幻の1940年計画 -太平洋戦争の前夜、“奇跡の都市”が誕生した- [スポーツ好きなんで]
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
指南役 著の「幻の1940年計画」を読破しました。
11月の「帝国日本とスポーツ」にも少し書かれていた1940年の東京オリンピック。
なにか詳しく書かれているものがないか・・と探していたところ、
2009年発刊、237ページの本書に辿り着きました。
実際のところ、その東京オリンピックに限定したものではありませんが、
このタイトルからして、ナチス・ドイツの「ゲルマニア計画」を彷彿とさせますね。
「プロローグ」では戦後復興を象徴する4大プロジェクト、
「オリンピック」に「万博」、「テレビ放送」、「新幹線計画」が、
1940年に先行して行われる予定であったものの、戦争によって闇に葬られたこと。
そしてこの1940年の4大事業に光を当てることによって、
日本の30年代の本当の姿を掘り起こそう・・と語ります。
最初の事業は「東京オリンピック」です。
皇紀2600年の記念事業としてオリンピックを東京に誘致するアイデアが誕生した経緯、
中心となった永田秀次郎東京市長や、日本のIOC委員たちと奮闘、
極めつけは、強力なライバルである立候補都市のローマを脱落させるため、
副島委員によるムッソリーニへの直談判です。
「日本にとって皇紀2600年となる、この年のオリンピックを譲っていただければ、
次の1944年、日本はローマを支持します」。
これに「ローマは1940年の立候補は辞退しましょう」と笑顔で語るドゥーチェ・・。
1936年3月にはIOC会長のアンリ・ド・バイエ=ラトゥールを招いて、「お・も・て・な・し」。
しかし僅か1ヶ月前には、あの「2.26事件」が起こっている東京です。
それでも1930年には銀座三越がオープンし、翌年には日本橋の白木屋、
1932年には同じ日本橋の三越が大々的にリニューアル、高島屋も日本橋に、
新宿には伊勢丹・・と、好景気による百貨店の群雄割拠の時代でもあるのです。
巻頭にはそんな時代の銀座の絵葉書も・・。
結局、ラトゥールが東京支持を表明したことで、最後のライバル、ヘルシンキに9票差の勝利。
米英など主要な国々も東京に票を投じたのです。
本書は写真や、当時の新聞記事が多く掲載されているのが良いですねぇ。
ポスターも「ハニワ」だけじゃなく、それらしいのも作られていたようです。
開催が決定したら、次にはメイン・スタジアムを決めなければなりません。
明治神宮外苑競技場は4万席しかなく、3倍の12万席に改修する必要がありますが、
内務省神社局からクレームが・・。
「神宮外苑は明治天皇を祀る由緒ある場所。工事なんてとんでもない」。
そこで世田谷区駒沢のゴルフ場跡地に新設することで落ち着きます。
1964年の第2会場になった場所ですね。
掲載されている完成予想図では仮設も入れて11万席と巨大なもの。。
1936年の夏季オリンピック「ベルリン大会」でも、同年2月に冬季オリンピックが
同じドイツの「 ガルミッシュ=パルテンキルヒェン」で行われたように、
当時は夏季オリンピックの開催国が冬季大会も優先的に開催できることになっています。
そこで決まったのが「札幌オリンピック」。1940年2月3日から12日間と決定するものの、
スキー競技がまだ後進国の日本には花形選手も存在しません。
しかし前回大会で弱冠12歳ながら、フィギアスケートで10位に入った国民的スター、
稲田悦子ちゃんが16歳に成長して、メダルも期待されるのです。
右から2人目の小っちゃい子が彼女です。
は~、「幻の札幌オリンピック」も知りませんでしたが、悦子ちゃんも初耳です。
ちょっと調べてみましたが、12歳当時は身長も125㎝程度で、完全にジュニアですね。
今でいうところの浅田真央ちゃんと本田望結ちゃんを足したくらいの人気でしょうか??
それとも女子ジャンプの高梨沙羅ちゃんみたいなもんかなぁ??
順調だった東京オリンピック計画も1937年に日中戦争が勃発したことで、
開催権を返上せざるを得なくなります。
その理由は、メインスタジアムを建設する「鉄」が兵器に回されるから・・。
政府や軍部はオリンピックにはさほど関心は示しておらず、
陸軍に至っては陸軍選手の派遣を断るほど、非協力的。
一方、IOCは「オリンピックは政治の介入を受けない」との理念が存在していることで、
日本が国連を脱退していようが、招致活動に影響はなかったのです。
今年、2020年の誘致活動を見ていて思いましたが、本来、都市が開催するオリンピック。
それがあまりにも巨大になり過ぎて、国の全面的バックアップが必要不可欠です。
コレって、なにかが間違っているような気もしました。
続いての章は「日本万国博覧会」。
オリンピックと同じく、1940年に東京で開催予定だった、日本最初の万博のお話です。
1851年のロンドンで初めて開催された万博を日本でもという計画は
何度もあったものの、その都度に立ち消え。
そこでやっぱり皇紀2600年の記念として、1935年に国の事業として認可されます。
1940年3月15日から170日間、東京月島の埋立地、100万坪が会場予定地。
予定参加国は50か国、目標来場者数は4500万人というビッグイベントです。
築地と会場の月島を結ぶ、「東洋一の可動橋」である勝鬨橋が建設されますが、
万博のインフラ、東京の都市整備としてはそんな程度です。
1923年の関東大震災からの大復興によって、1930年には東京は生まれ変わっており、
これ以上のインフラ事業は必要としなかったのです。
1900年のパリ万博が財源として宝くじ付き前売り券で成功したことを見習って、
早々と発売。
しかし、オリンピックと同様、日中戦争の余波により「延期」に・・。
この万博の前売り入場券。30年後の1970年「大阪万博」でも使用できたそうで、
実際、3000枚以上が使用されたそうです。
その理由は2つ。
1940年の万博が「中止」ではなく、「延期」とされたこと。
さらにこの東京での万博が「日本万国博覧会」という名称だったのと同様に、
「大阪万博」も通称であり、正式にはやっぱり「日本万国博覧会」。
すなわち、1940年に延期された万博が30年後に場所を変えて開催された・・、
といった感じですね。
そういえば1970年の「大阪万博」。
この存在を知ったのは、我が家に「100円記念コイン」があったからです。
1964年東京オリンピックの「1000円銀貨」と共に、子供ながらに良く手にしていました。
そしてあるとき、父親に万博の話を聞いたところ、
写真を見せて、日本館の催しの仕事で兄貴を連れて行ったとのこと。。
東京オリンピックのときには生まれてないのでしょうがないにしても、
万博のときには生まれていましたから、
「なんでボクも連れて行ってくれなかったんだ!」と、泣いて抗議したのを覚えています。
しかし、まだ2歳ですからねぇ。。行っていたとしても記憶にないでしょう・・。
次は「テレビジョン」。
1926年、世界初の「電気式テレビジョン」の実験が浜松高等工業で成功。
わずか40本の走査線ながら、ブラウン管に「イ」の文字を映し出します。
そんなテレビ誕生の歴史から詳しく展開。
1936年のベルリン・オリンピックでドイツはベルリン市内を中心に
28か所でテレビ中継を行います。
となれば、4年後の東京オリンピックでも本格的な中継が検討され、
第一人者の高柳健次郎とNHKがタッグを組んで、
ベルリンの走査線180本を大きく上回る、441本を基準として開発がスタート。
しかし、ここでもオリンピック返上によって、本放送も延期が決定。
目標を失いつつも、研究と試験放送は続けられますが、
1941年に太平洋戦争が勃発すると、NHKのプロジェクトチームは解散を余儀なくされ、
リーダの高柳は、海軍でレーダー研究を命ぜられるのでした。
戦後、再びテレビの歴史が動き出し、1953年になってようやく放送開始となりますが、
確かに戦争がなければ、13年早い、1940年には始まっていたと思いましたね。
「弾丸列車」。
なんとなく聞いたことのある名前ですね。テッチャンなら誰でも知っているんでしょうか??
1940年に立案されたこの計画は、東京~北京までを24時間で結ぼうというもので、
掲載されているこんな路線図を見ても、ホンマかいな・・?? と関西弁なってしまいます。
線路の幅は1435㎜の広軌とし、東京~大阪間を4時間半、下関間なら9時間、
最高速度150㌔で運転するという「新幹線計画」です。
早速、1934年にデビューした最高速度120㌔を誇る、満鉄の「あじあ号」を研究。
当時流行の流線型を取り入れた外観だけでなく、
全車両に冷暖房を完備し、食堂車では白系ロシア人の若い女性が給仕する夢の鉄道。
新幹線計画は電気機関車なら時速200㌔も可能として進みますが、
軍が電化に反対します。
「敵の軍隊がやってきて、変電所がやられたら、いっぺんに動かなくなるではないか」。
そこで蒸気機関車のスピードアップの為に、あじあ号より大きい2m30㎝の巨大な動輪を採用。
これはナチス・ドイツが威信かけて作った「05型」と同じサイズで、
試験走行で時速200㌔を突破しているのです。
こうして「HD53型」と命名されて、さらに用地買収とトンネル工事が始まります。
ふ~ん。ナチス・ドイツの「05型」。初めて知りました。
弾丸列車ならぬ、「電撃列車」とかあだ名が付いていたのかも。。
対馬海峡と朝鮮海峡の海底トンネル地質調査も1941年に行われ、
始発の東京駅をどこに置くのかも検討されて、市ヶ谷が最有力候補に・・。
しかし、遂に1943年11月、物資も人員も不足し、弾丸列車工事は中止。。
それでも戦後、東海道新幹線が着工からわずか5年で完成できたのは、
用地買収などの露払いを弾丸列車がやってくれたおかげなのでした。
この弾丸列車の模型 ↑ ですが、ドラゴンズ・ブルーで格好いいですね。
来年2月からのスーパー戦隊は、「烈車戦隊 トッキュウジャー」だそうで、
ブルーレンジャーのモデルになっているかも知れません。。
最後の章は「黄金の40年代」と題して、戦争の起こらなかった1940年を夢想します。
オリンピックに万博が開催され、テレビ中継がスタート。
戦後の街頭テレビといえば力道山が大人気コンテンツでしたが、
この1940年代の彼はまだ単なる関脇止まりの現役力士でしかありません。
とすれば、プロレス時代の力道山人気をも凌ぐ大横綱の双葉山が大スター。
相撲中継のNHKだけでなく、正力松太郎の日本テレビも黙ってはいません。
身内の巨人軍には大エース、沢村栄治が現役バリバリなのです。
また、東京オリンピックの公開競技として武道と共に決まっていた野球にも
沢村らプロ選手が出場できた可能性もあり、そうなれば視聴者も釘づけ・・。
1937年の春には24勝4敗、防御率0.81、奪三振196の怪物も、
現実には翌年から3度の兵役の末に手榴弾の投げ過ぎで肩を壊した挙句、
1944年、乗っていた輸送船が台湾沖で米潜水艦に雷撃されてしまったのです。
今年、とんでもない成績を挙げたマー君が、メジャーに行くどころか、
その米国に殺されてしまったと考えたらやり切れませんね・・。
他にも、ドイツのアウトバーンと同様に、「弾丸道路」構想が
1930年代に持ち上がっていたという話や、
三菱重工に中島飛行機、川崎航空機など世界有数の航空機メーカーによって、
航空産業も世界の最先端を走っていたはずだ・・と夢は続きます。
こういう本は読んでいて楽しいですね。
所々、手塚アニメのような世界も連想させますし、「帝国日本とスポーツ」を読んだ後だけに、
IFとして、日本のスポーツがどうなったのを考えるのも面白い。
「関東大震災」の結果、東京が近代的に整備されていた話も納得です。
また、ナチス・ドイツの状況にも触れられているのも、当然、楽しめましたし、
端折りましたが、李香蘭(山口淑子)の人気のほども知ることが出来ました。
幻の東京オリンピックについては、さらに専門的そうな一冊、
「幻の東京オリンピックとその時代―戦時期のスポーツ・都市・身体」があり、
また似たようなタイトルで紛らわしいですが、
「幻の東京オリンピック 1940年大会 招致から返上まで」が年明けに文庫化。
皇紀2600年の日本を外国人が分析したものとして、
「紀元二千六百年 消費と観光のナショナリズム」が出ており、
非常に気になっているところです。
年末にはBS1で「幻の祝祭~1940東京五輪物語~」というドキュメンタリードラマを
放送するそうで、これもちょっと楽しみです。
指南役 著の「幻の1940年計画」を読破しました。
11月の「帝国日本とスポーツ」にも少し書かれていた1940年の東京オリンピック。
なにか詳しく書かれているものがないか・・と探していたところ、
2009年発刊、237ページの本書に辿り着きました。
実際のところ、その東京オリンピックに限定したものではありませんが、
このタイトルからして、ナチス・ドイツの「ゲルマニア計画」を彷彿とさせますね。
「プロローグ」では戦後復興を象徴する4大プロジェクト、
「オリンピック」に「万博」、「テレビ放送」、「新幹線計画」が、
1940年に先行して行われる予定であったものの、戦争によって闇に葬られたこと。
そしてこの1940年の4大事業に光を当てることによって、
日本の30年代の本当の姿を掘り起こそう・・と語ります。
最初の事業は「東京オリンピック」です。
皇紀2600年の記念事業としてオリンピックを東京に誘致するアイデアが誕生した経緯、
中心となった永田秀次郎東京市長や、日本のIOC委員たちと奮闘、
極めつけは、強力なライバルである立候補都市のローマを脱落させるため、
副島委員によるムッソリーニへの直談判です。
「日本にとって皇紀2600年となる、この年のオリンピックを譲っていただければ、
次の1944年、日本はローマを支持します」。
これに「ローマは1940年の立候補は辞退しましょう」と笑顔で語るドゥーチェ・・。
1936年3月にはIOC会長のアンリ・ド・バイエ=ラトゥールを招いて、「お・も・て・な・し」。
しかし僅か1ヶ月前には、あの「2.26事件」が起こっている東京です。
それでも1930年には銀座三越がオープンし、翌年には日本橋の白木屋、
1932年には同じ日本橋の三越が大々的にリニューアル、高島屋も日本橋に、
新宿には伊勢丹・・と、好景気による百貨店の群雄割拠の時代でもあるのです。
巻頭にはそんな時代の銀座の絵葉書も・・。
結局、ラトゥールが東京支持を表明したことで、最後のライバル、ヘルシンキに9票差の勝利。
米英など主要な国々も東京に票を投じたのです。
本書は写真や、当時の新聞記事が多く掲載されているのが良いですねぇ。
ポスターも「ハニワ」だけじゃなく、それらしいのも作られていたようです。
開催が決定したら、次にはメイン・スタジアムを決めなければなりません。
明治神宮外苑競技場は4万席しかなく、3倍の12万席に改修する必要がありますが、
内務省神社局からクレームが・・。
「神宮外苑は明治天皇を祀る由緒ある場所。工事なんてとんでもない」。
そこで世田谷区駒沢のゴルフ場跡地に新設することで落ち着きます。
1964年の第2会場になった場所ですね。
掲載されている完成予想図では仮設も入れて11万席と巨大なもの。。
1936年の夏季オリンピック「ベルリン大会」でも、同年2月に冬季オリンピックが
同じドイツの「 ガルミッシュ=パルテンキルヒェン」で行われたように、
当時は夏季オリンピックの開催国が冬季大会も優先的に開催できることになっています。
そこで決まったのが「札幌オリンピック」。1940年2月3日から12日間と決定するものの、
スキー競技がまだ後進国の日本には花形選手も存在しません。
しかし前回大会で弱冠12歳ながら、フィギアスケートで10位に入った国民的スター、
稲田悦子ちゃんが16歳に成長して、メダルも期待されるのです。
右から2人目の小っちゃい子が彼女です。
は~、「幻の札幌オリンピック」も知りませんでしたが、悦子ちゃんも初耳です。
ちょっと調べてみましたが、12歳当時は身長も125㎝程度で、完全にジュニアですね。
今でいうところの浅田真央ちゃんと本田望結ちゃんを足したくらいの人気でしょうか??
それとも女子ジャンプの高梨沙羅ちゃんみたいなもんかなぁ??
順調だった東京オリンピック計画も1937年に日中戦争が勃発したことで、
開催権を返上せざるを得なくなります。
その理由は、メインスタジアムを建設する「鉄」が兵器に回されるから・・。
政府や軍部はオリンピックにはさほど関心は示しておらず、
陸軍に至っては陸軍選手の派遣を断るほど、非協力的。
一方、IOCは「オリンピックは政治の介入を受けない」との理念が存在していることで、
日本が国連を脱退していようが、招致活動に影響はなかったのです。
今年、2020年の誘致活動を見ていて思いましたが、本来、都市が開催するオリンピック。
それがあまりにも巨大になり過ぎて、国の全面的バックアップが必要不可欠です。
コレって、なにかが間違っているような気もしました。
続いての章は「日本万国博覧会」。
オリンピックと同じく、1940年に東京で開催予定だった、日本最初の万博のお話です。
1851年のロンドンで初めて開催された万博を日本でもという計画は
何度もあったものの、その都度に立ち消え。
そこでやっぱり皇紀2600年の記念として、1935年に国の事業として認可されます。
1940年3月15日から170日間、東京月島の埋立地、100万坪が会場予定地。
予定参加国は50か国、目標来場者数は4500万人というビッグイベントです。
築地と会場の月島を結ぶ、「東洋一の可動橋」である勝鬨橋が建設されますが、
万博のインフラ、東京の都市整備としてはそんな程度です。
1923年の関東大震災からの大復興によって、1930年には東京は生まれ変わっており、
これ以上のインフラ事業は必要としなかったのです。
1900年のパリ万博が財源として宝くじ付き前売り券で成功したことを見習って、
早々と発売。
しかし、オリンピックと同様、日中戦争の余波により「延期」に・・。
この万博の前売り入場券。30年後の1970年「大阪万博」でも使用できたそうで、
実際、3000枚以上が使用されたそうです。
その理由は2つ。
1940年の万博が「中止」ではなく、「延期」とされたこと。
さらにこの東京での万博が「日本万国博覧会」という名称だったのと同様に、
「大阪万博」も通称であり、正式にはやっぱり「日本万国博覧会」。
すなわち、1940年に延期された万博が30年後に場所を変えて開催された・・、
といった感じですね。
そういえば1970年の「大阪万博」。
この存在を知ったのは、我が家に「100円記念コイン」があったからです。
1964年東京オリンピックの「1000円銀貨」と共に、子供ながらに良く手にしていました。
そしてあるとき、父親に万博の話を聞いたところ、
写真を見せて、日本館の催しの仕事で兄貴を連れて行ったとのこと。。
東京オリンピックのときには生まれてないのでしょうがないにしても、
万博のときには生まれていましたから、
「なんでボクも連れて行ってくれなかったんだ!」と、泣いて抗議したのを覚えています。
しかし、まだ2歳ですからねぇ。。行っていたとしても記憶にないでしょう・・。
次は「テレビジョン」。
1926年、世界初の「電気式テレビジョン」の実験が浜松高等工業で成功。
わずか40本の走査線ながら、ブラウン管に「イ」の文字を映し出します。
そんなテレビ誕生の歴史から詳しく展開。
1936年のベルリン・オリンピックでドイツはベルリン市内を中心に
28か所でテレビ中継を行います。
となれば、4年後の東京オリンピックでも本格的な中継が検討され、
第一人者の高柳健次郎とNHKがタッグを組んで、
ベルリンの走査線180本を大きく上回る、441本を基準として開発がスタート。
しかし、ここでもオリンピック返上によって、本放送も延期が決定。
目標を失いつつも、研究と試験放送は続けられますが、
1941年に太平洋戦争が勃発すると、NHKのプロジェクトチームは解散を余儀なくされ、
リーダの高柳は、海軍でレーダー研究を命ぜられるのでした。
戦後、再びテレビの歴史が動き出し、1953年になってようやく放送開始となりますが、
確かに戦争がなければ、13年早い、1940年には始まっていたと思いましたね。
「弾丸列車」。
なんとなく聞いたことのある名前ですね。テッチャンなら誰でも知っているんでしょうか??
1940年に立案されたこの計画は、東京~北京までを24時間で結ぼうというもので、
掲載されているこんな路線図を見ても、ホンマかいな・・?? と関西弁なってしまいます。
線路の幅は1435㎜の広軌とし、東京~大阪間を4時間半、下関間なら9時間、
最高速度150㌔で運転するという「新幹線計画」です。
早速、1934年にデビューした最高速度120㌔を誇る、満鉄の「あじあ号」を研究。
当時流行の流線型を取り入れた外観だけでなく、
全車両に冷暖房を完備し、食堂車では白系ロシア人の若い女性が給仕する夢の鉄道。
新幹線計画は電気機関車なら時速200㌔も可能として進みますが、
軍が電化に反対します。
「敵の軍隊がやってきて、変電所がやられたら、いっぺんに動かなくなるではないか」。
そこで蒸気機関車のスピードアップの為に、あじあ号より大きい2m30㎝の巨大な動輪を採用。
これはナチス・ドイツが威信かけて作った「05型」と同じサイズで、
試験走行で時速200㌔を突破しているのです。
こうして「HD53型」と命名されて、さらに用地買収とトンネル工事が始まります。
ふ~ん。ナチス・ドイツの「05型」。初めて知りました。
弾丸列車ならぬ、「電撃列車」とかあだ名が付いていたのかも。。
対馬海峡と朝鮮海峡の海底トンネル地質調査も1941年に行われ、
始発の東京駅をどこに置くのかも検討されて、市ヶ谷が最有力候補に・・。
しかし、遂に1943年11月、物資も人員も不足し、弾丸列車工事は中止。。
それでも戦後、東海道新幹線が着工からわずか5年で完成できたのは、
用地買収などの露払いを弾丸列車がやってくれたおかげなのでした。
この弾丸列車の模型 ↑ ですが、ドラゴンズ・ブルーで格好いいですね。
来年2月からのスーパー戦隊は、「烈車戦隊 トッキュウジャー」だそうで、
ブルーレンジャーのモデルになっているかも知れません。。
最後の章は「黄金の40年代」と題して、戦争の起こらなかった1940年を夢想します。
オリンピックに万博が開催され、テレビ中継がスタート。
戦後の街頭テレビといえば力道山が大人気コンテンツでしたが、
この1940年代の彼はまだ単なる関脇止まりの現役力士でしかありません。
とすれば、プロレス時代の力道山人気をも凌ぐ大横綱の双葉山が大スター。
相撲中継のNHKだけでなく、正力松太郎の日本テレビも黙ってはいません。
身内の巨人軍には大エース、沢村栄治が現役バリバリなのです。
また、東京オリンピックの公開競技として武道と共に決まっていた野球にも
沢村らプロ選手が出場できた可能性もあり、そうなれば視聴者も釘づけ・・。
1937年の春には24勝4敗、防御率0.81、奪三振196の怪物も、
現実には翌年から3度の兵役の末に手榴弾の投げ過ぎで肩を壊した挙句、
1944年、乗っていた輸送船が台湾沖で米潜水艦に雷撃されてしまったのです。
今年、とんでもない成績を挙げたマー君が、メジャーに行くどころか、
その米国に殺されてしまったと考えたらやり切れませんね・・。
他にも、ドイツのアウトバーンと同様に、「弾丸道路」構想が
1930年代に持ち上がっていたという話や、
三菱重工に中島飛行機、川崎航空機など世界有数の航空機メーカーによって、
航空産業も世界の最先端を走っていたはずだ・・と夢は続きます。
こういう本は読んでいて楽しいですね。
所々、手塚アニメのような世界も連想させますし、「帝国日本とスポーツ」を読んだ後だけに、
IFとして、日本のスポーツがどうなったのを考えるのも面白い。
「関東大震災」の結果、東京が近代的に整備されていた話も納得です。
また、ナチス・ドイツの状況にも触れられているのも、当然、楽しめましたし、
端折りましたが、李香蘭(山口淑子)の人気のほども知ることが出来ました。
幻の東京オリンピックについては、さらに専門的そうな一冊、
「幻の東京オリンピックとその時代―戦時期のスポーツ・都市・身体」があり、
また似たようなタイトルで紛らわしいですが、
「幻の東京オリンピック 1940年大会 招致から返上まで」が年明けに文庫化。
皇紀2600年の日本を外国人が分析したものとして、
「紀元二千六百年 消費と観光のナショナリズム」が出ており、
非常に気になっているところです。
年末にはBS1で「幻の祝祭~1940東京五輪物語~」というドキュメンタリードラマを
放送するそうで、これもちょっと楽しみです。
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