バルバロッサ作戦 -独ソ戦史- (中) [戦記]
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
パウル・カレル著の「バルバロッサ作戦(中)」を再度読破しました。
モスクワ目前で停止した上巻に続いて、この冬(1941年冬~42年春)の
ドイツの3個方面軍集団の激闘が記されています。
北方軍集団はいざレニングラード攻略という直前になって、
装甲集団をモスクワ攻略のために引き抜かれ、
結局はレニングラード包囲という戦略に甘んじることになります。
南方軍集団では地雷原に突っ込み粉々となった第11軍司令官ショーベルト将軍の後任に
突然、第56装甲軍団長のフォン・マンシュタインが選ばれ、クリミア戦に挑むこととなります。
しかし、この第一次クリミア戦も第11軍の兵力不足もあって、
セヴァストポリ要塞を陥落させるまでにはいきません。
ヒトラーに反抗した南方軍集団司令官ルントシュテット元帥と
中央軍集団ではフォン・ボック司令官、
モスクワ前面からの撤退を進言し続けたグデーリアンが解任され
代わって主役は新たな中央軍集団司令官となったクルーゲ元帥や
第9軍司令官モーデルへと移って行きます。
突破された第9軍の戦線の防御をそのモーデルから任された
オットー・クムSS中佐率いるSSデア・フューラー連隊の戦いも壮絶で、
最後にはわずか35名しか残っていません。
山場は2ヶ月半にわたって包囲されたことで有名なデミヤンスク包囲戦ですが、
包囲された5個師団/10万人の将兵の指揮を取ったのは第2軍団司令官、
ヴァルター・グラーフ・フォン・ブロックドルフ=アーレフェルト歩兵大将で
この伯爵の名にちなんでこの包囲陣内を「伯領」と呼んだそうです。
また、この包囲戦では空軍による空輸作戦が見事に成功したことで
その後のスターリングラードでも同様の作戦が承認~全滅へとなった布石としても有名です。
そしてデミヤンスクへ救援に向かった4個師団を率いたのが
スターリングラードで捕虜となったフォン・ザイトリッツ・クルツバッハだったというのも
何か運命的な気もします。
パウル・カレル著の「バルバロッサ作戦(中)」を再度読破しました。
モスクワ目前で停止した上巻に続いて、この冬(1941年冬~42年春)の
ドイツの3個方面軍集団の激闘が記されています。
北方軍集団はいざレニングラード攻略という直前になって、
装甲集団をモスクワ攻略のために引き抜かれ、
結局はレニングラード包囲という戦略に甘んじることになります。
南方軍集団では地雷原に突っ込み粉々となった第11軍司令官ショーベルト将軍の後任に
突然、第56装甲軍団長のフォン・マンシュタインが選ばれ、クリミア戦に挑むこととなります。
しかし、この第一次クリミア戦も第11軍の兵力不足もあって、
セヴァストポリ要塞を陥落させるまでにはいきません。
ヒトラーに反抗した南方軍集団司令官ルントシュテット元帥と
中央軍集団ではフォン・ボック司令官、
モスクワ前面からの撤退を進言し続けたグデーリアンが解任され
代わって主役は新たな中央軍集団司令官となったクルーゲ元帥や
第9軍司令官モーデルへと移って行きます。
突破された第9軍の戦線の防御をそのモーデルから任された
オットー・クムSS中佐率いるSSデア・フューラー連隊の戦いも壮絶で、
最後にはわずか35名しか残っていません。
山場は2ヶ月半にわたって包囲されたことで有名なデミヤンスク包囲戦ですが、
包囲された5個師団/10万人の将兵の指揮を取ったのは第2軍団司令官、
ヴァルター・グラーフ・フォン・ブロックドルフ=アーレフェルト歩兵大将で
この伯爵の名にちなんでこの包囲陣内を「伯領」と呼んだそうです。
また、この包囲戦では空軍による空輸作戦が見事に成功したことで
その後のスターリングラードでも同様の作戦が承認~全滅へとなった布石としても有名です。
そしてデミヤンスクへ救援に向かった4個師団を率いたのが
スターリングラードで捕虜となったフォン・ザイトリッツ・クルツバッハだったというのも
何か運命的な気もします。
こんばんは、ホルム戦の記述にバズーカを構える~とありますが
あれはパンツァーファウストではなく、対戦車銃だそうです。
by グライフ (2009-09-05 19:32)
ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
グライフさんのような詳しい方に読まれていると思うと
恥ずかしい限りですね。
「焦土作戦」以外にも「彼らは来た」と「捕虜」も読み返す気になってきました。
by ヴィトゲンシュタイン (2009-09-06 15:40)