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失われた勝利〈上〉 -マンシュタイン回想録- [回想録]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

エーリヒ・フォン マンシュタイン著の「失われた勝利〈上〉」を読破しました。

全国13万人のマンシュタイン・ファンの皆さん、ご機嫌いかがでしょうか。
フジ出版社から1980年に出た函入りの「失われた勝利」を読んだのが5年前。
このBlogを始めたばかりで、5番目に書いた記事でしたが、
何と言っても、読み返すのが恥ずかしいほどの淡白なレビューで、
自分でも詳しい内容が思い出せず、「西方電撃戦: フランス侵攻1940」を読んで、
再読したい、そして書き直したい・・と思っていました。
しかし、ただ再読 und 再UPするのもツマラナイ・・ということで、今回は、
1999年に再刊された、中央公論新社の上下巻に挑んでみることにしました。
シッカリ読んで、ガッチリ書いてみましょう。

失われた勝利_上.jpg

原著は1955年にドイツ語の「Verlorene Siege」、英語版の「Lost Victories」と、
共に「失われた勝利」というタイトルそのままです。
「最高の戦術家」として知られているマンシュタイン元帥ですが、
「傲慢な性格」、「ヒトラー暗殺計画から逃げた腰抜け」といった評価も良く聞きます。
個人的には軍人を評価する場合、その戦功のみを評価するべきであり、
性格が悪い・・とか、変態的な性向がある・・などというのは評価対象外としています。
プロの仕事というものはどんなものであっても、その結果で評価すべきで、
関係者でない限り、プライベートの生活や人間性は関係ありません。
しかし、歴史上の人物に興味を持ち、好きになったり、嫌いになったりするのは、
人間味溢れるエピソードを知ったり、個性的な部分を気に入ったりすることも多いでしょう。

Verlorene Siege.jpg

「序言」でマンシュタインは本書を次のように説明します。
「私は、自己の体験、自己の想定、自己の決断を追憶的な回顧としてではなく、
その当時あったままとして提示するように努めた。
歴史を研究するものとしてではなく、歴史を行動したものとして叙述した。
とはいえ、私が事件や人間、決定をいかに客観的に見ようと努めたところで、
渦中の人物の判断というものは、常に主観的たるを免れ得ない」。

このような彼の回顧録の基準を理解した後、「第1部 ポーランド戦争」へ・・。
1887年のベルリン生まれ・・なんてことは一切触れず、1938年の陸軍参謀本部の話から。
「参謀総長の代理たる参謀次長の要職にまで昇進していたが、
私のこの参謀本部勤務は、突然終わりを告げることになった」。
陸軍総司令官のフリッチュがナチスの悪辣極まる奸計によって職を追われると、
マンシュタインを含む側近たちも総司令部から遠ざけられてしまいます。

von Fritsch.jpg

本書ではこの1ページ目の下段にフリッチュの写真が掲載され、
同じく下段は備考欄となっていて、フリッチュが「同性愛者」とされたでっち上げ事件も
しっかりと書かれています。

そして翌年、ポーランド侵攻作戦における南方軍集団司令官にルントシュテットが任命され、
マンシュタインはその参謀長に・・。
旧知の間柄・・と語るマンシュタインのルントシュテット評は、
「将軍はまことに優れた軍人であり、何事においても即時に問題点を見通し、
もっぱらその本質的なものに取り組んでいった。彼にとっては一切の付随物なぞは
どうでもよかったのである。人々がいつも『古武士風』と呼んでいた類の人物であった。
この魅力にはヒトラーさえも屈した。
察するに、ヒトラーは上級大将に心から愛着を抱いていたらしく、
自ら2度までも罷免したのちですら、なお愛着の余光が残されていたのであり、
どうやらヒトラーは、将軍の人柄の放つ、かつて味わったことのない茫漠たるその雰囲気に
溶かされてしまっていたようだった」。

von Rundstedt .jpg

「ヴェルサイユ条約によってドイツの領土まで我が物にしてしまったポーランド・・」。
ポーランド嫌いなのは、なにもヒトラーだけではありません。
「地図を一瞥する度に、そのおかしな状況を見せつけられるのだった。
理屈に合わぬ国境線、分断された我が祖国! 
東プロイセンを我が本土から切り離しているこの回廊!」

German_losses_after_WWI.jpg

そんな宿敵に対する2個軍集団の編制も細かく記述しつつ、
9月1日を迎えるまで軍集団幕僚はナイセの修道院を本営とします。
このような本営には司令官ではない「本営指令」という指揮官が存在し、
司令部の宿営給与業務上だけの指揮官だそうですが、
ルントシュテットだろうが甘やかす素振りを見せなかったそうです。

「我々が一般兵士と同様の軍の給養を受けたのは当然であった。
野戦庖厨の昼のスープに文句をつけるようなことは一つもなかった。
けれども、来る日も来る日も夕食に支給された軍用パン
固いソーセージを噛み砕くのは、老紳士諸公には何とも大変なことで、
何もそこまでしなくてもと言いたいものだった」。

field cooker.jpg

作戦は順調。そんなある日、撮影隊と一緒に有名な映画監督である婦人が、
「総統の命により戦線を撮影せねば」と称して軍集団司令部に現れます。
この婦人とは、あのレニ・リーフェンシュタールなわけですが、
「婦人の世話までするなんて我々軍人にとってはまったく願い下げだが、
ヒトラーの命令とあらば、何とも致し方がないではないか」。

そこで第10軍司令官にして、陸軍随一のナチ派であるライヒェナウ
最適の保護者だということで彼女を送り付けると、
とある広場で逆上した将校によって無意味な発砲が行われ、多数の死傷者が生じ、
「その痛ましい光景の目撃者となった撮影隊と、われらの女性訪問者は
震え上がって直ちに現場から引揚げてきたというわけである」。

Leni Riefenstahl als Kriegsberichterstatterin bei einer Erschiessung am 05.09.1939 in Polen. Nach dieser Erschiessung brach sie ihre Arbeit als Kriegsberichterstatterin ab.jpg

ワルシャワに向かって進撃を続ける南方軍集団。
幕僚部も前進し、かつてのポーランド侯爵の居城に宿泊します。
食堂に使用した広間には、ポーランド総司令官たるリズ=スミグリ元帥の油絵が・・。
「襲撃を敢行中の騎兵を背景に銀製の元帥杖を手にし、颯爽と立っていた。
彼は、自信満々、傲然として我々を見下していた。
いまこの男は果たして何を考えているのだろうか。
彼が指導者となっていたその国家は、今や破滅の淵に瀕している。
そして彼自身はもはや英雄としての証はなくなってしまった。
彼は間もなく陸軍を見捨て、ルーマニアに向かって脱出することとなった」。

Edward Rydz-Śmigły.jpg

このポーランド戦を振り返り、ドイツ軍の損害は軽微だったものの、
個人的な関わりのある3人の戦死について触れるマンシュタイン。
ひとりは自殺とも云われている前陸軍総司令官のフリッチュ、
捜索大隊の騎兵大尉だった妻の兄、
3人目は幼年学校時代からの親友、フォン・ディトフールト大佐です。

manstein On promotion to Lieutenant, 27 January 1907.jpg

10月3日、東方軍総司令官に任命されたルントシュテット。
マンシュタインら幕僚もポーランドに残置されることに・・。
この決定を全員がいまいましく感じています。
それというのも大きな貢献をした南方軍集団を差し置いて、
フォン・ボックの北方軍集団は西方戦線に転送されたからです。
将来の民政長官が司令部を訪れることとなり、昼食会の準備が整えられますが、
1時間経っても現れません。「始めよう。来なくてもいい」と言い放つ司令官。。
食事を終えた後やって来たのは、服にベタベタと金色の刺繍を付けた、
「どう見てもキューバの提督としか値踏みできなかった。彼が『フランク閣下』であった」。

Hans-Frank.jpg

ルントシュテットは会談で自分の権限内の事項について、
SS国家長官が横から口を入れることは絶対に認めないと述べます。
もったいぶった口ぶりで話を結ぶフランク閣下。
「上級大将閣下、貴官は私が正義の人間であることは御承知でしょう!」

ルントシュテットはブラウヒッチュ陸軍総司令官に対し、申し入れをします。
「このままポーランドに残置されるのなら、冷遇されているものと認めざるを得ない」
マンシュタインもハルダー参謀総長に対して、同様の申し入れをして、
ようやくブラスコヴィッツが代わりにやって来るのでした。

Rundstedt and Blaskowitz reviewing the German victory parade before the opera house in Warsaw, Poland, 2 Oct 1939.jpg

第2部は「1940年の西方戦役」です。
10月24日、西部へと移って来た司令部は新設の「A軍集団」であり、
司令官ルントシュテット、参謀長マンシュタインのコンビはそのままです。
「連続する降雨が予想されるので、攻勢の開始は差し当たり不可能」と報告すると、
自分の希望に沿わない軍の情報を全く信用しないヒトラーは、
地形の状態を見極めさせるために副官のシュムントを寄こします。

そこでシュムントとかつて同じ連隊の戦友だったトレスコウ中佐をあてがうと、
彼は情け容赦なく一日中、ほとんど通行不能な道路や、水浸しの牧場を引っ張り回し、
シュムントはクタクタになって司令部に帰り着くのでした。
このトレスコウについては、マンシュタインが参謀本部時代から一緒に仕事をし、
親友と言ってよいほどの緊密な信頼感によって結ばれていたと絶賛しています。

Henning von Tresckow.jpg

そのかつての仕事場、陸軍参謀本部と陸軍総司令部の危うさを嘆くマンシュタイン。
ブラウヒッチュについてはフリッチュ、ベック、ルントシュテット、ボック各将軍のような
「首席クラスに属する人物では決してなかった」とし、
ハルダーについても、国防軍総司令官たるヒトラーの失脚を図りつつ、
陸軍をして勝利を収めるために全力を尽くすという役割は両立し難く,
この2つの分裂によってハルダーは精神的に消耗し、ついに行き詰った・・と考察します。

そしていよいよ「マンシュタイン・プラン」の発表。
最初にこの名称で呼んだのはリデル・ハートだとして、ルントシュテットとブルーメントリットからの
聞き取りによって報道した・・としていますが、コレは以前に紹介した、
ナチス・ドイツ軍の内幕」かも知れませんね。

Erich von Manstein color picture.jpg

当初の陸軍総司令部の作戦企図が1914年の「シュリーフェン・プランの焼き直し」だとして、
「新計画」を策定することになった理由をこう述べています。
「我々の世代がこのような古い作戦から一歩も抜け出せないのを非常に悔しく感じた。
一体どうして、書架からすでに使い古した作戦計画書、つまり彼我共に散々練りつくし、
そして敵がその再現に備えているようなものを引っ張り出し、蒸し返さねばならぬのだろう!」

攻撃の重点を当初のB軍集団からA軍集団に、さらに装甲兵力を分散させないという意図を
詳しく解説します。そして、
グデーリアン将軍は、常々、装甲兵力は1ヶ所に"ごり押し"しなければならない、
と主張していた。彼は我々の計画に全身全霊を打ち込んでくれた。
大装甲編合部隊をもって、アルデンヌを突破突進させることがグデーリアンによって
あらゆる困難にもかかわらず、遂行可能と認められ、その後の彼の熱意が、
我が装甲兵力を以て敵の背後に向かい、海峡沿岸まで突進させるに至ったのである」。

Achtung-Panzer-Guderian-Heinz.jpg

侵攻計画を所持した将校がベルギー領内に不時着した「メヘレン事件」にも触れながら、
マンシュタインがA軍集団参謀長を更迭され、第38(歩兵)軍団長に補任された経緯、
1940年2月、新任軍団長としてヒトラーと面会した際に、マンシュタイン・プランを明かした件が
語られますが、陸軍総司令部憎し・・という思いが伝わってきますねぇ。
西方電撃戦に詳しい方でも、本書を読んで、計画者から"その心"を知るべきかも・・。

crash of the Bf 108 Taifun D-NFAW on January 10th 1940.Erich Hoenmanns_Helmut Reinberger.jpg

5月10日、電撃戦が始まったことをラジオで聞いたマンシュタイン。
計画者かつ、攻勢の重点であるA軍集団参謀長だった彼は、いまや休暇でドライブ中なのです。
それでも彼の第38軍団はB軍集団の指揮下に入るべし・・との命令が下り、
その後、A軍集団へ転属。フォン・クルーゲの第4軍で攻勢の一翼を担うことになるのです。
隣りにはヘルマン・ホトの装甲軍団。
やがてロワール川まで進軍し、豪壮華麗なセラン城に宿泊します。
4個の厚い塔に囲まれ、広大な庭園と壕・・。
豪華な寝室に一泊したマンシュタインはよほど感激したのか、この城について詳しく書き記し、
多数の絵画を強奪して・・なんてことは当然なく、「我々はあらゆる宿舎同様に、
他国の財物を尊重し、慎重に保存に努めたことは言わずもがなである」。

chateau-de-serrant.jpg

228ページの第7章は、「二つの戦争の狭間」です。
大勝利に満足したヒトラーによって、1ダースもの元帥が誕生・・。
マンシュタインは、陸軍総司令官と2人の軍集団司令官は当然としつつも、
「国防軍総司令部総長、すなわち司令官でもなく、また参謀総長でもない人物が含まれていた。
ほかに航空省次官が含まれていたが、到底、陸軍総司令官と肩を並ぶべきものではなかった」
と、敢えて名前を挙げずに、カイテルミルヒの元帥昇進に不満を述べます。
もちろんゲーリングの「国家元帥」就任は、故意に陸軍総司令部の地位を低下させたと・・。

Generalfeldmarschall Wilhelm Keitel 1/6.jpg

そして「英国本土上陸作戦」について、ヒトラーは英国との戦争は避けたいと考えていたとして、
「大英帝国が崩壊した場合、その遺産相続人となるのはドイツではなく、
合衆国、日本、もしくはソ連であることを承知していたのである」という見解です。
そんな幻の「あしか作戦」の訓練に励んでいた第38軍団に別れを告げて、
1941年2月、希望していた快速軍団、第56装甲軍団の指揮を任されたマンシュタイン。
フォン・レープの北方軍集団隷下の第4装甲集団に属し、東プロイセンから攻撃する、
バルバロッサ作戦」が近づいてきます。

v_Leeb,_Hoepner.jpg

このヘプナーの第4装甲集団を構成するもう一つの軍団は、ラインハルトの第41装甲軍団で、
巻頭8ページに掲載されている写真には、このメンバーら5人の集合写真がありました。
真ん中がヘプナーでマンシュタインは端っこ・・というのは、この時期の序列らしくて印象的・・。

いよいよ6月22日を迎え、全速前進。ラインハルトに負けないことが重要です。
しかし装甲軍団といっても、第8装甲師団、第3自動車化歩兵師団、第290歩兵師団、
という編成であり、純粋な装甲部隊はブランデンベルガー将軍の第8装甲師団のみなのです。

Erich BRANDENBERGER.jpg

第1日目に敵に退路を遮断された偵察部隊が全員死骸となって発見されます。
無残極まる有様で切り刻まれた彼ら・・。
こんな残忍な敵の手に生きながら捕えられたくない・・という思いに駆られるのです。

そんな状況で第4装甲集団に配属されていた、武装SS「トーテンコップ」。
時折、マンシュタイン軍団指揮下として活躍したものの、甚大な損害を被ります。
自分の指揮下にあった武装SS師団のなかでは、最良であり、指揮官は勇敢な軍人で、
その後、戦死を遂げた人物だった・・とアイケについても触れますが、
武装SSの創設そのものについては、「容赦し難い誤りであった」と辛辣に語り、
「もしヒムラーの如き人物の指揮系統から外されて陸軍に配属されていたら、
彼らの大部分が喜んだだろうことは確実である」。

panzer 38(t) tanks endssess sun-scorched steppes.jpg

7月19日になって、ようやく軍団はルガを経てレニングラードに向かうことが判明。
その後、参謀本部から次長のパウルス将軍がやってくると、
かつてその地位にいた人間の血が騒いだのか、注意喚起するマンシュタイン。。
「全装甲集団の戦力を迅速な進撃に不向きな土地から解放し、モスクワに振り向けるべきだ」。
この先輩次長の見解に同意したパウルスですが、届いた命令は「レニングラードに突進すべし」。
そのために配属されたのは、SS警察師団・・。
しかも勇敢な指揮官であった警察将官ミュルファーシュテットを失っているのです。

General Arthur Mülverstedt  the Police Division.jpg

9月、第16軍司令官、我が友ブッシュがOKHからの電報を読み聞かせてくれます。
「歩兵大将フォン・マンシュタインは、第11軍の指揮を執るため、
即時、南方軍集団司令部に向かい進発すべきものとす」。
第11軍司令官リッター・フォン・ショーベルトは搭乗していたシュトルヒが地雷原に突っ込み、
戦死を遂げ、マンシュタインが本営に到着したときには、葬儀の最中。

Colonel-General Ritter von Schobert and his pilot before their last flight on 12 September 1941.jpg

遂に軍人として1個軍を率いることになったものの、ことはそう簡単ではありません。
なぜなら、第11軍はルーマニア第3、第4軍との連合兵力であり、
もともとアントネスク元帥の指揮下にあったからです。
そしてそのアントネスクも南方軍集団司令官ルントシュテットの作戦上の指揮を受ける・・
といったヤヤコシイ状況・・。
しかしアントネスクは第4軍の指揮に専念していたこともあって、
マンシュタインは第11軍とルーマニア第3軍をあわせて統率することになるのでした。
こうして、「クリミア戦」の幕が切って落とされます。

Briefing on the encirclement of Sevastopol.jpg

SS連隊「ライプシュタンダルテ」をクライストの第1装甲集団に引き渡すこととなり、
第11軍は1両の戦車すら持ち合わせていないなかで、ソ連の無数の戦車に立ち向かいます。
しかも制空権もソ連側にあるということで、救援に駆け付けてきたのはメルダース
彼の戦闘機隊が戦場上空から敵機を追い払うことに成功するのでした。

しかしこの第1回目の攻撃は、ケルチ半島から上陸してきたソ連軍の攻勢によって頓挫。
第42軍団が命令違反で撤退したことを知ったマンシュタインは軍団長シュポネックを罷免します。
総統本営で軍事裁判に臨んだシュポネックは、ゲーリング裁判長によって死刑を宣告されます。
軍事裁判の期日も事前に知らされず、いきなり判決を聞かされたマンシュタイン。
シュポネックと会うことすら断固拒否するOKW総長のカイテル・・。
結局、ヒトラーによって禁固刑に減刑されますが、1944年7月20日事件の後、
シュポネックはヒムラーの命令によって射殺されるのでした。

Generalleutnant Hans Emil Otto von Sponeck.jpg

1942年5月、ケルチ半島会戦が始まりますが、、有能な軍参謀長ヴェーラーが去ることに・・。
中央軍集団参謀長に補任という栄転であり、引き留める術はありません。
代わりにやって来たのは騎士十字章拝領者のシュルツ将軍
マンシュタインの忠実な友、有能な助言者になったそうですが、
この2人とも以前に紹介している有名な将軍ですね。

Otto Wöhler_Friedrich Schulz.jpg

残すは数多くの堡塁と防御陣地が施された要塞セヴァストポリ・・。
OKHは保有する最重攻撃器材を準備し、その火力は重砲兵および超重砲兵56個中隊、
軽砲兵41個中隊、突撃砲兵2個大隊など、第2次大戦におけるドイツ軍最大です。
また、例の列車砲ドーラにも触れ、「砲兵技術上の傑作」と表現します。



それでも、この怪物の援護のために高射砲2個大隊をつけねばならず、
全般的には効率的とは言えなかったとしています。
もうひとつ重要な戦力としてリヒトホーフェンの第8航空軍団を大きく取り上げています。

move into the city -Crimea-1942.jpg

5年間、マンシュタインに従えた運転兵ナーゲルの戦死にもページを割きつつ、
6月13日、フォン・コルティッツ大佐の歩兵連隊が「スターリン堡塁」を奪取。
その後、「チェーカー」、「GPU」、「シベリア」、「ヴォルガ」と攻略し、
装甲砲台「マキシム・ゴーリキーⅠ」を手中に収めます。
必要な個所には戦況図も掲載されており、この上巻だけでも14枚とありがたいですね。

Erich von Manstein car can stuck -Crimea.jpg

7月4日になって最後の大物「マキシム・ゴーリキーⅡ」を奪取して、クリミア戦は終了。
ラジオからはセヴァストポリ陥落の特別発表がファンファーレと共に流れ、
すでに上級大将に昇進していたマンシュタインの「元帥昇進」と、
クリミア戦士全員に対する「記念の盾(クリミア・シールド)」の創設が、
ヒトラーによって伝えられるのでした。

The battery at the entry of Sevastopol harbor.jpg

アントネスクに招待されたルーマニアでの束の間の休暇の後、
第11軍はレニングラード行きになることが決定。
スターリングラードとカフカスに進撃中の軍集団の予備としてでも残しておくべきと
総統本営でハルダーに進言するマンシュタインですが、
その際、ヒトラーとハルダーのあまりにも険悪な関係に驚きを隠せません。

von MANSTEIN_HITLER.jpg

空軍がヒトラーの命により、17万人を抽出し、空軍地上師団22個を編成したことを聞き、
またもや「愚の骨頂」として怒り心頭といった様子です。
「どこから必要な訓練を受けることができるのか、どこから指揮官を空軍は連れてくるのか?」
そんな頃、マンシュタインに不幸が訪れます。
少尉に任官したばかりの19歳の息子、ゲーロの戦死。

Erich von Manstein & his son Gero.jpg

3ヵ月間のレニングラード戦線での任務も11月20日を迎えると、新たな命令が・・。
「第11軍司令部は新たに創設された『ドン軍集団』となり、
即時スターリングラード両側地域の統帥を担当せよ」。

上巻はこれにて終了です。
ここまで 562ページ中、452ページで、残りの110ページは「付録」です。
ただ、これは命令や意見具申といったドキュメント、
訳者さんである本郷健氏の「資料集」として、各戦役ごとのドイツ軍編成はもとより、
ポーランド軍、フランス軍、ベルギー軍にオランダ軍の統帥系統、
もちろんソ連軍の戦闘序列まで出ています。
たまに最後の50ページくらいが「出典」になっている本がありますが、
かなり充実した「付録」であり、元のフジ出版社版に付いていた「別冊」が
一緒になったということですね。






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