸しきった戦線翼側の危険な状況をパウルスやヴァイクスよりも
アントネスクならもっと強力にヒトラーに苦言を呈することができただろうということです。
確かにヒトラーの通訳シュミットも回想録で、ヒトラーが謙虚に助言を求めた・・と
書いていましたしねぇ。

von Manstein_Antonescu.jpg

ドン軍集団の管轄は第6軍の他、ホトの第4装甲軍、そしてルーマニア第3軍です。
ちなみにルーマニア第3軍の参謀長はあのヴェンク大佐で、
マンシュタインの伝令将校には、あの「回想の第三帝国」の著者、シュタールベルク中尉が・・。

Erich von Manstein & his adjudant Alexander Stahlberg.jpg

スターリングラード戦についてはいろいろと書いてきましたので、その戦局の推移は割愛し、
本書で興味深かった部分をピックアップしてみましょう。
「ゲーリングの軽率な確約」で空中補給もままならない第6軍、
解囲救出を早くしなければ・・と、OKHは新たな兵力の指令を送ってきます。
装甲師団4個、歩兵・山岳兵師団4個、ついでに空軍地上師団が3個です。
しかしやっぱり空軍地上師団は、「せいぜいよくて防御任務を与ええる程度、
突進群の両翼側の援護に使用できるくらいだろうということは初めからはっきりしていた」。

そしてそんな貴重な戦力も輸送の遅延によって、思うようになりません。
軍直轄の砲兵部隊はネーベルヴェルファー1個連隊のみが到着しただけ・・。

Nebelwerfer.jpg

第3山岳師団は結局、到着せず、2個歩兵師団は突破されてしまったルーマニア軍戦区を
なんとか支えるために投入され、第15空軍地上師団は真っ先に配置につく必要があるのに、
数週間の日時を要求。しかも第1日目の戦闘で支離滅裂になってしまうのでした・・。

それでも12月12日、第4装甲軍による第6軍解囲攻勢(冬の嵐作戦)が開始。
特に戦車・突撃砲の定数が完全に充足した第6装甲師団については、
「卓越した師団長ラウスと、戦車連隊長ヒューナースドルフ」の名を挙げて賛辞。
あ~、「奮戦!第6戦車師団 -スターリングラード包囲環を叩き破れ-」も再読したくなってきた。

Oberst Walther von Hünersdorff  6.Panzer-Division.jpg

包囲されているパウルス将軍は直属の上官となったマンシュタインの脱出計画と、
最高司令官ヒトラーによる「保持せよ」の命令に挟まれて苦悩しています。
第4装甲軍の突破によって連絡がついても、その道は脱出路ではなく、
補給回廊でなければならず、スターリングラード戦線は維持し続けなければなりません。

軍集団の意見を伝えるために参謀のアイスマン少佐を空路第6軍に送り込んで説得しますが、
頑固な第6軍参謀長のシュミットは、突囲するのは不可能であり、破滅的結果を招くと言明。
彼に言わせれば、「軍に何の落ち度もないのに、このような窮地に追い込んだのだから、
空路によって充分な補給をするのが最高統帥部と軍集団の責任である」。
マンシュタインは理論的に彼の言い分は正しい・・としながらも、
空中補給の悪化は軍集団には責任がなく、天候と空軍、そしてOKWの問題であって、
「このような意見の対立は異なった状況なら、第6軍司令部の交替を申請しただろう」。

Friedrich_Paulus.jpg

12月31日、OKHからの訓令を受領したマンシュタイン。
それはヒトラー自身の決断によって、スターリングラードに向けた攻勢のために、
新鋭装備で定員の充実したライプシュタンダルテダス・ライヒトーテンコップから成る
SS装甲軍団を西部戦線より招致し、ハリコフ地区に集結させるというもの。
しかし、果たして第6軍がその時まで生き永らえていられるかどうかは、明らかに疑問なのです。

1月9日、第6軍はソ連軍から勧降状を突きつけられますが、ヒトラーが拒否。
散々、ヒトラーの軍事的決定を非難しているマンシュタインですが、
この件については、「断固、ヒトラーの決定に同意だった」。
それは、第6軍を包囲しているソ連軍機甲旅団など60個が自由になったら、
東方戦線の全南方翼に対して恐るべき結果をもたらすこととなり、
可能な限り、その前面の敵を拘束しておくのがパウルスの軍人としての義務であったとします。
「『第6軍が早く降伏してさえいたら、あれほど永く苦しまなくてもよかったろうに・・』
などということは許されない。そんなことは事が終わってからの知ったかぶり、というものである」。

こうして座して死を待つだけ・・だということを理解している軍集団と第6軍
賜暇より帰還してきた第6軍将兵は、自ら進んで、どうしても原隊復帰したいと願うのです。
ビスマルク家やベロウ家といった古い軍人家系に属する人々は、
義務と戦友愛の伝統は最も困難な試練に堪えるということを実証したいと考えており、
断腸の思いに悩まされながら、彼らを空路被包囲圏内に送り込むことになるのでした。

stalingrad-kriegsgefangenschaft.jpg

147ページからは「南ロシアにおける1942~43年の冬季戦」。
独ソ戦好きの方ならご存知のように、ジューコフの天王星作戦~小土星作戦などという
一連のソ連の大反撃に対抗する最終的な「第3次ハリコフ攻防戦」、
有名なマンシュタイン・バックハンドブローが炸裂する第13章です。
兵力的に敵が圧倒的に優勢であることに加え、スターリングラード後の危機を説明します。
「わが同盟諸国軍の無能力によって完全な自由を獲得したソ連軍が、
ドイツ軍南方翼の生命線である、ロストフ、ドニエプルに向かう道を手にしてしまうことにより
アゾフ海沿岸、あるいは黒海に圧倒殲滅される」、戦略上の危険です。

2月6日、総統本営でヒトラーにこの状況を詳しく説明するマンシュタイン。
彼はすでに「東方戦線において勝ち負けなしに終わらせる」引き分け戦略を想定しています。
しかし戦術的な意見具申をするマンシュタインに対してヒトラーは、うまく話をはぐらかしながら
石炭を産出するドニェツ地域の放棄は、戦争経済上不可能であり、
トルコに及ぼす影響という政治的外交政策を繰り出して反対するのです。

Erich von Manstein with Turkish generals.jpg

ドン軍集団は「南方軍集団」と改名されたものの、正面のソ連軍との兵力比は1対8・・。
比べて、中央軍集団と北方軍集団のそれは1対4であり、
確かにそこから補充兵員を南方軍集団に送り込むのには不利な状況ではあるけれども、
こっちは数ヵ月以来、絶え間なく激戦を続けていたのにあちらはそうではない・・、
というのがマンシュタインの意見です。

隣接する中央軍集団司令官クルーゲ元帥の名前はちょくちょく出てくるものの、
マンシュタインは例外的に彼についての人物的評価を下しません。
グデーリアンはあの回想録でケチョンケチョンにけなしていましたが、
自決した軍人に対してあまり否定的なことは書きたくないのかもしれません。
なのでこの件も、そんな批判の多いクルーゲをチェーン店の立場で考えてみると・・、

ナチスらーめん南店の店長マンシュタインが、開店前から大行列で仕込みも間に合っていないと
さほど忙しくないであろう中央店と北店から2~3人、ヘルプを要請。
中央店の先輩店長クルーゲは、ウチだって常連さんが多いし、遊んでる従業員なんていない。
最近、一番売上が良いからって、大げさに騒いで、社長にアピールしたいんじゃないの?
なんていう思いを持っていたとしても不思議ではありませんね。。

Generalfeldmarschall von Kluge.jpg

「ハリコフを死守すべし」の総統命令では、ウクライナの首都たるハリコフが
ヒトラーの威信問題であったとします。実際は当時もキエフが首都だと思いますが、
1934年までウクライナにおけるボルシェヴィキの首都はハリコフだったんですね。
そしてランツ軍支隊隷下のSS装甲軍団は命令に背いてハリコフから撤退・・。
もし命令を下したのが陸軍の将官だったら軍法会議は免れなかったものの、
脱出したのがSSの将軍ハウサーだったので何事も起らなかったそうです。
それでもランツ将軍が山岳猟兵出身であるとの理由から、
装甲兵大将であるケンプフに交替させられるのでした。

Hitler in military briefing_ Manstein, Ruoff, Hitler, Zeitzler, Kleist, Kempf, Richthofen, March 1943.jpg

第4装甲軍、第1装甲軍、ホリト軍支隊の攻勢的防御によって、敵に大損害を与えた後、
ハリコフ奪還作戦を指揮するマンシュタイン。
「重要なことは決してハリコフ市街全体の占領ではなく、
同地にある敵部隊を撃破し、殲滅することである」。
すなわちスターリングラードの二の舞だけは避けようとする戦術ですね。

Marders, Russia, spring 43.jpg

続く第14章は「城塞作戦」、クルスク戦です。メジャーな戦役が目白押しですね。
圧倒的な兵力差があるといって、純粋な防勢ばかりとっていたら戦線は寸断される・・。
「そこでわが軍が『戦略的防衛体制』をとるとしたならば、敵軍に対してなお優越している諸要素、
つまり柔軟性のある部隊指揮、高度の戦闘能力、部隊の偉大な機動性に依処しなければ・・」。
そして有名な二者択一の選択が出てきます。
当初は敵に主導権を譲り、攻撃してくるのを待ってから『後の先』の反撃を加えるか、
自らが主導権を握り、敵がまだ冬季戦役の損失から回復しないうちの『先の先』をとるか・・。

1942年の夏季攻勢も『後の先』で敵に包囲殲滅したこともあって、コレを望むものの、
西部戦線が怪しげな雰囲気のいま、ソ連が必ずしも攻勢を仕掛けてくる保証はなく、
ジックリ腰を据えて戦力を拡充しつつ、ドイツ軍兵力が西部に割かれることを待つかも知れん。。
そこで5月初頭の『先の先』、すなわち城塞作戦を提案するのです。

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北翼から攻勢を開始する中央軍集団の第9軍司令官はモーデルです。
かつて陸軍参謀本部で第8課長としてマンシュタインの下にいた頃から知っているモーデル評。

「彼はその地位にあって『群羊中の狼』の如き存在として非常に有効な影響を与えていた。
後にA軍集団隷下の第16軍参謀長として、西方攻勢準備の間、私の指揮を受けていた。
ずぬけて旺盛なエネルギーがあったが、このために無遠慮な点があるのは免れなかった。
彼は自分のことを、苦難ということを知らぬ楽観主義者であるとしていた。
政府の首脳部と個人的に良好な関係を保とうと努力し、
事実、ヒムラーからSSの副官を付せられ、将校団から激しい批判を受けていたが、
モーデルをヒトラーに隷属してしまった少数の軍人の一人として数えるのはどうであろうか。
彼はヒトラーに向かって、軍事上の意見を遠慮会釈なく主張し、
いつでも彼の指揮する戦線が最も危急に瀕している場所にあった。
だからこそヒトラーの観念からすれば、モーデルこそ真の軍人だったのである」。

Generalfeldmarschall Walter Model & Reichsleiter Robert Ley, December 1944.jpg

始まったクルスク戦。南方軍集団はプロホロフカの会戦でその戦いは最高潮に達しますが、
モーデルは沈滞気味・・。おまけに連合軍がシチリアに上陸すると、クルーゲが報告します。
「モーデルの第9軍は、これ以上進出できないし、すでに2万名の損害を出している」。
マンシュタインは反論します。
「戦いは今や決定的なところまで到達している。わが軍の勝利は目前にある。
いま本会戦を中止することは、みすみす勝利を手放すということだ。
もしも第9軍が当面の敵兵団を拘束し、のちに再び攻勢をとってくれるならば、
わが軍集団は再び北方に進撃し、次いで西方に向かって旋回しながらクルスク湾曲部の・・」。
と、いくら力説したところで、ヒトラーの決定は作戦中止。。

Tigers near Orel, during the Battle of Kursk, July 1943..jpg

308ページから最後の第15章、「1943~1944の防衛戦」です。
8月、再度、ハリコフがターゲットとなり、ケンプフ軍支隊に全周包囲の危機が・・。
ハリコフを放棄したケンプフ軍支隊は、第8軍と改称され、
司令官にはかつてのマンシュタインの参謀長、ヴェーラーが任命されます。

9月には軍集団北翼のホトの第4装甲軍が北方から包囲される危険性が・・。
ヒトラーに直談判するマンシュタイン。
「このような状況に立ち至ったのは、中央軍集団が兵力の転属をしなかった結果である。
わが軍集団は正面の危機にあっても、兵力の転属を命ぜられたら忠実にこれを遂行してきた。
何故に他の軍集団ではこれと同じことができないのか理解に苦しむ。
ことに、その結果として中央軍集団が戦線を後退させなくてはならないとしても
たいした問題ではないだろう。第4装甲軍の戦線が崩壊したなら、
隣接する中央軍集団が戦線を維持していても何の役にも立たないからである」。

Erich von Manstein at the briefing on Division HQ.jpg

軍集団司令官として、各軍の個々の戦闘の詳細を扱うことは本書の範囲外とし、
その代わり、固い信頼関係にあった各軍司令官と、その参謀長を紹介しています。
新生第6軍のホリト上級大将はクリミア戦役当時の師団長であり、
真面目で公平な思慮を持ち、絶対に信頼できる人物。

von Manstein. Karl Adolf Hollidt.jpg

第1装甲軍を率いるマッケンゼン上級大将は、有名な元帥を父親に持ち、
軽騎兵出身ながら、そのようなタイプではなく、思慮深くて、親切な良き戦友。
そんな彼の参謀長はヴェンクで、常に「まあなんとか切り抜けられるでしょう」と締め括る
楽天的で頑健さ、愛嬌があって「お日様鳥」という綽名も・・。

wenck_color.jpg

第8軍のヴェーラーの参謀長はシュパイデルです。
ケンプフ軍支隊時代からその地位にあり、統帥上の業績の大部分は彼によるもの。

そして第4装甲軍司令官のホト上級大将
「私より年長で、彼は私がまだ軍団長だった頃、第3装甲集団を率いて、
装甲部隊の運用に関して非常に経験を積んでいた。
彼が自分より年下の軍集団司令官の指揮に最も忠実に服していたというのは、
ますます彼に対する評価を高らしめるものであった。
小柄で華奢なつくりであったが、元気旺盛でいつも活発、
しかも楽しげに振る舞っていたので若い戦友たちの間に人気があった」。

General Hermann Hoth, commander of the 4th Panzer Army _Romanian 6th army corps commander.jpg

実は本書を読み終わった日、夢に出てきたのがこのホト爺。。
ファンの多い将軍ですが、まさか夢に出てくるとは夢にも思ってなかった・・。
それにしてもマンシュタインとホトの写真といえば、やっぱりコレ ↓ が一番。

Erich_v__Manstein_Hermann_Hoth.jpg

マンシュ・・「ウチのシチュー美味いでしょ?」 ホト・・「うーん、まあまあだな」

軍集団の参謀長、ブッセ将軍にも賛辞を惜しみません。
「彼の言はほとんど正鵠を得ていた。我々が上から受けるさまざまな命令に対して、
『一人だけがさっぱりわかっとらん!』とだけ、あきらめたように注釈を加えた。
まったく歯に衣着せず、我々側近の間では話し合っていたものだ」。

manstein Colonel Theodor Busse and Major General Otto Wöhler.jpg

そんな「わかっとらん!」命令を伝えてくるのは本人ではなく、陸軍参謀総長です。
マンシュタインからしてみれば直属の上司に当たるこの人物は、
その陸軍参謀総長としての登場があまりにも電撃的であり、
部下に対しても彼の指示を電光石火にやり遂げることを要求。
また、何となく丸っぽい感じで、頬は紅く頭も丸く禿げ上がり始めていたという外見から、
「火の玉」と名付けられていたのです。

ツァイツラーは私の友人ではなかった。彼は戦争の前年、国防軍総司令部(OKW)の
国土防衛課に属していた。私が参謀次長にあった陸軍総司令部(OKH)とは、
まさしく対立関係にあった。だからこそ彼は後になって苦汁をなめる羽目になってしまった。
陸軍参謀総長として、かつての上官たる、カイテルヨードルと対立することとなる。
大部分の戦場で陸軍の統帥が除外されてしまったのは、
2つの統帥機構を作り出したことの結果にほかならない。
ツァイツラーは常に全精力を傾け、ヒトラーの意に反しながらも、
軍集団の判断と希望とを申し立ててくれたのである。
ヒトラーはかつて私に言ったことがある。
『ツァイツラーは貴官の意見具申を通すためには、まるで獅子のように戦う』」。

Erich von Manstein, Adolf Hitler, Kurt Zeitzler.jpg

当時のドイツ軍、特に将軍や参謀も出身と経歴によってギスギス感があるわけで、
大奥のようで印象的だった「ドイツ参謀本部」をつい思い出しました。

11月、ドニエプル戦線を失うと、退却した第4装甲軍の指揮官を更迭すべしと命令するヒトラー。
マンシュタインの抗議にもかかわらず、予備役に編入されるホト・・。
後任は第6装甲師団長として名声高き、ラウス将軍です。

von Manstein, May 1943_ General Erhard Raus looks on.jpg

東部戦線の全般戦争指導の完全な自主性をもった総司令官を任命して欲しいと
ヒトラー訴えるマンシュタイン。
自分をその地位に任命して欲しいのか・・? と考えるヒトラーは当然、拒否します。
「国家のすべての手段を把握している自分だけが、戦争を軍事的にも有効に指導し得る。
また、ゲーリングは私以外の他の何人の指令にも服しないだろう」。

年が明けた1月、第42、第11の2個軍団がチェルカッシィで包囲されてしまいます。
まさにスターリングラードの再現であり、今度は失敗は許されません。
ライプシュタンダルテとベーケ重戦車連隊が救出に向かい、
包囲陣から突囲脱出を図るシュテンマーマンとリープ軍団長。
3万人が脱出に成功するものの、戦死を遂げたシュテンマーマン・・。

Der gefallene General Stemmermann_Der Kessel von Tscherkassy.jpg

3月にはフーベの第1装甲軍が包囲されますが、
総統命令は「戦線を保持したまま、西方で第4装甲軍と連絡する」というもの。
またしてもスターリングラードの悪夢ふたたび・・。
今回ばかりはヒトラーが譲歩したものの、3月30日、A軍集団司令官クライストとともに
ベルヒテスガーデンに呼ばれたマンシュタイン。
最後の会談における議題は軍集団司令官2人の解任です。
「現在、東方において貴官に向いた任務はもはや存在しまい。今こそふさわしいのは、
北方軍集団であの至難な退却を停止させたモーデルのような人物である」。

立ち去ろうとする2人の前には、すでに後任のモーデルと、
クライストの後任たるシェルナーが立っていたのでした。

MANSTEIN 1942.jpg

このように本書は回顧録ではありますが、人生を振り返った自伝ではありません。
あくまで第2次大戦における、軍人としての自身の体験に限定したもので、
末尾の「解題」に書かれているように、1949年には英国軍事法廷によって、
「戦犯」とされ、18年の禁固刑を言い渡されますが、1953年に釈放・・
といったことにも一切触れられません。

Erich von Manstein on Trial as War Criminal_1949.jpg

改めて「失われた勝利」とは何なのか・・?? と考えてみると、
下巻でのスターリングラード後の一方的な戦力差、
すでに軍事的勝利は風前の灯であり、狙うは引き分け、そして政治的和平・・。
それが結局のところ、1943年時点での望み得る「勝利」なのだと思いました。

つい、「ヒットラーと将軍たち マンシュタイン 電撃戦の立役者」のDVDも
見返してしまいましたが、クノップ先生はヒトラー暗殺計画に参画しなかったことに
うるさいですから、まぁ、なんとも・・。
元帥の首を懸けて、ヒトラーとやり合うべきだったという証言も、
本書では十分やっていますし、そもそもヒトラーは元帥だからって相手にしません。
興味のある方は、「ヒトラーの戦士たち -6人の将帥-」か、YouTubeでも見れますよ。
でも、フィギアも欲しいなぁ。









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グライフ

再度の独破、お疲れさまです。
最前線兵士の回想記と対極の戦争ですよね、地図上の記号にしか過ぎないものが実は何万人もの生命を意味し、それの動かし方次第で彼らの生死が決まるといえる司令官の決断。最近はマンシュタイン再考がおこなわれてていてさまざまな疑問が提出されてますが、それもどうかと思いますよね。シュタークベルグの本は確かに素晴らしかったですが、それは彼の感情も入っての話ですからねえ、第6軍20万人とA軍集団100万人
これはもう究極の選択ですよ、ホントにスターリングラード戦は憂鬱になります。その責任者とされる人物はどんな覚悟で臨まねばならなかったのか、とても凡人には務まる話ではありません。それだけでも元帥は
すごい人物と評価されるべきです。
by グライフ (2014-06-29 18:39) 

ヴィトゲンシュタイン

グライフさん。こんばんは。
いや~、読み応えがありましたねぇ。
さすがに5年前に読んでから数十冊の独ソ戦本を読んだだけに、かなり深く理解できたつもりです。
独破戦線の第1発目である、シュタールベルクの「回想の第三帝国」も再読したくなってきました。
仰るとおりスターリングラード戦に挑んだマンシュタインのプレッシャーは計り知れないものがありますね。
そういえばマンシュタインがドン軍集団司令官に選ばれた理由が書かれた本は読んだことがないような・・。

by ヴィトゲンシュタイン (2014-06-29 22:21) 

KJ

お久しぶりですヴィトゲンシュタインさん。「失われた勝利」家の近くの図書館にありますが借りていた「ナチ戦争犯罪人を追え」他二冊すら読み終わらないくらい忙しく読めてません。いつか読めるといいなぁ・・・。
by KJ (2014-07-01 21:40) 

ヴィトゲンシュタイン

ど~も KJさん。こんばんわ。

「ナチ戦争犯罪人を追え」・・。あのアイヒマンが表紙のヤツですね。
ボクもamazonの「欲しい物リスト」に入れっぱなしで、まだ手を付けていませんでした。
忙しくて読書もままならないなんて良いじゃないですか。
それにお楽しみはこれからだっ! って感じで、人生前向きで夢があります。ちょっと大袈裟かな??

by ヴィトゲンシュタイン (2014-07-01 21:55) 

ハッポの父

ヴィトゲンシュタイン様こんばんは!
焼酎を飲んでごきげんの酔っ払いです。

今回のレビュー、「大作」で楽しめました。いつかはこの本、手に入れなければ!
ところで、写真の降下猟兵(?)、勲章の満艦飾状態ですね!穏やかな顔つきですが、すごい兵士なんでしょうね。

「戦場の掟」読み終わりました。こんな闇の世界があったのとは!
by ハッポの父 (2014-07-01 22:59) 

ヴィトゲンシュタイン

ど~も、ハッポの父さん。
ボクも自家製タンドリーチキンにビールでかなりいい感じです。
そうなんです。今回は再読ですから、ガッチリいきました。
「ブロガーの本棚」っていうサイトがありまして、勝手にピックアップしてくれるんですが、ここには文字数が表示されるんです。
戦場の掟 (約1200字)
鉄の棺 -最後の日本潜水艦- (約1000字)
パンツァータクティク (約900字)
で、失われた勝利〈上〉 (約2300字)
この下巻は拾ってもらえてないんですが、計4000字越えでしょう。

>写真の降下猟兵(?)、勲章の満艦飾状態ですね!穏やかな顔つきですが、すごい兵士

そうそう! ここに喰いついて頂いて嬉しいです。
勇敢さの証として騎士十字章をぶら下げていれば良いってもんじゃないですね。
色はわかりませんが、白兵戦章に右の袖には単独の戦車撃破章を3つ・・、可愛い顔した、ど根性降下猟兵です。残念ながら名前もわかりませんし、生き延びもことが出来たのかも不明です。。

「戦場の掟」、お気に召されたようでうれしいです。
by ヴィトゲンシュタイン (2014-07-01 23:25) 

フォン・マンシュタインのファン

第6軍兵士を追悼するドイツ軍人精神の賛歌、の部分ですが
私が読んだ発行第3版の本書とは訳が違っています。
本ブログのほうがずいぶん詩的ですが、これは別のフジ出版がだしたほうの訳でしょうか?

その他、本紹介です。
もうすぐ10月末に「ヒトラーの元帥・マンシュタイン」という本が翻訳版が出版されます。これはMelvin著の「Manstein : Hitler's Greatest General」という海外でわりと評判のいい最近出た本の訳書です。
あの評判が少々良くない大木毅氏のものですが、自分で書いた本はともかく翻訳作業はそこまで悪くないのでぜひ読んでみてください。
タイトルから既になんかニュアンスの変わる訳をしてる…?いやまぁそれは…はい
by フォン・マンシュタインのファン (2016-10-08 22:23) 

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