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チェルカッシィ包囲突破戦 -東部戦線、極寒の悪夢- [戦記]

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。

ダグラス・E..ナッシュ著の「チェルカッシィ包囲突破戦」をなんとか読破しました。

いやいや、理解しながら読むのがかなりキツイ戦史です。。
このチェルカッシィ包囲というのは、別名「コルスン包囲」とも言われますが、
1944年1末のウクライナにおいて、フォン・マンシュタイン元帥の南方軍集団隷下の
2個軍団/60000名がソヴィエト軍に包囲されますが、3週間の攻防の末、
多大な損害を出しながらも、40000人が脱出に成功したという戦役です。

チェルカッシィ包囲突破戦.JPG

とにかく最初から、続々と登場する将軍すらドイツ側だけでも10人余りにおよび、
さらに戦闘団や中隊レベルまで詳細な戦闘が述べられますが、
なんせ南方軍集団の序列がわからないので最初の200頁ほどは、この包囲された2個軍団が
オットー・ヴェーラー大将の第8軍のシュテンマーマン大将の第11軍団と
ハンス・フーベ上級大将の第1戦車軍のリープ中将の第42軍団であって・・
ということを文章から完璧に理解し、その軍団を構成しているSS師団ヴィーキングを含む
6個師団も把握するということが重要です。
そしてジューコフ元帥を筆頭にした、コーニェフ(コーネフ)とバトゥーチンの
第1/第2ウクライナ方面軍の東西からの攻勢も当然理解する必要があります。

ivan Konev.jpg

なおかつ注訳が多く、かつ数十行に及ぶにもかかわらず字体が一緒なので
ボ~としていると、どこまでが本文かわからなくなります。
このような困難を乗り越えて、ともかく読み進めます。写真が多いのが救いですね。

ここから1年前のスターリングラードにおける救出失敗の汚点を晴らすべく、
ヒトラーに反抗しつつも、マンシュタインによる救出作戦がはじまります。
広い視野で見れば、ジューコフ対マンシュタイン両元帥の戦いとも言えなくもありません。

Erich_von_Manstein.jpg

ただし新たな部隊、例えばグロースドイッチュランドのパンター大隊の反撃や
空中補給警護としてJG52航空団のエーリッヒ・ハルトマン「大佐」が登場してくるので
まったく気が抜けません。
マンシュタインが編成を指示したという、元歯科医のDr.フランツ・ベーケ中佐の重戦車連隊は
34輌のティーガーと46輌のパンターから成り、ヴィットマンをも含むとされる
SS師団ライプシュタンダルテなどで構成された第3戦車軍団が救援に向かいます。
いやはや、オールスター・キャストですね。

Dr Franz Bäke.jpg

しかし、このブライト大将率いる第3戦車軍団は包囲されたシュテンマーマン集団まで
残り12キロというところで停止してしまいます。
こうなると、まさにスターリングラードの二の舞というか、焼き直しみたいです。

Hermann Breith.jpg

「包囲」、「救出」と続き、いよいよ「脱出」が始まります。
スターリングラードでもマンシュタインが包囲された第6軍パウルスに対して
脱出指令を出したものの拒否られましたが、
今回、シュテンマーマンはそれを決断します(半分、騙されてですが・・)。
ハンス・ウルリッヒ・ルーデル大佐のストゥーカ急降下爆撃機という超大物の支援を受け、
包囲陣内の様々な部隊も命がけの脱出に挑みます。
特にヴィーキングのハンス・ドーアSS少佐は典型的なSS擲弾兵という顔つきで
(下巻表紙の下の人物)非常に印象的です。
SSヴァローン(ワロニエン)旅団のレオン・デグレールSS大尉も大活躍しています。

Leon Degrelle.jpg

ヴィーキングのオットー・ギレSS少将や第42軍団長代理リープ中将は
無事、脱出に成功しますが、包囲された集団の司令官であったシュテンマーマン大将は
銃撃を受け、戦死してしまいます(この写真はなんとも・・)。

Otto Gille.jpg

最終的には独ソ双方が勝利したと宣言したこの戦いですが、この本以外では
パウル・カレルの「焦土作戦」やマンシュタインの「失われた勝利」で断片を
知ることが出来る程度です。
読み辛さはありますが、このようなマニアックな本が和訳で読めることに感謝しますか。。





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とっぷく

はじめまして。この本は本屋で立ち読みしましたが、気になった点があるのでいらんことを申し上げます。
MP44を携行した「ヴァローン」旅団のレオン・ギレ(Léon Gillis, ワロン(フランス)読みならレオン・ジリス?)SS少尉の写真が294頁にあったかと思いますが、あの写真の解説は誤っています。

というのも、まず彼は1943年11月~1944年2月のチェルカッスィ戦の時点ではSS突撃旅団「ワロニエン」第5(戦車猟兵)中隊第2小隊長を務めるSS曹長でした。そして包囲脱出の際の指揮を評価されて3月1日付でSS連隊付士官候補生(SS-Standartenoberjunker)に、4月20日付でSS少尉に昇進しています。つまり、1944年2月の時点の彼はSS少尉ではありません。

次に、StG-44を構えて白いシープスキンのジャケットを着た彼のあの写真が撮影されたのは1945年2月(Theo Verlaine著 "la Légion Wallonie" p295)、もしくは3月("Der Freiwillige" 2001年2月号 裏表紙)のポメラニア戦線といわれていますが、Eddy de Bruyne & Marc Rikmenspoel著 "For Rex and For Belgium" p261によれば、1944年秋の撮影といわれています。
なぜなら、1944年11月9日付で彼はSS中尉に昇進しているのに、1ヶ月以上も以前の階級であるSS少尉の階級章を付けているのは不自然だからです。

…長文失礼しました。「ワロニエン」好きなものでつい…。
by とっぷく (2009-09-26 20:26) 

ヴィトゲンシュタイン

ど~も。ヴィトゲンシュタインです。
とっぷくさん、コメントありがとうございます。
いや~、あの小さい写真でも間違いを許さないような方が
この独破戦線を見られているのかと思うと緊張してしまいますね。

自分はとっぷくさんほどの知識はないため、よっぽど酷い間違いの無い限りは、本の内容に突っ込まないようにしているので、逆にこのようなコメントをいただけると、その本に対する総合的な評価になりますから、非常に助かります。


by ヴィトゲンシュタイン (2009-09-27 04:44) 

f.m.

 この二巻本を買ったのは、自由ドイツ国民委員会とドイツ将校同盟の活動について書かれた箇所があるからです。しかしウルブリヒトが「1959年」に「大統領を務め当時の事実上の独裁者だった」(363頁)という箇所は、当時のドイツ民主共和国の大統領はヴィルヘルム・ピークです。同じ頁にドイツ民主共和国の国防省が発行した自由ドイツ国民委員会とドイツ将校同盟の活動を書いた「ドイツのための彼らの戦い」という本が紹介されていますが、ドイツ語が読めれば一度読んでみたいものです。対ソ協力者から戦犯として25年の刑を受けて「極反動」のエーリヒ・ハルトマン少佐と同じラーゲリに収容される運命になったヴァルター・フォン・ザイトリッツ-クルツバッハ将軍と(多分ビスマルクの曾孫という事で)自由ドイツ国民委員会の副会長になりながら、戦後ソ連とは縁を切って出ていったハインリヒ・フォン・アインジーデル伯爵のような人達について、どう書かれているのか、知りたいものです。当時のドイツ民主共和国の事ですから「戦犯」や「共和国逃亡者」については可能な限り触れないか、存在自体無視されているとは思いますが。フォン・アインジーデル伯爵はドイツ統一後、PDSと関わりを持つのですから、面白いものです。
 上巻369頁に写真が掲載された騎士十字章佩用者のシュタイドレ大佐はビーヴァーの「スターリングラード」の末尾に名前が出て来る人ですが、講談社の「ヒトラー暗殺計画と抵抗運動」138頁に掲載されている写真でフォン・ダニエルス将軍とフォン・ザイトリッツ-クルツバッハ将軍の間に座っている騎士十字章を佩用した陸軍の佐官と顔がよく似ています。この将校が誰か分からなかったので、ずっと気になっていました。ソ連も騎士十字章の意味をよく分かっていたわけです。
by f.m. (2014-04-15 22:50) 

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