ワルシャワ蜂起 1944 [欧州諸国]
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
ヤン・ミェチスワフ チェハノフスキ著の「ワルシャワ蜂起1944」を根性で読破しました。
1944年8月の「ワルシャワ蜂起」については、以前に第二次世界大戦ブックスの
「ワルシャワ反乱 -見殺しのレジスタンス-」で勉強していましたが、
1989年発刊の本書もほとんど同時期に購入していたものの、
写真タップリの第二次世界大戦ブックスとは違って、上下2段組で345ページ、写真も皆無・・と
かなり専門的で難しそうなオーラを放っていることから、気後れしていました。
今回は、本棚で2年も3年も熟成している連中をやっつけてやろう・・という気になりましたので、
2年半前に1000円で買っていた本書を気合を入れて、いざ挑戦です!

いつものように「訳者あとがき」から読んでみますが、実はコレが本書を手強そうと思わせる部分で
ポーランド人の著者の経歴・・・
1930年生まれで、弱冠13歳で国内軍(AK)に所属し、1944年のこのワルシャワ蜂起に参加。
戦後は英国に渡り、1968年、「ワルシャワ蜂起に関する政治的、イデオロギー的背景」と題する
学位論文をロンドン大学に提出して、哲学博士号を・・。
この学位論文の一般読者向け改訂版が本書ということです。

第1章では1941年6月のドイツ軍によるバルバロッサ作戦後のポーランドと
ソ連、英国、米国の3大国との関係を解説します。
もともとポーランドは1939年にドイツと、そして東からはソ連に侵攻されていた国・・。
しかしドイツのソ連侵攻から1ヶ月後にはソ連=ポーランド間の外交関係回復、軍事協力などが
ロンドンで調停されます。
これにはチャーチルを中心とした英国政府の関心と、ロンドンのポーランド亡命政府との
切実なる思いがあるわけですが、難航するのが国境線で、
戦前の領土を主張するポーランドに対して、1939年の侵攻で獲得した領土は
すでにウクライナと白ロシアに属しているとするソ連です。
チャーチルにとってポーランド問題は「名誉」にかかわること、
スターリンにとっては「国家安全保障」の問題、そして
ルーズヴェルトには国内の「大統領選挙戦略」の問題であり、
このような3大国の思惑の前に、ポーランド亡命政府と新首相ミコワイチックは
現実的な支援を受けることはありません。

続く第2章はレジスタンス運動創成期で、1939年9月に創設された「地下軍事組織」から
その他の「武装闘争団」が1942年に統合され、
亡命政府に忠実な「国内軍(AK)」が誕生する過程、
それとは別に、共産党翼下の「人民軍(AL)」も存在しています。
「国内軍(AK)」司令官、ブル=コモロフスキ将軍は、最後まで
「兄弟殺しの闘争」に頭を痛めるのでした。

1943年秋、すでにドイツ軍はスターリングラードで敗北し、クルスク戦以降も敗走・・。
このようなソ連の攻勢に、それまでドイツの敗北のみを期待していた彼らですが、
新たな悩みの種が現実的な問題として頭をもたげてきます。
それは勝者として勝ち誇ったソ連の強要に直面するであろう・・という問題です。
妥協的な解決策を模索するのか、結果を鑑みず、進撃してくるソ連と対決するのか・・。

このような間にも「カティンの森」事件が発覚し、当初、亡命政府の首相だったシコルスキも
飛行機事故で死亡するという悪循環に陥り、ソ連との関係も断絶状態に・・。
亡命政府はミコワイチックが首相、最高司令官にソスンコフスキが任命されて、
ポーランド国内に潜っているブル=コモロフスキと頻繁に連絡を取り合いますが、
意見の相違も大きいようで、直接、顔を突き合わせての会議なども出来ないことからか、
命令文などの解釈を巡って、基本方針がなかなか定まりません。

1944年、東部のルヴォフでも独ソ両軍による激しい戦闘が起こり、
いよいよ、首都ワルシャワでも「蜂起」の準備に入ります。
それはドイツ軍がワルシャワから撤退し、ソ連軍が辿り着く12時間前の絶妙なタイミングで、
充分に武装した4000人のAK兵士が市外で戦い、ポーランド人によるワルシャワ解放という
既成事実をつくろう・・というものです。

ワルシャワに近づくソ連軍。モスクワ放送はポーランド語で起ち上がるよう呼びかけ、
7月22日からパニックに陥って撤退するドイツ軍を市民は目撃しますが、3日後には立ち直り、
精鋭ヘルマン・ゲーリング師団数部隊がワルシャワ防衛に向かいます。
7月20日のヒトラー暗殺未遂事件の報によるドイツ軍の動揺や、
ミコワイチック首相がスターリンとの会談のため、モスクワへ飛び立ったという情報も入り、
ソ連軍との軍事協力と外交関係の再確立のために、7月30日、遂に「蜂起」が決定。
しかし現場レベルでは、ソ連軍との事前の連絡や協力体制は一切行われず、
機関銃20梃、軽機関銃98梃、自動小銃604梃、ライフル銃1367梃という数字は
「軍」としてはあまりに弱体であり、このように不足している軽火器以外に必要な
迫撃砲、対戦車砲などの重火器はありません。
また、AK兵士も著者のような少年兵や女性兵士も多く含まれています。

そしてその結果は良く知られているとおり、ソ連軍はワルシャワ目前で停止し、
20万人のワルシャワ市民がドイツ軍との戦闘に巻き込まれて戦死する悲劇。。。
モスクワまで軍事協力を取り付けに行ったミコワイチック首相も、
結局はスターリンに「助けてください」と言いに来たようなものとなって、
最終的にスターリンの完全勝利となってしまいます。
後半、「こりゃ、まずいなぁ・・」と思って読んでいたように、本書では、
ワルシャワ蜂起での、ドイツ軍との戦闘には一切、触れられていませんでした。
本書は「いつ、どのようにして蜂起指導部がこのような蜂起を決定したのかを明確にすることが狙い」
と書かれているとおり、「蜂起した時点」で終了・・・なんですね。。。

いや~、キツかった・・・。
こんな苦しい思いをしたのは久しぶりです。何度、途中で止めようと考えたことか。。
300ページに近づき、パラっとめくって最後の40ページほどが「原注」だと分かったときの喜び・・。
残りがあと10㎞だと思ってたのに、角を曲がったら直線の先にゴールが見えた・・って感じです。
ちょっと古いですが「自分を褒めてあげたい」とは、まさにこのことですね。
馴染みの無い△△△△△スキさんとか、□□□□□スキさんがコレだけ出てくると、
いちいち「誰だっけ??」と瞑想に耽ってしまったこともしばしば・・。
勉強になったことはなりましたが、ちょっと敷居が高すぎました。
しばらくは、本来の「第三帝国」モノに集中しようかなぁ・・。
ヤン・ミェチスワフ チェハノフスキ著の「ワルシャワ蜂起1944」を根性で読破しました。
1944年8月の「ワルシャワ蜂起」については、以前に第二次世界大戦ブックスの
「ワルシャワ反乱 -見殺しのレジスタンス-」で勉強していましたが、
1989年発刊の本書もほとんど同時期に購入していたものの、
写真タップリの第二次世界大戦ブックスとは違って、上下2段組で345ページ、写真も皆無・・と
かなり専門的で難しそうなオーラを放っていることから、気後れしていました。
今回は、本棚で2年も3年も熟成している連中をやっつけてやろう・・という気になりましたので、
2年半前に1000円で買っていた本書を気合を入れて、いざ挑戦です!

いつものように「訳者あとがき」から読んでみますが、実はコレが本書を手強そうと思わせる部分で
ポーランド人の著者の経歴・・・
1930年生まれで、弱冠13歳で国内軍(AK)に所属し、1944年のこのワルシャワ蜂起に参加。
戦後は英国に渡り、1968年、「ワルシャワ蜂起に関する政治的、イデオロギー的背景」と題する
学位論文をロンドン大学に提出して、哲学博士号を・・。
この学位論文の一般読者向け改訂版が本書ということです。

第1章では1941年6月のドイツ軍によるバルバロッサ作戦後のポーランドと
ソ連、英国、米国の3大国との関係を解説します。
もともとポーランドは1939年にドイツと、そして東からはソ連に侵攻されていた国・・。
しかしドイツのソ連侵攻から1ヶ月後にはソ連=ポーランド間の外交関係回復、軍事協力などが
ロンドンで調停されます。
これにはチャーチルを中心とした英国政府の関心と、ロンドンのポーランド亡命政府との
切実なる思いがあるわけですが、難航するのが国境線で、
戦前の領土を主張するポーランドに対して、1939年の侵攻で獲得した領土は
すでにウクライナと白ロシアに属しているとするソ連です。
チャーチルにとってポーランド問題は「名誉」にかかわること、
スターリンにとっては「国家安全保障」の問題、そして
ルーズヴェルトには国内の「大統領選挙戦略」の問題であり、
このような3大国の思惑の前に、ポーランド亡命政府と新首相ミコワイチックは
現実的な支援を受けることはありません。

続く第2章はレジスタンス運動創成期で、1939年9月に創設された「地下軍事組織」から
その他の「武装闘争団」が1942年に統合され、
亡命政府に忠実な「国内軍(AK)」が誕生する過程、
それとは別に、共産党翼下の「人民軍(AL)」も存在しています。
「国内軍(AK)」司令官、ブル=コモロフスキ将軍は、最後まで
「兄弟殺しの闘争」に頭を痛めるのでした。

1943年秋、すでにドイツ軍はスターリングラードで敗北し、クルスク戦以降も敗走・・。
このようなソ連の攻勢に、それまでドイツの敗北のみを期待していた彼らですが、
新たな悩みの種が現実的な問題として頭をもたげてきます。
それは勝者として勝ち誇ったソ連の強要に直面するであろう・・という問題です。
妥協的な解決策を模索するのか、結果を鑑みず、進撃してくるソ連と対決するのか・・。

このような間にも「カティンの森」事件が発覚し、当初、亡命政府の首相だったシコルスキも
飛行機事故で死亡するという悪循環に陥り、ソ連との関係も断絶状態に・・。
亡命政府はミコワイチックが首相、最高司令官にソスンコフスキが任命されて、
ポーランド国内に潜っているブル=コモロフスキと頻繁に連絡を取り合いますが、
意見の相違も大きいようで、直接、顔を突き合わせての会議なども出来ないことからか、
命令文などの解釈を巡って、基本方針がなかなか定まりません。

1944年、東部のルヴォフでも独ソ両軍による激しい戦闘が起こり、
いよいよ、首都ワルシャワでも「蜂起」の準備に入ります。
それはドイツ軍がワルシャワから撤退し、ソ連軍が辿り着く12時間前の絶妙なタイミングで、
充分に武装した4000人のAK兵士が市外で戦い、ポーランド人によるワルシャワ解放という
既成事実をつくろう・・というものです。

ワルシャワに近づくソ連軍。モスクワ放送はポーランド語で起ち上がるよう呼びかけ、
7月22日からパニックに陥って撤退するドイツ軍を市民は目撃しますが、3日後には立ち直り、
精鋭ヘルマン・ゲーリング師団数部隊がワルシャワ防衛に向かいます。
7月20日のヒトラー暗殺未遂事件の報によるドイツ軍の動揺や、
ミコワイチック首相がスターリンとの会談のため、モスクワへ飛び立ったという情報も入り、
ソ連軍との軍事協力と外交関係の再確立のために、7月30日、遂に「蜂起」が決定。
しかし現場レベルでは、ソ連軍との事前の連絡や協力体制は一切行われず、
機関銃20梃、軽機関銃98梃、自動小銃604梃、ライフル銃1367梃という数字は
「軍」としてはあまりに弱体であり、このように不足している軽火器以外に必要な
迫撃砲、対戦車砲などの重火器はありません。
また、AK兵士も著者のような少年兵や女性兵士も多く含まれています。

そしてその結果は良く知られているとおり、ソ連軍はワルシャワ目前で停止し、
20万人のワルシャワ市民がドイツ軍との戦闘に巻き込まれて戦死する悲劇。。。
モスクワまで軍事協力を取り付けに行ったミコワイチック首相も、
結局はスターリンに「助けてください」と言いに来たようなものとなって、
最終的にスターリンの完全勝利となってしまいます。
後半、「こりゃ、まずいなぁ・・」と思って読んでいたように、本書では、
ワルシャワ蜂起での、ドイツ軍との戦闘には一切、触れられていませんでした。
本書は「いつ、どのようにして蜂起指導部がこのような蜂起を決定したのかを明確にすることが狙い」
と書かれているとおり、「蜂起した時点」で終了・・・なんですね。。。

いや~、キツかった・・・。
こんな苦しい思いをしたのは久しぶりです。何度、途中で止めようと考えたことか。。
300ページに近づき、パラっとめくって最後の40ページほどが「原注」だと分かったときの喜び・・。
残りがあと10㎞だと思ってたのに、角を曲がったら直線の先にゴールが見えた・・って感じです。
ちょっと古いですが「自分を褒めてあげたい」とは、まさにこのことですね。
馴染みの無い△△△△△スキさんとか、□□□□□スキさんがコレだけ出てくると、
いちいち「誰だっけ??」と瞑想に耽ってしまったこともしばしば・・。
勉強になったことはなりましたが、ちょっと敷居が高すぎました。
しばらくは、本来の「第三帝国」モノに集中しようかなぁ・・。
ワルシャワ蜂起は本当に凄惨ですね
ソ連軍はレジスタンスを見殺しにし政治的利用しましたな…
しかし、自分なら投げそうな本です
自分は尾崎俊二氏のワルシャワ蜂起―一九四四年の六三日を読みましたが、これも人物説明が不足していて読みづらかったです
by 北欧の鷹 (2011-10-17 23:27)
>ワルシャワ蜂起―一九四四年の六三日を読みましたが、
お~、そうですか。これもちょっと気になっていたんで助かりました。
やっぱり「第二次世界大戦ブックス」は素晴らしい・・ということですかなぁ。。
by ヴィトゲンシュタイン (2011-10-18 19:09)
昨年11月にポーランドへ旅行に行った者です。
大変勉強になりましたのでトラックバックさせてください。
ポーランドの歴史は悲劇でいっぱいですね…。
by リェース (2012-02-18 23:19)
リェースさん。はじめまして。
「ポーランド旅行記」、早速、拝見しました。続きが楽しみです。過去の「旅行記」もこれから拝見させていただきます。毎年行かれているようで羨ましい。
>大変勉強になりましたのでトラックバックさせてください。
ポーランドに疎いボクのこんな記事で恐縮ですが、 トラックバックど~ぞ。
by ヴィトゲンシュタイン (2012-02-19 06:37)