ナチズム下の女たち -第三帝国の日常生活- [女性と戦争]
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
C.シュッデコプフ著の「ナチズム下の女たち」を読破しました。
「ナチス・ドイツに支配された女性たちはどのような日常生活を送っていたのか。
さまざまな立場の10人の女性の証言。」といった内容で以前から気になっていた、
1987年の発刊で、1998年に再刊されている354ページの本書。
ナチスの有名人の話も面白いですが、個人的には先々月の「戦時下のベルリン」ように
当時の一般市民の生活や考え方にとても興味があります。
また以前に紹介した「女ユダたち」のような"密告"といった特殊なテーマではなく、
ナチス政権とどのように向き合い、受け入れたり、批判したりしていたのか・・?
と、わりとシンプルなことが知りたいんですね。
第1章「職場でのファシズムと労働組合」を語るのは1897年生まれのアニーさんです。
自身の生い立ちから始まり、第1次大戦中の1917年に20歳になって正規の女店員に。
戦争が終わると両親は「ドイツ社会民主党(SPD)」に入党します。
本書ではSPDがどんな政党かは解説されていませんが、
簡単に言えば、中道左派の当時の第1党で、ワイマール共和国の初代大統領が
SPD党首のフリードリヒ・エーベルトですから、まぁ、極々普通の家庭のようです。
しかし1933年にナチス政権が誕生すると、生協の百貨店でベテラン組合員だった彼女は
ナチス側の新しい上司から経営者側に就くよう持ちかけられますが、それを断ると解雇・・。
そんなこともあってか、彼女や両親の心情は反ナチスです。
子供を7人も生んだ母親の元へ、ナチ党婦人部がやって来て、
「母親十字章」をくれると言ってきても、それを拒むお母さん。
職安でようやく見つかった従業員200名のデパートの職場では、
挨拶は「ハイル・ヒトラー」が励行され、支配人はSA(突撃隊)、要職もSAとSSが占めています。
例の挨拶をしなくても目立たないように、大勢の同僚たちと一緒に出勤し、
政治的な言動は慎み、出回っていたナチス本など見るのも嫌なのに、
ナチスの新聞は読んで、いま起こっていることを知らなければなりません。
自宅の机の上には「わが闘争」を聖書のように置き、突然の家宅捜索にも対処。
それでも表紙のようにナチスの旗を掲げていないことを理由にSAがやって来るのでした。
戦争が始まると家族揃って外国放送をラジオで聞き、元SPDの同志と再会。
そんな隠れた反ナチの彼女は1944年、突然、上司に呼び出されます。
そこには上司の他、礼服に身を包んだSA隊長にハンブルク最高指導者の姿が・・。
彼らはなんと、亡くなったナチ婦人部の女性指導者の後任に彼女を指名するのです。
彼女にとっては絶体絶命のピンチ。。
第2章は「青年運動とナチ・プロパガンダ機構」。
ゲルダは1920年生まれで、やっぱりSPDの子供会のメンバーです。
尊敬するクラスの担任のクニーフ先生もSPD党員ですが、
1933年、一時間目の授業が始まろうとすると、ドアがバタンと開いて
威張りくさったSAの制服を着た男が「ハイル・ヒトラー!」と叫んで入ってきます。
「さて、クニーフ先生、あなたのクラスとのお別れは済みましたかな?
でしたら、お引き取り願いたい。授業を始めたいのでね」。
1938年、フィルム会社でタイプなど秘書の勉強を続けていたゲルダ。
そこでナチ職場委員のSA幹部に呼び出されます。
「まだBDM(ドイツ少女連盟)に加入していないそうじゃないか。
あなたのような娘さんがなぜ? いけないねえ」。
BDMなんて真っ平ゴメンと思っていた彼女は、なんだかんだと口ごもりながら言い訳を・・。
「BDMに入らないなら秘書にはなれないぞ。
良く考えてみるんだな。ハイル・ヒトラー!」
彼女はめでたくベルリンの通信社で戦争の期間働きます。
ナチスの戦争プロパガンダについて詳しく書かれていて面白かったですね。
しかし終戦が近くなると、同僚の女性が泣きながら告白します。
「昔生んだ子供の父親っていうのが全然見ず知らずの男なの。
どこかお城のようなところに連れて行かれて、大男のSS隊員と子供を作ったってわけ」。
そしてその子供を引き取るどころか、会うことされ許されないと語ります。
「だめなのよ。その時サインさせられちゃったんだもの。子供は総統に差し上げますって」。
レーベンスボルン(生命の泉)のこういう話って珍しいですね。
東プロイセンからベルリンへと逃げてきた女性の話も印象的です。
彼女は両親の農園で強制労働させられていたポーランド人と関係ができ、
妊娠してしまったのです。
ベルリンのような都会では起きなかったものの、地方の小さな村では、
地域農民指導者が大きな発言権を持ち、「恥知らずなドイツ娘」は
人前で髪を切られて晒し者にされた挙句、収容所送り・・。
戦後のフランス女性のパターンですね。
「総統は勇敢にも敵の前で倒れられた」とラジオが放送していた終戦間際のベルリン。
年老いてびっこを引いた「国民突撃隊」の一人が彼女たちが避難している地下室へと降りてきます。
彼はこの中にいる妻に別れを告げに来たのです。
「橋の向こうにソ連軍が迫っている・・」。
皆はどうせあと数時間で終わる戦闘・・。ここに隠れていれば良いのに・・と考えますが、
裏切り者とされることを恐れた彼は地下室から這い出て前線に。
そして1ヵ月後、この国民突撃隊の兵士は脚を失って戻ってきます。
しかし、すでに彼の妻は餓死していたのでした・・。
第3章のレナーテは1926年生まれで、BDMで少女リーダーも務めたナチ娘です。
宝石店を営むブルジョワの両親は、1920年代の政治に不満を持ち、
「ナチが選挙に勝てば、ドイツ人みんなが再び仕事とパンを手に出来る」と信じています。
そんな少女は当然のように1937年、ヒトラー・ユーゲントに入団。
以前の友達が「黄色い星」を付けて歩いているところに遭遇して気まずい思い・・。
メイドからは「ロシアの収容所では、ロシア人同士、共食いをしている」と聞かされ、
コッソリ捕虜収容所を覗き見て、陰気で痩せ衰えた、「下等な人間」という表現が
正しいことを知るのでした。
第5章のインゲは1921年生まれの舞台女優です。
1940年、若手俳優たちは誰一人ヒトラー・ユーゲントに入っていないことを知ります。
BDMに入るには年齢が高すぎた彼女ですが、年少女性組織を継承発展させた、
「信仰と美(Glaube & Schönheit)」で、体育、手仕事、公衆衛生業務などの
奉仕活動に参加することに・・。
1942年夏、彼女たちの行先はバルト3国からレニングラード近郊。
これは国立劇場の劇団員としての占領地域での慰問活動です。
ケーニヒスベルクから沿岸砲台用の列車に乗り込み、リガで舞台に出演し、
今度はトラックに乗って、鉄兜、ガスマスク、防虫網で武装したハラハラするような旅。
隣りでは戦車がゴロゴロと埃を上げて走り、頭上を榴弾がヒューと飛ぶと
トラックから飛び降りて、「伏せろ!」
銃声や爆弾の落ちる音が近づき、セリフも戦闘機のゴーゴーという音にかき消されそうになります。
しかし鉄兜を被ったままで、両足に銃を挟んだままの観客は誰一人として動こうとしません。
翌朝、次の興行地で数百人の死者が出たと告げられ、引き返す支度を始めるも、
現地将校はそれを許しません。
「芝居を続けるべきだ。こんな事態の中でこそ、兵士たちは気晴らしを必要としているのだ」。
と、まぁ、こんな感じで後半も進んでいきますが、この辺りで終わりにしましょう。
章のアタマには彼女たちの経歴と、当時(ナチズム下)、現代(1980年ころ)の写真付き。
こういう丁寧なつくりだとイメージしやすくて良いですね。
特別に衝撃的な話があったわけではありませんが、
当時、若かった彼女たちがナチスに対してどのような態度を取ったのか・・は、
当たり前ですが、両親から受けた影響も強いわけです。
そして「BDM」とか、「信仰と美」などが彼女たちにとってどんな位置づけだったのかも
知ることができて、こういう部分は予想外に楽しかったですね。
同じ出版社からは本書の男性版のような
「彼らは自由だと思っていた―元ナチ党員十人の思想と行動 」という本が出ていますので、
近いうちに読んでみるつもりですが、
去年に出た「そこに僕らは居合わせた―語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶」も
なかなか面白そうですね。
C.シュッデコプフ著の「ナチズム下の女たち」を読破しました。
「ナチス・ドイツに支配された女性たちはどのような日常生活を送っていたのか。
さまざまな立場の10人の女性の証言。」といった内容で以前から気になっていた、
1987年の発刊で、1998年に再刊されている354ページの本書。
ナチスの有名人の話も面白いですが、個人的には先々月の「戦時下のベルリン」ように
当時の一般市民の生活や考え方にとても興味があります。
また以前に紹介した「女ユダたち」のような"密告"といった特殊なテーマではなく、
ナチス政権とどのように向き合い、受け入れたり、批判したりしていたのか・・?
と、わりとシンプルなことが知りたいんですね。
第1章「職場でのファシズムと労働組合」を語るのは1897年生まれのアニーさんです。
自身の生い立ちから始まり、第1次大戦中の1917年に20歳になって正規の女店員に。
戦争が終わると両親は「ドイツ社会民主党(SPD)」に入党します。
本書ではSPDがどんな政党かは解説されていませんが、
簡単に言えば、中道左派の当時の第1党で、ワイマール共和国の初代大統領が
SPD党首のフリードリヒ・エーベルトですから、まぁ、極々普通の家庭のようです。
しかし1933年にナチス政権が誕生すると、生協の百貨店でベテラン組合員だった彼女は
ナチス側の新しい上司から経営者側に就くよう持ちかけられますが、それを断ると解雇・・。
そんなこともあってか、彼女や両親の心情は反ナチスです。
子供を7人も生んだ母親の元へ、ナチ党婦人部がやって来て、
「母親十字章」をくれると言ってきても、それを拒むお母さん。
職安でようやく見つかった従業員200名のデパートの職場では、
挨拶は「ハイル・ヒトラー」が励行され、支配人はSA(突撃隊)、要職もSAとSSが占めています。
例の挨拶をしなくても目立たないように、大勢の同僚たちと一緒に出勤し、
政治的な言動は慎み、出回っていたナチス本など見るのも嫌なのに、
ナチスの新聞は読んで、いま起こっていることを知らなければなりません。
自宅の机の上には「わが闘争」を聖書のように置き、突然の家宅捜索にも対処。
それでも表紙のようにナチスの旗を掲げていないことを理由にSAがやって来るのでした。
戦争が始まると家族揃って外国放送をラジオで聞き、元SPDの同志と再会。
そんな隠れた反ナチの彼女は1944年、突然、上司に呼び出されます。
そこには上司の他、礼服に身を包んだSA隊長にハンブルク最高指導者の姿が・・。
彼らはなんと、亡くなったナチ婦人部の女性指導者の後任に彼女を指名するのです。
彼女にとっては絶体絶命のピンチ。。
第2章は「青年運動とナチ・プロパガンダ機構」。
ゲルダは1920年生まれで、やっぱりSPDの子供会のメンバーです。
尊敬するクラスの担任のクニーフ先生もSPD党員ですが、
1933年、一時間目の授業が始まろうとすると、ドアがバタンと開いて
威張りくさったSAの制服を着た男が「ハイル・ヒトラー!」と叫んで入ってきます。
「さて、クニーフ先生、あなたのクラスとのお別れは済みましたかな?
でしたら、お引き取り願いたい。授業を始めたいのでね」。
1938年、フィルム会社でタイプなど秘書の勉強を続けていたゲルダ。
そこでナチ職場委員のSA幹部に呼び出されます。
「まだBDM(ドイツ少女連盟)に加入していないそうじゃないか。
あなたのような娘さんがなぜ? いけないねえ」。
BDMなんて真っ平ゴメンと思っていた彼女は、なんだかんだと口ごもりながら言い訳を・・。
「BDMに入らないなら秘書にはなれないぞ。
良く考えてみるんだな。ハイル・ヒトラー!」
彼女はめでたくベルリンの通信社で戦争の期間働きます。
ナチスの戦争プロパガンダについて詳しく書かれていて面白かったですね。
しかし終戦が近くなると、同僚の女性が泣きながら告白します。
「昔生んだ子供の父親っていうのが全然見ず知らずの男なの。
どこかお城のようなところに連れて行かれて、大男のSS隊員と子供を作ったってわけ」。
そしてその子供を引き取るどころか、会うことされ許されないと語ります。
「だめなのよ。その時サインさせられちゃったんだもの。子供は総統に差し上げますって」。
レーベンスボルン(生命の泉)のこういう話って珍しいですね。
東プロイセンからベルリンへと逃げてきた女性の話も印象的です。
彼女は両親の農園で強制労働させられていたポーランド人と関係ができ、
妊娠してしまったのです。
ベルリンのような都会では起きなかったものの、地方の小さな村では、
地域農民指導者が大きな発言権を持ち、「恥知らずなドイツ娘」は
人前で髪を切られて晒し者にされた挙句、収容所送り・・。
戦後のフランス女性のパターンですね。
「総統は勇敢にも敵の前で倒れられた」とラジオが放送していた終戦間際のベルリン。
年老いてびっこを引いた「国民突撃隊」の一人が彼女たちが避難している地下室へと降りてきます。
彼はこの中にいる妻に別れを告げに来たのです。
「橋の向こうにソ連軍が迫っている・・」。
皆はどうせあと数時間で終わる戦闘・・。ここに隠れていれば良いのに・・と考えますが、
裏切り者とされることを恐れた彼は地下室から這い出て前線に。
そして1ヵ月後、この国民突撃隊の兵士は脚を失って戻ってきます。
しかし、すでに彼の妻は餓死していたのでした・・。
第3章のレナーテは1926年生まれで、BDMで少女リーダーも務めたナチ娘です。
宝石店を営むブルジョワの両親は、1920年代の政治に不満を持ち、
「ナチが選挙に勝てば、ドイツ人みんなが再び仕事とパンを手に出来る」と信じています。
そんな少女は当然のように1937年、ヒトラー・ユーゲントに入団。
以前の友達が「黄色い星」を付けて歩いているところに遭遇して気まずい思い・・。
メイドからは「ロシアの収容所では、ロシア人同士、共食いをしている」と聞かされ、
コッソリ捕虜収容所を覗き見て、陰気で痩せ衰えた、「下等な人間」という表現が
正しいことを知るのでした。
第5章のインゲは1921年生まれの舞台女優です。
1940年、若手俳優たちは誰一人ヒトラー・ユーゲントに入っていないことを知ります。
BDMに入るには年齢が高すぎた彼女ですが、年少女性組織を継承発展させた、
「信仰と美(Glaube & Schönheit)」で、体育、手仕事、公衆衛生業務などの
奉仕活動に参加することに・・。
1942年夏、彼女たちの行先はバルト3国からレニングラード近郊。
これは国立劇場の劇団員としての占領地域での慰問活動です。
ケーニヒスベルクから沿岸砲台用の列車に乗り込み、リガで舞台に出演し、
今度はトラックに乗って、鉄兜、ガスマスク、防虫網で武装したハラハラするような旅。
隣りでは戦車がゴロゴロと埃を上げて走り、頭上を榴弾がヒューと飛ぶと
トラックから飛び降りて、「伏せろ!」
銃声や爆弾の落ちる音が近づき、セリフも戦闘機のゴーゴーという音にかき消されそうになります。
しかし鉄兜を被ったままで、両足に銃を挟んだままの観客は誰一人として動こうとしません。
翌朝、次の興行地で数百人の死者が出たと告げられ、引き返す支度を始めるも、
現地将校はそれを許しません。
「芝居を続けるべきだ。こんな事態の中でこそ、兵士たちは気晴らしを必要としているのだ」。
と、まぁ、こんな感じで後半も進んでいきますが、この辺りで終わりにしましょう。
章のアタマには彼女たちの経歴と、当時(ナチズム下)、現代(1980年ころ)の写真付き。
こういう丁寧なつくりだとイメージしやすくて良いですね。
特別に衝撃的な話があったわけではありませんが、
当時、若かった彼女たちがナチスに対してどのような態度を取ったのか・・は、
当たり前ですが、両親から受けた影響も強いわけです。
そして「BDM」とか、「信仰と美」などが彼女たちにとってどんな位置づけだったのかも
知ることができて、こういう部分は予想外に楽しかったですね。
同じ出版社からは本書の男性版のような
「彼らは自由だと思っていた―元ナチ党員十人の思想と行動 」という本が出ていますので、
近いうちに読んでみるつもりですが、
去年に出た「そこに僕らは居合わせた―語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶」も
なかなか面白そうですね。
いつも楽しみに拝見させていただいています。
今自分が属する組織が、将来悪と見なされるのかどうか、必ずしも予見できない時、どうやって身を処すのか。
難しいですよね。
その場の空気にあわせるのかどうか。
自分が勤務する会社も小さなNDPかもしれないのですし。
by ジャルトミクソン (2013-04-04 23:56)
ど~も。 ジャルトミクソンさん。
仰るとおり、本書のような体験談は、客観的に読む(ナチス=悪であるという前提)より、自分を当時の人間に置き換えると面白いですよね。
決して左か右のどちらも支持していなかった人もいたでしょうし、単に生活面から多数派としてのナチス寄りになったりとか・・。
ボクは自分の会社が倒産するほどの重大な不正を見つけてしまったとき、ソレを告発する勇気は持ち合わせていませんね。自分も仕事を失いますから。。
by ヴィトゲンシュタイン (2013-04-05 07:51)
ヴィト様、先日はどうもありがとうございました。
何とか無事に?帰宅しましたが、今回無くし物も多くて、本当に困っています。
さて、
>表紙のようにナチスの旗を掲げていないことを理由にSAがやって来る
これ、昔の写真に写ってる家の窓辺にハーケンクロイツのマークがあって、熱心なお家だと思っていたら、義務みたいな物だったのですね。
自分の住んでる街は田舎で、当時ナチスの支持が圧倒的だったそうなのでそんな住人が顔見知りばかりみたいな町で一人反対の立場を取るって、考えただけでも難しいですね。以前自分のブログでヴィルヘルミーネ・ジーフケスという女性を紹介しましたが、彼女も下手したら命の危険もあったんじゃないか~と思いますもん。。。
by IZM (2013-04-05 18:35)
IZMさん。大変でしたねぇ。こちらこそいろいろと、ど~も。
いただいたフリードリヒくんも一気読みしちゃいました。
本書に登場する女性たちの大半はハンブルク出身なんですが、まぁ、そうですねぇ。街の区画ごとにナチ党員の班長さんがいて、日々チェックしてるんですね。SAの制服を着たバリバリの隊員というわけではなく、日本でいうと町内会の(暇でうるさい)おばちゃんだったりするようです。そして、あの家は熱心じゃない・・とかって、上司の細胞長、そして地区長、管区長に報告・・という流れです。
リンクを張っていただいたヴィルヘルミーネ・ジーフケスさんの話も改めて読みましたが、政治犯として強制収容所送りの一歩手前ですね。。
彼女はやっぱり特別であって、家族思いの普通の家庭では、仲の良い隣人すら信用できなかったとすれば、イヤでもハーケンクロイツの旗を揚げて、熱心だと見せざるを得ないでしょう。そしてナチス支持が圧倒的だと思われていた町が、実はそんな嫌々ながらの家庭が多かったなんてオチがあったかも知れませんね。
by ヴィトゲンシュタイン (2013-04-05 20:05)