ベルリン戦争 [第三帝国と日本人]
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
邦 正美 著の「ベルリン戦争」を読破しました。
「第二次大戦下ベルリン最後の日」、「ベルリン特電」に続く、
日本人が体験したベルリン最終戦シリーズの第3弾がやってまいりました。
1993年に出た340ページの著者は当時、舞踏家の留学生で、
前2冊の外交官、通信社支局長とはかなり立場が違いますね。
そんな著者の見たベルリンの戦争とはどんなものだったのか、興味津々です。
1908年生まれの著者が1936年から留学したかつてのプロイセン王国の首都ベルリン。
東西が45㌔、南北38㌔という大都市は、バイエルン王国の首都、ミュンヘンの3倍の大きさです。
ハレンゼー地区の住宅街に住居を構え、ユダヤ人迫害を目にして、
開催された大美術展覧会では、ディックスやシャガールといった前衛作家の作品を鑑賞。
しかし実はこれ、あの「退廃芸術展」だったのです。
1938年11月19日の朝、水晶の夜事件が発生したことを知ります。
「ひどいもんだよ。SAの奴らがあの立派な店のショーウィンドーをめちゃくちゃに・・」。
早速、出かけると、焼き打ちで煙を上げるシナゴーグの姿。
翌年にヒトラーがポーランドに侵攻して戦争が始まります。
食料は配給となって、横暴なSAにナチ党嫌いのベルリン市民は戦争には反対の姿勢ですが、
東ではポーランドを破り、西でもマジノ線を突破して、パリに堂々と入るといったニュースが
毎日のように発表されると、それを見るために映画館も超満員。
大の反ナチスだったインテリでさえフランス軍が降伏すると、
「ヒトラーは大嫌いだったけど、フランス軍に勝ってくれて胸がすっとした」と語るのです。
そんなベルリンの中流社会で過ごす日本人の著者。
アーリア人を自負するナチ党員の集まりになるとこんな雰囲気です。
「お前は日本人か。日本人はモンゴーレだけど、特別扱いしているよ。
日本人は勇敢で戦争に強いから、いわばアジアのプロイセン人だ。
ドイツとは同盟国だし、名誉アーリア人だよ」。
また、ヒムラーの代理人であるSSの高官がベルリンの日本研究所にやってきて、
「金髪で青い眼をした昔のサムライの写真を探し出してくれ」と命令。
これは政治的結びつきが人種政策に沿う合理的なものであることを証明するための
ヒムラー苦肉の策で、確かにこの研究をしていたことが書かれた本を読みましたね。
自分のBlogで検索したらありました。シュペーアの回想録です。便利だなぁ。
1942年、たまたま出かけた先のカッセルで、空襲に遭ってしまいます。
なんとか中央停車場に辿り着くと、長い行列が・・。
戦争が始まってからの処世訓は、行列を見つけたら何でもよいからすぐに並ぶこと。
必ず良いことが待っているのです。
今回は無料のスープと黒パン、空襲で被災したという証明書をゲット。
ベルリンに帰ってこの証明書と無くした物リストを「空襲被害補償所」に持っていくと、
3日後にはリストに書かれた品々全て、新品のライカに背広一式と靴、
下着類などの細々した物までが揃えられ、しかもタダでくれるのです。
もちろんベルリンでも空襲の頻度が増してきます。
画一的な四階建ての住居ビルには広々とした地下室があり、
そこに換気装置を付けて補強工事を行い、便所に電話、全員分のベンチが取り付けられ、
救急箱と飲料水入りの瓶を並べて、立派な防空壕が完成。
毎夜毎夜、しかも2年も3年も続けて同じ地下室に入り、2時間も一緒にいると、
相手が好きでも嫌いでもすっかり親しくなり、運命を共にする友人となるのです。
47人が入るこの壕も、いつの間にか「自分の席」も決まって、黙っていてもそこは開けてあり、
爆弾が近くに落ちて揺れようが、サロンのようにゴシップやニュースを語り合うのです。
そして屋上に焼夷弾が落ちれば、男たちは壕を飛び出して消火に向かいます。
当初は、各自が自分の住居を守ろうという動機から始まった消火活動ですが、
焼夷弾と戦っているうちに、そのビル全体を守る心となり、
遂にはベルリンという都を守るために戦う・・という気持ちに変化していくのです。
戦争に勝とうとか、ヒトラーが良いの悪いのと考えることもなく、
ただ、愛するベルリンが無事でさえあれば・・。
パリで早川雪洲と付き合っていたソプラノ歌手田中路子がベルリンにやって来ると、
著者の友人の2枚目映画スター、ヴィクトル・デ・コヴァと豪邸で住み始めます。
結婚を希望する2人に、ゲーリングはOKを出しますが、ヒトラーとヒムラーはNG。
2枚目のアーリア人がモンゴールと結婚することは許されません。
解決策として田中路子は避妊手術を受けること・・。
彼女はこのナチスの非人道的な条件を呑み、デ・コヴァも同意します。
著者の交友関係は実に広く、芸術家だけでなく、軍関係者にも及びます。
1943年に他界した元最高司令官のフォン・ハマーシュタイン邸にも招かれていて、
「あの本」に書かれていた子供たちについても言及しています。
この頃でも30歳を過ぎた独身男性ですから、ちょっとしたドイツ人女性の話も・・。
クーアダムの大通りには売春婦とはハッキリ違う、品のよい美人がウヨウヨしていて、
このような金髪の若い女は、恐ろしいことにゲシュタポの工作員なのです。
狙いは外国人。ゲシュタポ美人に声をかけられた著者の友人Mくんは、
寝物語に他言してはならないことを喋ったおかげで、留置所で3日間過ごす羽目に。。
1944年の暮れも迫ってくると、戦局の悪化に「総力戦」を叫ぶゲッベルス。
彼は宣伝相であるだけでなく、厄介なことにべルリンのガウライターであり、
ベルリン市民にとっては締め付けがより強くなるのです。
老人と子どもから成る「国民突撃隊」の訓練も始まり、
ベルリンの空襲も激しさを増して、ツォーの高射砲塔も狂ったように撃ちまくります。
1月20日正午、グデーリアン参謀総長によるラジオの号外放送。
「本日、東部戦線では敵軍がドイツ国領内に侵入した」。
よくもそんなことをラジオで簡単に発表できたものだ・・と唖然として顔を見合わせます。
東から人の群れがベルリン市内に入り、西に向かって動き続けます。
着の身着のままで東プロイセンから逃げてきた、子供の手を引いた女性がほとんど。
そして今度はモスクワの放送がラジオから聞こえてきます。
「赤軍はドイツ市民をナチスから解放するために前進しているのだ。
文化高き赤軍の兵士は、あなた方に自由を取り戻し、保護することを
スターリン元帥は約束する。安心して冷静に赤軍を迎えてください」。
そんな戯言は誰一人として信じません。
見かける一群のなかには荷車に乗って寝ている16歳の少女がおり、
ソ連兵に20回も強姦されて、半死の状態で救い出されたとのこと。。
やがて道路のあちこちで古家具やコンクリートの塊で封鎖も始まるのです。
ベルリンの空気は敗色に包まれ、同盟通信社の江尻くんに様子を尋ねます。
「ドイツ政府は南部へ移動する準備をしている」。
おっと、この江尻くんは、「ベルリン特電」の著者じゃないですか。
2月3日付の新聞には、精鋭部隊として名のあるルーデル将軍の突撃隊が
キュストリン付近に集結していた赤軍の戦車部隊を殲滅することに成功・・、
といった記事が出て、久しぶりの勝利の報に我を忘れて喜ぶベルリン市民。
コレはおそらく、
ルーデル大佐のシュトゥーカ部隊が、包囲されていたキュストリン要塞を救った・・
というヤツでしょうね。
ドイツ人の心は西に向かっています。
特にベルリン市民は100%、西から進撃してくる米軍を迎えたいと思っているのです。
もともと英国人とは親類のような血の繋がりを持っており、
第1次大戦後、米軍が飢えるドイツ人の食料を助けてくれたことを忘れていないのです。
その一方、東欧には親近感は持っておらず、モンゴルの襲来のことは忘れていません。
「野蛮人がやって来るよ!」と、ナチスは宣伝も繰り返すのです。
そういえば、1942年にSSのヒムラー公認で出た50ページほどの写真集があるようで、
どれだけの一般市民が読んだのかは不明ですが、
ロシア人の恐ろしさを描いた強烈なプロパガンダ写真集を参考までに紹介してみましょう。
タイトルは「Der Untermensch」、ズバリ「下等人種」。
この下等人種とはナチスが言うところのユダヤ人、スラヴ人、ロシア人、モンゴル人の蔑称で、
表紙も小銃を持った赤軍兵に、一番、凶暴で頭の悪そうな下士官ぽいヤツのアップ・・。
中身も「フン族が戻って来た」って感じで、下等人種のお顔紹介。。
特に左下のヤツは有名というか、他のプロパガンダ・ポスターでも見たことがありますね。
こんな連中に強姦されちゃったら・・。まぁ、似た顔の友達がいるんですけど・・。
ロシア女性と、幸せなアーリア人女性の顔を比較しています。
ロシアの貧しい少年と、アーリア人の幸せな子供も比較・・。
続いて男女の彫像比較・・。
下等人種の創ったものは怪しいお土産品レベルです。
まさに「退廃芸術」の極み・・。ウケるなぁ。
最後に両軍の将校の比較です。
右ページの左はドイツ陸軍将校にシュトゥーカ・パイロット。
右上のSS中尉はライプシュタンダルテのハインリヒ・シュプリンガーですね。
SS主幹の本ですから、武装SS一のイケメンとされているのかも知れません。
右下のUボート艦長はオットー・クレッチマーだと思います。
2月も終わりに近づきつつあるころ、著者は自分がどうするべきかを考えます。
日米戦争は激しさを増し、世田谷の自宅が焼かれているかもしれない・・。
それにもともとスイスに永住するのが夢であり、ドイツに踏みとどまっていた方が・・。
時々ベルリン・フィルも指揮する近衛秀麿くんも日本に帰るつもりがなく、
ソ連とは不可侵条約の関係で同盟国のような関係であるし、
例え捕えられても中立国の人間ゆえ、危害は加えられないはず・・。
しかし、日本が交戦中の米軍は、話の分かる文明国であるし・・。
ということで、市内から30㌔離れた別荘地、グロース・グリニッケ湖へと疎開します。
宣伝省は「ドイツ国政府機関は本日をもってベルリンを去り、他の所に移動する」と発表。
ただし、役人の6割が移動したのは事実ながらも、地方に疎開したわけではなく、
そのまま「国民突撃隊」に編入されてしまったということです。
また、ベルリン市内の警官も同様ですし、消防隊も1400台の消防車を残して・・。
疎開しても自宅のあるベルリンが心配でなりません。
3日もすると、3タクトの小さなDKWで市内を走り回ります。
山下奉文という軍人と五目並べをやった日本料理店に、アロイス・ヒトラーという喫茶店。
そこの主人はヒトラーの兄と言われているほど、体つきも顔も髭も良く似ているそうで、
ひょっとしたら、ヒトラーの死体と云われている写真は、彼なんじゃないでしょうか??
日本大使館では大島大使らがすでに南へ逃れてしまっているため、河原参事官が留守番。
「第二次大戦下ベルリン最後の日」ともリンクしてますねぇ。
別荘では東プロイセンやポンメルンから逃れてきた女性たちによる報告会。
強姦と暴虐の限りを尽くす赤軍の獣のような恐ろしさを語ります。
修道女がロシア兵に次々と24時間も連続強姦された話などなど。。
4月20日のヒトラー誕生日も過ぎ、ゲッベルスは家族を連れて総統ブンカーに入ったと報じると、
ナチス幹部が南部へ逃げたり、自殺したりしているなか、
敢然と立ちあがったこの男を皆が見直します。
嘘八百だと思われていた「ソ連兵の強姦の脅威」も事実だと証明されたことも手伝って、
最後の最後に男を上げたゲッベルス。。
既に新聞は発行されなくなっていますが、ここに至って「ベルリン前線新聞」という肩書の
「デア・パンツァーベア(装甲熊)」が創刊されます。
ゲッベルスの演説を編集したのは新聞局長のハンス・フリッチェです。
それにしてもこの「装甲熊」のロゴ、可愛らしいですね。
4月25日、西の方から銃声や迫撃砲の音が聞こえだすと、
旭日旗のような旗を作って家の前に立てて、「中立国の家」としていたことから、
隣近所の奥さんと娘さん、10数人が匿ってもらおうと押し寄せてきます。
青い顔をして、強姦されるよりは死ぬつもり・・と語る娘に、
抵抗して殺されるより、要求に応ずる・・と言う若い母親。
予期せぬ重大な責任を負わされて、とりあえず全員を屋根裏部屋に・・。
そして遂にやって来た赤軍兵。
両手を高く挙げて「ヤポンスキー」と訴えますが、信じてもらえません。
しかし「シュナップス」がないことが判ると、腕時計を奪って出て行きます。
ベルリン市内では武装SSが地下トンネルで激しく抵抗し、赤軍も苦戦との情報が入るなか、
こちらにやって来たのは、ウズベク人とポーランド兵の質の悪い混成部隊だと判明します。
流暢なドイツ語を喋る大佐のもとに出頭し、暴行を止めるように訴えます。
そこにはゲッベルスの寵愛を受けていたと言われる大舞台女優のオルガ・チェホワもおり、
ロシア語で楽しそうに談笑。「彼女がスパイであったという噂は本当らしい・・」。
ちなみにこの女性については、5月にアントニー・ビーヴァーの本が出ています。
「ヒトラーが寵愛した銀幕の女王: 寒い国から来た女優オリガ・チェーホワ」ですね。
帰ってもやって来るのは「ドイチェ・フラウを出せ!」と怒鳴るポーランド兵たちです。
「ドイツ兵はポーランドの女を一人残らず暴行した。その仕返しをしてなぜ悪い。
私はドイツの女を全部強姦するためにやって来たのだ」。
ヒトラーも自殺して、近郊から集められた25人の日本人はモスクワへ送られることに・・。
2台の軍用トラックに乗せられて、戦闘が終わったばかりの荒廃したベルリン市内へ入ると、
交差点ではスタイルの良い制服を着た女兵士がテキパキと交通整理。
国会議事堂の屋根にもブランデンブルク門にも赤旗がはためき、
東に向かって大量のドイツ軍の捕虜が歩いています。
この捕虜の一団を先導しているのはポーランド人であり、、
強制労働者の立場から一転、その手には憎しみのムチが握られているのです。
辿り着いたモスクワでは待遇良く、赤の広場にレーニン廟まで見学。
真新しい軍服に身を包んだ若い兵士たちは実に礼儀正しく、
「16歳から60過ぎの老婆まで強姦した鬼畜」を想像することは出来ません。
彼らの胸には「ベルリンの勝利」でもらったという、新しい勲章が揺れています。
う~ん。「ベルリン攻略記章」っていうのが確かにあるんですね。
「大祖国戦争 対独戦勝記章」というのもありますし、
日本人が見たくもないと思うような「対日戦勝記章」もあります。
左からその順番で・・。
前2冊の日本人ベルリン最終戦シリーズに勝るとも劣らない一冊でした。
それどころか、ほぼベルリン市民と同化していますから、
「戦時下のベルリン: 空襲と窮乏の生活1939-45」の日本人体験版といった趣も・・。
政治的、軍事的視点が一般市民レベルというのが逆に生々しいですし、
情報の錯綜、独ソのプロパガンダに揺れる心も伝わってきました。
最初から最後まで興味深いエピソードの連続で、実に堪能しました。
以前にコメントで教えていただいた、東部戦線ハンガリー軍の従軍取材があるという
「第二次世界大戦下のヨーロッパ」もつい買ってしまいました。
邦 正美 著の「ベルリン戦争」を読破しました。
「第二次大戦下ベルリン最後の日」、「ベルリン特電」に続く、
日本人が体験したベルリン最終戦シリーズの第3弾がやってまいりました。
1993年に出た340ページの著者は当時、舞踏家の留学生で、
前2冊の外交官、通信社支局長とはかなり立場が違いますね。
そんな著者の見たベルリンの戦争とはどんなものだったのか、興味津々です。
1908年生まれの著者が1936年から留学したかつてのプロイセン王国の首都ベルリン。
東西が45㌔、南北38㌔という大都市は、バイエルン王国の首都、ミュンヘンの3倍の大きさです。
ハレンゼー地区の住宅街に住居を構え、ユダヤ人迫害を目にして、
開催された大美術展覧会では、ディックスやシャガールといった前衛作家の作品を鑑賞。
しかし実はこれ、あの「退廃芸術展」だったのです。
1938年11月19日の朝、水晶の夜事件が発生したことを知ります。
「ひどいもんだよ。SAの奴らがあの立派な店のショーウィンドーをめちゃくちゃに・・」。
早速、出かけると、焼き打ちで煙を上げるシナゴーグの姿。
翌年にヒトラーがポーランドに侵攻して戦争が始まります。
食料は配給となって、横暴なSAにナチ党嫌いのベルリン市民は戦争には反対の姿勢ですが、
東ではポーランドを破り、西でもマジノ線を突破して、パリに堂々と入るといったニュースが
毎日のように発表されると、それを見るために映画館も超満員。
大の反ナチスだったインテリでさえフランス軍が降伏すると、
「ヒトラーは大嫌いだったけど、フランス軍に勝ってくれて胸がすっとした」と語るのです。
そんなベルリンの中流社会で過ごす日本人の著者。
アーリア人を自負するナチ党員の集まりになるとこんな雰囲気です。
「お前は日本人か。日本人はモンゴーレだけど、特別扱いしているよ。
日本人は勇敢で戦争に強いから、いわばアジアのプロイセン人だ。
ドイツとは同盟国だし、名誉アーリア人だよ」。
また、ヒムラーの代理人であるSSの高官がベルリンの日本研究所にやってきて、
「金髪で青い眼をした昔のサムライの写真を探し出してくれ」と命令。
これは政治的結びつきが人種政策に沿う合理的なものであることを証明するための
ヒムラー苦肉の策で、確かにこの研究をしていたことが書かれた本を読みましたね。
自分のBlogで検索したらありました。シュペーアの回想録です。便利だなぁ。
1942年、たまたま出かけた先のカッセルで、空襲に遭ってしまいます。
なんとか中央停車場に辿り着くと、長い行列が・・。
戦争が始まってからの処世訓は、行列を見つけたら何でもよいからすぐに並ぶこと。
必ず良いことが待っているのです。
今回は無料のスープと黒パン、空襲で被災したという証明書をゲット。
ベルリンに帰ってこの証明書と無くした物リストを「空襲被害補償所」に持っていくと、
3日後にはリストに書かれた品々全て、新品のライカに背広一式と靴、
下着類などの細々した物までが揃えられ、しかもタダでくれるのです。
もちろんベルリンでも空襲の頻度が増してきます。
画一的な四階建ての住居ビルには広々とした地下室があり、
そこに換気装置を付けて補強工事を行い、便所に電話、全員分のベンチが取り付けられ、
救急箱と飲料水入りの瓶を並べて、立派な防空壕が完成。
毎夜毎夜、しかも2年も3年も続けて同じ地下室に入り、2時間も一緒にいると、
相手が好きでも嫌いでもすっかり親しくなり、運命を共にする友人となるのです。
47人が入るこの壕も、いつの間にか「自分の席」も決まって、黙っていてもそこは開けてあり、
爆弾が近くに落ちて揺れようが、サロンのようにゴシップやニュースを語り合うのです。
そして屋上に焼夷弾が落ちれば、男たちは壕を飛び出して消火に向かいます。
当初は、各自が自分の住居を守ろうという動機から始まった消火活動ですが、
焼夷弾と戦っているうちに、そのビル全体を守る心となり、
遂にはベルリンという都を守るために戦う・・という気持ちに変化していくのです。
戦争に勝とうとか、ヒトラーが良いの悪いのと考えることもなく、
ただ、愛するベルリンが無事でさえあれば・・。
パリで早川雪洲と付き合っていたソプラノ歌手田中路子がベルリンにやって来ると、
著者の友人の2枚目映画スター、ヴィクトル・デ・コヴァと豪邸で住み始めます。
結婚を希望する2人に、ゲーリングはOKを出しますが、ヒトラーとヒムラーはNG。
2枚目のアーリア人がモンゴールと結婚することは許されません。
解決策として田中路子は避妊手術を受けること・・。
彼女はこのナチスの非人道的な条件を呑み、デ・コヴァも同意します。
著者の交友関係は実に広く、芸術家だけでなく、軍関係者にも及びます。
1943年に他界した元最高司令官のフォン・ハマーシュタイン邸にも招かれていて、
「あの本」に書かれていた子供たちについても言及しています。
この頃でも30歳を過ぎた独身男性ですから、ちょっとしたドイツ人女性の話も・・。
クーアダムの大通りには売春婦とはハッキリ違う、品のよい美人がウヨウヨしていて、
このような金髪の若い女は、恐ろしいことにゲシュタポの工作員なのです。
狙いは外国人。ゲシュタポ美人に声をかけられた著者の友人Mくんは、
寝物語に他言してはならないことを喋ったおかげで、留置所で3日間過ごす羽目に。。
1944年の暮れも迫ってくると、戦局の悪化に「総力戦」を叫ぶゲッベルス。
彼は宣伝相であるだけでなく、厄介なことにべルリンのガウライターであり、
ベルリン市民にとっては締め付けがより強くなるのです。
老人と子どもから成る「国民突撃隊」の訓練も始まり、
ベルリンの空襲も激しさを増して、ツォーの高射砲塔も狂ったように撃ちまくります。
1月20日正午、グデーリアン参謀総長によるラジオの号外放送。
「本日、東部戦線では敵軍がドイツ国領内に侵入した」。
よくもそんなことをラジオで簡単に発表できたものだ・・と唖然として顔を見合わせます。
東から人の群れがベルリン市内に入り、西に向かって動き続けます。
着の身着のままで東プロイセンから逃げてきた、子供の手を引いた女性がほとんど。
そして今度はモスクワの放送がラジオから聞こえてきます。
「赤軍はドイツ市民をナチスから解放するために前進しているのだ。
文化高き赤軍の兵士は、あなた方に自由を取り戻し、保護することを
スターリン元帥は約束する。安心して冷静に赤軍を迎えてください」。
そんな戯言は誰一人として信じません。
見かける一群のなかには荷車に乗って寝ている16歳の少女がおり、
ソ連兵に20回も強姦されて、半死の状態で救い出されたとのこと。。
やがて道路のあちこちで古家具やコンクリートの塊で封鎖も始まるのです。
ベルリンの空気は敗色に包まれ、同盟通信社の江尻くんに様子を尋ねます。
「ドイツ政府は南部へ移動する準備をしている」。
おっと、この江尻くんは、「ベルリン特電」の著者じゃないですか。
2月3日付の新聞には、精鋭部隊として名のあるルーデル将軍の突撃隊が
キュストリン付近に集結していた赤軍の戦車部隊を殲滅することに成功・・、
といった記事が出て、久しぶりの勝利の報に我を忘れて喜ぶベルリン市民。
コレはおそらく、
ルーデル大佐のシュトゥーカ部隊が、包囲されていたキュストリン要塞を救った・・
というヤツでしょうね。
ドイツ人の心は西に向かっています。
特にベルリン市民は100%、西から進撃してくる米軍を迎えたいと思っているのです。
もともと英国人とは親類のような血の繋がりを持っており、
第1次大戦後、米軍が飢えるドイツ人の食料を助けてくれたことを忘れていないのです。
その一方、東欧には親近感は持っておらず、モンゴルの襲来のことは忘れていません。
「野蛮人がやって来るよ!」と、ナチスは宣伝も繰り返すのです。
そういえば、1942年にSSのヒムラー公認で出た50ページほどの写真集があるようで、
どれだけの一般市民が読んだのかは不明ですが、
ロシア人の恐ろしさを描いた強烈なプロパガンダ写真集を参考までに紹介してみましょう。
タイトルは「Der Untermensch」、ズバリ「下等人種」。
この下等人種とはナチスが言うところのユダヤ人、スラヴ人、ロシア人、モンゴル人の蔑称で、
表紙も小銃を持った赤軍兵に、一番、凶暴で頭の悪そうな下士官ぽいヤツのアップ・・。
中身も「フン族が戻って来た」って感じで、下等人種のお顔紹介。。
特に左下のヤツは有名というか、他のプロパガンダ・ポスターでも見たことがありますね。
こんな連中に強姦されちゃったら・・。まぁ、似た顔の友達がいるんですけど・・。
ロシア女性と、幸せなアーリア人女性の顔を比較しています。
ロシアの貧しい少年と、アーリア人の幸せな子供も比較・・。
続いて男女の彫像比較・・。
下等人種の創ったものは怪しいお土産品レベルです。
まさに「退廃芸術」の極み・・。ウケるなぁ。
最後に両軍の将校の比較です。
右ページの左はドイツ陸軍将校にシュトゥーカ・パイロット。
右上のSS中尉はライプシュタンダルテのハインリヒ・シュプリンガーですね。
SS主幹の本ですから、武装SS一のイケメンとされているのかも知れません。
右下のUボート艦長はオットー・クレッチマーだと思います。
2月も終わりに近づきつつあるころ、著者は自分がどうするべきかを考えます。
日米戦争は激しさを増し、世田谷の自宅が焼かれているかもしれない・・。
それにもともとスイスに永住するのが夢であり、ドイツに踏みとどまっていた方が・・。
時々ベルリン・フィルも指揮する近衛秀麿くんも日本に帰るつもりがなく、
ソ連とは不可侵条約の関係で同盟国のような関係であるし、
例え捕えられても中立国の人間ゆえ、危害は加えられないはず・・。
しかし、日本が交戦中の米軍は、話の分かる文明国であるし・・。
ということで、市内から30㌔離れた別荘地、グロース・グリニッケ湖へと疎開します。
宣伝省は「ドイツ国政府機関は本日をもってベルリンを去り、他の所に移動する」と発表。
ただし、役人の6割が移動したのは事実ながらも、地方に疎開したわけではなく、
そのまま「国民突撃隊」に編入されてしまったということです。
また、ベルリン市内の警官も同様ですし、消防隊も1400台の消防車を残して・・。
疎開しても自宅のあるベルリンが心配でなりません。
3日もすると、3タクトの小さなDKWで市内を走り回ります。
山下奉文という軍人と五目並べをやった日本料理店に、アロイス・ヒトラーという喫茶店。
そこの主人はヒトラーの兄と言われているほど、体つきも顔も髭も良く似ているそうで、
ひょっとしたら、ヒトラーの死体と云われている写真は、彼なんじゃないでしょうか??
日本大使館では大島大使らがすでに南へ逃れてしまっているため、河原参事官が留守番。
「第二次大戦下ベルリン最後の日」ともリンクしてますねぇ。
別荘では東プロイセンやポンメルンから逃れてきた女性たちによる報告会。
強姦と暴虐の限りを尽くす赤軍の獣のような恐ろしさを語ります。
修道女がロシア兵に次々と24時間も連続強姦された話などなど。。
4月20日のヒトラー誕生日も過ぎ、ゲッベルスは家族を連れて総統ブンカーに入ったと報じると、
ナチス幹部が南部へ逃げたり、自殺したりしているなか、
敢然と立ちあがったこの男を皆が見直します。
嘘八百だと思われていた「ソ連兵の強姦の脅威」も事実だと証明されたことも手伝って、
最後の最後に男を上げたゲッベルス。。
既に新聞は発行されなくなっていますが、ここに至って「ベルリン前線新聞」という肩書の
「デア・パンツァーベア(装甲熊)」が創刊されます。
ゲッベルスの演説を編集したのは新聞局長のハンス・フリッチェです。
それにしてもこの「装甲熊」のロゴ、可愛らしいですね。
4月25日、西の方から銃声や迫撃砲の音が聞こえだすと、
旭日旗のような旗を作って家の前に立てて、「中立国の家」としていたことから、
隣近所の奥さんと娘さん、10数人が匿ってもらおうと押し寄せてきます。
青い顔をして、強姦されるよりは死ぬつもり・・と語る娘に、
抵抗して殺されるより、要求に応ずる・・と言う若い母親。
予期せぬ重大な責任を負わされて、とりあえず全員を屋根裏部屋に・・。
そして遂にやって来た赤軍兵。
両手を高く挙げて「ヤポンスキー」と訴えますが、信じてもらえません。
しかし「シュナップス」がないことが判ると、腕時計を奪って出て行きます。
ベルリン市内では武装SSが地下トンネルで激しく抵抗し、赤軍も苦戦との情報が入るなか、
こちらにやって来たのは、ウズベク人とポーランド兵の質の悪い混成部隊だと判明します。
流暢なドイツ語を喋る大佐のもとに出頭し、暴行を止めるように訴えます。
そこにはゲッベルスの寵愛を受けていたと言われる大舞台女優のオルガ・チェホワもおり、
ロシア語で楽しそうに談笑。「彼女がスパイであったという噂は本当らしい・・」。
ちなみにこの女性については、5月にアントニー・ビーヴァーの本が出ています。
「ヒトラーが寵愛した銀幕の女王: 寒い国から来た女優オリガ・チェーホワ」ですね。
帰ってもやって来るのは「ドイチェ・フラウを出せ!」と怒鳴るポーランド兵たちです。
「ドイツ兵はポーランドの女を一人残らず暴行した。その仕返しをしてなぜ悪い。
私はドイツの女を全部強姦するためにやって来たのだ」。
ヒトラーも自殺して、近郊から集められた25人の日本人はモスクワへ送られることに・・。
2台の軍用トラックに乗せられて、戦闘が終わったばかりの荒廃したベルリン市内へ入ると、
交差点ではスタイルの良い制服を着た女兵士がテキパキと交通整理。
国会議事堂の屋根にもブランデンブルク門にも赤旗がはためき、
東に向かって大量のドイツ軍の捕虜が歩いています。
この捕虜の一団を先導しているのはポーランド人であり、、
強制労働者の立場から一転、その手には憎しみのムチが握られているのです。
辿り着いたモスクワでは待遇良く、赤の広場にレーニン廟まで見学。
真新しい軍服に身を包んだ若い兵士たちは実に礼儀正しく、
「16歳から60過ぎの老婆まで強姦した鬼畜」を想像することは出来ません。
彼らの胸には「ベルリンの勝利」でもらったという、新しい勲章が揺れています。
う~ん。「ベルリン攻略記章」っていうのが確かにあるんですね。
「大祖国戦争 対独戦勝記章」というのもありますし、
日本人が見たくもないと思うような「対日戦勝記章」もあります。
左からその順番で・・。
前2冊の日本人ベルリン最終戦シリーズに勝るとも劣らない一冊でした。
それどころか、ほぼベルリン市民と同化していますから、
「戦時下のベルリン: 空襲と窮乏の生活1939-45」の日本人体験版といった趣も・・。
政治的、軍事的視点が一般市民レベルというのが逆に生々しいですし、
情報の錯綜、独ソのプロパガンダに揺れる心も伝わってきました。
最初から最後まで興味深いエピソードの連続で、実に堪能しました。
以前にコメントで教えていただいた、東部戦線ハンガリー軍の従軍取材があるという
「第二次世界大戦下のヨーロッパ」もつい買ってしまいました。
途中の「Der Untermensch」のインパクトに主題のお株を奪われそうになりつつw、面白かったです。 いろんな本や人物を絡めて紹介されているので、なるほど~と思いながら読ませていただきました。
>「ドイチェ・フラウを出せ!」と怒鳴るポーランド兵たちです。
あの時代のポーランド人には本当に同情を禁じえないのですがこういうのは改めて知るとやっぱりちょっとショックですね。。。 ポーランドには知り合いも出来たのでそのうち行けたらと思っていますが。
>解決策として田中路子は避妊手術を受けること・・
あの時代に生まれなくて本当によかった。
by IZM (2014-01-30 00:30)
「Der Untermensch」、気に入ってもらえて良かったです。一般のドイツ人が見たこともない「野蛮人」の恐ろしさをラジオで喋るよりはわかりやすいですよね。
ボクは当時、この独ソの写真をセレクトしている過程が気になります。
「こいつは酷い顔してるなぁ」とか、編集者たちがワイワイ言いながら選んだのか、わざわざ捕虜収容所に行って、悪そうな兵士の写真を撮ったのか??
ポーランド兵の話も確かに珍しいですね。ドイツじゃ、こんなエピソード許されそうもありません。こういうところが第3者の体験談として本書の良い部分です。
それから避妊手術の件はもっと詳しく書かれてるんですよ。
今まで障害者や性犯罪者に対する断種だとかは読んできましたが、対象が日本人になると俄然、読んでいて辛くなります。
著者も、結婚なんてあと数年我慢すればナチスが崩壊して自由になるかもしれないのに・・・と語っていますが、どういう気持ちだったんでしょうねぇ。日独ともに戦局が悪いから、余計に結婚したい・・と思ったんでしょうか。
ちょっと今回は刺激が強すぎたかも知れませんが、時間が経つほど名著の域にある気がしてきました。
by ヴィトゲンシュタイン (2014-01-30 07:21)
ヴィト様、こんばんは、去る28日には、突然あのような事を書いてお送りしてすみませんでした。内容に驚いて、怖かったものですから・・・さぞやお怒りになっていらっしゃるのではと、一人悩んで気に病んでおり、後悔しております。どうか、枉げて寛恕のほどお願い申し上げます。
by るー (2014-01-30 20:11)
いや~、怒るわけないじゃないですか。大魔神が怒る前の穏やかな顔をしたヴィトゲンシュタインです。
たまにこんな刺激の強い記事があるのでスイマセン。。
以前にも、「怖くなって途中で閉じちゃいました・・」なんてのがありましたっけ・・。
by ヴィトゲンシュタイン (2014-01-30 21:16)
ヴィト様がそうおっしゃってくださって安心しました。(^_^)
by ルー (2014-01-31 05:37)