ヤークトパンター戦車隊戦闘記録集 -第654重戦車駆逐大隊- [パンツァー]
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
カールハインツ・ミュンヒ著の「ヤークトパンター戦車隊戦闘記録集」を読破しました。
2010年に登場した大判の627ページ、8925円の本書。
ようやく古書価格が6000円を切ったところで購入しました。
こんなところが妥当でしょう。。
姉妹大隊の「第653重戦車駆逐大隊戦闘記録集」をやっつけたのが2年前ですから、
予想以上に時間が経ってしまいましたね。
1ページ目からはいつものように「装備車両の塗装とマーキング」がカラーで・・。
ツィタデレ作戦のフェルディナンドを中心に、もちろんヤークトパンター、
それから大隊本部中隊のパンター指揮戦車、回収小隊のベルゲパンターに、
Ⅳ号対空戦車のヴィルベルヴィントなどがカラーイラストで紹介されます。
カラー写真も3枚。そのうちヴィンターベルクで乗り捨てられたヤークトパンターは
有名なヤツですね。
この写真 ↓ 死んだ巨大未確認動物に一瞬見えるんです。
大隊の歴史が簡単に語られた後、本文が始まります。
「第654戦車駆逐大隊の創設と作戦行動」で、1939年8月-1940年7月まで。
この創設当時は「ただの戦車駆逐大隊」で、「重」は付いていません。
最新兵器である3.7㎝対戦車砲(PaK35/36)を36門、
弾薬輸送用トラックで牽引するという、
タイトルのヤークトパンター戦車隊とは似ても似つかぬ独立大隊です。
西方電撃戦ではヘプナーの第16軍団として第3装甲師団に隷属し、オランダへ侵攻。
ベルギー領内に入ると第4装甲師団に配属され、フランスへ・・。
歩哨が深夜、テロリスト(レジスタンス)に背後から撃たれたり、
避難民にはパンやチョコレートを与えたり、フィールドキッチンの食糧を提供したりと、
興味深い話も多くて楽しめます。
2級鉄十字章を受章したマイヤー少尉の後に、マイヤー伍長も同章を授かりますが、
彼は「マイヤーⅡ号伍長」と呼ばれています。
これはマイヤー姓が多く、ファーストネームもあまり使われなかったためだそうで、
ドイツ軍では「ドライ」と紛らわしい「ツヴァイ」を使わないから、
「ゲフライター・マイヤー・ツヴォーであろう」と親切な注釈付きです。
写真はフランス軍のオチキスH35や、ソミュアS35、
撃破したルノーB1bisの前での記念撮影・・など。
あ~、「西方電撃戦: フランス侵攻1940」、モ~レツに欲しくなってきた!
続く「東部戦線における第654戦車駆逐大隊」は1940年7月-1943年3月まで。
ポーランドへ移動後、第12軍団に配属されて、1941年6月のバルバロッサ作戦に参加。
T-26、BT-7、、T-35多砲塔戦車にといったソ連戦車の撃破された写真が続きますが、
T-34相手には大隊の3.7㎝砲ではまったく歯が立たないことが判明します。
そして第512戦車駆逐大隊の10.5㎝自走対戦車砲
「ディッカー・マックス(ふとっちょマックス)」が突然、出てきました。
本書によるとわずか2両しか生産されなかった貴重な車両で、
Ⅳ号戦車の車体に10.5㎝ 18式カノン砲を搭載したものだそうです。
1942年12月になって、第654戦車駆逐大隊にも待望の自走砲が到着。
Ⅱ号戦車の車体に40式7.5㎝対戦車砲を搭載した「マーダーⅡ」です。
装甲が薄いことが欠点ではあるものの、優れた砲、機動性に富んだ素晴らしい車両に
誇らしい気持ちになったのも束の間、「ロシア戦車!」と叫んでは
失禁するほど怯え、武器を捨てて逃げ出すイタリア兵の姿。。
いや~、このあたり「雪の中の軍曹」を思い出しました。。
このマーダーⅡ戦記も楽しめますが、残念ながら肝心の写真は一枚も無し・・。
2年目のロシアの冬で消耗した大隊はハンブルクへと戻って再編成です。
ここから「第654重戦車駆逐大隊の創設と作戦行動」で、1943年4月-1944年1月まで。
当初大隊は「ホルニッセ(ナースホルン)」自走砲を装備するはずが、土壇場で覆され、
フェルディナンド重駆逐戦車が支給されることとなり、
部隊名にも遂に「重」の文字が付与されます。
6月初頭には装甲兵総監であるグデーリアンを迎えての大規模演習。
「フェルディナンドの主な役割は、巧みに要塞化され、確立した戦線を打ちのめし、
後続の戦車部隊のために敵後方へと進路を啓開することである」。
といった言葉を述べるものの、グデーリアン本人の写真はありません。
過去の本の印象ではフェルディナンドに懐疑的だったグデーリアンですから、
この怪物との2ショットもほとんど見たことがないですね。
本書では代わりに、ポルシェ博士らを乗せて運転する、シュペーア軍需相の写真が・・。
これと同時に柏葉章拝領者のカール・ハインツ・ノアク大尉が大隊長となり、
第653重戦車駆逐大隊とともに「第656重戦車駆逐連隊」が編成されて、
クルスクの戦いへと向かいます。
しかし第2中隊は地図上に記載のなかった自軍が敷設した地雷原にはまり込み、
ほとんどのフェルディナンドが戦闘不能に・・。
写真はフェルディナンド中心ですが、ブルムベアにパンター、Ⅲ号突撃砲、
ボルクヴァルトⅣを無線でコントロールする「Ⅲ号親戦車」など、初見のものが多いですね。
読み応えのある戦記部分では、「マイヤーⅣ号2等兵」も出てきます。
またフェルディナンドの車長は、車長と言わずに「砲班長」と言うんですね。
まぁ、兵科的にも戦車ではなく、砲兵が装甲車に乗っているということなんでしょう。
機銃がないので手榴弾や地雷の肉薄攻撃にやられたという話もよくありますが、
大隊長の戦闘報告書では、次の一文が印象的です。
「フェルディナンドが敵歩兵の攻撃に極めて脆弱なのではという懸念は
まったくの杞憂であった。発砲時の凄まじい爆音や、敵歩兵に与える心理的影響により、
戦闘中に近づいてきた者は唯一人としていなかった。
よって歩兵の前にフェルディナンドを投入してはならないという原則に根拠はないようである」。
ちなみにドラゴンアーマーの1/72のエレファントが我が家に飾ってあります。
ジオラマになってるんですが、ソ連兵が1人いるのが絶妙な雰囲気で。。
247ページからの章は、1944年1月から6月22日まで。
再度、東部戦線で消耗した大隊は、フランスで休養、訓練、再編成を行います。
軍事法廷で郵便物の小包1個を盗んだ第3中隊のリンド伍長が禁固9か月、
上官を侮辱したライトナー先任曹長は禁固3ヵ月の刑を言い渡されながらも大隊は、
本書の主役、ヤークトパンターを受領します。
しかし6月6日、連合軍がノルマンディに上陸。
大隊の保有するヤークトパンターは6月22日になっても規定数の45両よりも遥かに少ない25両。
3両のパンター指揮戦車、2両のベルゲパンターも受領できません。。
それでも翌日から移動を開始しますが、配属先が目まぐるしく変わります。
当初は第10戦車旅団だったのが第7軍団へ、SS第Ⅱ装甲軍団に配属されたかと思えば、
西部装甲集団のエーベルバッハからは第47装甲軍団の作戦指揮下にあると言われ、
第276歩兵師団の支援に差し向けられることを知らされます。
戦闘の推移は日々の報告書そのものの細かさです。
敵のシャーマン戦車1両、チャーチル戦車10両を破壊。
大隊のヤークトパンターも「311号」が爆破処分、戦死5名、負傷者27名・・など。
そして劣勢のドイツ軍は撤退を開始し出すと、セーヌ河の渡河点を探すのに四苦八苦。。
橋はすでに爆破されており、ヤークトパンターを乗せて渡れる60㌧フェリーが必要なのです。
第503重戦車大隊のティーガーと一緒に渡河したり、
隊員たちの手記のなかにも、「どうせまた爆撃されるだけだ」と言って、
壊れた橋を一向に修理しようとしなかったルーアン港湾司令官が
介入してきた武装SSによって射殺され、橋がたちどころに修繕された・・など、
こういうドタバタ感は好きなんですね。
整備班が西部戦線用の迷彩塗装を施している写真も良いですが、
一息ついた10月には新しい大隊章のデザイン・コンテストも。
巻頭に優勝を含む上位3作品がカラーで紹介されていましたが、
「退廃芸術」風の下品な作品もあったそうで、
どれくらいの退廃っぷりか見てみたかったですね。
採用された大隊章 ↓ 「N」はノアク大隊長の「N」です。
ヴィルベルヴィントとメーベルヴァーゲン各4両から成る装甲対空小隊が本部中隊に組み込まれ、
ヤークトパンター5両と対空戦車1両の「戦闘団」単位に編成されます。
いかにも敵に制空権を握られた西部戦線という感じですね。
ヴィルベルヴィントの写真も出てきましたが、
土砂降りの中、コウモリ傘をさしてのヤークトパンター路上行軍の写真が一番のお気に入りです。
シュールですよねぇ。。
ノアク大隊長の「実戦投入に関する報告」もとても興味深い内容です。
「果樹に覆われ、低木の生垣に隔てられ、一段低くなった狭い道路の一帯では
200mを超える射程をほとんど確保できない上に、至る所に潜む敵戦車猟兵に
その身を晒すことになる。
車内からの視界は限定的であり、加えて、ヤークトパンターは旋回式砲塔を持たず、
道路上では照準ため車体の方向転換も出来ないことも多い。
この地形において、歩兵支援なしの戦闘は、ほとんど絶望的な任務と言えよう」。
すなわち「ボカージュの戦い」はヴィットマンたちに任せましょうということですか。
いよいよ1945年1月から4月までの戦闘日誌です。
1月20日にはあのカール・デッカーの第39軍団と連絡。
ナースホルンを装備した第525重戦車駆逐大隊第1中隊を第4中隊として編合し、
3月、マントイフェルの第5装甲軍に隷属すると、作戦指揮機能のみを有する
バイエルライン軍団司令部に配属されます。
しかし翌日にはマントイフェルがハルペ上級大将と交代し、
バイエルライン軍団司令部も第81軍団司令部と交代したので今度はそっちへ・・。
再び、バイエルライン軍団の予備となりますが、第53軍団と改称・・。
もう、なにがなんだかわかりません。ヤークトパンターの戦闘状況よりも、
この日誌を書いている大隊長の心労の方が気になります。
3.7㎝対戦車砲の大隊として始まり、フェルディナンド大隊と進んでいった時には、
ひょっとしてヤークトパンターはオマケ程度か?? と焦りましたが、
半分以上はヤークトパンター戦車隊でホッとしました。
そもそもヤークトパンターの写真がこれほど掲載されているとは想像していませんでしたから、
嬉しい誤算ですね。
これで大日本絵画の大型写真集は「西方電撃戦」を残してやっつけたつもりでしたが、
まだ、「武装SS戦場写真集」が残っていました。
さらに出版社は違うものの、同じ武装SSの写真集では
「第5SS装甲師団「ヴィーキング」写真集 大平原の海賊たち」が出てしまいましたので、
これまた買わざるを得ないです。。ひぇ~・・。
カールハインツ・ミュンヒ著の「ヤークトパンター戦車隊戦闘記録集」を読破しました。
2010年に登場した大判の627ページ、8925円の本書。
ようやく古書価格が6000円を切ったところで購入しました。
こんなところが妥当でしょう。。
姉妹大隊の「第653重戦車駆逐大隊戦闘記録集」をやっつけたのが2年前ですから、
予想以上に時間が経ってしまいましたね。
1ページ目からはいつものように「装備車両の塗装とマーキング」がカラーで・・。
ツィタデレ作戦のフェルディナンドを中心に、もちろんヤークトパンター、
それから大隊本部中隊のパンター指揮戦車、回収小隊のベルゲパンターに、
Ⅳ号対空戦車のヴィルベルヴィントなどがカラーイラストで紹介されます。
カラー写真も3枚。そのうちヴィンターベルクで乗り捨てられたヤークトパンターは
有名なヤツですね。
この写真 ↓ 死んだ巨大未確認動物に一瞬見えるんです。
大隊の歴史が簡単に語られた後、本文が始まります。
「第654戦車駆逐大隊の創設と作戦行動」で、1939年8月-1940年7月まで。
この創設当時は「ただの戦車駆逐大隊」で、「重」は付いていません。
最新兵器である3.7㎝対戦車砲(PaK35/36)を36門、
弾薬輸送用トラックで牽引するという、
タイトルのヤークトパンター戦車隊とは似ても似つかぬ独立大隊です。
西方電撃戦ではヘプナーの第16軍団として第3装甲師団に隷属し、オランダへ侵攻。
ベルギー領内に入ると第4装甲師団に配属され、フランスへ・・。
歩哨が深夜、テロリスト(レジスタンス)に背後から撃たれたり、
避難民にはパンやチョコレートを与えたり、フィールドキッチンの食糧を提供したりと、
興味深い話も多くて楽しめます。
2級鉄十字章を受章したマイヤー少尉の後に、マイヤー伍長も同章を授かりますが、
彼は「マイヤーⅡ号伍長」と呼ばれています。
これはマイヤー姓が多く、ファーストネームもあまり使われなかったためだそうで、
ドイツ軍では「ドライ」と紛らわしい「ツヴァイ」を使わないから、
「ゲフライター・マイヤー・ツヴォーであろう」と親切な注釈付きです。
写真はフランス軍のオチキスH35や、ソミュアS35、
撃破したルノーB1bisの前での記念撮影・・など。
あ~、「西方電撃戦: フランス侵攻1940」、モ~レツに欲しくなってきた!
続く「東部戦線における第654戦車駆逐大隊」は1940年7月-1943年3月まで。
ポーランドへ移動後、第12軍団に配属されて、1941年6月のバルバロッサ作戦に参加。
T-26、BT-7、、T-35多砲塔戦車にといったソ連戦車の撃破された写真が続きますが、
T-34相手には大隊の3.7㎝砲ではまったく歯が立たないことが判明します。
そして第512戦車駆逐大隊の10.5㎝自走対戦車砲
「ディッカー・マックス(ふとっちょマックス)」が突然、出てきました。
本書によるとわずか2両しか生産されなかった貴重な車両で、
Ⅳ号戦車の車体に10.5㎝ 18式カノン砲を搭載したものだそうです。
1942年12月になって、第654戦車駆逐大隊にも待望の自走砲が到着。
Ⅱ号戦車の車体に40式7.5㎝対戦車砲を搭載した「マーダーⅡ」です。
装甲が薄いことが欠点ではあるものの、優れた砲、機動性に富んだ素晴らしい車両に
誇らしい気持ちになったのも束の間、「ロシア戦車!」と叫んでは
失禁するほど怯え、武器を捨てて逃げ出すイタリア兵の姿。。
いや~、このあたり「雪の中の軍曹」を思い出しました。。
このマーダーⅡ戦記も楽しめますが、残念ながら肝心の写真は一枚も無し・・。
2年目のロシアの冬で消耗した大隊はハンブルクへと戻って再編成です。
ここから「第654重戦車駆逐大隊の創設と作戦行動」で、1943年4月-1944年1月まで。
当初大隊は「ホルニッセ(ナースホルン)」自走砲を装備するはずが、土壇場で覆され、
フェルディナンド重駆逐戦車が支給されることとなり、
部隊名にも遂に「重」の文字が付与されます。
6月初頭には装甲兵総監であるグデーリアンを迎えての大規模演習。
「フェルディナンドの主な役割は、巧みに要塞化され、確立した戦線を打ちのめし、
後続の戦車部隊のために敵後方へと進路を啓開することである」。
といった言葉を述べるものの、グデーリアン本人の写真はありません。
過去の本の印象ではフェルディナンドに懐疑的だったグデーリアンですから、
この怪物との2ショットもほとんど見たことがないですね。
本書では代わりに、ポルシェ博士らを乗せて運転する、シュペーア軍需相の写真が・・。
これと同時に柏葉章拝領者のカール・ハインツ・ノアク大尉が大隊長となり、
第653重戦車駆逐大隊とともに「第656重戦車駆逐連隊」が編成されて、
クルスクの戦いへと向かいます。
しかし第2中隊は地図上に記載のなかった自軍が敷設した地雷原にはまり込み、
ほとんどのフェルディナンドが戦闘不能に・・。
写真はフェルディナンド中心ですが、ブルムベアにパンター、Ⅲ号突撃砲、
ボルクヴァルトⅣを無線でコントロールする「Ⅲ号親戦車」など、初見のものが多いですね。
読み応えのある戦記部分では、「マイヤーⅣ号2等兵」も出てきます。
またフェルディナンドの車長は、車長と言わずに「砲班長」と言うんですね。
まぁ、兵科的にも戦車ではなく、砲兵が装甲車に乗っているということなんでしょう。
機銃がないので手榴弾や地雷の肉薄攻撃にやられたという話もよくありますが、
大隊長の戦闘報告書では、次の一文が印象的です。
「フェルディナンドが敵歩兵の攻撃に極めて脆弱なのではという懸念は
まったくの杞憂であった。発砲時の凄まじい爆音や、敵歩兵に与える心理的影響により、
戦闘中に近づいてきた者は唯一人としていなかった。
よって歩兵の前にフェルディナンドを投入してはならないという原則に根拠はないようである」。
ちなみにドラゴンアーマーの1/72のエレファントが我が家に飾ってあります。
ジオラマになってるんですが、ソ連兵が1人いるのが絶妙な雰囲気で。。
247ページからの章は、1944年1月から6月22日まで。
再度、東部戦線で消耗した大隊は、フランスで休養、訓練、再編成を行います。
軍事法廷で郵便物の小包1個を盗んだ第3中隊のリンド伍長が禁固9か月、
上官を侮辱したライトナー先任曹長は禁固3ヵ月の刑を言い渡されながらも大隊は、
本書の主役、ヤークトパンターを受領します。
しかし6月6日、連合軍がノルマンディに上陸。
大隊の保有するヤークトパンターは6月22日になっても規定数の45両よりも遥かに少ない25両。
3両のパンター指揮戦車、2両のベルゲパンターも受領できません。。
それでも翌日から移動を開始しますが、配属先が目まぐるしく変わります。
当初は第10戦車旅団だったのが第7軍団へ、SS第Ⅱ装甲軍団に配属されたかと思えば、
西部装甲集団のエーベルバッハからは第47装甲軍団の作戦指揮下にあると言われ、
第276歩兵師団の支援に差し向けられることを知らされます。
戦闘の推移は日々の報告書そのものの細かさです。
敵のシャーマン戦車1両、チャーチル戦車10両を破壊。
大隊のヤークトパンターも「311号」が爆破処分、戦死5名、負傷者27名・・など。
そして劣勢のドイツ軍は撤退を開始し出すと、セーヌ河の渡河点を探すのに四苦八苦。。
橋はすでに爆破されており、ヤークトパンターを乗せて渡れる60㌧フェリーが必要なのです。
第503重戦車大隊のティーガーと一緒に渡河したり、
隊員たちの手記のなかにも、「どうせまた爆撃されるだけだ」と言って、
壊れた橋を一向に修理しようとしなかったルーアン港湾司令官が
介入してきた武装SSによって射殺され、橋がたちどころに修繕された・・など、
こういうドタバタ感は好きなんですね。
整備班が西部戦線用の迷彩塗装を施している写真も良いですが、
一息ついた10月には新しい大隊章のデザイン・コンテストも。
巻頭に優勝を含む上位3作品がカラーで紹介されていましたが、
「退廃芸術」風の下品な作品もあったそうで、
どれくらいの退廃っぷりか見てみたかったですね。
採用された大隊章 ↓ 「N」はノアク大隊長の「N」です。
ヴィルベルヴィントとメーベルヴァーゲン各4両から成る装甲対空小隊が本部中隊に組み込まれ、
ヤークトパンター5両と対空戦車1両の「戦闘団」単位に編成されます。
いかにも敵に制空権を握られた西部戦線という感じですね。
ヴィルベルヴィントの写真も出てきましたが、
土砂降りの中、コウモリ傘をさしてのヤークトパンター路上行軍の写真が一番のお気に入りです。
シュールですよねぇ。。
ノアク大隊長の「実戦投入に関する報告」もとても興味深い内容です。
「果樹に覆われ、低木の生垣に隔てられ、一段低くなった狭い道路の一帯では
200mを超える射程をほとんど確保できない上に、至る所に潜む敵戦車猟兵に
その身を晒すことになる。
車内からの視界は限定的であり、加えて、ヤークトパンターは旋回式砲塔を持たず、
道路上では照準ため車体の方向転換も出来ないことも多い。
この地形において、歩兵支援なしの戦闘は、ほとんど絶望的な任務と言えよう」。
すなわち「ボカージュの戦い」はヴィットマンたちに任せましょうということですか。
いよいよ1945年1月から4月までの戦闘日誌です。
1月20日にはあのカール・デッカーの第39軍団と連絡。
ナースホルンを装備した第525重戦車駆逐大隊第1中隊を第4中隊として編合し、
3月、マントイフェルの第5装甲軍に隷属すると、作戦指揮機能のみを有する
バイエルライン軍団司令部に配属されます。
しかし翌日にはマントイフェルがハルペ上級大将と交代し、
バイエルライン軍団司令部も第81軍団司令部と交代したので今度はそっちへ・・。
再び、バイエルライン軍団の予備となりますが、第53軍団と改称・・。
もう、なにがなんだかわかりません。ヤークトパンターの戦闘状況よりも、
この日誌を書いている大隊長の心労の方が気になります。
3.7㎝対戦車砲の大隊として始まり、フェルディナンド大隊と進んでいった時には、
ひょっとしてヤークトパンターはオマケ程度か?? と焦りましたが、
半分以上はヤークトパンター戦車隊でホッとしました。
そもそもヤークトパンターの写真がこれほど掲載されているとは想像していませんでしたから、
嬉しい誤算ですね。
これで大日本絵画の大型写真集は「西方電撃戦」を残してやっつけたつもりでしたが、
まだ、「武装SS戦場写真集」が残っていました。
さらに出版社は違うものの、同じ武装SSの写真集では
「第5SS装甲師団「ヴィーキング」写真集 大平原の海賊たち」が出てしまいましたので、
これまた買わざるを得ないです。。ひぇ~・・。
とても内容の濃い本ですよね!重さもすごいし^^;
本棚から引っ張り出して、一杯やりながら読み返しています。
ところで「大平原の海賊たち」、昨日近所の本屋で偶然見つけて立ち読みしました。鮮明な写真が素晴らしいです!
ただ、ラスカンの高橋慶史さんがHPの掲示板でキャプションの不満を書いてますが、ワタクシも同じことを感じました。値段はそんなに高くないので、購入するかどうか迷っているところです。
by ハッポの父 (2013-10-27 22:52)
こんばんわ。昨日、今日と禁酒につき、全く寝つけそうもないヴィトゲンシュタインです。
も~、これから一杯やろうかな~。。
さすが「重」のついた本ですから、重いし、濃いしでした。
早速、高橋慶史さんのHPに行って来ました。
「ヴィーキング」写真集、ボクも10秒ほど立ち読みしましたが、なるほどという感じですね。
それより、ラスカンⅣのストップと、武装SS師団史がこのまま打ち切り・・、というのがショックで、参りましたね。。
その分の貯金をヴィーキングに回そうか・・と考えています。
あ~、もう呑むしかないですね! いただきます!
by ヴィトゲンシュタイン (2013-10-27 23:16)
ヴィト様こんばんは。
PCもようやく復活しましてようやくコメ出来る余裕が出来ました。ww
写真データも全部お釈迦になったかと、一瞬冷や汗ものでしたが、大丈夫そうです。
少し前は戦車のことさっぱりわからなかった自分ですが、ムンスターに行ったおかげでこのレビュー読んでも何とか分かるようになってちょっと嬉しいです。wwww
余談ですが独破戦線見てる人って、有名なジャーナリストとかもいるんですね。
by IZM (2013-11-05 03:23)
IZMさん。
PC復活、良かったですね。
ボクもそろそろバックアップ取っとこうかな。
そういえばムンスター・レポにはブルムベアもありましたね。
戦車マニアへの道を着々と進んでおられると。。
>有名なジャーナリストとかもいるんですね。
え~?? そうなんですか??
by ヴィトゲンシュタイン (2013-11-05 12:10)